初雪も溶けるほどの朝

 掛け布団の隙間から入り込んだ冬の空気が背筋をすうと撫でて目が覚めた。隣に綾人さんはおらず、寝ぼけまなこを擦る。
 着衣を整えて、羽織だけでは寒いだろうなとショールをかけて部屋を出る。廊下に置かれた火鉢は朝にかけて使い物にならなくなったようだが、夜の間にうっすら雪が積もるほどの天気だったのだことを考えれば十分すぎるほどの仕事をしていてくれたようだ。
 執務室を除いても綾人さんの姿はない。公務で早朝に発つという話は昨晩聞かされなかったため屋敷のなかにいるのだろうけど、と姿を探す。厨房を覗くとすでにトーマが朝餉の仕込みを始めていた。「若なら朝は剣の稽古をなさっていますよ」と聞いたのでそちらに向かう。
 洋装と和装を組み合わせたいつもの装いとは違って動きやすい着物で刀を振るっている夫が遠くに見えて、邪魔をしないようにそろりそろりと音を押えて近づいた。

「おはよう葵。隠れてないで出ておいで」

 いくら稽古に集中していても私の気配を悟るなど容易いことなのだろう。声をかけられたので柱の影から顔を出すと面白いものでも見るように笑われてしまった。
 縁側には畳まれた羽織と汗を拭うための手巾が置かれている。盆に乗った空の湯呑はトーマが休憩に差し入れしたお茶の痕跡だろう。
 それらの隣に腰かけて「おはようございます」と返事をした。

「剣の稽古を欠かさないとは聞いていたけど、こんなに朝早くに部屋を出ているなんて知らなかった。私が起きるときはいつも着替えの最中でしょう」
「いつもこっそり抜け出していたんだ、起こすと悪いからね」
「気にしなくていいのに」

 私がいいと言っても煮え切らない顔をするので、夫婦なのに隠し事するなんて、とわざとらしく口を尖らせた。夫婦間のことだという話題にすれば大抵綾人さんは譲歩する。ごめんねと謝るのでにっこりと返した。

「邪魔でなければここで見ていてもいい?」
「構わないけど剣の稽古なんてつまらなくはないかな」
「ちっとも。剣を振るう綾人さんの姿なんて滅多に見られないもの、それに私の夫はとっても素敵な方だからなおさら見ておきたいな」
「……私は体を動かしているから平気だけど、葵はそうじゃないだろう? 体が冷える前に部屋へ戻るんだよ」

 剥き身の刀を持っているからか距離を保ったまま、綾人さんは私を気遣う言葉をかけて稽古を再開した。誤魔化していたけれど、今のは絶対に照れていた。
 空気を裂く音が響き渡る。天領奉行ではないのだから、社奉行としての公務中に綾人さんが剣を抜くことはそうそうないだろう。それでも神里流の名に恥じぬよう鍛錬を続けているのだ。
 ただ神里流は決して形ばかりの流派ではなく、実戦においても稲妻で高名な他の流派に引けを取らないらしい。木漏茶屋に務める従業員が神里流の素晴らしさひいては己に敗北を掴ませた綾人さんがいかに素晴らしい剣術を持つかを語っていたことがある。
 事実、綾華さんと出かけていたとき野伏に襲われたことがあるが、目にも留まらぬ早業をもってして返り討ちにしていた。ものの数秒だった。そんな彼女が「お兄様はもっと凄いのですよ、ふふ」と言うのだから、そうなのだろう。
 真剣な横顔を見つめる。滅多に見られない、まさに磨き上げられた鋭い方なのような空気を纏う彼を見て幸せを噛みしめる。私が近寄って来たことにもすぐ気づくほど気配に敏感なのに、今は私の衣ずれの音でも集中を乱さないのだから驚いてしまう。
 素敵な人だなあと考えながらしばらく眺めていると、綾人さんはおもむろに剣を鞘に仕舞った。

「おしまい?」
「いや……見つめられると案外集中できないものだね」
「んん……? 集中していたでしょう」
「そんなことないさ。気になって仕方がない」

 綾人さんは私に近づくと、正座をしている私を空から覆い隠すように屈みながら両手で私の頬を包み込んだ。運動であたたまっている手のひらから熱が分けられる。冷たくなっているじゃないか、と叱られた。
 ゆったりとした動作で彼の腕が背中に回った。抱き締められると薄い布越しに綾人さんの体温が伝わってきて、触れ合いもあってすぐに寒さなど気にならなくなった。このままでは彼の体が冷えてしまうとは思っても離れがたくて広い胸に顔を埋める。肩から垂れてくるひと房の髪の毛がくすぐったい。
 ふふ、と二人して笑っていればこちらに向かって近づく足音がした。顔を上げて見てみれば綾華さんとトーマが並んで歩いてくる。

「お姉様が薄着で向かわれたとトーマに聞きました。こちらをどうぞ、お体を崩すといけません」

 防寒用のコートを手にした綾華さんが私の肩にそれをかける。分け合った体温を逃さないように厚手の生地でしっかりと覆った。綾人さんは自分で羽織を着て仕度を整えている。
 トーマは朝餉の準備ができたことを伝えに来たのだろうか、と視線で問えばすべてを見抜いた綾人さんが口を開いた。

「朝餉はいつも私が着替えたあとに声をかけてくれるのに呼びに来るのはめずらしいね。何か新しいことでも思いついたのかい?」
「さすが若。本日は奥様も着替えが済んでいらっしゃいますしお嬢も厚着をなさっています、朝餉は雪見をしながらというのも乙なのではと思いまして」
「とても良い案だ、早速向かおう」
「火鉢の仕込みも済ませています、移動している間に温まっているでしょう。若もお風邪を引かないよう上にもう一枚羽織ってください」
「わかったよ。それでその上着は?」
「もちろん、朝餉と火鉢と共に」
「トーマは優秀だなあ」
「夜は熱燗を準備しましょう」
「それは気が早すぎないかい?」

 調子に乗るトーマに綾人さんは呆れたように返した。二人の掛け合いを聞いているとおかしくてならずに綾華さんと顔を見合わせて笑う。綾人さんに寄り添いながら、四人で朝餉を食べに向かった。

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