来世できっと

 床から起き上がるのはもちろん、もはや呼吸をすることさえひどい労力を消費すると言わんばかりの死にかけの体。掠れて聞き取ることも難しい声で、娘は自分の手を握る人物に対してうわごとのように繰り返した。
「もし、魂がめぐって……もういちどこの世に……生まれることが、できるなら……」
 恋をしてみたい。
 娘の言葉を聞いて隣で涙ぐんでいた男がとうとう嗚咽する。遺言だと直感したのだろう。育てた父への言葉でなかったからか、娘を失う喪失感からか。様々な感情がすべて男の涙に込められている。
 すでに綾人が一方的に握っているだけと化していた娘の指先から温度が引いていく。受け入れがたい現実に綾人はいっそう集中力を高めた。胸の上で抱かせた水元素の刀身が冴えわたり輝きを増す。
 無駄な抵抗だとわかっていた。娘が幼い頃から病を患っていたと早くに知っていればまだ救いようもあったのだろうか、とありもしない可能性を悔やむことすら無駄なことだと、綾人はずっとわかっていた。
 己の神の目が治療効果を高める水を宿していることに希望を見出さないことの方が難しい。薬を飲むとき、治療を受けるときは必ず娘に同行して神の目を使用してきた。これまでの努力を、本来家族のみで別れを済ませるべき場面に立ち入ってまで延命さえようとする無力をどうしようもない現実が嘲笑う。
 もう娘の意識はない。だが心の臓が動きを止めていないうちは死んではいないと馬鹿らしい理論で綾人は力を使い続けた。社奉行様、という父親の制止も耳に入らないほどに。
 血の巡りがなくなって、もう力を使う理由すらなくなった綾人はようやく水の刀身を砕き消した。お悔み申し上げますと口にした声が震えていない自信が綾人にはなかった。深く腰を折る父親に礼を返して家をあとにする。
「もう一度貴方に出会うことができるなら、次こそ私に恋をして欲しいものです」
 だれに手を握られているのか、それすらも分かっていなかった想い人に対して、綾人は小さな後悔を零した。



 外回りが終わって職場へ戻る前に有名なコーヒーチェーン店の新作を求めて綾人は店のドアを潜った。注文をするときの気分でカスタムをして完成を待つ。チェーン店では難しいのかもしれないが、せっかくこれほど多様なカスタムをすることができるのだから、たまにラインナップを変えてみれば面白いだろうにと綾人はいつも残念な気持ちになった。
 時間帯が良かったのだろうか、店内はさほど混んでいるという様子もなく店員は綾人が注文した商品を滞りなく準備していった。初めて入った店舗だったが職場からそう離れていない。静かに過ごしたいときや仕事で利用するのにいいかもしれないと考えながら待っているうちに店員から声をかけられる。もう完成したらしい。
 受け取った商品には愛らしい犬の絵がマジックで描かれていた。絵を見て微笑ましくなった綾人はふとその犬の顔に違和感を覚える。ただの犬の絵にしては頭に妙なものを巻いている。ねじりはちまきにしか見えないそれは今世ではなく前世でなじみ深いものだった。
 太郎丸だ、と思った途端に綾人は店員の顔を見た。最期を看取った、想い人がそこにいた。
「この犬はどうして手ぬぐいをねじりはちまきにしているんですか?」
「えっ、これねじりはちまきって言うんですか?」
 どうやら自分が描いたものすらよくわかっていない様子の店員は「貴方を見たときにこれが頭に浮かんできて」と困ったように笑う。すみませんと謝罪するので綾人は首を横に振った。店員は、木漏茶屋に仕入れを行っていた業者の娘だった。太郎丸をよく可愛がっていたことを綾人は知っている。
「なつかしいですね」
 ただそれだけを口にした。店員は不思議そうに綾人の言葉に首を傾げていた。
 今世でも綾人は娘に恋をするだろう。娘の夢が、自分との幸福の上にあればいいのだが。綾人は口元に笑みを浮かべると、ささやかな願いを込めてストローに口をつけた。

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