言の葉のあわい

 書記官が友人と飲んでいるのを偶然見かけた。仕事は正確で抜かりなく行う有能な人物だが、物静かで社交的ではない彼との会話は事務的なものになってしまう。だから多弁な彼の姿も、彼に向かって友人たちが言葉を選ばない様子も、すべてが新鮮だった。
 代理賢者を辞任しても待遇はそのままに書記官の地位に戻った彼のことを変わっていると言う者は多くいる。社会情勢の都合とはいえども、大賢者と同等の権力を持った代理賢者就任は異例の大抜擢だった。にもかかわらず彼は数か月でその名誉を手放したのだ。この件については悪い噂もいい噂も様々飛び交っている。それらがとうとう本人の耳に入った瞬間に私は出くわしたようである。

「代理賢者を務めているあいだの給料については見合う働きをしたから妥当と言えるし、代理賢者を辞めたあとも維持されることについては俺の能力を評価されたのが理由だ。もったいないと言って引き留められたが、彼らの価値観には興味がない。俺は好きで書記官をしている」
「セノ……こんな男が、だ。女性たちの憧れの的になっている? 僕の聞き間違いだろう?」
「信じたくない気持ちは分かるが、事実だ。女性職員がこぞってアルハイゼンの執務室に押しかけていると聞いた」
「ハァ?!」
「否定はしない。執務室を空けているから直接的な被害を受けてはいないが、立ち寄るとやたら食事の誘いや相談の手紙が残されている。くだらない内容ばかりで返事を出す必要性を見出せなかったから時間外労働はしないと紙に書いて表に貼り出しておいた」
「もう一度言うがこんな男だぞ?」
「気持ちは分かる、落ち着けカーヴェ」

 同僚のプライベートに立ち入るべきではないと素通りするはずが、聞こえてきた内容のせいでつい身を隠してしまった。彼がたくさんの人にアプローチをされている、だなんて。いったい誰に、何人の女性に?
 書記官は気配に鋭い。呼吸を乱せば盗み聞きしていることがばれてしまう。服を握りしめた拳でばくばくと鳴る心臓を抑えつけて、神経を研ぎ澄ませる。

「時間外労働はしない……か。確認しておくが、何を求められているかは分かっているんだろうな?」
「文字に隠された真実を記録するのが俺の仕事だ。当然、理解できている。だが彼女たちはそうとは限らない、下手に親切にすれば俺の真意が伝わらないと判断したまでだ。非生産的な時間を過ごすつもりはない」
「人の好意を『非生産的』だと? なんてことだ、彼女たちが一日でも早く目を覚ましてくれるよう祈るしかないよ」
「無反応よりマシだと思うが」

 書記官の冷たいあしらいに安堵する。そして、私も例に漏れないのだと落ち込んだ。
 初めは憧れだった。物静かで、理知的な人。間違いを細かく指摘されて参るときもあるけれど、ただ仕事をきちんとしているだけだし信頼が置けるという評価を抱いていた。質問にはきちんと答えてくれるし、根拠も添えてくれる、それに何度助けられたことか。
 決して彼の特別になろうと考えていたわけではない。普段の言動からして彼が恋人の必要性を感じていないことは容易に想像できていた。だから──そう、だから、彼が私の前では少しだけ雰囲気がやわらかくなることや、業務に必要ない話をときおり交えてくれることに、その他大勢に分類されない関係を少なからず構築できているのだと満足するだけにしていた。
 だけど私は彼らのように一緒に酒を飲んだことはないし、執務室を空けていることや所在を彼に教わったこともない。特別でもなんでもない、表に貼りだした紙で交流が切れる彼女たちと同じなのだと思い知る。

「あまりに極端だ。前に、情緒や観点は100%コントロールできるものだろうかと疑問を投げたのは他ならないお前自身だろう。不要と決めつけて、あまつさえ敵を作るような態度を貫くのは当時の言説に反しているんじゃないか? 会って話をしてみれば、お前の中になかった新たな見地に立てることもあるかもしれない」
「興味深い、実は似たようなことに取り組んでる。だが……このケースにおいては役不足と言ってもいいだろう。毎回レポートの締切を守れずに留年している学生の言い訳からでも目を瞠るような新説に至る道が拓かれることがあるとして、君はそれに取り組む気になれるか、セノ。暇をしているか、あるいは追い詰められた学者なら一考の余地はあるだろうが」
「別に責めてはいないよ」
「別に責められているとは捉えてない。とにかく、必要なものは自分で手に入れるから大丈夫だ」
「無駄だセノ、この手合いはアルハイゼンの独壇場だからね」
「ハァ……。いくら恋愛を『非生産的』だと言おうが、それでも好みの傾向くらいはあるだろう」

 呆れた様子でセノが杯を傾けていると、遅れて来たらしい四人目が現れた。

「ごめん、パイモンがお腹を壊したから預けてきたら遅くなっちゃった。みんなで何の話をしてたの?」
「アルハイゼンの好みのタイプを聞いてたのさ」
「セノも一緒に? ちょっと意外だなあ」
「……成り行きだ」
「それで結局のところどうなんだ? あるのか?」
「強いて言うなら……自立した人物が好ましい」
「あれ、今だれかを思い浮かべてた?」

 まだ年若いのに少年は鋭い質問を飛ばす。セノはわずかに目を見開き、もう一人はもっと目を見開きながら「君あんなことを言っておいて意中の人がいるのか!」と叫ぶ。

「交流が苦ではない人物が同僚の女性だっただけだ」
「アルハイゼンの交友関係は広くない、当てはないかセノ」
「俺は教令院に常駐しているわけではないからアルハイゼンが同僚と話しているところはほとんど見たことがない。……待て、自立した……同僚の女性だと?」

 セノの口から飛び出たのは私の名前だった。急展開に脳が処理能力が追いつかないと悲鳴を上げる。期待や恐れが一気に駆け巡って感情がぐちゃぐちゃだ。

「話題に上げたのは彼女で間違いないが……俺の同僚まで調査済みとは恐れ入るよ」
「調査の過程で数回ほど話をしたことがある」
「ほう、ではあのときの情報提供者は彼女だったのか」
「質の悪い冗談だ」
「フッ、たしかに権力に屈して同僚を売るような人物ではない」

 カーヴェ、旅人と呼ばれた二人は私のことを知らないようで、私がどんな人物なのか興味津々な様子だ。彼が垣間見せる私への信頼にじわじわと顔が熱くなっていくのを感じながら、書記官が二人に私のことをどう説明するのかとよりいっそう耳を澄ませる。

「広い視点を持ち、他者の意見に耳を傾けて多角的に思考しようとする勤勉な女性だ。学者にありがちな驕りがほとんど見られない、クラクサナリデビ様が求めるこれからの教令院に必要な人物と言えるだろう。勤務態度も模範的だな」
「うんうん、それで?」
「そうだな、あとは……俺はあの応用力を評価したい。思考することに慣れてるんだろう、一度でも見解を例示すれば類似性のある状況にも対応してくる。接していてもあまりストレスがないから価値観が似ているのかもしれないと考えたことはあるが未検証だ。何にせよ、仕事がしやすくて非常に助かってるよ。とくに代理賢者だったときは彼女がいてくれたから捗った業務がいくつもある。……まだ必要か?」
「うーん……アルハイゼンってやっぱり……」
「ああ……頭が痛くなってきた」
「職業能力を恋愛話に持ち出すなら君は絶対に家庭を築くのに向いてない」
「職務に従事する姿に好感を覚える人間がいないのなら職場恋愛で結婚に至る夫婦はこれまでいなかったことになるが。君は自分の発言に責任を持てることにだけ首を突っ込むべきだ」
「おいおい……君は自分が場の空気を読んでいるとでも言うつもりか? 今の発言でだれも君の味方なんてしないぞ」

 私を好きなのかどうか、私含む彼らが注目していたポイントはそこだ。それなのに書記官が語ったのはただの評価だった。……いや、仕事の評価が好意に繋がることもあるだろうけど、言葉の温度があまりにも平坦だったせいでとてもそんな可能性など見出せたものではない。
 まあ、書記官の口から好印象を聞くことができたのは私にとっていいことだったのだろう。半眼になりながらも自分を励ましていると、書記官がため息交じりに続ける。

「どうして彼女のことをそんなに気にする。まさかとは思うが……何か吹き込むつもりじゃないだろうな。だとすれば君たちの企みは徒労に終わる、恋愛面において彼女は理想主義だから君たちが騒ぎ立てたところでどうこうなりはしない」

 瞬間、私の世界が止まった。書記官の否定的な物言い、とりわけ私の根本的な人間性を拒絶するかのような響きを含んだ言葉に、頭が真っ白になった。彼が何を言いたいのか良くわからない、だけど私にとって良くないことを言われていることだけはわかるのだ。
 セノが不服そうに書記官を止める。だけど、彼は弁論を始めるとだれにも止められないことで知られる人だった。

「あれさえなければ良かったんだが」



 どうやって家に帰ったかわからないし枕を濡らして眠ったくせに、翌朝はすっきりしていた。引きずっていないとまでは言わないが仕事を休むまではなく、私はいたって普通に出勤した。職場では書記官とも顔を合わせたけれど普通に会話できていたように思う。
 昼休憩中にセノを見かけたので有無を言わさず近くの店に引きずって行くと、不思議なことにセノは文句も言わずされるがままついて来た。注文をとった店員が離れていくのを見届けたセノがようやく口を開く。

「困っていることがあるなら手を貸す」
「うん、答えが出ない疑問に出会ってしまって悩んでるんだけど……私って理想主義に見える?」

 盗み聞きした日の会話を持ち出せば、すぐ合点がいった様子でセノは顔を強張らせた。

「……やはりお前だったか」
「あ……気づいてたんだね。もしかすると、とは考えてたけど」
「息を潜めるべき奴ほど、周囲の気配を探ろうとして自分の居場所を報せてしまうことがある。アルハイゼンは気づいていなかったようだが、数多の学術犯罪者を追ってきた俺には造作もないことだ。俺たちの会話に対する息の詰め方や気の緩むポイントからしてお前だろうと判断した」
「じゃあ私のために探りを入れてくれてたんだね」
「話の流れでそうなっただけだ」

 セノは恋愛話を振ったり首を突っ込むようなタイプじゃないのに、積極的に会話に参加していたからおかしいと思ったのだ。同じ学派に所属したことをきっかけに縁をもって以来、違う職位に就いても親しくしている友人の気遣いにわずかながら緊張が解ける。
 先日の会話は私にとって最悪の結果をもたらしてしまった。ただ良かれと思ってのことだったとわかっているから、互いに苦い顔をするしかない。

「俺にはアルハイゼンが何を意図していたのか理解できなかった。奴が恋愛話をする姿を想像することすら難しい」
「そう、そうなの。私も書記官とそんな話をした記憶がなくて……。あの日はすごく落ち込んだんだけど、冷静になってみると何を言われているのかわからなくてずっと考えてたわけ」
「なるほど、俺たちは思わぬ形で難題を引き当ててしまったようだ」

 二人で目の前の疑問に唸る。

「同窓の立場で言わせてもらうがお前は理性的な人間だ、たとえ気持ちが浮ついても思考が暴走するとは思えない。……お前の恋愛観を聞いたことはないが、理想主義と言われるほどの願望があるのか?」
「彼に片思いをしてるのに? ありえない、彼相手にロマンチックな状況を夢見ることができるんだったら、私の頭に詰まってるのは分量を間違えて形を保つのがやっとのパティサラプリンよ」
「たしかにな」
「理想主義、理想主義……わからない、本当に。参考までに聞くけどセノはどう? もし運命の人に出会うとしたら情熱的な出会いがしたいか、それとも日常の延長で出会いたいか」
「…………ノーコメントだ」

 歯切れの悪いセノを見ながら引き続き頭を捻っていると、セノは心底参ったように「俺たちの手に負える案件じゃなさそうだ」とつぶやいた。

「ところで……お前の気持ちを否定する気はないが、いったいアルハイゼンのどこを好きになったんだ? 優秀な男であることは間違いないが自分でも言っていただろう、あいつ相手に理想を語るつもりはないと」
「ああまあ、あんなにハッキリと否定されれば目が覚めたような心地もあるけれどね……うん、やっぱり誠実なところかな」
「アルハイゼンが……? ものは言いようだな」
「真面目で、だれに対しても平等で、責任感が強いでしょう」
「間違っているとは思わないが、それらは社交性があって初めて他者に好印象を抱かせるものだ。あいつは……極端に客観的な立場を貫こうとする。一線を引かれている気にならないのか」

 セノがあまりに険しい顔をするので思わず声を上げて笑った。気難しいセノですら書記官の奔放さには手を焼いているらしい。

「他者を顧みないとか、自分本位だとか、たしかによく聞くよ。でも利己的ではない……少なくとも、他者を搾取するところを私は見たことがない。学術のために何でも利用する人間を私はスメールでたくさん見てきたから……彼は得難い人物の一人だと思うの」
「……そういうところが……いや、」

 私の言葉にセノが何かをつぶやいたかと思うと、すぐさま黙り込んでしまった。何か言ったかと聞き返しても首を横に振るだけで答えてはくれない。代わりに静かな溜息をひとつだけ吐いてみせた。

「いっそのことアルハイゼンに直接確認を取ってみるのはどうだ。自殺行為のようなものだが、あいつの結論があまりに突飛でこのままでは時間を浪費するだけになる気がする。だったら突破口を探しに行くのも悪い手段ではないはずだ。現にアルハイゼンはこの謎の一点以外では概ね好印象を抱いているようだった、勝機はあると俺は見ている」
「答えだけ与えられたって意味がないでしょう」
「指令の奴隷になるという意味か?」
「それもだけど……同じ答えに至るとしても、過程で得られるものは人それぞれだということ。能力、経験、想像力……私たちはあらゆるものを使って物事を紐解いていく。正誤を問わず、思考の途中で得た要素は一人ひとり違うはず。十人中、十人が一字も間違えず同じ論証をするわけじゃないから。だから私は私の思考力で彼が言った結論に辿り着きたい、きっとそれには意味があるはずなの」
「……あまり思いつめるな。また倒れられでもしたら肝が冷える」
「あはは……」

 つい没頭しすぎて『帰って』こられなくなったときのことを思い出したのか、苦々しく口にしたセノに返す言葉がない。
 注文した料理がやってきたので食事中は話題を変えた。五百年ものあいだ不当に監禁されていた草神様は、知恵の神にふさわしい慈悲と慧眼の持ち主であるらしい。セノは先の一件で縁ができたらしく、シティにいるあいだは顔を合わせることも多いのだとか。
 教令院にも足を運んでいらっしゃるのは知っているけれど、残念ながら今のところ機会に恵まれていない。いつかはお姿を拝見したいものだなあと考えながらセノの話を聞いていた。



 資料の閲覧申請や、議事録の複製などといった用事がなければこれといって書記官と関わる機会は少ない。一時期は彼が代理賢者だったから許可を得るために教令院の最上階を訪ねていたけれど、時機を見て彼がその役を下りたあとは元の頻度に戻っていた。それは、彼と距離を置こうとするのにちょうど良かったのだろう。
 望んで書記官と関わろうとする者は少ないから、彼の執務室に書類を届けに行くのは私の役割だった。だけど今はそれとなく話題を避け、同じ職位のだれかに譲っている。緊張した面持ちで書記官の執務室に向かう彼らに胸は痛まない。今の私はわざわざ自分で抱え込んだ傷の回復で忙しいのだ。
 定時で仕事を終え、職場をあとにする。聖樹を囲む長い坂を下りていると、バクラヴァを抱えて歩く素論派の学生とすれ違った。後輩たちは一週間後に試験を控えているから追い込みをするためのエネルギー源を調達してきたのだろう。辺りに漂う甘い香りに私も刺激されて、そちらへ立ち寄ることにした。
 熱々のバクラヴァがシロップの香りを蒸気に乗せて運ぶ。思わず笑顔を零しながらナイフを刺し入れた。一口サイズを咀嚼して、シティの夕焼けを眺める。白と緑を基調にした清潔感のある景色に、夕焼けが映える。
 ずっと考えてみたけれど、私の思考では書記官が私に下した評価の理由が明らかにならなかった。セノが言うとおり本人に尋ねてみるのはいいかもしれない。この疑問には答えがあるのだから、書記官の客観的な評価を今後に生かすことができるかもしれなかった。

「同席しても構わないか?」

 そんなことを考えていれば、つい先程まで思い浮かべていた人物の声がしてわかりやすく肩を跳ねさせてしまった。

「アルハイゼン書記官? ……お久しぶりです」
「うん、久しぶり。見たところ待ち合わせはなさそうだが」
「ええどうぞ」

 彼とカフェで顔を合わせたことも、同席を求められたことも意外で、半ば放心しつつ頷く。プスパカフェは七聖召喚をする人で賑わっているしこの時間帯は仕事帰りの同僚も多い。書記官を探すとき、彼の所在を掴むことはほぼ不可能だが、それでもカフェや大衆食堂は除外されるというのが職員たちが必ず口にする文言だった。
 まあ絶対ということはないだろう、人生で一度もカフェを利用したことがない人間の方が少ない。彼はそうだったかもしれないけれど、今日がその一日目かもしれない。ショックのあまり無意味なことに思考を割いていると「最近あまり顔を合わせなかったが元気にしていたか」と質問が飛んでくる。手に持っている本はまだ読まないようだ。

「とくに何事もなく過ごしていました」
「そうか、君のところから別の人間が来るようになったから多忙なのだと思っていた。数日前はこちらから君を訪ねたが見当たらないから」
「タイミングが合わなかっただけでしょう」
「……言われてみると、俺もよく君に居所が掴めないと嘆かれた。立場が逆転したな」

 ふっと口元を弛める書記官がまぶしい。この人の、こういうささやかなところも好きだと実感する。

「君、ここをよく利用するのか」
「仕事帰りに持ち帰りを頼むくらいで頻度は多くありませんね、直帰することが多いので。猫を飼っているんです、あまり家を空けたくなくて」
「ほう、猫を」
「お好きですか?」
「いや……あまり。猫は本をダメにする」
「そういう子もいますね。うちの子は隙間があると入る程度です。だめだと言えばすぐ出ますし、本に悪戯はしないので助かってます」
「賢い子だ」

 愛猫を褒められて悪い気はしない。えへへ、といつもよりだらしない声が出てしまい、はっと口を手で覆った。恥ずかしさからバクラヴァを切り分ける。深く追求される前に話を戻した。

「書記官はよくここへ来るんですか?」
「数回程度だ、どれもカードゲームに付き合わされたりしただけだが。騒々しい場所は好きじゃない」
「だったら今日も?」
「待ち合わせはない。だが予感があった、漠然としたものではあったが……心惹かれるといった類の。店に入ると君がいた」
「予感……ですか。貴方もそのような不明瞭な感覚に身を任せることがあるんですね」
「意外か? 俺は、君が思っている以上に目に見えない物事も重視しているよ。可能性は視覚化されていないこともある」
「では予感の正体はわかりましたか?」
「……」

 書記官はイスに体を預けて溜息を吐いた。口をきつく結んでこちらを見下ろす姿勢は不満を訴えているように見える。彼の隠れた片目からも非難が注がれている気がして、何か発言を間違えてしまっただろうかと焦った。

「君が思考を手放すなどめずらしい。俺の理解も十全ではなかったからおあいこだろうが」
「いったい何の話ですか?」
「気にするな、本題じゃない」

 どうやら彼は私に怒っているわけではないらしい。肩を竦める書記官の不可解なひとり言に首を捻っていると、彼が頼んだコーヒーがテーブルに届けられた。
 書記官はまだ読書を始める予定はないらしく、コーヒーを一口飲みながら何かを思案していた。私も私で、バクラヴァを食べて沈黙をやり過ごす。
 なんとも不思議な状況だ。理由は何であれ書記官と二人で外食しているだなんて。彼が口走ったことも気にかかる。まるで、運命的な出会いでも予見したかのようだ。先日私に理想主義だと言ったのが嘘のような振る舞いだ。
 可能性は視覚化されていない、もっともである。研究においても仕事においても『変数』は存在していて、それに振り回されるのが人生というものだ。素論派はフィールドワークを避けられず、野外では魔物に遭遇することもしばしばある。タイミングは予期せぬ『変数』だが、事象そのものは予想できる『変数』だ。だからあらかじめ手を打っておく、これもまた目に見えない物事に含まれる。
 だとすれば、彼が否定的な物言いで理想を評価したのは、存在の可否を問う思惑はなく単に個人的な好き嫌いによるものだったのかもしれない。なるほどそう考えれば、私の意図せぬ言動は書記官の地雷を踏み抜いていたのだ。最悪の答えを得てしまった。
 はあ、と溜息が零れてしまう。それが聞こえたのか聞こえなかったのか、書記官は沈黙を破って会話を切り出した。

「大マハマトラのセノを知ってるか。先日、彼を交えて食事をしたんだが」

 今度はいったい何だろう。体を強張らせながら、まるで急な話題に対応できなかったかのように「マハマトラ?」ととぼけてみせた。ただ書記官は良くも悪くも自己完結しているので私の戸惑いなど気にせず話を進める。

「とある話題で彼の発言に違和感を覚えた。翌日、教令院で調べ物をしてみると理由がわかった。君はスパンタマッド学院の卒業生だ、在学時期がセノと被る」
「もちろん知っています。彼は当時から有名でした」
「だが君たちはそれだけの関係に留まらない。それなのに彼は君のことを知らないかのように振舞って、俺に探りを入れた。妙だろう? そして翌日から君は姿を現さなくなった」

 じわじわと縊られているのかと錯覚した。真実を見通す瞳を前に逃げることはできず、視線を交えたまま身動きを取れない。あんなに騒がしかった世界が、静かになった。まるで泣いたあの日のように。

「何が起こっているのか大体は予想をつけているが、一つだけ聞きたい。俺にはもう挽回の余地がないのか?」
「──、ん?」
「セノに話を聞いたんだろう、俺が君に好意を寄せていると。伏せたつもりだったが嗅覚の鋭い彼なら気づいても不思議ではない。そして君は俺を避けるようになった。価値観の違いを許容できなかったか、誤解を与えたか──いずれにせよ君が二度と関わり合いになりたくないと思ったのなら俺に止める権利はないが、そうならそうと理由を知りたい」
「ええと、待ってください。とにかく、待ってください、一旦。混乱しているので」

 彼が口にした言葉が想像をはるかに超えていて、すべて右から左に流れてしまった。勝手に話を進めていく彼をなんとか止める。口を尖らせながらも「うん、わかった。君の理解レベルに合わせよう」と書記官は言う。今のは頭が悪いという侮辱ではなく、順を追って説明しようという意味合いなのだと変換する経験値があるから許せる発言である。

「まず、たしかにセノに話を聞きました。というか……すみません、あの日は偶然居合わせて、書記官の話を聞いていました」
「……そうだったのか。気づかなかったよ」
「理想主義だと言われてショックを受けたのもたしかです。ただ、よくよく考えてみると正当な評価ではないと感じて、ずっと貴方の意図を考えていたんです。答えを出すまでは貴方と関わらないようにしました」
「では思考に時間を割いていただけか。君の判断を否定はしないが、直接聞いてくれた方が助かった」
「ちょうど、そうするべきかもしれないと思っていたところです。……でも先に確認させてください、書記官は……私のことが好きなんですか?」
「そうだ。一人の男として、君をパートナーに選びたいという明確な意思がある」

 恥ずかしげもなく宣言する書記官にどんな顔をすればいいのかわからなかった。両思いだ、と喜ぶ精神的余裕はない。平静でなかったのは事実だけど私が誤解したわけじゃない。かといって彼の発言の問題だと言うには違う、彼の思惑が私が思いもよらない形であるかのような、違和感がある。
 幸いなことに彼は私に説明する気があるようだ。どこまで根気よく詳細を語ってくれるかはわからないが、ひとまず乗っかることにした。

「私の理想主義なところが受け入れがたいのでは……?」
「だったら何なんだ。『思想』は『思考』の結果にすぎない。君が思考によって生み出す数多の結論のうちのほんの一例だと言える。それにたった一点で人間の価値が決まり、そうして不要と判断された個体が排斥されるのだとしたら、社会はもっと小さなコミュニティでしか成立しえない」
「理解します。でも書記官はそれさえなければと言ったじゃないですか」
「ああ、言った。それさえなければ話は単純だったからな」

 話は単純だった、とは。眉を顰めると書記官は「ふむ……」と唸る。会話がままならないと言いたげだ。

「すでに知り合っている以上、俺達は運命的な出会いを迎えることはできない。たったそれだけの理由で君の恋人候補から外されるのは我慢ならないし、たとえマイナス地点からスタートを切ることになっても諦めるつもりがないから、そのぶん苦労しているという意味だ」
「ん? 運命的な出会い……? すみません、要領を得ないんですが、いったい何の話ですか」
「君の好きな理想の話だが。覚えていないとは言わないだろうな」
「残念ながら……」
「……同僚と話をしていただろう。グランドバザールでの視察中、公演されていた劇について。君はああいった出会いがあればと言っていた」
「…………ああ!」

 ようやく合点がいく。同僚と職務の一環で院外に出かけた際、グランドバザールの舞台では劇が上演中だった。店主と話をしている間も劇は進行していて、音楽や登場人物たちのセリフを聞き流しながら仕事を進める不思議な感覚を楽しんでいた覚えがある。
 集中して見ていたわけではないから詳細を把握していたわけではない。ロマンチックな内容だということはわかった、それだけだ。仕事じゃなければしっかり観れたのにと嘆く同僚に同意している流れで理想主義と思われるようなことを言った気がする。あの場に書記官がいたとは知らなかった。

「ただの感想ですよ」
「あくまで君はそう認識していると」
「納得していただけないみたいですが……」
「まあいい、話を戻そう」
「ええと、では……私が書記官が言うところの理想主義だとして、それでも結局は目を瞑れるということでしょうか」
「正しく言い換えれば、障害だと思っていた。だが君はあくまで理想主義ではないため出会いや恋人に求める条件に運命的な要素は含まないと主張している。なら俺の懸念は無駄だったことになり、今後は一切考慮しなくていいことになるだろう。現状その他の細々としたことは俺に影響がない」
「はは……そうですか……」
「どうした、疲れた顔をしているが」
「疲れているんです……」

 かつてないほどの情報量と会話の応酬に頭痛がしはじめる。

「正直セノたちに話していた様子からは私に対する好意がまったく感じられなかったんですが」
「わざわざ彼らに俺の恋愛話を聞かせる必要はないだろう、協力を期待するわけじゃないんだ。とくに金髪のスメール人は情熱を注げば注ぐほど空回りするタイプの男だから望まない展開になることが分かりきっている。他人に未来を委ねる気はない」
「……もしかして私のことものすごく好きなんですか?」
「これだけアピールしてもまだ伝わらないのか」

 伝わってはいるけど、セールスが下手なんですよ書記官。思わずツッコミを入れそうになるけれど言えばどんなことになるか分からないので言葉を飲み込む。
 彼の言い分から判断すると、今日彼は運命的な出会いを演出するためにわざわざここへ来たのだ。私に好かれるために、慣れないきっかけ作りに勤しんだ。情報を整理しているはずなのに余計に混乱を極めていく気がするのは、いつだって自分のことを優先する書記官のらしくない姿を見せられているからだろう。
 彼はきっとこの場で返事することを要求するだろう。だけど一度眠って、頭をすっきりさせてから答えを出したかった。

「その、交際については返事を持ち帰ってもいいですか」
「何故?」
「な、何故?」
「君だって俺が好きだろう。なら返事を躊躇う理由はないと思うが」
「りゆう」
「……急に知能を下げるな。何が言いたい」
「わっわたしのきもち、ごぞんじで」
「いや、かまをかけた。俺は職務以外の君を知らないから君が俺に見せる態度が他の男と違うかなど比較しようもない。だが反応からして十分見込みはあると感じた。……君も俺を好きなんだな、過程はどうあれ今日の行動が実を結んだらしい。両思いで嬉しいよ」

 帰りたい。帰って、枕を濡らして眠りたい。切実にそう願った。

「冷静な判断を下せそうにありません。書記官もそれは望みませんよね、帰らせてください」
「できればいい返事を聞きたいから冷静にならなくてもいいが」
「帰らせてください」

 とうとう半泣きになってしまえば、さすがに困惑した様子で書記官は「ああ、お疲れ様」と許可をくれた。お疲れ様でしたと叫びながら、プスパカフェを飛び出す。荒れ狂う心を抱えて私はシティを駆け抜けたのだった。

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