理性の怪物

 執務室をノックする音がして顔を上げると、ここ数日あまり俺の代わりに教令院内を駆け回っている人物が扉の内側で「アルハイゼン、ちょっと」と呼びかけてきた。
 入室したあとのノックは意味を成さないと儀礼的なだけの行為を咎めようとして、やめる。おそらく集中するあまり俺がしばらく彼女に応答しなかったせいだろう。予測は間違っておらず、彼女は呆れた様子で「相変わらず凄まじい集中力だね。貴方の処理能力の高さは今の教令院にとって救いだけど」と苦笑した。

「頼んでいた件はどうだった?」
「さっき終わらせてきたところ。ハァ……人使いが荒いんだから。早く賢者を選出してほしいって、六大学派で賢者の補佐をしていた教令官たちはみんな思ってるよ。やっぱりアルハイゼンが大賢者になるのが一番話が早いんじゃない?」
「君までその話をするのか……言っただろう、興味がない。俺が行動したのは現状を維持するためなのだから大賢者になるのは本末転倒だ」
「ハイハイ。で、その書記が大好きなリーダーさんに確認したいことがあるんだけど」

 現在、四人もの賢者が免職となった煽りを受けている教令官が数名いる。賢者の腹心と呼ばれる地位の人間、その部下にあたる職に就く人たちだ。創神計画のことを知らず、賢者たちの愚かな企みに巻き込まれた被害者だとして職を追われなかった彼らが、現在の教令院で各学派の最も高い地位にいる。
 彼女もその一人だ。とくにアザールの覚えが良かった彼女は六大学派に顔が利き、院内の事情に通じている。一方で、改革に一枚噛んだことで担ぎ上げられているがただの書記官に過ぎない俺は、教令院が扱う書類を処理することはできても学者連中を動かすには役不足だった。適材適所という言葉もあるように彼女を補佐に抜擢して仕事をしているうちに、自然とすべての案件に彼女が関わるようになった。

「何か問題が発生したのか」
「問題……問題ね。まあ、そうとも言えるかな。ナフィス様が昨日の議事録についてご指摘なさったの。素論の代表が持ってきた話、彼本人の発言と内容が異なってるって」
「ほう、だとしたら一大事だな。教令院をできる限り正常に機能させるつもりで書類をこなしていたがかえって仕事に支障を出したとは。ナフィス様は気性の荒い御方だ、さぞお怒りだっただろう」
「褒めていらっしゃったのよ、アルハイゼンを書記官にしておくのはもったいないとね。素論代表は優秀さを買われて代表に据えられたけど、気が弱いのか緊張で言いたいことの五割も上手く説明できてなかった。それを補完して、明確にしてまとめたことを流石だと仰ってた」
「だろうな」
「……今、わかってて白を切ったわね?」

 随分と含みのある言い方をするので少しばかり意地悪をすれば、彼女はわかりやすく口を尖らせた。クッと喉を鳴らすと諦めたように眉間に込めた力を抜く彼女に「それで、君にとって何が問題なんだ?」と尋ねる。彼女はデスクに寄りかかると大仰に手を振って降参の態度を取った。

「アルハイゼンが自分なりに素論派の彼の意見をまとめたのか確認したかったのは本当。あの紙切れが六大学院の今後を左右するんだから、一応ね。問題は……貴方が今までもそうしてきたんだろうってこと、アルハイゼン書記官。ナフィス様の反応を見てると初めてじゃなさそうだと感じたから」
「よく気づいたな」
「何年の付き合いになると思ってるの? 学院にいた頃から貴方のことはよく見てきたし……同期なんだから細かな癖まで知ってる」

 学者らしい尊大な物言いだ。だが不快に感じることはなく口元に笑みが浮かぶ。彼女がなぜそう考えるに至ったのか、根拠を聞くべく書類から手を離した。数時間ほど根を詰めていたことを考えるとそろそろ休息をとってもいい頃合いだった。

「かつて教令院はスメールを管理する組織だった。ゆえにすべての未来が仮定され、論証され、決定される。ここにはすべての知恵が集まる──書記官という立場にいればおのずと教令院が作成する文書のすべてを編纂する機会を得られるから、貴方の知識欲は満たされるでしょうね。そこでさらに自らの推論を織り込んで、検証する……そうやって小さな実験を楽しんでいたんでしょう。どう?」
「面白い表現だ。君の言うとおり、これまで俺が関わった文書には多かれ少なかれ俺なりに『訂正』を加えてある」
「よくもまあ堂々と……後ろめたさは欠片もないってことね」
「言っておくが、君が邪推するような事実はない。議論の記録が、実際に行われた発言と整合性が取れた状態であることは絶対条件だ。だが同じくらい記録とは趣旨に対して的確な表現でなされるべきであるとも俺は考えている。学者にも優劣はあり、秀でているからといって彼らの才が言説にも及ぶとは限らない。書記官として正しい仕事をしただけさ」
「一理あるけど、貴方の裁量で勝手に線引きすることに問題があるとは考えられない?」
「書記官としての仕事に、俺の価値判断への是正は含まれない。君の意見に基づいて考えるのであれば……むしろ含まれていてはならない、とすら言えるだろう」
「このことでマハマトラの裁定を受ける立場になったとしても構わない、と?」
「適正な場を設けて審判がなされるのであれば。教令院で働く官吏として規則を重んじる彼らを無視するわけにはいかないからな、これでも俺は規則の順守に重きを置く方だ」

 まあ、仮にそんなことになったとして、俺が納得する理由がなければ状況を見極める機会を得るため行動を起こすことになるだろうが。セノと対峙した過去を思い出しながら考える。口に出せばまた小言が飛んでくるに違いないため本心は伏せた。
 彼女が問題視せずとも問題はない、なんなら問題はすでに起こったとも言える。失脚した賢者たちは神に縋るあまり愚かな選択をしたが馬鹿ではない。生論派の賢者同様、俺が関与した書類の異質な点には彼女のように気づいていたうえで良しとしていたのだ。
 偽りの事実を混ぜたわけではないのだから問題視されないのは当然のこと。そして、そういった彼女が言うところの『身勝手さ』が俺の評価となり、先の件で危険視されたのも当然のことだ。結果、俺は職を失うこともなく生き方を変えることもなく教令院でいつもと変わらない日々を送っているのだから、彼女の懸念が二度にわたって俺を脅かすことはないと言えるだろう。
 俺と彼女の議論は大抵彼女が言葉を引っ込めて終わる。今回も例外なく、物言いたげな表情しながらも諦めたように溜息を吐いていた。カーヴェもこれくらい引き際が良ければいいんだが、と内心で零して、とある結論に至った。

「なんだ、俺を心配しているのか」
「ちが……、」
「君に心配されるほどヤワじゃない。俺は大抵のことなら上手くやれる」
「……あっそ!」

 指摘された彼女が狼狽える。珍しい反応に、安心させようとして用意した言葉がつい飾り気のないものとなってしまった。
 まずいと思ったときにはもう遅く、彼女の眉が吊り上がる。配慮のない物言いをすることについては何度も指摘を受けたから自覚している。自覚したうえで、心証のためだけに虚飾する必要性を感じなくてそのままにしているわけだが、彼女に対しては幾分か気を遣っていた。普段の癖はこういうときに出るものなのかと小さな学びを得る。
 どうやって彼女を宥めようか考えを巡らせていると、不満を抑えきれなかったように彼女が口を開いた。

「自信家でありながら黙って腕を動かすだけの記録係に甘んじているなんて、傲慢と謙虚は共存できるのね、驚いた」
「事実は事実だ。君が俺をどう評価しているのか気になるよ」
「協調性がないのに帰属意識が高い変人、よ。自他限らず『間違い』を『正す』のを躊躇しないし、とりわけ好奇心が強くて気になったことを追求する姿勢は時と場所を選ばない、権力にも金にも頓着しないくせに、教令院っていう動きが制限される組織にわざわざ身を置く変人」
「へえ、俺の認識以上に君は俺への関心が高かったんだな、嬉しい誤算だ。君に補佐を頼んだのは間違いなかった」
「雑用係に過分なお言葉をいただき痛み入ります」

 完全にへそを曲げたのか、刺々しい言葉を丁寧な口調に包んで寄越した彼女と視線が合わなくなった。そんなつもりで言ったわけじゃないんだが、と零せばそれがまた癪に障ったようで彼女に噛みつかれる。

「じゃあどうして私には声をかけなかったわけ?」
「ジュニャーナガルバの日のことか? 君には仕事があっただろう」
「私は大賢者に疑われていなかった、計画に協力できたはずよ」
「君のような重要なポジションの人間を引き抜いてどうなる。あの日の必要十分条件は普段通り教令院が機能することだ。アーカーシャへの記録に欠員が出ては不味い、君がこちら側にいないこともまた重要な要素だった」

 いきなり何の話をするのかと思えば、どうやら何も知らされないままスメールの大事を迎えたことを気にしていたらしい。
 能力を認めていないも同じだと言いたいのだろうがそうではないのだと説明する。俺の言いたいことは理解できても納得はしていないのか、物言いたげに口を動かしていた。
 それならばもう一つの理由を教えようか。そんな考えが過ぎって、すぐさま安易な判断だと頭を振る。彼女は結論を出すことに慎重な学者だ、答えだけを与えられて納得するはずがない。答え合わせをしたがる性格なのだから誘導してやればいい。

「君を巻き込んで、賢者たちが君に危害を加えたらどうする。俺はそんなことを望まない」
「なに、急に変なこと言って。アルハイゼンって義理や人情には興味ないんじゃないの?」
「義理と人情じゃなく、欲の話だと言っていい。知りたい、解き明かしたい……それらと同等のものだ」
「知識欲と同等の欲が理由で……私を気遣った……って、意味がわからないんだけど……?」

 目の前に出現した謎に気を取られて、彼女の怒りはすっかり霧散した様子だ。してやったという満足感で口元を弛ませながら「俺たちの関係性について、定義を見直すところから始めてみたらどうだ?」と横やりを入れる。彼女は真剣な表情で頷いた。
 何年も『友人』の枠組みを超えずにいたから、彼女が答えを出すのに時間を要しても俺にとっては誤差のうちだ。それでも、優先順位をつけていただけとはいえ彼女とこうして向き合ってみると気分がいい。充実した休憩時間になりそうだと、イスに背中を預けて唸っている彼女を見守ることにした。

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