葵心いまだ差わず 参

 カシュン、と瑞々しい音が響き渡る。花鋏を置き、長さを整えた花のうち一本を手に取った。全体のバランスを考えながら大きな器に花をさしていく。

「美しい出来栄えです。やはり花があると心が和みますね」
「恐悦至極でございます」

 視察からお戻りになった将軍様が花を抱えてお戻りになったのがつい先程のこと。生けてほしいと言われた私はすぐさま花器と道具を用意して作業に取り掛かったのだった。
 将軍様は近くでずっと私の様子をご覧になっていた。政務のときよりも緊張したがご満足いただけたようで何よりだ。それにしても、花や鳥を愛でることは昔からなさっていたがこうして飾るための花を持ち帰って来られることはあまりない。一体どうなさったのだろうか。

「いきなり花を生けてほしいと言ったせいで困らせてしまいましたね」
「滅相もないことでございます、楽しいひとときをいただきました。まだ開いていない蕾も数日すれば見事に咲き誇るでしょう。花が少なくなっても見栄えは損なわれないように生けておきましたので、枯れましたら遠慮なくお声かけくださいませ」
「まあ、では……これらは日が経つことも考慮して形を整えてあるのですか? 素晴らしいです、神子に自慢しましょう」

 花がほころぶように楽し気な表情をなさる将軍様にこちらまであたたかな気持ちになる。
 将軍様の許可をいただき不要な葉や茎の始末と道具の片づけを行っていれば、まだ話があるからと言って場に留まることになった。あとのことを女中に任せて室内に将軍様と向かい合う。

「私のことを、貴方の神のことを話さねばとずっと考えていたのです」

 そう切り出した将軍様は、ご自身が双生の神であることや眞様という名の片割れがすでにこの世に亡いこと、自らも永遠を求めるべく肉体を手放したことをお話になった。稲妻の民、その多くが知らない真実を明かされて言葉も出ない。

「この身は私が作り出した永遠の礎。皆が『将軍』と呼ぶのはまさしく雷神バアルでも影であるバアルゼブルでもない、政を担うための存在なのです」

 頭のどこかで納得がいった。私を拾ってくださった御方……名を与え職務に相応しき能力を磨く機会をくださった方と、目の前のおだやかな御方はまるで別人のようだと感じていたのだ。人は変わるもの、恐れ多くも神もそうだったのだろうと思っていたがまさか本当に私の知る将軍様でなかったとは。
 複雑な思いをなんと形容すればいいのか、戸惑いを感じながら将軍様を見上げる。将軍様は困ったように笑い、失望しましたかとお尋ねになった。必死に頭を横に振って否定する。冷静に、だけど民である私のことを見捨てずにいてくださった将軍様も、本当は知らぬまま傍に置いてもいいものを真摯に向き合ってくださる目の前の御方も、私にとっては敬愛すべき我が国の神だ。

「秘密を教えていただき言葉もございません。貴方様の信頼に応えるべく一層精進して参ります」
「あまり気負わないでください。国を揺るがす秘密ではありますが、存外に知る者は多いのです。たとえば……神子はもちろん、旅人も知っています。神里家の当主も気づいていそうですね」
「旅人まで……?!」

 彼らは稲妻の民ではない。知り得たのは国の大事に関わったからだろうか、悪い人間ではないと思ってはいるがこれほどの機密を握らせていていいものか。
 妙な脂汗が沸いてくる。だが将軍様は危機感など覚える様子もなくのほほんとお茶を啜った。久しぶりに葵が持って来たお菓子が食べたいですね、などと仰るが話半分にしか耳に入ってこない。

「葵、こちらへ」

 混乱する私をよそに将軍様が傍に来るよう私を呼んだ。畳の上を静かに移動すると、髪をゆっくりと梳いた手に頭をひと撫でされる。

「将軍が貴方をここへ連れてきたのは為政者としての務めと慈悲によるもの。ですが私も彼女も……貴方のことを大切に思っているんですよ。貴方は気づいていますか、社奉行を離れてから自分の元気がないことに。己を見つめるというのはことのほか重要なものです」

 私の頬を包み込み、母のような眼差しで私を見つめると、将軍様は「今朝がた、神里綾人から謁見の申し入れがありました。そろそろ到着した頃合いでしょう」と教えてくださったのだった。



 花見坂へ行きませんか、と神里様が仰るので外を歩き回るのに適した着物に着替える。綾華様との文通で、執務で天守閣に引きこもってばかりいるせいで不健康な生活を送っていることがばれてしまったのだ。
 幸いなことにここ数日は手が空いていて、外出するのも問題なさそうだった。将軍様はもとより私に暇を与えるつもりだったのか許可も容易く通り、神里様に連れられて歩く。
 互いの名を呼び合うことは極力伏せようと事前に打合せをしていた。神里様は妹の綾華様とは違い滅多なことでは表に出ず、私も名ばかりが知れ渡っている。幕府の要職に就く者同士、身分を明かして市井を歩けば混乱を招いてしまう可能性があった。

「離島には他国の店もありなかなか面白いですが、やはり賑わいでは城下に勝るものはありません。時間はたくさんありますから色々と見て回るとしましょう、道中気になるものがあれば遠慮なく仰ってください」
「わかりました」

 商店街で買い物することはあっても花見坂までゆっくりと見て回ったことはない。浮足立つ気持ちを押えながら神里様に後れを取らないように歩みを進める。
 裾裁きに気をつけながら歩くのは存外に神経を使うものだが、何を言わずとも神里様は私の歩調に合わせてくださっていた。綾華様がいらっしゃるためこういった配慮にも慣れているのだろう。
 外出に誘われたことを感謝したくなるほど気持ちのいい天気だった。澄んだ空が思わず仰ぎ見ていたくなるほど清々しい。天守閣を出て、石畳みが綺麗に敷き詰められた商店街を歩いていく。
 他愛ない話をしながら進むうちに、ほうぼうから視線が寄せられていることに気がついた。何故だろう、と周囲を見渡すが老若男女問わず私と神里様を見ており、目が合うとだれもが愛想笑いを浮かべながらそそくさと退散する。悪い噂がささやかれている様子ではないけれど気になってしまう。

「おや、智樹がちょうど店を出しているようですね。寄ってみましょう」

 神里様の視線の先には屋台があった。屋台の店主は神里様を見るなり明るい表情になる。店主は神里家のおかげで商売が軌道に乗ったと私に説明し、彼に何度も礼を述べた。
 そのうち饒舌に語る店主の口から聞いたこともない食材の組み合わせを思わせる料理の名がが出てきて私は冷や汗を流す。よもや店主が出す商品は、神里様の食に対する挑戦的かつ先鋭的な感性と悪い形で噛み合っているのではないだろうかと。
 神里様は五目ミルクティーという商品を二人分購入する。さほど待たずに完成品を受け取ると、近場にあった木製のイスに座ってそれをいただくことになった。
 見た目は特筆するほど異様ではない。稲妻には雷元素の影響を受けたことによって紫の色素を持つ植物が多様に自生している。食用となれば限られてくるがスミレウリでも使われているのだろうか。あまり飲み物に適している風味ではなさそうだが。
 思うことは多々あるが物は試し、潔く五目ミルクティーを口にした。神里様の悪趣味には過去に何度か付き合ったことがあるため、もし食べるのが困難なものであったとしても今更遠慮して無理に完食する必要はない。……そう言っていつも完食するのだけど。
 筒から中の飲料を吸い上げると妙な舌触りの団子が勢いよく上がってきて喉につかえるかと思った。驚きで一瞬呼吸が止まるものの、今度は慎重に吸い上げる。まろやかな味が舌全体に広がった。
 甘さもちょうど良く、ほどよくみやすい団子も大きさがちょうどよく、舌の上で踊るのが楽しかった。美味しい。広告に力を入れれば人気が出そうだ。

「いかがでしょう、異国の飲み物ということもあり敬遠されがちですが味は悪くないはずです」
「とても美味しいです。五目と言うくらいですから色んな材料が使われているんでしょうが、紅茶と、牛乳、クリームと考えればあとはこの紫の色素を持つ材料くらいでしょうか」
「原材料を当ててみせましょうか?」
「……結構です」

 そのあたりでしょうね、という適当な同意が返ってくるものだと思っていたのに当てようかなどと改めて言われてはやけに含みがあって恐ろしくなる。味は悪くないけれど、想像を超えた材料を使われていたら食欲が失せるかもしれない。世の中には知らない方がいいこともあるだろう。
 美しく色づいた桜がひらりと舞って足元に落ちた。道脇の桜並木は稲妻名物であった。風に吹かれた薄桃の花びらが瓦屋根の上を舞う光景が私はいっとう好きだ。だけどいつもより一層美しく見えるのは、いつもと違って神里様が隣にいるからだろうか。
 景色を眺めていると私たちの足元に影ができる。影を作った方角を見やると年若い女性が二人、緊張した面持ちで立っていた。赤く上気した頬がわずかな興奮を伝える。
 体調でも悪いのだろうかと声をかけようとすると、彼女たちは堰を切ったように問いを投げた。

「あのっ……お二人は『若紫の君』と『奉行様』ですか……?!」
「はい……?」
「間違えました、流行りの小説『紫物語』の登場人物の再現をなさっているんですか? そっそれとも八重堂の企画中だったりしますか……?!」
「いえ、あの……?」

 拳を握って震えている彼女たちは緊張が最高潮に達しているのか半ば涙目だ。たしかに神里様は奉行様だけれど、私は若紫などと呼ばれたことは一度もない。八重堂、小説の登場人物、再現。言われたことを頭の中で繰り返していると神里様が「私たちは八重堂の関係者ではありませんよ」と答えた。
 まさか、八重宮司様と聡美さんに取材を受けた私と神里様が題材になった娯楽小説がすでに発売されていて、彼女たちは偶然見かけた私達に登場人物たちの気配を察したと言うのだろうか。なんて勘の鋭い、恐ろしい方々だ。

「どうして私達が登場人物の再現をしていると感じたのか聞いても?」
「だって挿絵と雰囲気が似ているんですもの! 『奉行様』の淡い髪色に月白の狩衣、『若紫の君』が必ず身に着けるという若紫色の衣……それに二人ともただならぬ仲に見えて……!」
「そんなに似ているとは、こそばゆいですね」

 愛想よく対応する神里様に助長されて二人は溢れるように言葉を紡いでいく。まるで決められた口上でも読み上げているのかと思うほど淀みない。『紫物語』の素晴らしさを熱弁する姿を眺めながら五目ミルクティーを啜った。喉は渇かないのだろうか。途切れることない弁論に他人事のように考える。
 娯楽小説には挿絵というものがあるのか。せっかく私の人生を元に物語を綴ってもらったのだから記念に一冊持っていてもいいかもしれない。側用人として十分すぎるほどの給料をいただいているけれど政務であまり天守閣を出ることのない私にはモラの使い道がない。今日は手持ちのモラをすべて使い切るくらいしてみよう、とようやく外出の目的を決める。
 突然声をかけたことや、そうにも関わらず快く対応したことに対して礼を言うと二人組は満足気に去って行った。五目ミルクティーを飲み終えて神里様と散歩を再開した。八重堂は石階段を下りた先にある。

「八重堂に寄ってもよろしいでしょうか、先ほどの本のことが気になって」
「購入なさるのですか?」
「そうですね、せっかくですから」

 八重堂に到着すると表に並んだ見世棚から本を探した。表紙が華やかで表題がかえってわかりづらい本もあれば、簡素すぎて中身を開かなければならないものもある。神里様も娯楽小説を読むことはないらしく、二人で一冊ずつ物色するしかない。
 紫物語の名前を繰り返していると八重堂の店主が「お客さん、何かお探しですか」と顔を覗かせた。彼に紫物語について尋ねようとしたところで今度は背後から声がかかる。

「葵……それに綾人ではないか。珍奇な客じゃのう、八重堂に何か用か?」

 八重堂の裏手から八重宮司様が姿を現す。巫女装束の上から羽織を着て眼鏡をかけるという見たことのない装いに目を丸くした。編集長という肩書に相応しい、知性を感じさせる格好だ。

「八重堂のファン二人に声をかけられたのです。紫物語の再現ですか、と。以前話に聞いた題材の小説が出版されたのではないかと思いまして」
「ああ! おかげさまで売れ行きは好調じゃ。汝らにも取材の礼に献本をせねばならぬと思っていた。ただ飛ぶように売れるため慌ただしくしておりなかなか会いに行く時間を取れなかったんじゃ、すまぬな」
「人気のようでなによりです」
「ううむ、正直なところ妾としてはもう少しだけ時機を見計らうつもりじゃったが……聡美の筆が乗りに乗ってしまい、止めるより勢いのまま書かせた方がよいと編集長として判断せざるを得んかった。実に惜しい。……さて汝らの時間に都合がつくのなら今から準備させよう」

 八重宮司様の知人と気を利かせた従業員が奥からイスを二脚運んでくる。厚意を無駄にしてはならないため座って待つことにした。

「八重様。挿絵が非常に高評価されているそうですが白亜先生が担当なさったのですか?」
「よくわかったのう」
「いくら執筆の早い作家がいようと、挿絵がある限りこうも早く発行はできないでしょう。高い画力を持ちながら短期間で仕事ができるとなればあの方以外にいないかと。こちらで指折りの絵師という話も聞いておりましたので」

 白亜という名には聞き覚えがあった。容彩祭で五歌仙の肖像画を担当した絵師ではなかっただろうか。国の文化財にも登録されるため期間は短かったが、見事復興が成功したと言えるだけの功績、その象徴として天守閣の廊下に展示されていた。
 モンド人らしいが稲妻の文化を取り入れつつ、世界観を上手く現代に落とし込んだ逸品だった。あれほどの絵師を独占的に抱え込んでいる八重堂の凄まじさを実感すると同時に、あの方によって私の絵が手掛けてあるのだと思うと誇らしい気持ちになる。
 ほどなくして準備された娯楽小説は贈答品として綺麗に紙で包まれて中身が見えない状態になっていた。

「ちゃんと初版じゃぞ、しかも妾の書評付きじゃ。実物はこんな感じになっておる」

 用意周到にも八重様は見本品を掲げて表紙を見るよう促した。

「そのままではありませんか」
「そのままですねえ」

 私と神里様の言葉が重なる。
 身に纏う着物は今の流行より数十年ほど昔の型で古めかしく、顔の造形も巧みに非現実感を練り込んだ絵柄になってはいるが、見る者が見ればわかる程度には私と神里様がきっちりしっかり表紙に描かれていた。
 ここまで当事者に寄せるのであれば詳細な説明をしたうえで許可を取って欲しかったと複雑な気持ちになる。天守閣であらぬ噂が立てられればどうすればいいのか。しかも、話に聞いた通りであれば作中で私と神里様が恋に落ちるのではなかったか。……私達の仲まで疑われればどうしてくれるのか。不勉強が招いた事態が急に不安を駆り立てた。

「たしか鳴神大社で恋模様も入れるなどとお話なさっていた気がしますが……」
「うむ、承諾はあのとき得たものと思っておったが。とはいえ二部構成になっているため上巻ではほんのり匂わせる程度じゃな。なに、本の言いなりになるようで嫌ならば汝らが先に仲を深めればいいだけのこと」
「八重様、それ以上は」
「……どうした綾人、何故そう凄む? おお怖い。……まあそうじゃな、妾に言えることは一つだけじゃ」

 好き放題に仰る八重宮司様に口元を引きつらせていれば神里様が八重宮司様の言葉を遮る。八重宮司様は肩を竦めると、私に向き直ってにっこりと笑みを浮かべた。悪巧みの数々を知り尽くした仙狐様の、将軍様にお仕えする私の先輩として何度も見せられている、生粋の良からぬお顔だ。

「最高のシンデレラストーリーを期待しておるぞ、葵」

 ──妾の愉悦のために。そんな副音声が聞こえた。



 八重堂を離れて長野原花火屋まで歩く。水車の近くで治安を守るために見回りをしていた武士と所用で話をすることとなり、そんな私達の様子を見守る民のささやかな垣根ができたところで、民がどうして私達を見ていたのかをようやく理解した。
 皆、私達を娯楽小説の登場人物に重ねていたのだ。
 私と神里様が本のモデルになった人物とまでは気づいていない様子だが、中には写真機で撮影してもいいか許可を求めてくる者もいた。一度声をかけられるとひっきりなしに呼び止められるようになっていく。丁重に断っているがこれではきりがない。
 立場を明かせば民に遮られることなくなるのだろうが公務ではないのだからと民に紛したことがかえって首を絞めていた。政敵を相手取るのとはわけが違う、民の好意的な態度を見れば彼らを無下にすることもできない。だが、すでに日が傾き始めている、暗くなる前に天守閣へ戻れるだろうか。
 横目で空の色を確認すれば神里様が恭しく私の手を取り、いつもより声を張って口にした。

「そろそろ戻るとしましょう。日が暮れてしまうと将軍様が心配なさいます」

 名を出したわけではない。民を邪険にしたわけでもない。ただ『紫物語』に出てくる公人によく似た男女が将軍様の名を出した、その事実を場の人々が多様に受け取る。

 本物の役人で、公務の邪魔をしているのではないか。
 八重堂の関係者で、劇の邪魔をしているのではないか。

 何にせよ波のように周囲の人が距離をとる。私達を見届ける、そのために。なんと無駄のない行動か、花見坂から天守閣に戻る道が開けたのをこれ幸いと、神里様は私と手の引いて歩き始めた。彼を見上げてひたすらに驚嘆する。

「流石ですね……一言で場を意のままになさるなんて」
「相手が何を望み、何を望んでいないのか……それらを冷静に見極めることさえできればあとは匙加減ひとつで解決するものですよ」

 なんてことないような口振りで神里様は返した。
 幼い頃から利発な方だった。年老いた者達に若さだけで侮られることも多いだろうが、伊達に幕府で奉行としての立場を築き上げてはいないと言うことか。社奉行が将軍様と最も近いことに心強さを感じた。



 天守閣を目前にして私達を呼ぶ声がした。橋の上で待っていたのは綾華様とトーマ殿だ。

「どうしたんだい二人して」
「トーマとこの辺りで用事を済ませていたのですが、お兄様と葵様が街を出歩かれていると話に聞いたのでご挨拶をして帰ろうと思ったのです」
「おや、お忍びのつもりだったのだけど……噂されてしまうほどあちこち回ったかな」
「お二人というよりは『紫物語』の二人が、ですね。背格好が葵様と若そっくりだということは存じていましたので、きっと話題になっているんだろうなと」

 トーマ殿の物言いはまるで紫物語を読んだかのようだった。早速知人が読んでいる事実に衝突した私が動揺していると綾華様とトーマ殿の微笑ましい視線が下へ向かう。私達の手元を見ているようだ。

「長年にわたる若の片思いも無事成就したご様子、今夜は盛大に祝いましょう!」
「本当に嬉しいです、葵様をこれからお姉様とお呼びできるだなんて」
「え?」

 わっ、と二人は手を合わせて喜ぶ。しかし私の素っ頓狂な声がすぐさま場に静寂をもたらした。笑顔から一転、固まった二人が一気に冷や汗をかき始める。

「誤解だよ。事情があってお手を拝借していたんだ」

 神里様のお言葉にどうしてか私の心臓まで縮む思いがした。

「か、神里様……」
「……二人とも外してくれるね」
「もっもちろんです!」

 そそくさと蜘蛛の子を散らすように退散する綾華様とトーマ殿に置いて行かないでほしいと縋りたくなる。だが片手はしっかりと神里様に握られたままで逃げることは叶わなかった。咄嗟に耳が遠くならなかったことが悔やまれる。
 退路を断つように神里様が私の名を呼ぶ。見上げた先に真剣な瞳があって覚悟を決めるしかなかった。空気を一変させた彼が何を告げようとしているのかは火を見るよりも明らかだ。

「単刀直入に申しますと、葵様のことをお慕いしております。将軍様のお近くで責務を果たそうとする誰よりもひたむきな御姿にずっと恋焦がれていました」

 神里様の熱い視線に心臓が早鐘を打つ。

「い、一体いつから……?」
「さて、いつからでしょう。ごく限られた機会ではありましたがお会いする度に想いを育んでいったように思います。想い人と結ばれたらどれほど幸せなことでしょうか……しかし貴方は生涯を側用人として全うされるお気持ちを固めていらしたご様子なので伝えるつもりはありませんでした」

 話しながら繋いだ手がゆっくりと離れていく。別れを告げられる前兆のようで焦燥に駆られた私は慌てて神里様を引き留めた。はっとしたときにはもう遅く嬉しそうな笑い声が落とされる。
 弄ばれたのだ。だけど今ので私も己の心を悟ってしまった。
 茹だってしまったのではないかと錯覚するほど顔が熱い。実際顔が赤らんでいるのだろう、神里様がゆるりと眦を下げ、あまりに慈愛に満ちた顔をするものだから袖で顔を覆うしかない。
 落ち込んでいると将軍様に指摘されたのが疑問でならなかった。社奉行で過ごした楽しい日々はたしかに私の心を占める思い出になっている。だけどよくよく思い返せば色鮮やかに残っている記憶のは神里様のお顔ばかりだ。
 そして花見坂を歩いた今日の思い出も、きっと同じくらい輝くだろうと自信をもって言えるくらいにはかけがえのないものになっている。
 汝はどうなのじゃ、と鳴神大社で八重宮司様に向けられた呆れ顔が私を追い詰めた。結局は八重宮司様の期待に応える形になってしまった悔しさのようなものが沸くけれど、今は感情の処理が追い付かなくて仙狐様の愉快な声を脳から締め出すことができない。
 ままならない声を上げるだけで神里様は十分満足している様子だ。繋ぎ直した手をぎゅうと握り込まれる。距離を詰めたのか、心なしか先ほどよりも近いところから降ってくる神里様の声が私の心を揺らす。

「神里家当主たるもの、いずれは妻を迎えなければなりません。持て余した心をどうしようかと頭を悩ませておりましたが……貴方が頷いてくださるのであればその必要もなさそうです」

 ──いかがでしょうか、まずは恋人という関係から。

 最後の最後で神里様は攻めをわずかにゆるめた。将軍様のお傍を離れる決断までは下せないが、恋心を自覚したばかりの私には効果的な一手だった。これも神里様が言う匙加減なのだろう。

「ふつつか者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたしします……」

 かろうじて返事をすれば神里様は甘やかに笑った。どこかから小さな歓声が上がる。綾華様のお声だ、きっと遠くから私達のやりとりを窺っていたのだろう。

「ありがとうございます。私も貴方も多忙な身ですが、会う機会を増やしていきたいものですね。手紙にてご都合をお尋ねいたします。日も暮れますので後日改めて伺いますが、将軍様にもお目通りいただきあらましをご報告差し上げなければ」
「き……気持ちを伝えるつもりがないと殊勝なことを仰っていた割には次の段階へ移るのが早すぎませんか?」

 気後れした私が申し出を断るなどとは考えもしないのだろうか。
 そんな脅しも含めて睨み上げても神里様はまったく堪えないようだ。いつになく浮ついた様子で、袖で顔を隠していた方の手まで握り取られる。そして端正な顔立ちをまぶしすぎるほど輝かせて、堂々と言いのけたのだった。

「ふふっ、終わり良ければ総て良し、と言いますでしょう?」

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