与うるは受くるより

 街中から少し離れたところで、見覚えのある顔が歩いてくるのが見えた。学生のころ利用していたコンビニでよく顔を会わせた治崎くんだ。別にどちらかがバイトをしていたわけではなかったのだが、不思議とよく見かけ、いつの間にか世間話でもするような仲になっていた。
 もう何年会っていないだろうか。随分久しぶりに見た気がするが、その彼は顔の半分を仮装かと思ってしまうようなマスクで覆っていた。どこか心の奥底をざわつかせる不穏なマスクだ、趣味だろうか。潔癖症であることには勘付いていたが、まさかそれだけであんなマスクを装着しているわけではないだろう。
 相変わらず人を寄せ付けない空気を纏っている。マスクを被っているにも関わらず彼が治崎くんだと気づいたのは、うん、詳しくは言わないがそういうことだ。彼の傍らを歩く小さな女の子を見て笑みが零れた。
「やあ!ひさしぶり、治崎くん」
「……みょうじ」
 手を掲げて挨拶すると、鋭く景色を睨んでいた彼の眼光がさらに鋭さを増した。
「その子娘さん?かわいいねえ」
 治崎くんへの挨拶はそこそこに、傍らで身を縮めこんでいる女の子を見た。怯えたように、瞳を潤ませて一歩身を引く少女は、黙って私を見上げている。
 知らない人に突然話しかけられて怖かったかな。そう思うと、身を屈めて少女と目線を同じ高さにした。お名前はなんて言うの?と訊ねると、少女は戸惑ったように自らの手をぎゅっと握る。
「エリだ」
 沈黙してしまった少女と私を見て、治崎くんが見かねたように名前を口にした。
 エリちゃんって言うの、お名前もかわいいね、なんて続けてみたがエリちゃんはすっかり委縮してしまったのか、下を向いたまま何も言わない。人と話すのが苦手な子なのかもしれない、そう思うと突然話しかけたのを申し訳なく思った。
「……初めてお話するもんね。エリちゃん、私、なまえって言うの。お父さんの知り合いだよ、よろしくね」
「ごめん、なさい」
「わ!謝らないで!」
 今にも泣きだしそうなのに、精一杯声を絞り出してくれるエリちゃんに慌てる。頭を撫でようとすると、わずかに髪に触れただけでも激しく身を震わせた。
 エリちゃんの異様な怯え具合に私は頭を捻る。ゆらりと顔を上げて治崎くんを見ると、治崎くんは何だとでも言いたげな目で私を見つめ返した。
「治崎くん、教育が厳しすぎるんじゃない?」
「お前には関係ない」
「ばっか私がここにいる時点で関係はできるの」
「意味不明だな、もう少し知能をつけたらどうだ」
 治崎くんに圧をかける私と、冷たく返す彼。他愛ない会話を続けていると、視線を感じた。私たちの掛け合いに驚いているとでも言うように、エリちゃんが目を丸くしてこちらを見ている。多少慣れてくれたのかな、とうれしくなって笑顔になった。そうだ、と肩に下げていたショルダーバッグを漁る。
「ね、見て。この前オムライス食べたんだけどね、すごくふわふわで上にかかってるソースが美味しかったの。ちょうどお昼ごはんの時間だし、エリちゃんと食べに行きたいなー」
 取り出したスマホを開いて、先日「なんだこの美味しすぎるオムライスは」と軽く驚天動地の出来事と化したオムライスの写真を見せる。美味しさに感動がプラスされた加工が施された写真は、今もなお鮮やかにその美味しさを漂わせるものになっていた。
 スマホを覗くエリちゃんも、思わず「わあ」と声を上げる。そうだろうそうだろう、小さい子はオムライスとかが大好きなんだ。治崎くんのことだから、どんな衛生環境で作られているのかわからないと言って外食はしなさそうだ。折角会ったのだから、この機にエリちゃんには食の楽しみを知ってもらいたい。
「勝手なことを言うな。行かないからな」
「治崎くんはコンビニで何か買えばいいんじゃないかな」
「誰が触ったかもわからない物は食べない」
「コンビニ来てたじゃん」
「あれは俺のじゃない」
 じゃあ誰のだよ。随分前の話だからエリちゃんは生まれてないだろうし……親か兄妹のもの?まあどうでもいいか。
 治崎くんなんて無視して行こうか、と言えば、瞳をきらきらさせていたエリちゃんは途端にまた悲しげな顔に戻ってしまった。父親の許可が降りていないのについていくことはできないのだろう。治崎くんを見上げて、私を見て。そうやって顔をきょろきょろさせているエリちゃんを見ていると、普段からどれだけ抑圧されているんだと私まで悲しくなってくる。
「誘拐だ!」
 わー!と言いながらエリちゃんの手を取った。そのままエリちゃんを引っ張って数歩駆け出す。

 そこで動きが止まった。ぞわり、と。背筋に何かが這うような悪寒がして、エリちゃんと繋いだ手が緩やかに解かれた。

 息苦しさから解放されて、どうしてか止まらない汗が首に伝うのを感じながら振り返る。エリちゃんの手は治崎くんに奪われていた。私は指一本さえ触れられもしなかったのに、彼の刺すような視線が、彼に捕まれているのは私の手だと錯覚させるような何かを孕んでいるように感じる。
 肌を撫で続けている感覚に、まるで熱に侵されたような体のだるさを覚えた。
「エリに触るな」
 エリちゃんが悲鳴にも似た声を喉の奥で響かせていた。ああ、泣いてしまう。そんなことを、はっきりとしない思考で考える。今のでわかってしまった、きっとエリちゃんは――……。治崎くんは嫌悪しながらも、必要なときは他へ触れることを厭わない。
 しっかりと握られたその腕が、どうしてかひどく可笑しく思えてきた。
「エリちゃんとオムライス食べようとしただけなのに、ひどい」
「食べない、もう帰る。お前も帰れ、二度と関わるな」
 そんな突き放すような内容に対し、まるで小さい子に言い聞かせるような色を声音に滲ませながら、治崎くんはじっとこちらを見ていた。彼の言葉を無下にするように、私は吐き捨てる。
「うるさい、私には触れないくせに」
 どうしようもなく情けない声だった。

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