言の葉のあわい 2

 一晩経つと思考がクリアになって、眠る前にどれだけ悩んでいることがあったとしてもすんなりと答えを出せるようになる。やはりこれで論文を一本書いてもいいのではないか、とベッドに転がったまま考えた。
 書記官がああも饒舌になるほど私のことを好きだったなんて想定外だった。他人と比べて私は心を許されている、と感じていたのも気のせいではなかったのだということが判明したのは良かったけれど、あれが恋をしている相手に見せる態度なのだとしたらそれはそれで問題があるかもしれない。相対的に、その他大勢の人間の価値は彼の中でとてつもなく低いことになるからだ。
 書記官は正論を並べ立てはするけれど相手を責めるつもりはないのだから、話をするときは落ち着いて一つひとつ情報を整理するよう心掛けていたはずなのに。一番効果を発揮したい場面で発揮できなかったと後悔する。ただまあ、会話のペースを乱す応答に対応しながら隙あらば差し込まれる好意に対応するのは至難の業だろう。
 それに突然の告白だけならまだしも、秘めていたはずの気持ちを言い当てられてしまったのだ。あの言い方は本当に意地が悪かった。よほどのことがない限りは冷静に努めることができると自負していたのに、返事を保留にして逃げ出してしまったのも仕方ない。自分を励ましながら起き上がる。
 返事を持ち帰ったのはいいものの、書記官のことを好きな気持ちは変わらないのだから答えは一つだ。返事をすれば私たちの関係はたちまち変わってしまう。だけど恋人になることで私たちの日常は一体どう変化するのだろう、そんな疑問が拭えない。
 彼の恋人になるだなんて考えたこともなかった。だから、未来のビジョンがまるで見えないのだ。普通の恋人同士なら、一緒に過ごす時間や触れ合いを増やしたり、休日には出かけたりする。それらを、書記官と? 現時点ではその光景がちっとも浮かんでこない。まず、彼は私のどこを好きになったのだろうか。
 人生最大の謎を抱えて身支度を整えた。教令院で彼を捕まえることができれば返事のついでに聞いてみよう。エサ入れに顔を突っ込んでいる猫を眺めながらそう決めた。

 書記官に書類を提出しなければならないと力なく笑っている同僚を見かけたから、彼の執務室に向かうからついでに持って行こうかと提案した。しばらく彼を避けていたのは悟られていたのか、感謝されつつも大丈夫なのかと心配される。どうやら私の行動原理をとうとう堪忍袋の緒が切れたと同僚たちは受け止めていたらしい。
 書類が仕上がったのは太陽が真上から降り始める頃だった。長話になる可能性があるかもしれないから、念のためしばらく離席することを伝えて出発する。

「……あれ、めずらしい」

 書記官の執務室に到着すると、ドアに貼り出してある彼のスケジュールに終日在室予定と書かれていた。勤務時間以外は記載されたことがないし、勤務時間中だからといって在室しているわけでもない彼が丁寧にも在室を宣言しているのを見ることになるとは。
 なんにせよ探さずに済んで良かった。タイミングを逃せば告白の返事もしづらくなる。深呼吸をしてドアをノックすると耳に心地よい声が入室を促した。私の顔を見るなり書記官は肩を竦める。

「やっと来たか。待ちくたびれたよ」
「私が来ると予想してたんですか?」
「していないから待ってたんだ、俺の不在が原因で君の気が変わると困る」

 そう言うと書記官は処理中の書類を放り出した。私は後ろ手にドアを閉めてデスクに近づく。預かっていた書類を差し出すと、彼はひっそりと眉をひそめた。

「申請書の提出に来ただけか?」
「返事も持ってきましたよ。……交際の件ですが、ぜひお願いします」
「うん、ありがとう」

 実に満足気な笑顔だった。彼は書類を受け取るとおもむろに立ち上がる。座ってくれ、とソファを指差されたので大人しくそうした。彼は外套を脱ぐと、ソファに座る私の膝に頭を預けるようにして横になった。

「あの、書記官?」
「書記官? 恋人になったのに職位で呼び続けるのは適切ではないと思うが」
「アルハイゼン……さん、まだ勤務中ですけど、どうして眠ろうとしているんでしょうか」
「眠るつもりはないが休息をとりたい。君と会うまでに十数枚の申請書に目を通し、訪ねて来た数名の教令官の質問に答え、五名の学者に申請書のミスを修正させた。さらには不受理にした申請書について文句をつけたいやつらが俺の在室を聞きつけてきたせいでやむなく相手をした。ここまで言えばわかるだろう」

 他の者はさぞ仕事が捗ったことだろう。彼の執務室に人が押し寄せる様を想像して他人事のように考える。実際には、書記官は書類の閲覧申請を通すことがメイン業務なため、彼が不在にしていたところで目立った不都合はないはずだ。今までもデスクに書類や書置きを残すことで成り立っていたのだから。
 ただ、いて欲しいときにいない……そうやってペースを乱されるのはストレスに感じるものなので、書記官を訪ねた人たちに同情しないと言えば嘘になる。ある意味では、人々は無意味なことで時間を浪費することが多いため、彼も他人にペースを乱されるストレスを除いた末に所在が知れない状況を意図的に生み出しているのだろうが。
 つまり快適さにおいて双方が衝突し、普段は書記官に軍配が上がっているだけなのだ。彼の『正論』を浴びる気はないので何も言う気はないけれど。。

「わかりました、けどこの体勢は、その」

 寝転がっているせいで前髪が流れ、いつもは見えない片目が覗いている。不思議な色合いの瞳で見つめられると、心の裏側までじっくりと撫でられているかのような心地がするのだ。隠した真実をあますことなく暴かれるのではないかと、落ち着けない。
 それに、いきなり距離感を縮められてキャパシティを超えかけていた。彼と恋人らしい触れ合いをするだなんて想像できないと今朝がた考えたばかりだというのに早々に覆されてしまうとは。本当に彼はこちらの望み通りに動いてはくれないのだなと、小さな溜息を吐く。

「動揺することではないはずだ、恋人ならこの程度の触れ合いは普通だろう。一晩もあったのだからある程度の想定と覚悟はしてきたものだと思っていたが……恋人の定義から始める必要があるのか?」
「だって、いきなりこんな……緊張しますよ」
「たしかに、いつになく言葉に詰まっているな」

 彼の興味深そうな視線が私を貫く。右に、左に。所作の隅々まで観察しているのか、思考しているのか瞳が忙しなく動いていた。
 音にならないだけで彼はたくさんの言葉を頭の中で操っている。私たちの理解が及ばない場面はあまりに多いけれど、彼の目は雄弁なのだ。クラクサナリデビ様なら会話せずとも彼の思考をすべて理解できるのだろうか。

「普段どおりでいい──と言っても、すぐにどうこうできるものではないのか。ならこれから慣れていけばいい、それまでは俺が現状を受け入れるよ」

 息とともに肩の力まで抜いたようなやわらかな笑みに、恋人にだけ向けられる甘さのようなものを感じて、顔が一気に熱くなった。

「ありがとう、ございます」
「礼はいい。言っておくが、だからといって自分のやりたいことを制限するつもりはない。君も俺に対して要望があれば遠慮なく言って構わないし最大限叶えると約束しよう」
「ではさっそく、膝枕をやめませんか?」
「君に触れることで精神衛生を整えたいと言ったつもりだったんだが、もしかしてわからなかったのか。それとも君は恋人を甘やかさない主義なのか? だとすれば議論する必要がありそうだ。俺は甘やかしたいし、甘やかされたい。どうしても無理だと言うのなら今だけ君の家の猫だと思っても結構だ」
「そのほうが無理です」
「そうか、まあ今日のところは諦めるように。異論なら後ほど聞こう」
「はい…………………」

 静かな攻防の末、結局のところ彼は自分の要求を通した。私、この調子でやっていけるのかな。気圧されるまま現状を許してしまい幾ばくかの不安を覚える。すっかり彼のペースに飲まれてしまった私は質問を聞けずじまいだった。



 定時間際のこと、出入口の騒がしさが気になって視線を投げると書記官の姿があった。同僚が逃げるように私の元に来て「そのまま上がっていいからさ、早く」と、追い払わんばかりに急き立てる。
 昼会ったばかりだというのにいったい何事かと手早くデスクの上を片づけて私物をバッグに詰め込んだ。待っていた彼が不思議そうに私を見つめる。

「落ち着け、急かしてはいない。そんなに不注意だと怪我をする」
「でも急用って」
「これといった用があったわけじゃないよ。仕事が終わったから、君と帰ろうと思って迎えに来ただけだ。どこにも勘違いする要素などなかったのに君の同僚は俺の行動を曲解したようだな。あれではやましいことがあると主張しているようなものだ」

 帰宅時間を合わせただけだと話す書記官に頭が真っ白になった。やりたいことを制限するつもりはないと宣言された通り、彼は自分の日常を変えるつもりはないようだと休憩終わりに実感したばかりだったのだ。私と足並みを揃えるつもりがあるかのような口振りに驚くのも仕方ない。

「買い物があるなら付き合うが、予定は?」
「ありません。昨日済ませてしまったので」
「では、行こう。着くのが遅くなる」
「……うちに来るという認識でいいんですよね」
「まずいか? 部屋が片づいていなくても俺は気にしない」

 彼は用事があるわけではないと言った。恋人の安全を考慮して毎日職場までの往路を送迎するという殊勝な心掛けをする人ではないため、おそらく目的地は私の家だろう。
 導き出した予想は的中した。まあ私の面子のためにも気にしてほしいところだが、彼がそんな理由で予定を変えることがないことは知っているので反論するだけ無駄だ。
 歩き始める彼の隣に並ぶ。服を脱いだままにしたり書類を散らかしていなかっただろうかと緊張しながらシティを歩いた。

 家に着くと猫が玄関先で待っていた。背後に立つ書記官に気づくと静かに警戒態勢を取る。「こんにちは」と彼が声をかけると壁際に後退した。彼が猫を気にしたのはそれきりで、客人とは思えない堂々とした振る舞いでリビングへと向かう。
 素論派はダリオッシュが多いと言われている。学生時代の友人も例に漏れず申請を出して他国で遊学中のため、家に人を招くこと自体が久しぶりだった。両親はシティの外で暮らしていてここへ来る頻度は低い。だから私以外の人間を見て驚いているのだ。何だこの生き物、という目をしている。
 リビングの中心に置いたテーブル、そこにある卓上本棚を見つけた彼は真っ先にそちらを物色した。学生時代の講義で使ったノートや論文を書くのに必要だった文献のうち、今でもときおり読み返すものだけ手近な場所に並べているのだ。見られて困るものではないけれどプライバシーもへったくれもない。猫は彼より背の高い棚の上からその様子を観察している。

「……何か面白いことでも?」

 目の前の光景がなんだかおかしくなってきて、笑いをかみ殺していると、私に気づいた彼が尋ねた。

「気にしないでください、たいしたことじゃ」
「……ずっと言おうと思っていたんだが、敬語はやめてくれ。俺たちに上下関係はないし、プライベートを共有する仲になった。他人行儀な態度は相応しくない」
「わかりまし……わかっ、ふふ」
「だから、どうして笑うんだ」
「アルハイゼンさんはけっこう形から入るタイプだなあって」

 彼は眉根を寄せる。不快な思いをさせただろうか。だけど、膝枕を要求したり、迎えに来たり家で一緒に過ごそうとしたり、敬語はやめるように言ったり。彼に振り回されているように見えていた行動もそうして積み重なると、恋人の在り方を模索しているかのように感じてしまったのだ。
 一度そう認識してしまうとだめだった。かわいいなあ、とあたたかな気持ちになっていると反論が飛んでくる。

「いずれ実行することならすぐ実行しても変わらない。なんだかんだ君は俺が求めたことにすぐ対応するから、あえて時期をずらす意味はないだろう」
「うーん……でも、話し方はすぐ変えられないので時間をかけるのを許してほしいです。相応の態度については結果が望めるなら即時性は絶対条件じゃないですよね?」
「わかった、いいだろう」

 ふてぶてしくもそう言うと、彼は本の物色をやめる。彼の興味関心を引く本はなかったらしい。不満気な顔をして「君の家に来たのはいい判断だったと思うが。いま君はいつもどおりの受け答えができている、リラックスしている証拠だ」と食い下がるのがおかしくてまた笑ってしまった。

「雑貨が少ないな。君はインテリアにこだわらないのか」
「物を置きすぎると落とされてしまうので。大抵は邪魔だから落としてるんでしょうけど、どう考えても通れない経路を無理に通ろうとしてるときがあるみたいなんですよね」
「……ああ、猫が。本棚にスペースがあれば入るというのもそういうことか。自分の体格を見誤り本を押しのけてでも入ろうとすると」
「それは単に暗くて狭い場所が好きなだけだと思います。空箱を放置していると必ず中に入りますし」

 猫が自分の体格を把握できていないかは調べようがない。猫は鈍くさい生き物だから一因ではありそうだけれど、と普段の様子を思い出しながらよりそれらしい根拠を伝えておく。
 彼は怪訝な顔をして、次の機会までに猫の習性について勉強しておくかとつぶやいた。その猫は棚の上でまだ彼のことを監視中だ。

「君は猫中心の生活を送っていると認識していればいいようだ。仕事が終わればすぐ帰宅すると話していたが、主に自炊をするのか」
「いくつか体に合わないスパイスがあるので自炊する日のほうが多いです。毎日作るのは大変なので余れば翌日に回すこともありますけどね。貴方は?」
「積極的には取り組まない。夕飯を作っている時間を読書にあてたいからな。男の一人暮らしだから外食続きでも支障なく過ごせている」
「……よければ夕飯を食べていきますか? 今夜はカブサですけど」
「気を遣わせるつもりはなかったんだが……迷惑じゃないならいただこう。正直に言うと、君が料理をすることは知っていたから興味があった。こんなに早くありつけるとは思わなかったよ」

 私だって彼に今日の夕飯を振舞うつもりはさらさらなかったけれど、自炊すると答えて、外食続きだと聞けば、食事を振舞わないのもなんだか居心地が悪かったのだ。どうせなら彼の味の好みを理解できた頃に、万全の準備を整えて挑みたかった。手料理に期待をかけられているのなら尚更だ。
 ほんの数時間で料理の腕が上達するわけじゃないからせめて味付けを間違えないように気をつけて、いつもどおりに作るとしよう。二人分の仕込みが必要なら早めに取り掛かるべきか、とキッチンへ向かおうとした私は、はたと動きを止めて疑問を口にする。

「いまの口振りだと夕飯を食べるつもりでうちに来たわけじゃないんですね」
「家主を働かせるつもりで邪魔するのは気心が知れている仲か礼儀知らずだけだ。そうだとしても夕飯が目的なら先に言うべきだろう、食材がなければ何も作れない。無駄なことはしたくない」
「言われてみると、買い物が済んでるかを確認されたときに申告しそうですね、貴方なら」
「そうだ。──君の家に邪魔したのは生態調査のためだ。君と話をしてもストレスがないから俺とまったく同じ価値観や思考回路をしているのかと言えばそうではない、君は自立していながらも適度に人付き合いをしているからな。人の性格は環境に影響を受け、そして逆に環境にも影響を与える。君の暮らしを見れば、君と俺の相違点を見つけることができると踏んだ」
「相違点を見つけて何をするんですか?」
「別に、何もしない。生活スタイルが違えば今後どちらかが我慢を強いられるケースも出てくるだろうが、おそらく決定的な不和につながる要素はないと予測していた。実際、君の暮らしは落ち着いていて好感が持てる。君の同居人と打ち解けるのを当面の目標にするよ」
「……もし私の暮らしが貴方に合わなければ、どうするつもりだったんですか」

 彼の許容できない点があれば、私たちの関係はここで終わったのだろうか。

「何もしない。分からないか、俺は君を知りたかっただけだ。……君は俺を誤解している」

 彼は小さく溜息を吐くと、私が内心に抱えた不安を一蹴してソファに座る。手招きされて、戸惑いながらも彼の隣に腰を下ろした。

「俺は別に他人を疎ましく思っているわけでも厭世家でもない。ただ自分のやりたいことをして過ごしたいだけだ。恋人に求める条件を照合するために調査しにきたわけじゃない、俺は君を評価するつもりはない。──好きな人のことを知りたいと考えるのは、人として当たり前の行動だろう」
「……それなんですが、ずっと気になっていたんです。貴方は私のどこを好きになったんですか?」
「君はどう思う」
「質問に質問を返さないでくださいよ」
「君の言葉で探すべきだ。『納得』は『理解』の後にしか成立しない」
「ええ〜……。話していてストレスがないところ……、貴方の会話レベルについていけるだけの学者であること? それとも仕事をきちんとするところ……」
「気のせいか? 俺が酒の席で挙げた内容ばかりのように聞こえる」
「うっ……や、やさしく笑ってくれるところ……です……!」
「その回答で本当にかまわないんだな。なら落第点をつけるほかない」

 彼のどこを好きなのか、羞恥で顔を俯かせながらも正直に伝えたつもりなのに無情な言葉が落ちてきた。評価しないと言ったじゃない、と顔を上げて不満を露わにすればアルハイゼンさんは泰然と言い切った。

「俺が君を好きなことに理由はない。君と接しているうちに自然と好意が芽生えはじめた。勤勉さも、合理と冷静に裏づけられた判断も、責任感の強さも、君のことを好きだから好ましく思うだけだ。この説に基づけば君の好きなところなどそれこそ星の数ほど挙げていける」
「──そんなの、」
「回答として受け入れられないと? いいか、たとえ君の笑顔に惹かれようとも、君の賢さに惹かれようとも、まずは『刺激』が生じ、次にそれを『知覚』する。理由は『知覚』を言語化したものにすぎない」

 わかるようでいて、わからない。一度『理解できない』と思うと脳はとことん理解から遠ざかろうとする、それを知っているのに、いくら考えてみても彼の言葉を噛み砕くことができなかった。
 納得は理解の後にしか成立しない。彼の言うとおりで、私は彼がこんなにも言葉を尽くして私を好きだと伝えてくれているのにあまり納得ができないらしい。苦悶の声を漏らす。

「でもそれでいくと……今後、貴方のなかに『嫌悪』という『刺激』が生じてしまえばどんな理由を並べても私たちの関係は終わりを迎えてしまうことになりませんか?」
「可能性はゼロじゃない。いまのところ、君が感じている不安はまったく無意味だから無駄な労力を費やしているだけになるが」
「……」
「人の個性や性格について議論を交わす気はない、俺の見解は主流派と異なるし相手を言葉で屈服させる趣味はないからな。だから例示だけ話すことにするよ。君も知ってのとおり俺は読書が好きで面倒事が嫌いだ。本は正確性が保証されず手間がかかり管理などあらゆる面において不便な知識ベースだが、俺は好んで本を読んでいる。大半のスメール人が避ける行為をだ。──すなわち、理由で俺の行動原理が変わらないことの証左と言えるだろう。『知覚』のあとの物事は俺が君を好きでいることに何の疑問も与えはしない」

 恋人同士が必ずしも同じ意見を持たなければいけないわけではない。だから、もし私が彼の意見に理解と納得を示せなくても構わないけれど彼の気持ちを疑うことはしないでほしい、と彼は静かに告げた。
 私は学者で、学者は明確な答えを望む。彼は言葉を飾るより事実を言う人だ。私を好きなことは彼にとって疑いようもない事実で、さらにその気持ちが外的要因で揺らぐことはないと伝えてくれているのだから、これ以上のことはない。
 彼に理想を求めてはいないと言いながらも、どこかでは期待をしていたのかもしれないと気づいた。今後こういう質問をするのはやめよう、と反省する。

「──わかりました。貴方の知りたいことが知れたならよかったです」
「うん。君もよければ俺の家に来るといい、来なくてもかまわないが」
「アルハイゼンさんの家って……イメージにすぎませんけど、本で床が埋まってそうですね」
「本棚に収まらないほど本を集めてはいるが、さすがに床には置かない、本が汚れる」
「その言い方だと床以外の置ける場所には置いてることになりますけど」
「真実は君自身の目でたしかめるといい。案外気に入るかもしれない」

 彼の物言いで家がどんな惨状になっているかは想像に容易い。インテリアにこだわらないのか、と私に尋ねたけれど彼本人もそうこだわらないのだろう。インテリアにこだわる人間は、視界に入ったときに雑貨が埋もれている光景を許せないはずだ。
 彼の家にお邪魔したときに始終掃除をするはめにならなければいいんだけど、と少しだけ不安になった。



 ラザンガーデンで昼食をとっていると、スラサタンナ聖処から下りてくる人影が見えた。動乱より前はアザールの目論見によりスラサタンナ聖処に続く道だったために人は寄りつかずひっそりとしていたけれど、あれ以降は草神様への謁見や観光などでも往来が増えている。
 静かなラザンガーデンも好きだったけれど私は今の様相も好きだ。今日はいったいどう過ごされているのだろうかと草神様に思いを馳せているとセノの姿が目に飛び込んできた。
 セノは隣に小さな子どもを連れている。面持ちや服装からして職務中であることは間違いないのだけど、どうして子どもを連れて歩いているのだろうか。
 スメールは知恵の国、勉学を修めたい者に教令院の門はいついかなるときも開かれている。テストで適正と判断された人物は年齢を問わず籍を置くことが許されるが、制服を着ていないから学生ではなさそうだ。
 学術犯罪の重要参考人という可能性をまったく否定するわけにはいかないが、おそらく著しく低い。どこかセノの腰が低いような気がするのだ。セノは賢者を前にしても一貫してへりくだる態度を見せないというのに。いったいあの子は何者なのだろう。
 視線を感じたのだろうか、私を見つけた女の子と目が合った。彼女がセノに何かを伝えると二人はこちらへ近づいて来る。

「こんにちは。とても気持ちのいい日ね」

 彼女の声は慈愛に満ちていた。決して他の子ども同様に扱ってはならない、そう直感する。

「隣に座ってもいいかしら」
「もちろんです、どうぞ」

 カフェで持ち帰りを頼んでいた私は脇に広げていた包装を手早く片付ける。セノも座るだろうか。大幅に横へと体をずらすと、女の子が空いた空間に座った。セノを見上げると「俺はいい」と言って彼女の傍に佇む。まるで護衛のような振る舞いだ。

「あなたも座ってちょうだい。お友だちを立たせたままおしゃべりなんてできないわ」
「……光栄です。では失礼します」

 素直に従うセノに目を丸くして、ハッとした。セノがここまで恐縮する相手なんて限られている。ベンチの上で地面から浮いた脚をぶらつかせている、この御方は。

「草神様……!?」
「あら……自己紹介はまだなのにバレてしまったわね、残念」

 感激やら緊張やらでぶわりと鳥肌が立ち、視界が滲んだ。感情の行き場がなくて胸の前で両手を握りきつく握りしめる。
 草神様は力を込めすぎて震えている私の拳にそっと手を添え、解かせた。手が傷ついてしまうわ、と労わるように爪の跡がついた皮膚を撫でられる。手の負傷なんかよりも、神の慈愛を真正面から受けたことによって意識が飛びそうな方が問題だった。

「あまりかしこまらないで。素敵なランチに水を差すつもりはなかったの。あなたには前々から会ってみたいと思っていたのだけど、仕事中より休憩中の方が気楽にしてもらえると思ったから……だけど判断を間違えてしまったみたい」
「そんなこと! 気楽にするのがお望みでしたら、ぜひそうさせていただきます」
「ふふ。嬉しいわ、だけど無理はしないでね」

 そうして微笑む彼女の周りにだけ、きらきらと光が舞っているようだった。

「私のことをご存知でいてくださったんですね」
「もちろんよ、私の大切な民だもの。あなたがよくラザンガーデンに来ていることも知っているわ。鳥のさえずりや朝露が落ちる音、あなたの声を聞くのが私の日課だった」
「私の……声? 一人で来ていたはずですが……」
「あなたが感じていること、考えていること。それらが伝わってくるの。言葉は音だけではないわ。澄み渡る空を見上げたこと、日差しをまぶしく感じたこと……あなたの思考が空気を震わせ私の元へと届いていたの。水面にできた波紋のように」

 それは草神様の夢境にかかわる力の一つだという。神の権能ということだろうか、と興味深く話に耳を傾けた。

「プライバシーを侵害したくはないから普段は使わないようにしているのだけど、あなたはとってもおしゃべりなのね。眠っているときも、そうでないときも変わらず私と繋がることができるくらいに」
「私には想像もつかない話ですが、草神様と繋がっているだなんて光栄です」
「うふふ、最近のあなたはとくに楽しそう。きっと素晴らしいことがあったのね、聞かせてくれるかしら」
「そうなのか。最後に会ったときお前は気落ちしていたからな、気分転換できたのはいいことだ」
「えっ……と」

 二人して私にどんな変化が起こったのか興味津々だ。私が話すと信じて疑わない表情を見て言葉に詰まる。隠すことではないし、セノには相談に乗ってもらった手前いつかは報告しなければと思っていた。だけど心の準備もないまま、真昼間から酒も入れずに話をするだなんて。
 気恥ずかしさでしどろもどろになっていると草神様は純粋な瞳を丸めて首を傾げた。セノは私の反応から何かを察したらしく「もしかして……」と口にしている。

「片思いをしていたひとと、お付き合いすることになりまして」

 ええいままよ。自棄になって言えばセノが身を乗り出してこちらを窺う。

「アルハイゼンか?」
「まあ、アルハイゼンと?」

 セノはまだしも草神様がほぼ同時に彼の名を出して反応したのはどうしてだろう、と疑問を覚えていると「ごめんなさい、あなたの夢で彼の姿を見てしまったの。きっとそうなのだろうと思っていたわ」と返される。つまり私は付き合う前から夢で彼を見るほどだった、と。穴があったら入りたい。
 羞恥で赤くなる顔を覆っていると隣から祝福が届く。お礼の返事はひどくか細いものになった。

「俺たちはあいつに転がされていたということか。ああも堂々とした態度で言われては疑いづらい、今回はそこを逆手に取られた」
「大抵の場面において彼は言葉を取り繕わないものね」
「ええ。ですがはっきりしました、アルハイゼンは自分にとって都合のいいように振舞うと。丸め込まれないよう気をつけろ」
「大それたことを嫌う慎ましい人だもの、心配しなくてもいいのではないかしら。人が寄り添って生きていくためにはお互いを尊重しあうことが重要だけれど、雨の恵みも過ぎれば草木の生育を阻んでしまうように、望みすぎず与えすぎないのは難しいこと。だけど彼にはそうしていく意思と見識があるから上手くやっていけるはずよ」

 彼に対するどちらの見解も正しく聞こえて混乱してきた。セノは彼の協調性のなさや極端さを問題視しており、草神様はそうでありながら他者を著しく害することがない点を評価している、といったところだろうか。
 今後、時間を共有していくなかで知らない一面を知ることも多くなっていくだろうから、そのときの判断材料として参考にさせてもらおう。結論づけると、二人の発言をできるだけ詳細に記憶に刻んだ。

「告白はアルハイゼンから?」
「告白、と呼んでいいのかわかりませんが。誤解を明らかにしていくうちに結論を導いた形だったので」
「……大丈夫か、今の話を聞いてお前たちのことが一気に心配になってきた」

 セノの声が一段落ちた。言動からはわかりづらいけれどセノは他人をよく気遣う。過去に耳が痛い経験をしたことがあるため、不穏な気配を察した私は慌てて話題を変えた。

「そ……それよりご公務はよろしかったんですか? セノが随行しているくらいですから、何か大きな事件の捜査中なのでは!」
「事件の捜査ではないわ。とあるアーカーシャモデルの実験について聞き取りを行う予定なの」
「アーカーシャモデルの実験、ですか」
「ああ。お前も知っているだろう、クシャレワー学院の学者と、知論派の賢者候補に挙がっていた学者の事件は。ここのところああいったアーカーシャに関わる事件が連発している」
「知識は富の一部、その責任を理解しないまま恩恵だけを受け続けた人びとは、学問への真摯な姿勢を忘れていってしまった。形は違うけれどその二件もアーカーシャあってこそ起こった事件だと言えるわ。そして今は、アーカーシャがなくなったことで起こる悲劇を心配しているの」
「アーカーシャがなくなったことで……アーカーシャの代替となるものが生み出されつつあり、その危険性を憂慮なさっているのですか?」
「ええ、そのとおりよ。アーカーシャの運用が止まってから困ったのは閲覧権限がない一般市民ではなく学者たち。そして彼らには知恵がある……これまでに肥大化した傲慢さでおそろしいことに手を出してしまう人もいるかもしれない。だから教令院に進行中のプロジェクトについて報告書を提出させたというわけ。本来であればマハマトラに任せたのだけれど……」
「五百年のうちに教令を軽んじる奴らが増えている。クラクサナリデビ様が健在であることを知らしめる機会にしていただくのはどうかと俺が提案したんだ。クラクサナリデビ様から直接お言葉をいただけば改心するだろう」
「そうなると、定期的に教令を学び直す機会を設けたほうがいいかもしれない……賢者様に話をしておくね」

 スメールの長い歴史のなかで近年は学術犯罪が増加傾向にあることは事実だ。原因がセノの言うとおりなのだとすれば教令院の理念教育が不足していることは明らかだった。アザールらを初めとした賢者たちに牛耳られていたのだから、白日の下に晒されていない事件もあるかもしれない。早急に対応すべき案件と言える。
 議論を繰り広げる私とセノを草神様が笑った。彼女は私の頭を撫でて幼子のように扱うと軽やかにベンチを下りる。

「そろそろ時間ね、出発しなくちゃ。またおしゃべりしましょう」
「ぜひ! どうぞお気をつけて」
「ええ。……そうだわ、あなたにもこれをあげる。私の手作りなの、口に合うといいのだけれど。アルハイゼンにも分けてみたらどうかしら」

 どこからともなく葉を模ったナツメヤシキャンディが現れる。ハンカチを出して愛らしい見た目のお菓子を受け取った。セノから「実に素晴らしい味だった」と言わんばかりに力強く頷かれる。食べたのか、すでに。
 お礼を言って二人を見送った。時間が経ちすぎて風味が損なわれてしまってもいけないし、アルハイゼンさんには会うことができれば渡すことにする。
 教令院に戻って彼の執務室に立ち寄ってみると、ちょうど席を外そうとしている後ろ姿が見えた。彼はナツメヤシキャンディをしげしげと眺めると、私に向かって眦を下げる。
 よかったじゃないか、会いたいと話していただろう、と。些細な会話のなかでたった一度だけしか言ったことがないことを覚えてくれていたことに私も笑顔になった。

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