おしなべて愛

 海面を荒く叩きつける雨のせいで魚も底深くに身を潜め、稲妻の民も仕事を切り上げて家屋に戻るある日のこと。いつもより鬱蒼とした荒海の切り立った崖で子どもが立ち竦んでいた。
「幼子がこんな場所で何をしているのですか」
 背後からそう声をかけられて子どもが振り向く。顔立ちや背丈から十二、三ほどであると推測される子どもは声をかけてきた人物を見上げるとほうと息を吐いた。豊かな濡れ羽色の髪を丁寧に編み上げ、透き通った瞳を持った麗人を幼心に美しいと感じたのだ。
 そして貴人が身に纏う高価な着物や簪を見て我に返った子どもは急いで膝をつき、地面に置いた手の甲に額を擦りつけた。子どもにしてはあまりに自然な平伏であった。まるで身に染みついていると言わんばかりに。
 子どもを見下ろし、貴人は何も言わない。そのため子どもは貴人に問われたことへの返事をしなければならないのだと考えを巡らせた。
「いかづちを……まっております」
「雷ですか。何故?」
「兄上が、私を『とがにん』だというのです。『とがにん』にばつを下すのは雷神様なので、いかづちが来るのをまっていました」
「今のところ、私が貴方に罰を与える理由はありませんが」
 幼子の言葉を理解しがたいとでも言いたげに貴人は口にした。貴人の言葉に幼子も違和感を覚えるが、やわらかい頭もまだその意味を飲み込めるほど洗練されてはおらず、雨がしとどに降る音が辺りに満ちる。
 年の割に子どもの受け答えがしっかりしていることが貴人の関心を買った。笠も被らずに雨に濡れ、重そうに色を変えている着物を見やり、貴人は続けて問う。
「どうやら家を追い出されたようですね。貴方の兄はどのような罪で貴方を責め立てたのですか」
「生きているだけでつみだといわれました」
「成程、働きもせず日夜怠けて過ごしていたのですか」
「いいえ母はずっとはたらきました。私は子どもなので草むしりなどをしました。父上にひきとられてからは、母も私も外にだしてもらえませんでした」
「では家を追い出されてからはどうだったのですか。盗みを働き、民の食べ物を奪い、苦しめましたか」
「着物をうって、仕事をさがして、なんとかくらしていました。家がないので草かげで夜をしのいでいましたが、さいきんの雨つづきで母はねつを出してしにました」
「……憐れな」
 貴人はそこで初めて子どもに近づいた。距離を詰めた貴人は膝を曲げ、手にしていた大きな傘で幼子を雨から遮る。顔に貼りついた髪の毛を指先で払い、顔が見えるようにした。
 母はどこに眠っているのかと尋ねる貴人を子どもは案内する。道のりは遠く、子どもが一人で歩いてくるには険しい道のりだ。草陰の先、崖をわずかにくり抜いた場所に葉がたくさん敷き詰められている。葉の下に母が眠っていることなど、子どもの口から説明されずとも貴人には一目で理解できた。
 母を丁寧に弔い横顔に悲しみを浮かべる子どもが世の不条理さに嘆かぬわけがない。たとえ身に覚えのない罪悪であろうとも抵抗することすら許されなかったのだ。生きるどころか生まれることが罪だなどと、稲妻すべての命を庇護におく貴人が言うはずもない。
「貴方に罪はありません。ついて来なさい、雨風を凌げる場所を提供します」
 歩けますか、と貴人が幼子に尋ねる。子どもは差し出された手を戸惑いながらもしっかりと握った。
 そうして子どもが連れられたのは父親に引き取られたときに見た大きな屋敷でもそれを凌ぐ九条家の豪邸でもなく、天にも届かんとする荘厳な城、雷神のおわす天守閣であった。
 手を繋ぎ雨に濡れた体を無駄なくふき取った貴人が、盲目な愛に走り家庭を蔑ろにした父も嫉妬と憎悪に狂う兄も頭を垂れる将軍様であることを、子どもはようやく知ったのである。

「稲妻に生まれ落ちたのであれば一度は雷鳴に慈悲を乞うてもいいでしょう。そして貴方は幼くありながらも雷の下に身を晒し、我が目に触れる機会を得たのです。謂れなき罪を被せられてなお勇猛な貴方を讃えます。不滅を掲げる私の民らしく強かに生きなさい」
 将軍は厳粛に言い放つ。立派な着物を着せられた子どもは敬愛で頬をゆるませて頷いた。
 子どもは自分にできることは何でも取り組んだ。父親に引き取られた時間はわずか二年のことではあったが、義理の兄と姉に憎まれている間も可能な限りの知識と振る舞いは身に着けていたため、高い教養を必要とされる高貴な場に身を置いても不自然に浮くことはなかった。
 ある冬の暮れ、子どもは鳴神と永遠について紡いだ詩歌を献上した。褒美を取らせることにした将軍は、子どもの願いに応じて新たな名を下賜した。
「葵の名を与えましょう。花が咲けば日差しに向かってたちまち伸びていく、貴方の生き様に相応しい花です」
 子どもを母共々追い出した家、その家紋の一部には葵があしらわれている。両者ともに承知の事実だったが、本質から離れすぎては名を持て余すからあえて残したのだということを言葉にせずとも理解した。
 名はすぐさま周知された。そして、葵の手腕はついに稲妻の政務においても発揮されることとなる。政務にかかる将軍の隣で本の移動や書状の開封を行っていたとき、目に飛び込んできた事案についての意見が無意識に口から転び出たのだ。これにより政を行うだけの能力を見込まれた葵は、数年不在だった側用人に召し上げられる一歩を踏み出したのである。
 下方にある蕾から順に咲き、長い雨期が明けるころにすべての花が開く葵の花のように側用人は空を見上げつづけた。雷が走る晴天の下、花を愛でる水の園囿ができるまで。

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