言の葉のあわい 4

 アルハイゼンさんは、話しかけないかぎり本当にずっと本を読んでいる。読書の片手間に食事を済ませているのも見たことがあるし、彼が本の虫であることは十分すぎるほどに理解しているつもりだった。
 だけど、さすがにこれは予想外だ。ルームメイトがいないからと言って彼の家に誘われたのに、彼は何をするわけでもなく私の隣で本を読み始めた。他人のテリトリーでは暇つぶしできるものもないし、放置されるとどうしようもない。私は唖然として隣に座る彼の手元を眺める。
 本に書かれた『──本文明においてギミックの基底にある要素を前述のように説いたのは、遺跡から出土した文献にギミックについての記載があることに起因する。古代文献を用いた古代ギミック研究の成果は──』という文字を追い、本の表紙を覗き込んで『ファルザン』の名を確認した。どうやら時を超えて現代にやってきた有名人の最新の論文を読んでいるらしい。彼女の授業は人気がないと噂だが、この本は自家出版したのだろうか。
 本を読んでいても話しかければ顔を上げて会話をする、彼はそういった気遣いができる人だ。だから私を家に上げて放置しているのにも理由があるのだろう。どうしても読んでおきたい本なのかもしれない、と思えば邪魔するのも躊躇われて、彼の肩に体を預けながら息を吐いた。

「何か言いたげにしていたが、いいのか」
「まあ……でも気にしなくていいです。どうぞ続きを読んでください」
「いや、あとにしよう。本ならいつでも読める」
「……だったらどうして私を招くだけ招いて読書を優先したんですか?」
「やっと言ったな」
「はい?」

 先ほどからまったく要領を得ない会話の応酬に思わず顔を顰めた。だけど不満全開の私と違って彼は上機嫌とでもいうように口角をあげる。彼が凡人よりずっと物事の先を見据えていることがわかっていても、この状況で何も感じないほど達観してはいない。
 アルハイゼンさんは読んでいた本を閉じて脇に置くと、本当に読む気がないのを示すかのように遠くへスライドさせた。そして「君は恋人になってから遠慮することが増えた」と切り出しながら脚を組み直す。

「ただの同僚だったときはもっと自己主張をしていただろう。物怖じしない姿勢を褒めたとき君は『意見を述べるのも仕事の一環だ』と言ったが覚えているか?」
「ええ、意図を正確に伝えなければ仕事に支障が出ますから」
「君の仕事に対するその姿勢は評価に値する。だれしもが働くことに喜びを見出しているわけではない、何かしらの理由で必要があるから働いているだけだ。ならば仕事はできるかぎり効率的に進めるのが望ましい。だが、俺に言わせれば私生活も大差ない」
「仕事と私生活は違いますよ。極論ですけど、仕事なら割り切っていいんです、他人の都合なんて考慮しない貴方のスタイルもいいと思っています。だけど私生活ではそうはいかないでしょう。尊重しなくてもいい人をはじめからプライベートに組み込みはしないんですから」
「では、君は自己主張することで俺に嫌われることを恐れている、と」
「……あくまで私のスタンスを話したつもりだったんですが。そんなに遠慮しているように見えますか?」
「俺が行動に出る程度には」

 ふうん、と上の空で返事をした。彼は軽はずみな行動はしないし、彼にとって無意味なことにも時間は割かない。私の言動が彼にとって望ましいことでなかったのは事実なのだろう。

「遠慮は嫌いだということですね」
「相手を尊重しないレベルになれば、かえってそれによる衝突が増える。バランスの話だよ。君の現状で言えばもっと我儘を通してもいいくらいだと俺個人は感じている」
「我儘、ですか。現状にはおおむね満足していますけど……」

 たしかに世間一般の恋人たちほど自分たちの世界に浸ることはないような気はする。だけど、私たちの関係は冷え切っているというわけでもないのだ。
 休日には恋人たちが集う景観のいい場所に向かうこともあるし、ズバイルシアターに足を運ぶこともある。仕事終わりに待ち合わせをするのも日課になりつつあるし、そうでなくても彼はかなりの時間を私の家で過ごすことが多い。
 彼が他人との関わりをどれほど重視していないかを知っているからこそ、許容できる範疇で私が特別扱いされていることは明らかだ。これ以上を望めば、それこそ彼が言うところのバランスを崩してしまうのではないか。アルハイゼンさんの価値基準が未だに掴めずに喉から悩ましい声が漏れた。

「なんでもいい、練習がてら我儘を言ってみたらどうだ」
「いきなりそんなこと言われても」
「じゃあ手伝ってあげるよ。これはあくまで主観的な意見だが、俺たちには欠けているものがある」
「えっ? な、なんですか?」
「俺と君が恋人だと証明するものがない」

 突拍子もない彼の言い分に閉口する。私の遠慮がちな行動を彼は咎めていて、さらにはそのせいで彼との関係が曖昧なものになっていると言う。我儘を言う練習に、恋人の証明を迫られた。頭が痛い。こうなると本当に彼の考えが読めない。
 彼は結論を明確にする人だ。説明するだけの価値を見出せなければ面倒だといって会話を切り上げる。相手の納得と理解なんて知るものかとでもいうような態度を隠さない。
 それが『特別扱い』になると真逆にはたらいた。彼が相手に寄り添うことの本質は、あらゆる物事を彼の基準にまで引き上げさせることに他ならない。結論までの道筋を丁寧になぞらせようとするのだ。嬉しい反面、厄介だと思ってしまうのはいけないことだろうか。
 とある結論に辿り着いた私は眉間の皺を深くした。自信はないけれどこれ以外に浮かばないから言ってみるしかない。

「……つまり、贈り物がある、と?」
「率直に言えば、そうだ」

 頭が痛い。答えておいてあれだけど、どうしてそんな思考回路になるんだろう。

「値が張る装飾品は状況によっては負担を感じさせるだけになる。ともすれば受け取りを拒否されるかもしれない。君が慎ましいことはすでに指摘したとおりだが、こればかりは受け取ってもらえないと困るからな。だから現物を用意する前に約束を取りつけたかった」
「貴方からのプレゼントを拒否しませんという約束をですか?」
「できれば君からねだられる形が理想だ」
「色々ツッコミどころはありますけど、とりあえずそんな約束をする恋人は世に存在しません」
「物事を明確にすることの何が問題なんだ」

 彼は心底分からないという顔をしている。私が折れるほうがきっと早い、そう感じて両手を挙げると彼はふんぞり返って私を見下ろす。

「遠慮するな、ということなのでどんな贈り物か聞いても?」
「かまわない……と言いたいところだが、驚いてもらいたいから秘密にするよ」
「ここまで聞かせておいて焦らすんですか」
「実のところ、調達の目途が立っていない。かなり貴重なものだからまだ情報収集をしている段階だ」
「……その状況でよく大口を叩けましたね」
「情報を出し惜しみしないだけだ。君が物言いたそうにしているのに飲み込んでいるから口実に使った」

 今度こそ私は黙り込むしかなかった。たしかに始まりは「どうして私を放置して本なんか読んでるの」だ。頭を使いすぎてどこから話が逸れてしまったのかもうわからないけれど、彼が本当に言いたかったのは構って欲しい気持ちを隠すなということなのだ。
 急にいたたまれなくなって視線を彷徨わせる。ちらりと横目で彼を窺うと、アルハイゼンさんは言葉に詰まっている私を見つめたままどうアクションを起こすのか待っていた。
 あの、と声を絞り出すと「うん」と返される。普段は彼が私に要求することが多い。自分から恋人を求めることがこんなにも勇気がいることだったなんて思いもしなかった。反省しつつ顔を上げる。

「私といるときは読書をしないでください」
「うん、わかった」

 アルハイゼンさんの手が伸びてきて私の耳に触れた。耳の輪郭を確かめるように撫でる指先は紙を捲っていたせいか少しかさついている。くすぐったさに身を捩っていると、彼の目元が楽しそうに歪んだ。
 彼の小難しい言い回しに頭を悩ませることだって、こんな些細なことで楽しい時間だったと思えるようになる。相手を想う心があると分かるだけで私たちの間にある違いを許容できるようになるのだから、恋や愛といった感情は本当に不思議なものだ。
 しみじみそんなことを考えていれば「俺がいるのに考え事か?」と言われた。意地の悪い言葉遊びをしかけてくる彼がおかしくて笑っていると、彼の顔がゆっくりと近づいてきたのでそっと目を閉じた。



 テイワット一大きい図書館とは言っても、知恵の殿堂が大陸中の書籍を網羅しているわけではない。たとえば教令院を卒業した他国からの留学生が、帰国後に書いた論文。彼らは教令院や学者の権威をさほど重視しない傾向にあり、煩雑な手続きを経て教令院の蔵書に加えられるよりも、自国の出版社による手軽な書籍化を望んだ、自著が流通にのることのほうが彼らに価値を生むためだ。
 そういう書籍を必要とする際に利用できる本屋はスメール国内では限られている。とくに学術都市と呼ばれるだけありスメールシティでの学術資源としての価値と需要は『教令院が認めた本』ばかりだ。その他の書籍を扱う本屋は数えるほどしかない。もちろん学者向けの、という意味である。
 私がやってきたのはそのうちの一つだった。とある学者の参考文献に、教令院が所有していない書籍が確認されたためまとめて発注していたのだが、ようやく入荷したと店主から連絡が来たので引き取りに来たのだった。文献のすべてを経費で購入するわけにはいかないので、続行を認めるだけの価値ある研究に対してのみこうした措置が取られる。
 思えばアルハイゼンさんとの交流が増えたきっかけはこの本屋だっただろうか。彼は合理的に仕事をする人だから、執務室へ資料の閲覧申請に向かっても、書類に不備がないかぎりほとんど話をしなかった。だけど常連の顔ぶれが決まっているここで偶然出くわしたことにより、多少の世間話をするくらいの仲に進展したのだ。
 そう考えるとなかなかに思い出深い場所かもしれない。店主に感謝するべきだろうかと小さく笑いを零していると、背後から私を呼ぶセノの声がした。

「棚の配置が複雑な本屋だな、見当たらないからすれ違ったかもしれないと引き返すところだった」
「隠れ家みたいで落ち着くってアルハイゼンさんが話してたから、意図的にそうしてるんじゃないかな。それで……どうしてここに? その恰好、仕事中だよね。もしかしてあの件の……」
「ああ、ナイマーンと二名の学者を捕縛した。お前の情報提供を受けて捜索の手を広げ、追いつめたんだ。現場の後処理が残っているからこれから雨林に出向く、シティを出る前に直接話をしておこうと思ってな」
「忙しいのにわざわざ探してくれてありがとう。ナイマーンはやっぱり危険な研究に手を出してたんだね。セノが動かなければいけないくらい」
「実に残念だが、お前の勘は間違っていなかったよ。裁判は明日の午後を予定されている。借用された論文を使おうとしていたようだが、まだ実用には至っていなかったから一時的に証拠品として提出されただけで役割を終えればすぐ戻される。俺が論文の概説を作って渡しておいたから参考人として呼び出されることもないだろう、安心してくれ。傍聴資格はあるが……希望するなら俺と一緒に教令院へ戻って手続きする必要がある。お前はどうしたい?」
「うーん……法廷に顔を出す時間的な余裕はないかも。まだ仕事が残ってるんだよね」
「無理はしなくていい。被害者ではあるがほとんど事件に関与していないんだ、お前が構わないなら俺たちだけで片をつける。ただ……審判が終わればじき告知されることだが、当事者のお前には事件の概要を先に知っておくべきだろう。少しだけ時間を作れるか」
「わかった、精算してくるから外で待ってて」

 セノは頷くと店の外へ向かう。モラを払って店主に短い挨拶をし、私も店を出た。
 近場で人のいない静かな場所を探して移動するとセノがさっそく口を開いた。表情は硬く、大マハマトラの威厳に満ちている。私も気を引き締めて耳を傾ける。

「クラクサナリデビ様とともに聞き取り調査をした妙論派の学者がはじまりだ。やつは砂漠地帯で見つかった砂で稼働する装置を参考に、水で代用した機関によって演算器をつくりだそうとしていた。原理はモンドの風車に近い、水から得た動力で機関を作動させエネルギーを作り出すものだ。技術自体は存在していたが砂漠の前例を応用してエネルギー効率の改善に成功したようだ」
「聞くかぎりでは教令に抵触したようには思えないけど……」
「演算器そのものは問題ない。……雨林に研究拠点があったから注意するだけの予定だったんだ。最近のスメールでは死域が徐々に減っていることで水の循環が活性化し、水生動物の活動範囲が広がるほか予測できないフラッシュフラッドまで確認されている。このまま雨林で研究を続けるならレンジャーと定期的に連絡を取り合うべきだと伝えた」
「ああ、その告知は私も見たかも。レンジャーは忙しそうね、ティナリはとくに仕事に追われているんじゃない?」
「雨林が健全化するなら喜ばしいことだと話していたよ。告知を見ずに雨林へ入ったらしい冒険者に小言を飛ばしながらな」
「ティナリらしい。でも……その妙論派の学者を審判するんでしょう? どこかに不審に感じた点があったの?」
「会って話をするまでは注意だけで終わる予定だった。だが……やつが隠し事をしていることに気づいたんだ。俺たちに提出した研究資料はよくまとめられていたが、その準備の良さが仇となった。まるで疑いの目を掻い潜るため事前に用意していたと言わんばかりの資料だったからな。研究の進捗としては全体の二割程度しか進んでいないにもかかわらず焦りもなかった」
「なるほど……研究をしながら人に見せられる資料を作るだなんて、よほど合理的か几帳面じゃないかぎりやらないことなのにね。私たちみたいな書類で審査するのが仕事の人間ならまだしもセノの目を欺くことは不可能でしょ」
「当然だ。クラクサナリデビ様ともやつが教令に反している可能性について合意し、監視をした。俺が雨林にいるとしっぽを出さないだろうから、調査が終わったように見せかけて一旦ほかの案件にあたりつつ続報を待ったんだ」

 改善に向かっているとはいえども環境が安定していない雨林で、水流を利用した研究が失敗したときに与える災害は予測がつかない。そのためセノはティナリをはじめレンジャーに学者の行動に注意を払うよう頼んだと言う。

「しばらくして生論派の学者が雨林を行き来していることが確認できた。部下を派遣して薬剤を運んでいるあとを追わせたが、工房には細工が施されていてな。機関術に詳しい人物に協力を仰いでいたとき──ナイマーンに関する情報が上がってきたんだ」
「……あれから日が経ってるけど、そんなに摘発が難しい事件だったの?」
「容疑者が増えれば増えるほど組織的な犯罪の可能性が高まる。しかもこの件は少なくとも三つの学派にわたって実績ある学者たちが関わっている、事実は表に出ていることだけでは説明できないはずだ。マハマトラが総出になって調査してみると──アーカーシャの停止による煽りを受けている学者たちを巻き込んで彼らに代理で経費申請をしていることや、それによって調達した資金をかき集めていたことがわかったんだ。想像以上の事態になっていた」
「今期は妙論派と生論派からの申請がやたらと多かったけどそれが原因?」
「だろうな。その申請について……何か気づかないか?」
「どういう意味? 二つの学派からたくさんの経費申請が提出されて、もちろん今はすべて審査が終わってる。それで……待って、例年より動いた資金が多くて賢者様に許可をもらわなきゃいけなかった。私の同僚も、加担してたってこと?」

 セノが頷き、とある人物の名前を口にした。やましいことがあると主張しているようなものだ、とアルハイゼンさんが口にしていたのを思い出す。あのとき異様に慌てた様子で私を呼びに来た、同僚の名だった。
 ナイマーンがきっかけではなく、私はすでに知らず知らずのうちに大事に巻き込まれていたのだ。調査をしていく過程で、ナイマーンが私の論文を持ち出した理由にも想像がついたとセノは言う。

「本当はどんな研究だったの?」
「先ほどの機関術では演算能力に限界がある。俺が見た研究資料がら概算すると家屋三棟分の敷地面積を要する機関でも数十桁の演算しかできないだろう。アーカーシャほどの演算能力を再現するには到底足りない。だからなのか、やつらはキノコンを用いることにしたようだ。生論派の学者はキノコンに鎮静剤を投与し、特定の信号を受け取ると特定の反応を返すような調整を施した。過去の事例により魔物に薬剤を投与する場合は厳正な審査を受ける必要があるのは知っているだろう。やつらは正式な手続きを踏んでいないし、そもそも使用した鎮静剤も禁止されている薬剤だった」
「生き物を資源にするなんて……しかもキノコンだなんて。失敗したとき雨林の生態系に影響を及ぼさないとは言い切れないし、魔物が帯びる元素力がどんな被害をもたらすか、学者ならだれでも想定できることなのに……」
「知恵は人を傲慢にする。私欲に目がくらむ学者がいなくならないかぎりはマハマトラの仕事がなくなることはないだろう」
「そうね。でも、地脈エネルギーはいったいどこに盛り込まれていたの?」
「動力エネルギーを置き換える予定だったようだ。機関術を動かすのに水力だけではゆくゆくエネルギー不足に陥ることは予測済みだったんだろう。事実、機械の接続部は汎用性のある形に作られていた。地脈エネルギーを選んだのはキノコンの生態に適した物質だからだろうと俺は考えている。さらには、漏出した地脈エネルギーから地中に広がるエネルギーの経路を観測する機器という副産物もあった。これによりキノコンの体内でどのようにエネルギーが流れているかを把握できる。お前の研究はやつらにとって都合のいいものだったんだ」

 欲をかかなければ妙論派の学者は産業分野で功績を残せただろう。草神様は何も理由なくアーカーシャを止めたわけではない。強大な力には代価が伴う。神の遺物であるアーカーシャに匹敵するものを生みだそうだなんて思うほどの傲慢にいったいどれほどの学者が巻き込まれたのかを考えると頭が痛い。
 ナイマーンはともかく、次代の演算器を望む学者たちに付け入ったのは狡猾と言わざるを得ない。何にせよ彼らもこの機会に学ぶべきだ、過去に縋っても新たな知見を得ることはないのだと。
 溜息をつくしかない私にセノが同情を込めた眼差しを向けてくる。肩を竦めていると、事件のあらましは話し終えたのか懐から何かを取り出す。

「これは?」
「マハマトラからの感謝状だ、情報提供を行った者に渡されることになってる。あと数回分の食堂のチケットだ」
「そんな報酬制度があるだなんて知らなかった」
「部下のアイデアだよ。熱心なやつで、教令の大切さを見つめ直してもらおうと色々なことに取り組んでる。ささやかだがこういった物事が意識改革につながるかもしれない。いい取り組みだと俺は思うよ」
「私もそう思う。ありがたく使わせてもらうね」

 そろそろ発つと言ってセノは被り物から垂れる布を翻す。当事者だから事件の概要を知っておくべきだとか口にしていたけれど、セノは身内を放っておけない人だから、きっと私の知り合いが多く関与していたことを気にしてくれたのだろう。詳細を知らず彼らが裁かれたという結果だけを知ったときに私が何を思うのかを心配してくれたのだ。
 もう一度だけ感謝を告げて、お疲れ様、とセノを労った。先ほどよりもっと真剣な顔をして、すでに大マハマトラとしてのスイッチが入っているらしい。
 あの布は、砂漠に繰り出すときには砂よけや日よけとして有用だろうけれど、雨林では雨に濡れて邪魔なのではないだろうか。そんなことを考えながらセノの背中を見送った。



 アルハイゼンさんが頻繁にうちへ来るようになったので合鍵を渡したら、彼の避難先の一つに加わったようだ。私の不在中に何をしているのか尋ねると主に読書だと返される。おそらく本当に読書しかしていないのだろう。
 猫は徐々に彼に慣れつつあった。まだ触れる許可はもらえないようだけどたまにじゃれているのを見かけるし、彼も適度に相手をしてくれている。気が向けば交流と称して元素力で猫と戯れた。鏡で光を反射したときのようにきらきらと輝くそれを猫が必死になって追いかけるのだ。途中で消滅してしまうと不思議そうに空中を見つめているのが可愛くて、実は私のほうがひっそり気に入っている。
 友人とお茶をする予定が入っていた私は昼前に家を出て、三時頃に帰宅した。帰宅するとアルハイゼンさんがソファの上で横になっていた。本をテーブルに非難させて、いつも羽織っている外套も脱いでいる。彼がこうして隙のある姿を見せるのは初めてじゃないけれど、見かけるたびにまだ少しだけ感動する。
 そういえば学生時代にお世話になった指導教員から手紙が来ていた。先生はすでに教令院を退職していて、教員時代に蓄えた資産を使って各国を巡る旅をする傍ら研究を続けている。たまに近況報告をしあう程度には仲のいい人だ。返事を書かなければ、と私室に向かった。

 書き終えた手紙を出しに行き、家に戻る。ドアの開閉音で目が覚めたのか、くぐもった声と衣服のずれる音がした。猫の抗議する鳴き声が聞こえて、リビングに向かい彼が寝ているソファを覗き込む。
 胸に猫を乗せた彼が、上半身を起こそうとして途中でやめたと言わんばかりの中途半端な姿勢で固まっている。香箱座りした猫と睨み合ったまま膠着状態だった。なんとなく状況が察せて笑いが込み上げる。

「目を開けたら俺の上にいた。これは何の主張だ?」
「寒いから暖をとっているんじゃないでしょうか。貴方は体温が高いから」
「人間で暖を……? 猫は警戒心が強い生き物なんだろう?」
「懐いたんですよ。早かったですね」

 本で得た知識と実際に起こった現象について整合性をとろうとしている姿は、猫が絡んでいるというだけでかわいらしい光景に映る。

「どうすればいい、ここまで体を傾けているのにちっとも下りる気はないようだが」
「猫は身体能力が高いので普通に起き上がっていいですよ。落ちて怪我をしたりはしませんから」
「……そうか」

 私の言葉を疑っているわけではないのだろうけど彼はゆっくりと体を起こしていく。猫は限界まで粘ったものの、最後には諦めて次の熱源を探した。

「前々から思ってましたけど、苦手だと話していた割にちいさな生き物にやさしいですよね」
「家主は君で、彼からすれば俺は新参者だ。後輩らしく敬意をもって接しているだけなんだが」
「うーん、猫はあまりそういうことを深くは考えませんよ」
「猫だって意思はあるだろう。俺に自分のスペースを侵略されたと感じてもおかしくない。ここは彼の寝床の一つじゃないのか」
「そこで寝てるのはあまり見ませんね」
「……まあ、そうだとしても彼を手荒に扱う気はない。君の家族だからな」

 あたたかい場所が見つけられなかったのか、ソファに戻って放置されたアルハイゼンさんの外套の上で丸くなる猫を彼はじっと見下ろした。猫が何も言わないので最終的に彼は言葉を濁すだけに終わる。
 寝方が悪かったのか彼の髪の毛がところどころ変な方向に跳ねているのを見つけたので、手を伸ばして撫でつけてみた。彼は今度こそ夢から覚めるように一つ欠伸をすると、好きにさせていた私の手を取って軽く引いた。隣に座れということだろう。

「例の後輩に関することだが、彼の処分については聞いただろうか」
「懲役刑が科されるそうですね。実は審判の結果が出る前にセノが大まかな概要を伝えに来てくれたんです、だからどんな刑になるかはだいたい予想がついていました。アルハイゼンさんの言うとおり、何も心配する必要はありませんでしたね」
「君の憂いが晴れたのならなによりだ。これは朗報なんだが、先の事件に関わった学者があまりに多かったことを考慮して、教令院は精密演算器を研究開発するプロジェクトチームを公的に立ち上げることになりそうだ」

 予想しなかった言葉に「えっ!」と声を上げる。演算機能が手に入るだけでも業務効率は段違いと言える。

「書記官に話がきているということは、記録が開始されるだけの動きがすでに始まっているということですよね。これほど迅速に進むだなんて、草神様が主導なさっているんですか?」
「まだ草案が提出されただけの段階だ。アーカーシャの演算機能のみを再稼働させる要望を提出してあるらしいが許可が下りるかは彼女次第だから、受理されなかった場合の代案というポジションになる。アーカーシャはシステムの根幹に草神の力が使われていると聞いたから、俺は許可が下りるとは思っていない」
「そうですか……。そんな重要な会議に出るだなんて、代理賢者だったときの影響力が残ってるんですね」
「俺が代理賢者をしていたときに補佐をしていた者や新任の賢者はその傾向にあるようだ。一介の書記官におもねるのは組織の指示系統を乱すことになり、今の教令院にとって一番良くない。俺に気を遣う必要は一切ないことを理解してもらうべきだと思って最初は出席を断ったんだがな」
「どうして考えを変えたんですか?」
「有識者の役割も兼ねて議事録をとってきた。俺はアーカーシャの取扱説明書を読んだことがあり、衝撃性能の強化といった応用試験に個人的に取り組んだ実績があった。前科がある弱みにつけ込んで当時の職員に技術的支援をさせたんだが、おそらくそこから話が漏れたんだろう」
「何やってるんですか」
「神の許可も得たようなものだから何も問題はない。この程度の好奇心、かわいらしいものだろう」

 呆れかえっていると、彼は肩を竦めて軽口を叩いた。

「では……その流れで開発チームの発足に携わるんですか?」
「勘弁してくれ。意見を聞かれたから答えたが、そんな大掛かりなプロジェクトの一員になるつもりはない、仕事が増えるだけだ」

 彼ほど優秀な人物であればアーカーシャを失うことが痛手ではないのだろう。神の目すら「まあまあ使える」としか言わない彼らしい見解だ。

「どれほどの完成度になるでしょうね」
「もし神の権能を再現しようと考えている輩が起用されれば期待はできないな。神を造るなどとのたまう傲慢な学者たちが辿った道を考えればおのずと答えは出るだろう」
「またああいった学術犯罪が起こってもおかしくない、と?」
「可能性の話だよ、あと数回似たような事件が起こっても驚きはしない」
「まあ……ありえない話ではありませんよね……」

 ようやく世情が落ち着いてきたというのにまた賢者が入れ替えられるような事態になれば大変だ。私たちは賢者の下で働いているわけではないけれど、同じ組織に属している以上は直接的な煽りを受けなくたって巡り巡って影響が出る。何事も起こりませんように、とささやかな祈りを草神様に捧げた。

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