寝た子を起こす、悉く。

 友人が悪態をつく。アルハイゼンの野郎をなんとかしてシティから追放したい、と。現職の書記官を左遷、もしくは何らかの罪で辞職に追い込むだけでなく住居まで移させるとなれば生半可な知恵を絞ったところで実現しないだろうが、ちょっとだけ彼女に同意した。
 彼女がなぜこうも彼を毛嫌いしているかを説明するためには私たちの出会いにまで時を遡らなければならない。

 学院でのすべての課程を終え、流れるように若くして教令院の官吏となった彼が突然、私の元へ来訪したのだ。「君が書いた昨年度の論文を読んだよ。少々意見を交わしたいんだが時間をもらえるか?」と。
 願ってもない提案だと二つ返事で承諾する。アルハイゼンという人物は私の周囲であまりに有名だった。
 知論派は言語学や符文学を扱う学派で、この分野は画期的な発見を元に論文が書き上がることは少ない。失われた言語体系の解析や、古文から読み解く当時の歴史……幾代にもわたり研究結果を蓄積していくことが多い。それなのに学び修めて間もない学生からとんでもない論文が上がってきたと賢者たちはにわかに盛り上がり、学院は一同騒然としたのだ。
 間もなくして成績は優秀だが行動に難あり、という噂も流れたのだが知論派の一員となって日が浅い私の脳にアルハイゼンという名は英雄のごとく刻まれていた。
 実際に顔を合わせてみても彼の第一印象は悪くなかった。物腰やわらかで、人目を惹く立ち姿、知恵の宿る眼差し。なるほど学院をあれだけ騒がせたのも納得がいくと、憧れにも近い感情を持っていた私は恐縮するしかない。
 充実した時間を過ごしたと思う。──その日は。私が納得できなかったところを見抜き、アドバイスをくれた。
 友人もその場にいて、彼女は学派が違うけれど自分もアドバイスをもらいたいと「私の論文にもご意見をいただけますか……?」と願い出て、快く承諾したアルハイゼン先輩に名乗っていた。名前さえわかれば自分で論文の複製を申請すると彼が言ったからだ。
 そして、アルハイゼン先輩は翌週に私の前に現われた。彼は先週私が提出したレポートについての意見を持ってきてくれた。師事している賢者と知り合いらしく、私の話題になったのだそうだ。二時間ほど議論を交わしてその日も別れた。

 アルハイゼン先輩の来訪は、毎週続いた。
 さすがに違和感を抱き、疲労も増したのは五週目だっただろうか。ヴァフマナ学院へ向かい、友人に相談していたとき『六度目』がやってきたのだ。私の話を聞いて友人も不穏な顔をしていたし、彼の意識を私から逸らすために積極的に話題を振ってくれたのだ。そういえば私の論文、読んでいただけましたか。圧をかけるような、強い語調だったと記憶している。

「ああ……すべて目を通したが、読む価値がなかった」

 アルハイゼン先輩は端的に、無情に告げた。

「人気の題材だから内容が似通うのは仕方ないが、既出の論文をなぞらえた内容に仕上がっていたうえに結びが甘い。努力は感じられるが筆が乗っていないことも一目瞭然、といった論文だった。今年は知的探求心にしたがって取り組むようにアドバイスするよ」
「……は?」
「話を戻そう。レポートの五ページ目に出てきた引用についてだが、理解が不十分だった印象を受けた」
「そ、そんなことは……」
「ほう……ではいくつか質問しても? 理解が深いのなら問題なく答えられるはずだ」
「ヒェッ」
「冗談だ。……フィールドワークに興味はあるか? 参考になる資料について知っているんだが、残念ながら持ち出し禁止でね。学院に通っていた頃の伝手を使えば口利きできる。早速だが三日後にでもどうだ」

 たとえ的確なアドバイスだとしても、一言目がいけなかった。自分の都合のいいように物事を運ぼうとする学者たちですらもっと角が立たないような表現をする。顔を合わせるのが二度目の友人にとって第一印象がさほど悪くなかったことも災いしたのだろう、あまりの高慢さに場の空気が凍る。
 隣で怒りに震える友人に目もくれずに私との話を再開したアルハイゼン先輩のことを私は苦手になってしまったし、友人は大嫌いになってしまった決定的な一日だ。

「いつもごめんね、付き合ってもらって……」
「いいのよ! そりゃあ顔も合わせたくないくらいだけど、あたしがいなかったら一人でアイツの相手をしなきゃいけなくなるでしょ? そんな可哀想なことさせられない」
「ありがとう……」

 あれ以来、友人は彼に対する敵意を隠さなくなった。私も消極的にしか会話できない。読む価値がなかった、なんて一生懸命書いた論文に対して言われているのを聞くと悲しいし、腹が立つ。あれから私にも同様の批判が飛んでくるんじゃないかと身構えているのだ。
 アルハイゼン先輩も態度の変化には気づいていて、一度は「迷惑だったか?」と聞いてきたほどなのに今でも彼の来訪は続いている。君のように見込みある学者と議論する機会にはそうそう巡り合えないと思うんだが、なんて言葉を添えられたら自尊心をくすぐられてしまったのだ。人生であれほど愚かだった瞬間はない。

「忙しいはずなのになんで会いに来るんだろう、まだ課程も修了してないただの学生なのに。しかも心なしか頻度が増えてるし……」
「優秀な学生だから、じゃないの? 学派の違うあたしですらそう思うんだから、あの気狂いに目を付けられてもおかしくはないわよ」
「でも……アルハイゼン先輩の論文、複写をもらったけど、あれを読んで彼が認めてくれたなんて到底信じられないんだよね」
「……じゃあ、案外……」

 彼女は途中で言葉を止めた。もったいぶらずに教えて、と懇願した私に向かって複雑そうな顔をする。嫌そうに、本当に嫌そうに、友人は憐みを込めた推論を口にした。

「あんたのことが好きだから付きまとってるのかもね」
「……ちなみに、確率的にはどのくらいを想定してる?」
「1か100しかないでしょ、こんなの」

 1か100ね、と失笑する。アルハイゼン先輩が恋愛ごとに現を抜かす姿なんて想像できないから当然の数字だ。知識欲の権化みたいな人間が、鉄面皮みたいな表情の下で私に男女の関係を望んでいるかもしれない、なんて……うん、ない、ありえない。
 その日の夜のこと、私は悪夢に魘された。小一時間アルハイゼン先輩に思いの丈を『論じられる』夢だ。



 伝言を頼まれたと言って同期がアルハイゼン先輩の言葉を口にしたのが昨日のこと。指定されたカフェに向かうとアルハイゼン先輩がコーヒーを片手に優雅に座って私を待っていた。
 声をかけると着席を促される。私が来たら品を出すように伝えていたのだろう、注文していないのに店員がコーヒーと軽食を持って来た。無駄を省きたがるアルハイゼン先輩はよくこういうことをする。
 テーブルに置かれた資料が気になって見ていると、視線に気づいたアルハイゼン先輩が話を切り出した。
「故ナジブラ最後の研究だ。彼は論文の執筆中に病に倒れたため最後まで自身の研究成果を書き上げることができなかったが、彼が集めて研究した膨大な資料にはこの言語を解析するための貴重な情報が多数残されている」
「こ、これって……!」
「そうだ、卒業論文で扱いたいと君が話していたうちの一つだよ。すべてを一から調べるのもいいが彼のような素晴らしい先達が遺した資料があるなら活用するほかにないだろう。俺の権限で取り寄せることができたため申請を出してきた、君の使用についても許諾が下りている」
「わあっ……ありがとうございます!」

 存在すら知らない研究資料がここにある。彼も言ったとおり論文の題材にするなら茨の道である覚悟をしなければならないと、卒業を先延ばしにすることすら考えていたのに。たとえスタート地点が少し進んだだけだとしても、自分以外に数少ない研究事例があるという事実は心強かった。
 感動で思わず声を上げてしまい、はっとして口を手で覆う。店内が騒がしくなるとアルハイゼン先輩は険しい顔をしたり、騒がしくしている人物に注意して口論に発展したりするのを見たことがあるから、不快にさせてしまったんじゃないかと彼の顔色を窺った。……どうやら機嫌を損ねはしなかったようだ。まあ、確かアルハイゼン先輩はあのとき読書していたし、と胸を撫でおろす。

「ところで、ルームメイトの彼女は一緒じゃないんだな」
「え? ああ、課題があるらしいので帰っているはずです、朝そう聞いたので。何か用事があるんですか?」
「ないが、いつも彼女は話を遮るだろう。今日は邪魔が入らないようで助かるよ」

 なにかと理由をつけて顔を合わせているアルハイゼン先輩を警戒してくれる友人ことルームメイトについてそう言った。
 学者になるということはシティに住むということ。研究資金はきっといくらあっても足りなくなるから、住む場所にはできるだけお金をかけないようにしたい。そういった経緯で学生向けのルームシェアをすることになったから、私たちは学派が違うのに友人になった。
 学院が違う場所にあるから帰宅時間を合わせるのは難しいのに、気のいい友人はアルハイゼン先輩の毒牙から私を守ると息巻いて無理矢理時間を合わせてくれていた。いつか限界がくるのは目に見えていたことだ。
 二人が相容れないことは知っている。だけど友人がいない場ではっきりと友人を邪険にする発言に反応を示すわけにはいかず、なんでもないときなら愛想笑いでもして流すところを沈黙に徹した。

「謝罪しよう。不適切な発言だった」
「……何のことですか?」
「君のルームメイトのことだ。本人がいない場で批判すべきじゃなかった、気分を悪くするのも当然だ」
「陰口とまでは思ってないですから、そこまでしなくても……。その、仲が悪いのは知ってますから」

 意外なことにアルハイゼン先輩が発言を撤回した。観察眼が鋭い人だから内心を見抜かれることは何度もあったけど、学術的見地の間違いを『正す』とき以外ではあまり発揮されない行動に驚くしかない。
 深掘りしたいわけでもなかったから、わざととぼけたけれど彼は引き下がらなかった。勢いに押されてフォローせざるを得なくなってしまう。するとアルハイゼン先輩は、私の発言に対して思い当たる節がないように目を瞬いた。

「彼女とは意見が合わないだけで敵視したことはない。生産性がない会話を毎度のように強要されて不快には感じているが」

 それを仲が悪いと言わずして何と言うのか。
 アルハイゼン先輩にとって、事実と自分の感情と他人の感情はすべて別の要素なのかもしれない。いったいどうすればここまで理性的になれるのか理解に苦しむけれど、自分よりはるかに頭のいい生き物のことなんて理解できるはずがない。そうして疑問を思考の隅に追いやろうとするけれど、私も学者の端くれ、気になることを放ってはおけない面倒な性質をしていた。
 一度気にすると他のことまで気になってくる。解決する手段があれば躊躇なく実行するアルハイゼン先輩が、どうして不快に感じることをそのままにしてまで私との交流を続けるのだろうか、とか。貴重な研究資料を調達してきたりと、まだ卒業していない学生をどうしてここまで気にかけるのだろうか、とか。
 案外、あんたのことが好きだからかもね。友人の言葉が脳裏をかすめる。ないと思うものの、可能性が1でもあるのだとしたら検証するべきなのではないかと知的好奇心が顔を覗かせる。知識欲は、砂漠も雨林も選ばぬ魔物だ。

「アルハイゼン先輩、質問してもいいですか? 根拠はあとで説明するので、事実のみに着眼した答えを先にいただきたいんですけど」
「俺に回答可能なことなら」
「私のことが好きですか?」

 アルハイゼン先輩は口を開き、何も言わずに閉じた。一拍おいて考えたあと「いや、別に」と答える。

「確認しておくが、君の質問は恋愛感情のことを指しているな?」
「はい」
「良かった。友人としてなら勿論、と付け加えておくよ。君に聞かれるまで考えたこともなかったが……どうしてそんな質問を?」

 アルハイゼン先輩の疑問に答える。友人との会話や、質問に至った経緯。根拠を聞いたアルハイゼン先輩は納得した様子で頷いていた。そして彼は「たしかに奇妙な関係だと言えるな。何かしらの行動原理があるという考えに至るのも理解できる」とどこか楽しげに言う。
 自意識過剰な質問をしたことに羞恥がなかったわけじゃない。だけど未知を解明した瞬間に得る興奮、ないしは多幸感に似た感覚の方が勝っていた。アルハイゼン先輩の同意もあってそれらは増加する。学者にとって、自身の研究成果に対する肯定は麻薬なのである。
 初めてアルハイゼン先輩と穏やかに笑い合っている気がした。初めてアルハイゼン先輩と同じ景色を見ている心地がしたからだろうか、こういった時間が続くなら悪くないかもしれないと、苦手意識を少しだけ拭いとる。アルハイゼン先輩が「俺も質問したいことができた」と言うので、どうしたんですかと声を弾ませた。

「君の話を聞いて、俺は君を好きなのかもしれないという可能性に気づいたんだが、君が俺を好きになる可能性はどれくらいありそうだ?」

 先日魘された夢の中でアルハイゼン先輩が『論じた』内容の再現に、私は自分の喉から出たとは思えない悲鳴を上げることになった。

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