夢のまた夢

 パタパタと静かな足音が廊下に響いていた。広い敷地を普段は家事やら小間使いやらで駆け回っている四月一日だったが、今日ばかりはすっかり手持無沙汰だ。
 所用で不在にすると言ったのみで姿を消した(ミセ)の女主人が四月一日の脳裏に浮かぶ。具体的に何日ほど不在にするのか、帰宅は朝か夜か、緊急時の連絡はどうやって取るのか、そういったことも一切告げずに侑子は出かけて行った。相変わらず何を考えているのやらわからない雇い主だが今回は妙な顔をして出ていったなと四月一日は考える。
 人の毒気を抜く気まぐれな言動に振り回されてばかりだが、仕事中はすべてを見透かすような見識を披露する。だが今回はそれらとは違った気配を纏っていた。深淵を覗いた気がして四月一日は出かける支度をする侑子に詳細を追求することができなかったのだ。
「何か……侑子さんにとって良くないことでも起こったのかな……」
 四月一日の言葉が冷たい床に落ちる。ザア、と風が庭の葉を揺らした。風はするりと四月一日の隣へとやってきて不安をなぞるように頬に触れる。湿った風に四月一日が顔をしかめていると、モコナが台所で何かをひっくり返したのかマルとモロの騒ぐ声が聞こえてきた。
「まあ鬼の居ぬ間にとも言うし、どうせお客も滅多に来ないんだし……久しぶりの休日を楽しむとするか!」
 開放感から伸びをした四月一日は、木々の裏に人影が映ったのがまるで見えなかったかのように台所へと向かった。



 四月一日が店を継いでもう五年が経とうとしていた。侑子の仕事を傍で見ているだけだったときは客の望みに対して侑子が求めた対価に頭を捻るだけで済んでいた。だが店主になるとそうはいかない。望みにかなう価値あるものを相手に差し出させる、その難しさを四月一日は昔以上に痛感していた。腕に巻かれた包帯が四月一日の苦悩を表している。
 無意識に腕を擦るが痛みはない。そうだ、これはそういう怪我ではないのだったと苦笑いする四月一日の視界の端でふわりと何かが揺れた気がした。導かれるようにそちらを見ると一羽の蝶が舞っている。ふわ、ふわり。蝶は四月一日を誘うように上下に飛んだ。飽きるほど見つめた花押が四月一日の脳裏をよぎる。
 四月一日は、店の入口に人の気配をはっきりと感じた。本来あるべき姿、ここにいるべき人の気配だった。
「侑子さん……!」
 もつれる足を引きずりながら玄関に転がり出た四月一日の目に飛び込んできたのはかつての店の主人ではなかった。艶やかな長い黒髪が侑子を連想させるだけでまったくの別人だ。
 明らかに別人と勘違いされたにもかかわらず来訪者は変わらぬ笑みをたたえている。背筋を伸ばして立つ姿はやはり二日酔いに頭を抱える侑子の姿と似ても似つかないのだが、四月一日にはそのぐうたらの姿が女に重なって見えていた。
「こちらの御主人はいらっしゃいますか?」
 女は用件を口にした。
「壱原侑子に会いに来ました」

 淹れたばかりの緑茶から湯気が上る。ぼうっとして作りすぎた練り切りを茶請けに出すと、皿の上に乗った白兎を女は感心したように眺めていた。
「侑子さんは、もう」
 消えかける言葉を必死に繋ぎとめながら四月一日は告げる。四月一日の表情が曇るのをじっと見つめているだけの女に、ここにはいないんですと続きを絞り出した。
 単に不在にしているわけでも、蒸発したわけでもない。四月一日の表情から漏れ出る悲しみは侑子がこの世から旅立ってしまったことを明確に告げている。女はその事実にふさわしく目を見開いて反応して見せたが、それだけだった。故人を悼む言葉が紡がれることはなく、女の瞳が失意に揺れることもない。
 女は侑子と親しくしていたか以前世話になったかのどちらかだと思っていた四月一日は、反応の鈍い女を奇妙に思った。
「……貴女は、」
「まーたーかー」
 ぐでん。
 侑子を訪ねた目的を聞き出そうとした四月一日を遮って女はちゃぶ台に倒れこむ。鼻先にある練り切りにさっくりと黒文字を差し込んだ。練り切りをもちゃもちゃと咀嚼する女に先ほどまでの静かさはない。
「あーあ、もうこれで四桁を超したわ。もうだめだわ、侑子に会える気がしないわ。四月一日の出してくれる茶請けはどれも美味しいけど半分くらいの確率で同じもの出されたらいい加減食べ飽きるのよねー」
「は……?」
「まったくあの女いい根性してるわ……なぁーにが『四月一日をよろしくーゥ』よ。四月一日よりも弱い(チカラ)で何をどうよろしくしろって?」
「あ、あの」
「そう言うくらいなら(チカラ)の半分くらい譲りなさいよね! 私は残り滓なのよ残り滓、まともに時間の調整さえできないっていうのに……ああだめだわ、頭の中で『頑張ればできるわよ』てヘッタクソなウインクしてる侑子が浮かぶ、出来ないだろうけどって思ってるときの顔だコレ。ほんと腹立つゥー」
 四月一日のことなど見えていないかのように愚痴を垂れ流し続けている女の奇妙な言葉の連続に四月一日は混乱していた。女の言葉を聞いている限りでは、四月一日と女は幾度となく会ってこうしているらしい。しかも侑子に四月一日を託されていて、コチラの事情にも明るい。
 だが四月一日と女は初対面のはずだ。そうでなければ、侑子に似た気配を纏い侑子に似た性質の人間を忘れるわけがない。そう考えたところで四月一日は「あれ?」と自らの思考に疑問を抱く。
 女がこの(ミセ)の女主人に見える。
 目を擦る四月一日の目にはたしかに初対面の女が映っていた。だが視覚以外のすべてが女を侑子だと主張するのだ。いやいやそんなことあるわけないだろと四月一日はブンブンと頭を振る。侑子がそれを「何してるのよ四月一日」と不思議そうに見ている。
「ゆ、侑子さん……?」
「期待の眼差しは久しぶりね」
「四月一日、何か変だ、変な感じだ!」
 客間に入るなり四月一日の懐にモコナが飛び込んで騒いだ。
「侑子の気配がするんだ!」
 モコナも四月一日と同じように感じたらしい。だが四月一日と違って怯えたように丸まっているモコナは、四月一日に守ってもらうと言わんばかりに服の中へ身を隠す。
 唯一この空間で泰然としている女が「説明、してほしい?」と言うようににっこりとほほ笑んでいる。
「私は壱原侑子の()なの」
()……?」
「侑子の時間は死に流れゆく途中で停められていたでしょう。侑子が今際の際の際でかろうじてとても元気に生きていたとしても定められた死は死人を乗せる受け皿を作っていた、だけど待ち人はいっこうにやってこない──。だから受け皿を保つために、いつか壱原侑子という死人を乗せるまで、代わりを置かなければならなかった。時間(ジョウタイ)を切り取っても、空間(スキマ)まで切り取ったわけじゃない。そうして生まれたのが壱原侑子 (ワタシ)。四月一日、貴方のようにね」
 自らと近しい生まれを持ち、だけど異なる性質を帯び、違う形として生きる存在 (モノ)。四月一日は侑子の影とも呼べる女を見据えて、ただ口を開け閉めすることしかできなかった。女が、同じ形を持てなかっただけの、壱原侑子本人であれば。話を聞きながら四月一日は心の隅でそう願っていたのだ。
 もちろん四月一日が小狼と同じ存在であるように、女も侑子と同じ存在ではある。だが四月一日と小狼が同一人物ではないように、彼女らも同一人物ではないのだ。
 四月一日は気落ちした様子でモコナを服の上から撫でた。大丈夫だぞと四月一日が何度声をかけても「侑子が死んだってずっと言われてる気がする……」と言って怒られた子どものように丸くなったままだ。四月一日と違って女を嫌がるのは、四月一日と違って女が()の性質を強く帯びているせいだった。
 マルとモロはご機嫌で女を迎えていた。「主様のお客サマ、主様がお客サマ」と声を揃えて跳ね回っている。
「貴女が侑子さんの()ならどうして侑子さんを訪ねて来たんですか? 侑子さんがもう……ここにいないことはわかっていたはずでしょう」
「ええ」
 他ならぬ女こそが侑子の不在を実感できているはずだ。至極まっとうな考えに女は同意する。女は素直にここへ来た理由を明かした。
 壱原侑子が死ねば女は彼女の中へ戻ることになっていた。それなのにどうしてか壱原侑子として死ぬことはできず、侑子に死の時間 (ジョウタイ)だけ与えさせられて、まったく別の空間(スキマ)で動けるようになっていた。
 侑子が何かしらの策を講じたのは間違いないが、自分は壱原侑子の死として生まれたのだから死んだ壱原侑子と運命を共にするのが相応しいと考えている。女は語る。
 ()という時間 (ジョウタイ)に縛られ続け、そこから解放されたせいなのか、女は時間の概念を覆すことができた。だからありとあらゆる時間を移動して侑子に接触し、何とか侑子の元へ帰ろうとしたのだ。
 凛としていた女は、そこまで語ったところでまたふにゃりとちゃぶ台に頭を沈めた。
「なのにこれなのよー。時間の移動が下手くそでなかなか侑子が死ぬ前の時間には移動できないし、侑子が死ぬ前の時間へ行っても侑子に会えないしでちっとも先へ進まない。はあ……だからもうあきらめようかと思って……」
 はあー、と長いながい溜息を吐く女を見下ろしていると、四月一日はまたある事が引っ掛かった。昔、侑子が突如不在にしたとき。庭に人影が映ったのを当時の四月一日は気に留めなかったが、あれは目の前で落ち込んでいる女ではなかっただろうかと。
 侑子に会えない。女の言葉に四月一日はそういうことかと独り言つ。女の言う通り、侑子が何かしらの理由で女が死後も生き続けるようにしたのだとしたら、それはきっと四月一日のためだ。だから侑子は女に会わないようにしていたのだ。おそらくあの日の所用とは女に会わないことだった。
「戻りたい、ですよね」
 四月一日の声色が落ちた。隠れていたモコナさえ服の中から心配そうに声をかける。置いて行かれる悲しみ、もどかしさを知っているからこそ、女が侑子の元へ戻れなかった、あまつさえ侑子に置いて行かれたことはつらかっただろうと、その理由が四月一日のせいならなおのこと申し訳なく感じたのだ。
 女は何度か目を瞬かせた。責任感が強く、優しい子四月一日に表情を崩す。
「そうあるべきだというだけの話よ、役目の意識が抜けないの。どこかの誰かもそうだったわ。大切な人のために命を投げ出そうとした、考えるよりも先に」
「はあ……」
「いいわ、今のは気にしなくて。とにかく侑子が死んだのだから私も死ななければならないと思っているだけ。それをしなくていいのなら……そうね、ここに留まって四月一日の作ったつまみを食べながら花見でもしてみたいわ」
 女のささやかな願望を四月一日が拒絶するはずがなかった。ご一緒してもいいですかと尋ねる四月一日にもちろんと女は笑みを深める。会いに行っても会えなかったのなら、ここで四月一日と二人で侑子を待てばいい。夢のまた夢のような話だが、それが二人の幸福に思えた。

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