言の葉のあわい 3

 気持ちのいい休日、午後のやわらかな日差しが窓辺から差し込んでいた。元は猫のために設えたウィンドウベンチに体を預けてひなたぼっこをしているとアルハイゼンさんが家を訪ねてくる。彼は顔を合わせるなり「今夜は帰りたくない」などと言い出した。まだ家に入ってすらいない状況だというのに。
 彼は明確な結論を基に理路整然と話す人だけれど、面倒がり言葉を省くせいでしばしば発言が唐突なことがある。コミュニケーションを重視していないがために生じる不親切さだ。相手の理解が不十分なせいで問題が生じても彼には関係がない、なぜなら彼に影響が出る件ならば初めから意思伝達を図るからだ。つまり私がいまの発言を正してもそうしなくても彼はかまわないのだろう。
 彼の突飛な発言が気にならないわけではないけれど一番気になるのはそこじゃない。己の中の興味を捻じ伏せて、帰りたくない理由を聞いてみた。どうやらルームメイトが夜な夜な作業に勤しんでいて眠れないらしい。
 彼のルームメイトは建築家で、模型の製作に入って数日になる。昨日はとうとう夜中に大きな破壊音と発狂する声を聞かされたのだそうだ。ああなったルームメイトは言うことを聞かせようとするほうが面倒で、潔く避難することを選んだようだ。
 泊まることは彼の中で決定事項だったようで、着替えを一式持参した彼なはそれらを邪魔にならない場所に置く。キッチンの壁に身を隠して警戒している猫を見つけると簡潔に挨拶をした。

「アルハイゼンさんも休日だったんですね」
「仕事は済ませてきた。会議も入っていないから、教令院に留まる理由はないだろう」
「えっ、でも午後に持ち込まれる申請書はどうするんですか? 急ぎのものがあるかもしれないのに」
「急いで揃えられた書類はなにかと不備が多く、いずれにせよ差し戻すことになるから明日以降に処理しても問題ない。それでも今日中に許可が欲しいなら俺を探せばいい」

 なんて身勝手な理由だ。彼の勤務態度は院内でも有名だけど、今までその詳細を知ることはなかった。ここまで私的な見解と用事で院外に出ていたとは。過去に問題に挙げられなかったはずがない、だけど彼が今も自分のスタイルを貫いているのは『議論』で勝ったからなのだろう。
 彼はソファに座ると腰掛けカバンから本を取り出した。いつでもどこでも読書に勤しむ人だなといっそのこと感心していると、彼は本を開く前に不思議そうな顔をして、立ち尽くしているのを見た。

「君の邪魔はしない、気にせず眠るといい」
「え?」
「昼寝をしようとしていたんだろう? 目の下に隈がある」

 窓際のクッションたちが乱雑になっているのを横目に見ながら彼は口にした。無理はしない方がいい、と続ける。窓際に向かい、シーツを拾うものの彼の視線がとてつもない『疑問』を飛ばしてくる。邪魔しないと言いながらもの言いたげにこちらを見ている彼に苦笑した。

「睡眠の質が悪いのか、それとも悩みがあるのか? 俺にできることがあるなら言ってくれ」
「疲れてるだけですよ。賢者が選定されるまで、たくさんのプロジェクトが中止になったり取り下げられたりしていたじゃないですか。状況が回復すると、反動なのかむしろ前より経費の申請が増えていて、審査の負担が大きくなっているんです。アーカーシャも使えないので経歴や過去の論文を引き出して、そこから額を算定するのも簡単ではなくなりましたし……」
「言われてみれば申請書の数が増えたな。君の部署以外からも持ち込まれる数が増えているが……規定に則っていないものが目立って多数を却下したことしか覚えていない。資料の閲覧は学者の論文救済のためにあるわけじゃない、彼らはまず自分の目で見て頭で考えることを学ぶべきだろう」
「どうでしょう、とくに生物学と機関学に関わるものが多いですから、過去の研究資料から類似性のある事例を見つけることは重要ではないかと」
「生物学に、機関学?」
「まあ希望的観測がふんだんに込められた妙論派の申請内容を審査するのが大変なのはいつものことですけどね……。そんな感じで、普段の睡眠時間じゃ足りてなくて。ここしばらくは休日を昼寝に宛ててます」
「……休息は大事だ、しっかり休んでくれ。鍵を預けてくれるなら時間をみて夕食を買って来るが……どうする?」
「いいんですか? お願いします」

 ふわぁと欠伸がもれた。彼も気にしないと言っていることだし遠慮なく寝てしまおう。鍵置きを指差して、アルハイゼンさんが確認したのを見届けると、重い瞼をそっと閉じて光のあたたかさに身を委ねた。

 人の足音が遠ざかっていって、遠くで施錠音がした。お腹が空いたと猫が鳴く。しばらく経つとまた人の足音がして、それはしばらく室内をうろうろと歩き回ったあと、近くで私の頭を撫でてからソファに向かった。
 体が寒気を訴えて意識が覚醒していく。日が沈むとかえって窓辺は寒くなるものだ。チャリ、と小さな金属音が断続的に聞こえて完全に目が覚めた。猫がソファで読書をしているアルハイゼンさんにじゃれている。──正しく言えば、彼がページをめくるたびに揺れる神の目にじゃれついている。

「こら……こら、だめだよ」
「起きたか。約束どおり夕飯は調達してきた。まだそれほど時間は経ってないから、体調に問題がなければ冷めないうちに食べるといい」
「ん……ありがとうございます」

 起き抜けで覇気のない声を出す私を無視していた猫は、アルハイゼンさんが話しだした途端に素早く身を隠して彼の様子を窺った。てっきり彼に慣れたのかと思ったけれどそうではなかったようだ。
 シーツを肩にかけたまま彼の向かいに座って、不躾を謝る。

「すみませんあの子が……。傷はないですか?」
「かまわない、滅多なことでは傷つかない頑丈なつくりをしている。それでも美術的価値を見出している人間は気にするかもしれないがな。猫は揺れるものに狩猟本能を刺激されると本で読んだ、俺が身に着けている装飾品のいくつかが彼の興味を惹きつけることは想定済みだ」
「……猫の本、本当に読んだんですね」
「ああ。ひとまず数冊読んでみたが、俺は猫に気に入られる条件を適度にそろえているようだ」
「そ……そうですね……?」

 その猫は貴方が喋った途端に警戒態勢に戻りましたが、とは言わずに形だけ同意しておく。どこか自信を感じさせる物言いは、数回しかうちに来ていないにもかかわらず手が届く距離を許された結果、彼なりの論証に基づいているのかもしれない。
 本当のところはどうだろうか、読書中の彼は静かで身動きも最小限だから一時的に揺れものの存在感が猫のなかで増しただけの可能性がある。彼が人間だと思い出して逃げた、そんな様子だからだ。
 たしかに執拗にかまう人間よりは、かまってほしい気分に合わせて接してくれる人間を猫は好む傾向があるから、彼の自己分析は間違ってはいない。いずれは打ち解けるだろうけど。

「餌、あげてくれたんですか」
「腹が空いていたようだから棚を物色させてもらった。あと、それ。君が体質に合わないと話していたスパイスは使っていないそうだ」
「わあ、ありがとうございます」

 最近知ったことだが、彼は自身が引いた境界線の内側にいる人間には惜しみなくやさしさを分け与える。とくに人の苦しみに対する心遣いは彼自身の繊細さを感じさせるほどだ。
 店主に相談したうえで買い求めてくれただろうことも、食べる前に欠かさず教えてくれたことも嬉しくて口元がゆるむ。早速包みを開いて中身に手をつけると、彼は静かに読書に戻った。自分の機嫌がいいからか、私には彼の口元にも笑みが浮かんでいるように見えた。



 ようやく仕事が一段落ついた。肩を回して凝りをほぐしていると、素論派の後輩であるナイマーンが私を訪ねてきた。

「久しぶりだね。こうして会うのは何年ぶり? ずっと国外で測定を続けてるって聞いてたから……スメールに戻って来てるなんて知らなかった」
「年に数回は戻ってますよ、中間報告とかもありますし。それで……突然で悪いんですが、先輩が在学中に執筆した論文をお借りしたくて来たんです」
「学生時代の論文? またいきなりどうして?」
「その、いま行なっている研究の参考にしたくて……。もちろん、完成した論文には先輩の名前も載せます! たしか『漏出した地脈エネルギーの信号化』『双方向性伝送モジュールを用いた地脈解析』の二本を書き上げてあったと記憶しているんですが」
「なつかしい。先生にアドバイスされたな、情報が多すぎてまとまりがないから二つに分けて、要点を洗い出してもう一度提出しなさいって。……引用はいいけれど、複製が手元にないの。その論文はあとから先生が製本して知恵の殿堂に置いてくださったから、就職が決まって引っ越すときに嵩張るし捨てちゃったの」
「そ……そうでしたか……」
「人気がある本じゃないから貸し出されてないと思うよ、借用書を提出すればすぐ許可が下りるはず。行ってみたら? グランドキュレーターもちょうど休憩から戻っている時間帯だろうし」
「……ええ、そうですね、そうします」

 ナイマーンは険しい顔で、心ここにあらずといった返事をした。後輩の落ち着きない行動に違和感を覚えて、いったいどうしたのか聞き出そうとナイマーンを止める。だけど彼はぶつぶつと何かをつぶやきながら、私の呼び声には気づかない様子で離れていった。



 翌日、ナイマーンは再び私を訪ねた。昨日よりもっと切羽詰まった顔をして焦りを隠すこともできていない。
 彼は大袈裟な身振り手振りで話をする。彼の研究内容はデータ量が膨大で、一人では並行作業ができない。だから教令院に定期報告するべくスメールシティへ戻った際にアーカーシャを使って一気に演算を済ませていた。
 だがアーカーシャが稼働停止した現在は自力でデータ処理をするしかなく、演算に時間を取られているせいで他に時間を割くことができず進捗がよくない状況だと。
 程度はどうあれ一定の成果がなければ次の経費申請をしても弾かれる可能性がある。よって、ひとまず自らの研究課題に関連性のある既存の文献を用いて、将来的な展望があるかのように結論を結び、来期の予算充当が適正と判断されるような中間報告を提出したかったのだ。
 よりにもよってその申請を通す部署にいる私に意図を打ち明けるとは詰めが甘いと言わざるを得ない。ただナイマーンもそれは理解しているのか、昨日は具体的な理由も説明しないままだったため、いざ報告書を提出した際に論文を盗用したと誤解されたくなかったのだと必死に弁解した。

「結論の運び方にさえ気をつけて、単に文献を引用しただけでないことを明らかにしておけば問題ないよ。教令院が定めた記述方式に則り正しく書かれた論文なら不安に感じる必要はないから。経費が下りるかについては、貴方の実績や教令、研究資源としての重要性といった様々な要素から総合的に判断されるからどうとも言えない」

 ナイマーンはまだ何か言いたそうな顔をしていたけれど、ひとまず納得したように頷いた。
 この後輩は真面目だけど、言葉を選ばずに言えば昔から要領が悪く物事を否定的に捉えがちだった。時間も手間も惜しいのなら早く論文に着手すればいいものを、こうもナイーブになってはまた明日も教令院をうろついているだろう。後輩の姿が容易に想像できて「私の論文が必要なんでしょう、知恵の殿堂までついていってあげるから」と仕方なく提案した。
 自著の借用書を書くのは奇妙なものだ。愛想のいいグランドキュレーターと軽く世間話をして、教わった棚に向かう。ナイマーンは落ち着きを取り戻したのか安心した顔で私に感謝を告げた。

「アーカーシャが停止したのは災難だったね。私たちも少なからず影響を受けてるの、資料をすべて人手で洗い出さなければならなくなったから」
「ええ、本当にそう思います。前任の賢者たちには困りましたよ、彼らの身のほどを弁えない行動のせいでいったい何人の学者が路頭に迷うことか……。でも、先輩の論文さえあればみんな元通り研究を続けていけますから!」

 そうしてナイマーンは論文を手にすると、学者らしい謝辞を口にして教令院をあとにした。
 何かが引っかかる。ナイマーンの後ろ姿を見送りながら、私は頭にかかった靄を振り払いつづけた。私の論文で救われるのが彼だけではないかのような物言い。気のせいかもしれないが、単に彼が言葉を間違えただけのようには聞こえなかった。安堵したからこそ漏れた本心かのような──そう感じるのは私の考えすぎだろうか。
 職場に戻りかけていた足を止めて沈黙の殿へ向かう。一歩進むごとに疑念が確信へと変わる。
 マハマトラの事務室はとても静かだ。セノの放つ存在感があまりに強すぎるせいか学者たちはいつ彼らに自分の研究を打ち止められるかと怯えながら暮らしているが、学術社会を形成するスメールにおいてマハマトラとは公安の役割を担っている部署である。
 彼らは実態調査から捕縛に裁判と手広い業務と権限を持つが、それらの素地には膨大な事務作業がある。セノの寒いギャグの解説をさせまいと過剰な大笑いしているとき以外は粛々と業務に当たっていることを知っているのは部外者ではごく一部だろう。
 その事務室を訪ねた私にマハマトラたちの視線が集まった。セノの姿を探すも、特徴的な被り物はどこにも見当たらない。何度かセノの指示を受けているのを見たことがある一人の職員と目が合い、彼女が私の用件を尋ねる。

「セノが草神様と行なっている、アーカーシャに関わる調査はもう終わっていますか?」
「直近のあいだにセノ先輩が処理を完了した案件には覚えがありません、まだ進行中のものかと。調査中の情報につきましては外部に公開できかねます」
「ああいえ、終わっていないのであればセノに伝えてほしいんです。私の論文が応用されそうだと。きっとそれだけでセノは理解できるはずですから」
「わかりました、伝えておきます」

 情報提供ありがとうございます、と彼女はことの経緯を把握していないにもかかわらず丁寧に頭を下げてくれた。仕事を邪魔してしまったことを詫びて沈黙の殿を離れる。
 草神様とセノに会ったとき、アーカーシャモデルの研究について調査をしていると話を聞いた。アーカーシャはスメールの学術領域において必要不可欠な存在となってしまった。だから代わりの機能を備えたものが研究されるのは避けられないし、それらすべてを規制することは草神様も望んではいないだろう。だからこその聞き取り調査だ。危険性があれば、規制する。道を誤れば正す、知恵の神として真摯に責務を果たそうとしていた。
 ナイマーンも新たな演算器が生まれることを望んでいる。もしかすると、彼の知り合いに関連モデルを研究している学者がいるのかもしれない。私の論文がそれに使われるのだとすれば光栄だ。
 だけど、ナイマーンがそれを隠そうとしたのだとすれば。借用書を提出すればいいだけの単純な話を、混迷のさなかにあることをアピールして私を頼った。経費を手に入れるために手段を選ばない人間をたくさん見てきたのだ、彼らは犯罪者とまではいかないが真摯な智者であるとも言えない姿をしていた。

「ナイマーンの目的が、私の名前を借りて論文を手に入れることだったら」

 草神様の制止を振り切って研究を続行するために。
 小心者の後輩が博打に出るとは思えない。同時に、彼の愚かさは時と場合を選ばないことも想像がついた。学術犯罪に手を染めているつもりが本人にはなく、無知と夢想によって突き動かされているとすれば──あるいはありうるかもしれない。
 地脈エネルギーはテイワットのどこでも手に入れることができるありふれたエネルギー体であり、その可能性と危険性は未知数だ。大地の上で暮らす者にとって、大地の下で起こっている事象をコントロールするのは至難の業といえる。歴史ある学派で長らく扱われてきた分野でありながら未解明な点が多いことには理由があるのだ。
 無知も悪意になりうる。たとえ本人が意図していなかったとしても、ナイマーンは学術犯罪者として裁かれることになる。
 草神様の慈悲深さゆえに私たちは夢を見ることを許されている。知恵は強大な力であるからこそ、純粋なる学びのみがだれを害することもなくだれを救うこともない。六罪を定めたことは彼女の愛だというのに、学者の傲慢さが教令を破っている。
 セノが間に合ってくれるように願うしかなかった。

 時間が経つほど不安が膨らんでいった。だからといって目の前の職務を投げ出すわけにも、個人的な捜査に踏み切るわけにもいかずに、やり場のない悶々とした気持ちを抱えたまま仕事を終える。教令院を出る頃には飲んで気分を紛らわしたいという考えに頭を占拠されていた。一杯だけ引っ掛けていこうと港に続く坂を下る。
 ランバド酒場に向かう道すがら、アルハイゼンさんの姿を見かけた。冒険者協会の前で異国の装いをした人と話をしている。傍らの浮遊生命体に興味が湧いたけれど、元気がない状態では疑問を持て余すこと間違いなしだったので素通りしようとした。アルハイゼンさんが私を引き留めなければ。

「待て──どこへ行く。どうして声をかけない?」
「邪魔しては悪いと思って……」
「……一応確認しておくが誤解はしていないだろうな?」
「何の誤解ですか……? 社交辞令です」
「ならいい」
「えっと……アルハイゼン、聞いてもいいか? まるでその女の人がお前の恋人で、旅人との仲を疑われると困るみたいに聞こえるけど、きっとオイラの勘違いだよな?」
「その認識で間違いない」
「嘘だろ?! なんでお前みたいな変わったやつに恋人がいるんだよ!」
「あんなこと言ってたのに、恋人がいたんだ?」

 いつか見た勘の鋭い少年が半分楽しげに、半分呆れて言った。彼はパイモンと呼ばれた小さな子と会話の応酬を楽しんでいた。彼が弾むように会話をしているのはめずらしい光景だ。
 私たちは簡単に自己紹介をした。少年は生き別れた妹を探してテイワットを旅しているらしい。隣にいる浮遊生命体はパイモン。なんでも彼らは草神様を救出する際に手を組んだ戦友なのだとか。
 旅人はいつかのように私が元気をなくしていることを見抜いて事情を尋ねてきた。アルハイゼンさんも気になっていたのか、問い詰めるかのような鋭い視線が刺さる。立ち話をするのもどうかと、彼らを連れてランバド酒場に入った。酒を一口含んでから、私は正直にことの経緯を話す。

「たしかに、その後輩はあやしいな。君の勘は間違っていないだろう。それにしても君が学生時代に書いた論文か……」
「なにか思い当たることでもあるの?」
「地脈学だけでなく素論派は元素、地脈、錬金といった未解明要素の多い学術を扱うが、だからこそ研究しがいのある学術とも言える。その証拠に元素や地脈はおおよそ一般的ではない資源であるにもかかわらず長年の研鑽が積み重ねられており、著名な学者を多く輩出してきた。近年ではアイシャやプルシナ、500年遡れば賢者ビルニに至るまで──君たちも一人くらいは名前を聞いたことがあるんじゃないか?」
「たしか……プルシナスパイクとかアイシャ混沌探知機の製作者」
「ほう? 君たちの口からそれらの名前を聞けるとは思わなかったよ。スメールで学術を身に着ける予定が? 教令院に入学したいのなら、革命のよしみで簡単な問答集を作ってあげようか」
「いやいや、そんなわけないだろ、オイラ学者なんて絶対に無理だ!」
「まだ取り組んでもいないのに自分の限界を決めつけるのか? 概ね同意はするが」
「おい!」
「教令院に入る気はないよ。ホッセイニっていう学者とよく会うんだ、たまに手伝いをしてる」
「学者っていっつも研究に追われてるよな。旅人と見るとすぐ助けてくれって泣きつくんだ」
「おそらく素論派のダリオッシュだろう。先輩が残した学術資源は今もなお研究に用いることができる、素論派の人気が高い理由の一つだ」

 旅人の隣でパイモンがふんふんと相槌を打つ。

「数多の学術資源に溢れている分野であるにもかかわらず、彼はわざわざ君の論文を選んだ。まあ、あれほど丁寧にまとめられた論文を読んだならざっと考えただけでも十通りほど活用法が浮かぶ」
「こいつ、さらっとのろけてないか?」
「──だがどれもマハマトラに目をつけられるほどの大事にはならない。状況を鑑みても、君の論文に触発されたのではなく必要性に駆られて君の論文を求めた、順序が逆だ。そこで、だ。彼が演算器に活用するつもりでかつ教令に反するおそれがある内容──これらの条件で考えなおしたたとき、他の学問を取り入れることで成立しうる可能性が一つだけ存在する」
「他の学問……ひょっとして、生論派の経費申請が異様に増えたことと、何か関係があるんですか?」
「あくまで俺の想像にすぎないがな。実行に移すとなれば教令に違反する、クラクサナリデビ様やセノがこれらの潜在的危険性を考慮して聞き取りを行っていたのであれば、未然に防ごうとした理由としては十分だ」
「お、おい……話が全然分からなくなったぞ。オイラたちにも分かるよう説明してくれ」
「説明? 俺の話はここで終わりだ」
「なんでだよ! 普通いいところで止めないだろ!」
「言っただろう、あくまで俺の想像にすぎないと。仮に話してどうなる? 俺たちが彼らの陰謀を暴いたところで、彼らの過ちを正すのはマハマトラの仕事だ。彼女が提供した情報はそろそろセノに伝わっているだろうし、彼が専攻していた分野でもあるからセノなら容易にこの仮定に辿り着く。あと、俺が言葉を尽くして学問の話をしたところで、学者ではない君たちに理解できるとは思えない」
「この〜ッ、……間違ってないから悪口が出てこない!」

 パイモンが空中で地団駄を踏む。私は苦笑し、旅人は早々に諦めて「学者同士が恋人になると、お互いの論文を読むのは当たり前みたいな感じなの?」と尋ねてきた。
 スメールでは学問のために家庭関係を築き上げるのも珍しいケースじゃない。測定結果の是正を行ったり、学術資源を共有したり、互いの研究の進捗によっては生活に必要なその他の労力を負担したりと様々だ。名を残すことにこだわり、優秀な子どもという資産のためだけに結婚を手段にする学者家系もいるのは、スメール国外の人間にとっては想像もつかないことだろう。
 私たちは一般的な学者家系の事例に沿わない。彼は私を好きになったのが先だと言うし、私も打算で彼を選んだわけじゃない。だから彼の論文を読んだことはなかったし彼も同じだと思っていた。正直なところ彼が私の学生時代の論文に目を通していたことに少しだけ驚いている。

「俺が言いたいのは、君が責任を感じて気を揉む必要はないということだ。君の論文を取り入れるのはナイマーンにとっても厄介だからな」
「どういうことですか?」
「ナイマーンは隠れるようにして研究を続けなければならない状況にある。だが君の学術資源を活用するとなれば作業スペースを簡単に移動させることはできない。地脈エネルギー自体はありふれた資源だが、どこでも産出できるものではない。エネルギーの産出自体も容易ではないし、機材も設置型だっただろう?」
「地脈エネルギーを溜めるのって結構時間がかかるよね。安定させるのも手間だし」
「経験者は語る、というやつか? 旅人の言うとおりだ。それにセノは砂漠出身でありながら改革前の教令院であの地位に上り詰めていた、彼の極めて高い実行力は君のほうが理解しているだろう。大マハマトラの称号は伊達じゃない」
「もし何か起こっても大丈夫だぜ。セノは強いからな! アルハイゼンと戦ったときもすごかったんだぜ」
「威嚇であれほどなら本気を出せば凄まじいものだろう」
「でも……セノが間に合わなかったら? 間に合ってもセノの手に負えなければ……。やっぱり私がナイマーンを説得したほうがいいかも」
「正気か? 知識の差で不足分の危機管理能力を補えるわけがない。セノで対応できないほどの危険のなかに君のような一般人が突っ込んでいって解決できることを立証できるなら聞かせてほしいものだ。もちろん、できるわけがない。よってその愚かな判断は容認できない」
「アルハイゼン、言い方がきついよ。……でも、貴方が危険を冒すことをセノも望まないと思う。セノは自分を過信してリスクを取ることはしない。だから心配しないでいいんじゃないかな」
「そ、そうだぞ! だからあんまり落ち込むな、なっ? アルハイゼンも悪気があったわけじゃないから、なっ?」

 三人の意見が間違っているとは思えない。つまるところ、私にできるのは落ち着いた行動をとることだけだ。後輩を止めることができなかったなら、今度こそ冷静に努めなければならない。彼らの心配を素直に受け止めていよう。
 ゆるゆると頷くと旅人がほっと息を吐いていた。年下の少年にみっともない姿を見せたうえに諭されてしまったことを自覚すると途端に恥ずかしくなってきた。残っていた酒をぐっと呷る。
 せっかくだからあと一杯だけ飲んで帰りたい。これっぽっちの酒では居心地の悪さを誤魔化しきれずに、店主に追加の酒を頼んだ。初めて見る私の姿にアルハイゼンさんが驚きをあらわにする。おい、大丈夫なのか。戸惑いの交じった声がいつもより低く響いた。

「だから言ったんだ、ほどほどにしておけと」

 呆れ果てたように言われてぐうの音も出ない。酒に弱いわけではないから思考ははっきりしているものの、普段それほど飲まないせいか酔いが足にきていた。
 仕事を終えてまっすぐ酒場に来たせいで家で留守番をしている猫のことが急に気がかりになった私は、はっとして立ち上がった瞬間に体勢を崩してしまったのだ。見越していたように隣にいたアルハイゼンさんが私を支えて、鋭い指摘を飛ばされてしまったのだった。

「旅人、これで勘定を。君たちのぶんもまとめて支払っていい」
「いいの? ありがとう」
「へへっ、ごちそうさまアルハイゼン!」

 彼は旅人に財布を預けて精算を頼むと、私を抱えて店の外へ出た。子どもの頃ならまだしも物心ついてから人に抱き上げられた覚えがないせいでバランスを取るのに苦労する。しっかりと腕を回されてはいるものの、不安定な心地がして彼の首にしがみついた。
 あとから出てきた旅人とパイモンは私を見て心配そうにした。あれだけ私たちの関係を意外そうにしていたのに茶化すようなことはしない。なんていい子たちだろう。夜風に当たり冴えてきた頭で考える。

「人を抱えたまま転んだら大変じゃない? 荷物くらい持つよ」
「問題ない、彼女は軽い」
「そう? アルハイゼンがそう言うならいいけど……」
「ちゃんと安全な道を通れよ。家に着いたら毛布をかけてあげるんだぞ。あと鍵をかけ忘れるなよ!」
「ずいぶんと彼女を気に入ったようだな」
「いい人だからな。それに、ひねくれた奴じゃなければお前のことだって気にしたぞ。でもお前は書記官のくせにエルマイト旅団をボコボコにするくらい強いし、口だけでも相手をボコボコにしちゃうからな」
「そうか、俺も気をつけて帰るよ」
「だから! お前のことは心配してないってば!」

 二人の言い合いが面白くて笑っていると彼が頭を撫でてきた。そんな人前で、子どもを寝かしつけるみたいに、と不満で口を尖らせるけれど次第に眠気に襲われる。連れて帰ってくれるならいいか、と簡単に思考を手放して彼の髪が当たらない位置に顔を埋めた。

「すぐ寝ちゃったね」
「気疲れしていたんだろう。責任感が強すぎてときおり持て余している節がある」
「お酒の注文を止めなかったのは息抜きさせてあげるため?」
「それについては単に彼女がどこまで飲めるのか気になった、恋人の酒癖を把握していて損はないからな。大人になって飲む機会があっても、リフレッシュの手段に酒を選ぶなんてことは君もやめるといい。滅多にない行動は面倒事を引き起こすだけだ。飲酒が君の日常的な行動ならかまわないだろうが」
「覚えておくよ」

 夢のなかで旅人が「大切なんだね、その人のこと」と言う。彼が穏やかな声で肯定しているのを聞いた。

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