片思い

 読みかけの本を手に取ったアルハイゼンは、冷めたコーヒーに口をつけて一瞬だけ動きを止めた。この男が冷たいコーヒーをここで啜ることになるのはもう片手で数えられる回数を超えている。そのほとんどが、読書に耽る色男に声をかけてきた女性に時間を奪われたせいだった。

「淹れ直そうか?」
「いや、このままいただくよ。君が淹れたコーヒーは冷めても美味い」

 一応尋ねるようにしているだけでアルハイゼンはいつもこう返す。本当に冷めても美味しいならば口にするのを躊躇うまい。あまりにわかりやすい嘘だけど、やさしい嘘でもある。
 教令院で学び修める者たちはわかりやすい。纏う雰囲気、佇まいと話し方、様々な要素が彼らを学者と主張していて、ひと目で「学者かな」と当たりをつけられる。
 大抵の学者は一般人から遠巻きにされがちだ。多角的に、ときには信じられないほど洞察的に物事を捉えている彼らを、私たちのような一般人はとても理解しきれないのだ。アルハイゼンもその一人だが、彼のように容姿が秀でていると会話の次元が違うことも乗り越えるべき魅力的な壁に見えるのか、世の女性のうち何割かは彼に近づこうと声をかけるのだった。

「この際だし私も聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「もちろん。何か知りたいことでも?」
「たいした話じゃないんだけどね。ずっと気になってたの、ああして声をかけてくれる子たちのだれかと付き合ってみる気はあるのかなって」

 彼は意表を突かれたようにパチリとまばたきをした。予想しない質問だったようだ。
 アルハイゼンが自身に声をかけてくる女性たちに興味がないのはわかっている。ただ、彼は見ている方が驚くほどに興味関心がない事柄をぞんざいに扱う。加えて彼は明け透けにものを言うため、会話が口論じみてくることがままあった。そんなアルハイゼンが、読書を遮られて生産性のない会話に対して律儀に付き合っているのは不思議な光景と言える。
 先ほどまで会話していた女性についても同じだ。彼女はここ数日、ずっとアルハイゼンに接触する機会を窺っていた。機会を伺うもなにも、彼はコーヒーを片手に本を読んでいただけだ。きっと勇気が出るまでに時間がかかったのだろう、意を決して出てきたことは、ときおり舌をもつれさせながらも懸命に挨拶していた様子から見てとれる。彼女のためにアルハイゼンは本を閉じ、しっかりと視線を合わせ、丁寧に「こんにちは」と応対した。
 アルハイゼンが毎日ここで読書をしていることだとか、本の内容だとか、他愛ないけれど彼女にとっては重要な会話を続けていたように思う。私は気配を消して二人の邪魔とならないように努めた。
 まあこじんまりとした店だ、私の目と耳がなくなってしまうわけでもなし、声は届いてくるし表情だってバッチリ見える。アルハイゼンはいつもカウンター席に座るから私にできるのは精々が自然な動作でカウンターの端の方へ移動することだけ。
 だが教令院の書記官は、本当に明け透けにものを言う。どれくらい話していたのか、会話が終わりそうになった頃合いで悲劇が始まったのだ。

「他には?」
「えっ?」
「他にアプローチはないのかと聞いている。話の抑揚、視線、反応から察するに君は俺と知り合い以上の関係を構築したいんだろう。しかし君は俺にとって魅力的な条件を提示できていない。もちろん俺たちは見ず知らずの他人同士だ、俺の人となりを知って関心を買うにはこの会話を活用するしかないわけだが、君にはそういった気配がないから」
「あ……あの……」
「……わかりやすく言おうか。君は観察と分析が足りていないようだ。俺は学者だと自己紹介したはずだ。知識の探究を職務にしている以上、学術的な分野において人並み以上の関心があることは容易く想像できるだろう。それなのに君は、医療薬に用いられる特殊な植物を君のおじいさんが栽培していることについて俺が興味を示してもその話題を広げようとはしなかった。俺に興味があるのなら、俺が興味を持った物事は君にとっても重要なファクターじゃないのか?」
「ぅ、えっと、その」
「何事にも過程があって結果がある。あくまで自論だが綿密な調査は努力を裏切らないよ、根拠もなくがむしゃらに追い続けるよりも論理的に物事を進める方が上手くいく。それで……どうする? 俺はまだ、専門外とはいえ君の家業について興味はあるが」

 アルハイゼンには畳み掛けるつもりはなかったのかもしれないけれど、二言目を発していた辺りで雲行きは怪しくなっていた。弁論中の学者というのはどうして一息に言葉を続けるのだろうか。決められた尺で言いたいことを言い尽くさなければならないと制限されているわけでもないのに、何に駆り立てられているのかよく口が回る。
 そして感情を排除した意見は聞いている者の心に冷たく突き刺さる。彼らは単に事実を述べているだけなのだろうが、事実は感情が伴わないゆえに事実なのである。彼らとは違い、私たちのような一般人は感情が落ち着くことも納得のひとつであることをいい加減に理解して、なんなら学説にしてほしいものだ。そうすればスメールはもっと平和になるだろう。
 羞恥か怒りか、彼女の顔が次第と赤くなっていくのを見ていられなくて私はゆっくりとしゃがみ込みカウンターに身を隠した。数秒後、イスが倒れたんじゃないかと思う音と共に別れの挨拶が響く。彼女の声は震えていた。私は頭を抱えて、気まずい空気に耐え難いと言わんばかりの表情を消せるようになってようやくカウンターから顔を覗かせる。そして冒頭へと戻るのだった。

 実りある会話ができることがアルハイゼンにとっての前提条件なら、彼女たちのような人の中からだれかしらが恋人へと昇格することもあるのだろうか。彼にその自意識はあるのだろうか……そんなことがずっと気になっていた。
 アルハイゼンは私の質問を一考する。だけど結論を弾き出すのにたいして時間は割かずに私の顔をじっと見た。

「付き合う気、か。ないよ。そもそもああして声をかけてくる相手に興味を持つことがほとんどない。面白そうな人物だったら先に俺が目をつけている」
「うーん、それもそうね」
「相互理解のために対話の機会をもうけるのは理に適っている、相手に好意を寄せるのであればなおのことそうだろう。そういった理論を抜きにしても少なからず共感できる点はあるから門前払いしないが、建設的な話をできた試しはないな」
「ハハ……だれもが皆、貴方みたいに論理立てて物事を進めていけるわけじゃないよ。冷たい人だって誤解されて噂を立てられるかもしれないのに、いいの?」
「構わない。俺は間違いを正しただけだ、たとえ彼女がそう受け取らなかったとしても大した問題ではないさ」

 どこまでも飄々としていて我が道を行く姿勢を崩さない彼に苦笑していると、ふと共感できるという言葉が引っかかった。

「待って……アルハイゼンには好きな人がいるの?」

 彼は真面目な顔で頷き、だけど肩を落としながら参っていると言いたげに手のひらを掲げる。

「もっとも相手は気づいていないが。思慮深さはあるのにどうしてか鈍い、なかなか手を焼いている」
「へえ……! アルハイゼンにそこまで言わせるだなんて強敵なんだね」
「まったくだ」
「どんな人? 私も知ってる人?」

 意外な人物の浮いた話に興がのってカウンターに身を乗り出しながら尋ねてしまった。アルハイゼンは冷静沈着かつ合理主義なため誤解されやすいが、淡白なようでいて実は勝ち気な人物だ。目の前にある困難も、何が問題でどう対処すればいいかを考え、実践して解決する。知り合って長い、数少ない常連客のことを私はそう捉えていた。
 彼が攻めあぐねるだなんて厄介な守りを持つ人物なはず。野次馬になるつもりはなくてもひと目見てみたいと考えてしまったって仕方ないのでは。目を輝かせる私に、アルハイゼンはわずかに不貞腐れたような気配を見せた。

「君も良く知る人だよ」
「本当? だれだろう、本の話で盛り上がってたサリーマかな。それとも斜向かいのお店によく来てるバイダスさん? 教令院の同僚だって言ってたよね」
「どちらも外れだ」
「ヒント! ヒントが欲しい!」
「彼女はコーヒーを淹れるのが上手い」
「まさか……プスパカフェの、ええとエンテカさん? ……昔うちを一番気に入ってるって言ってくれたよね……? たっ確かにあそこのバグラヴァはとっても美味しいけど! ああそういえば教令院ですっごく人気になってるって噂を聞いたかも……!」
「……、ハァ……」

 裏切りを受けた気持ちになっていれば盛大なため息が返ってきた。

「君が鈍いことについて今さら議論するより、女性関係について尋ねた心境の変化を分析していく方がよほど有意義だろうな」
「ちょっと、私のどこが鈍いって?」
「それなら君の見解を聞かせてもらおう。毎日ここへ来ている俺が、ずっと同じ本を持ってくることについて何か意見はあるか。君が立っている場所はカウンター内にいるときの定位置で、俺が座っている席は一番近くにある。本を読んでいるはずの俺がここを陣取る理由についてはどう思う。必ず君が作った料理を持ち帰りで追加注文することについては? 仕事帰りに顔を見にくるのを欠かさない理由は……──ご存知だろうが念の為に情報を付け加えておくよ、俺は興味のないことや無駄なことに時間を割きはしない」

 鈍くないことを証明してみろ、とアルハイゼンに挑発されて私は腕を組む。教令院の書記官に頭と口で敵うなどと思ってはいないけど、だからといって不当な評価を受け入れるほど気弱でもない。
 同じ本を持ってくることについては前から気づいていたけれど、相当気に入ってる内容だからとかじゃないのだろうか。私だって好きな本は何度も読み直す。むしろ理由なんてこれ以外にないだろう。カウンターの私に一番近い席に座ることや、退店時には料理をテイクアウトしてくれることも、単にそうしたいからなのでは? 滞在中は店を居心地よく感じてもらい、退店後も店の味を楽しんでもらえるだなんてカフェを営む身としてこれ以上に嬉しいことはない。ところで、さっきから私の話題ばかりじゃないか。
 アルハイゼンが与えた情報だけでは私の何をもってして鈍いと言っているのか想像できない。だいたい今まで生きてきて鈍いだなんて言われたことが一度もないから思い当たる節などあるはずもなく、彼の言葉と自分自身を結びつけようもなかった。そもそもどうして私はいきなりアルハイゼンに罵倒されたんだっけ。
 そうだ、アルハイゼンが片想いしている人を当てようとして鈍いと言われたんだ。……アルハイゼンは、片想いしている人のことも鈍いと言っていなかっただろうか?
 一つの仮定にたどり着いた私はぎこちない動作で彼の顔を見る。ギ、ギ、と油を差していない機械のように首を動かして「ま、まさか……」と口にする私を見てアルハイゼンはうすく微笑む。なんて綺麗に笑うんだろうか。まさか好きな人って私のことか、なんて馬鹿な質問ができなくなってぐうと喉を鳴らすと、色男は満足げに持っていた本を置いた。

「今日はもう少し話をしよう。そろそろ何かしらの成果を上げなければ後々のスケジュールに差し支えそうなのでね」

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