人を呪わば穴二つ

 ぞわりと不快感が押し寄せた。意識が浮上し、次第と肥大化していく不快感の正体が吐き気であることをタルタリヤは悟る。最後の食事はとうに消化しきっていて胃の中には何もない。胃液だけがせり上がり、体を内側から圧し潰すような感覚に眉をしかめる。
 瞼を持ち上げると自分の腿が見えた。器用にも眠ったままイスに座っていたらしいと気づき、タルタリヤは立ち上がろうとしたが思うように動かない。上半身が背もたれに縛り付けられているのだ。そこでようやくタルタリヤは頭を動かし始めた。
 馬鹿だな、こんな縄で縛ったところで意味がないのに。手のひらに水元素を掻き集め、凝縮して生成した剣でイスごと縄を解こうとしたが、間近で聞こえた物音と見覚えのある服を見て動きを止めた。
「ようやくお目覚めかい『公子』。起き抜けで悪いがこれを見てくれるか」
 混沌の最中にいることをタルタリヤはすでにわかっていた。言われた通り素直に頭を持ち上げると予想通りの人物がいる。タルタリヤと同じくイスに縛られて気を失っている恋人、そして昔殺した男の母親だった。
 臓腑が刺されたような痛みがタルタリヤを襲う。グ、と呻くと再び喉に何かがせり上がる感覚を覚えた。意識の大半を奪っていく強烈な感覚にいっそのこと吐いてしまった方が賢明だ。白い衣装が汚れるのも気にせず咳込むとタルタリヤの膝が赤い血で汚れる。
「要求は?」
「お前の死だ」
 大方予想はついていたから驚きはしない。だが眠っている間に殺さなかったのには理由があるはずだ。冷静さを失わないタルタリヤは置かれている状況を把握するために静かに周囲を探る。外に見張りの気配はなく、ここに女が一人だけ。女は恰幅がいい方だが動けるようになれば脱出はさほど困難ではない。
 強いと自負するほどの戦士であるタルタリヤの上手を取るのは容易ではない。食事のときにでも催眠剤が混入された飲み物を口にしてしまったのだろう。外傷がないにもかかわらず血を吐くとなれば内臓に損傷を与える薬が投与された可能性も高い。女に神の目を持つ協力者がいない限り凡人にできるのはせいぜいその程度だ。
 戦場で命のやりとりをした経験から生きて脱出する望みは十分以上にあるとタルタリヤは見込む。必要なのは時間だ。我が身だけならば五体に鞭打てばどうとでもなるが恋人を連れて逃げるとなると体の自由を取り戻さなければならない。できるだけ会話をして時間を稼ぐ必要があった。
「君の要求には応えられないな」
「わかってるさ、だからこの子も連れてきた」
 冷たく言い放つ女の顔は悲しみに満ちていた。それを疑問に感じながらもタルタリヤは相手の出方を窺う。
「その子に何をするつもりか知らないけどやめた方がいいよ」
「傷一つでもつければ、息子を殺したときのように私を殺すのか?」
「なんだ分かってるじゃないか。だったら早く彼女から離れてくれ」
「いやいや……分かってないのは『公子』、お前だよ」
 女はクッと顔を歪めた。
「今の状況を生み出した時点で事態がどう転ぼうとお前は私を殺す。私はちゃんと分かってるさ、『公子』の無慈悲さも強さも。だからお前が動けないうちに実行に移さなくちゃいけない。時間稼ぎをしようだなんて悠長に考えているお前こそ何もわかっちゃいないんだ。私の覚悟の強さも、計画も、状況も、何もかもね」
 タルタリヤの目論見を見抜きながらも対話に応じた女だったが、その行動とは裏腹に時間を与えるつもりはないと言う。女の目的は息子の復讐で間違いないはずだがそれにしてはタルタリヤを拘束して優越感に浸る気配がなく、女はあまりに冷静すぎた。
 命のやりとりには自信がある。そしてそれをコントロールするのは大抵タルタリヤだった。命を燃やす相手とは打って変わって戦場では冷静さを失わないことを重要視した。それゆえに戦場を生き抜けたと強く実感しているタルタリヤにとって冷静さを失わない殺人者はコントロール不能な敵である。
 自分よりもはるかに弱い生物に対してタルタリヤは間違いなく恐れを抱いた。首筋を刃物がなぞったかのような感覚に怖気が走る。
「さて……私は今からこの子を一刺しで殺す」
 告げられた言葉からは冷たさすらも消え失せていた。
「できれば無関係の人間は殺したくない。息子を殺したお前の罪は『公子』が贖うべきだ。だからお前が死ぬと約束するなら、私はこの子を殺さずにそっちへ行ってお前を殺す」
「交換条件になってないよ。君がその子を殺そうとする間に俺が君を殺してしまうことをどうして考えてないんだい?」
「ハァ、もう愛の力だとか奇跡は起きないんだよ。お前に与えられた選択肢は一人で死ぬか、この子を巻き込んで死ぬかだ」
「……」
「息子を殺した贖罪をさせようかとも考えたけど、情があるなら言い訳の一つくらいしただろうにないんだからそういうことさ、痛めつけたって無意味だ。……高望みはしない、お前が死ねばそれでいい。お前がちゃんと死んだらこの子は元の場所に帰してあげるよ」
 女が怯むことを願ってタルタリヤはあえて強気な姿勢を見せ、武力を誇示しようとしたが望みは叶わなかった。タルタリヤが頷かなければ女は手に持ったナイフで今にも恋人を刺し殺すだろう。
 今死ぬわけにはいかなかった。タルタリヤにはまだ成さなければならないことがたくさんある。恋人のことは愛している、将来を誓いたいと考える日もあった、だがタルタリヤの命よりも軽い。すばらしい人生とは自らが満たされ幸福であってこそだ。他でもない自分のために、恋人ではなくタルタリヤが生き残るべきだと断言できた。
 だが恋人の命を諦めることはできなかった。恋人が苦しむことを望むわけではないがせめてタルタリヤのいないところで死んでくれたならば諦めもついただろう。自分の選択で恋人が傷つき、苦しみ、死んでいくのを見るのは耐えられない。たとえ自分の命の方が重いとわかっていても選ぶことはできない。
「わかった、抵抗しないよ」
 答えた瞬間、タルタリヤの喉元に刃物が突き立てられた。
 恋人がおぼろげな視界で目の前の惨劇を見つめる。ゆっくりと覚醒した脳が血を流しているタルタリヤを見て驚愕に揺れた。痛めつけられているタルタリヤの顔に脂汗が噴き出し、力が抜けていくのを見て叫ぶ。
 やめて、なにしてるの、やめて、と耳を劈く声を聞いてタルタリヤはかろうじて意識を保っていた。微笑みかけて、君は大丈夫だよと声をかけてあげなければ。タルタリヤは頭の隅で考える。だが口を開くだけの余力もなく肺は血で満たされている。
 おびただしい量の血を流しているタルタリヤが今まで見たことないほど静かで生気を失っている事実に恋人は首を振って現実を否定する。刻一刻と近づいてくる死の予感を受け入れられずに、いやだと何度も繰り返した。
 だが目の前の惨劇は夢ではない。どうしてと嘆く声は弱弱しく哀れだった。恋人の瞳から涙が零れる。すすり泣きは次第と大きくなっていく。
「聞こえるか『公子』……これは私の声だ」
 血で視界が悪いタルタリヤの耳に届いてくる恋人の泣き叫ぶ声。それを自分のものだと言われてタルタリヤは目を見開く。必要であれば人も殺せるタルタリヤは死に恐怖などない。だから女は愛する人を殺された者の無念を思い知らせているのだ。
「この子は私だ……」
 遺していかなければならない恋人への謝罪は声にならない。タルタリヤの死が恋人に一生の傷を負わせないよう祈るしかなかった。女は涙を流しながらタルタリヤの命の灯が消える瞬間をじっと眺めていた。

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