葵心いまだ差わず 弐

 容彩祭で滞った社奉行の通常業務も片づきつつある。これだけの量の業務を主に兄妹で回していることには大層驚かされる。同時に憂慮してもいた。
 三奉行のうち社奉行は民の生活に深くかかわる事柄を扱っていると言えるだろう。民の相談も受けながら行政も行い、かつそれらの責任すべてがまだ若い当主とその妹の肩に乗っているのだ。
 神里家は先祖の代に国の重要な宝を失った責を問われている。私がまだ幕府にいない頃の話だったため資料に目を通した限りでしか当時のことは知り得ないが、過去がまだ社奉行に大きな爪痕を残しているのだと思うと憐れでならなかった。
 いくら奉行所内で片付けるべきことだとしても、神里家に代わる家がない以上は神里家の没落は社奉行の機能停止を表す。社奉行の業務が滞れば民の生活もたちまち立ち行かなくなるだろう。
 現実を知った以上は行動を起こさないわけにいかない。だが将軍様に口添えするにしても私がどの程度まで首を突っ込んでいいかは慎重な判断が求められる。調査と準備を入念に行う必要がありそうだ。
 神里様は公務のため朝から神里屋敷を空けている。私が手伝いに来てから様子を見て神里様は外出を伴う公務へ向かうことも増えていった。当主不在の間は妹君が屋敷を守っているのだろう、白鷺の御方とご挨拶をしたのも神里様が最初に外出すると知らされたときだった。

「葵様、失礼いたします」

 襖の向こうから入室の許可を求める声がする。涼やかな声は白鷺の御方のものだ。筆を置き、顔を上げて返事をした。
 立つ鳥跡を濁さずとは言うが来訪さえも美しい白鷺の御方を迎える。完璧な所作に感嘆の息を吐いた。

「ご公務のお邪魔をしてしまい申し訳ありません。本日分の事務処理が終わりそうだと聞いたものですから」
「ええ、社奉行様の許可を必要とするもの以外は済ませておりますので問題ありませんよ。お戻りになられた際にご確認いただく予定です」
「では休憩をお取りになりませんか? 庭でお茶をするのにぴったりなお天気です、葵様がよろしければご一緒に」

 花も恥じらう愛らしい笑みを向けられて断る人間などいないだろう。快諾して部屋を出る。案内された先にはすでに茶器が一式準備されていた。待機していた家司が頭を垂れる。
 丁寧に剪定された庭木と砂利、神里屋敷に集う鳥のさえずり。見事な景観は神里兄妹と気の置けない間柄にある家司トーマ殿の手腕によるものだろう。彼はモンドからやってきて神里家に長年奉公していると聞いている。気遣いが細やかで神里屋敷の一室を借りている私も大変世話になっていた。
 公務にあたる間はまるで私が神里屋敷の主であるかのような待遇を受けることすらあり、わずかな座りの悪さを感じていた。だからこそ、こうしてもてなされると客人という心地がして落ち着くことができる。
 勧められたお菓子を手に取った。美しい造形を崩すのはもったいないけれどきっと口にしないのもそれ以上にもったいないのだろう。一口大に切り分けて頬張るとやさしい甘みが舌いっぱいに広がる。
 お点前ちょうだいいたします、と厳かに言う。声が震えていないか心配だ。将軍様の恥とならないようかなり心を砕いて芸事を磨いたつもりだが、生まれながらに高貴な神里家のご令嬢の前で披露するとなるとやはり自信がなくなってしまう。
 私の緊張は伝わっていたのか、他愛ない話をして空気を和らげてくださる白鷺の御方にほっと胸をなでおろした。

「葵様とお茶ができる日がくるなんて嬉しいです」
「私もです、白鷺の御方とはずっと話をしてみたいと思っておりました」
「まあ! どうぞ綾華とお呼びください」
「では……綾華様、と」

 高貴な身分を持つ女性、さらに年が近い方と関わることがないせいでお名前を直接呼ぶことが面映ゆい。柊千里様とは何度かお会いしたことがあるものの、彼女は後継としての教育を受けていないせいか直接話をしたことまではなく、名を呼び合うほどの仲にはならなかった。
 私は大抵の場で『葵の御方』と呼ばれる。綾華様が私を葵様と呼ぶのは兄である神里綾人様に少なからぬ影響を受けているのだろうが、もし彼女にも親しくなりたいという気持ちがあって気さくに呼んでくださっているのだとしたら、と期待してしまった。

「打掛のお色がとても美しいですね。似合っていらっしゃいます」
「ありがとうございます。葵と呼ばれるようになってからは紫色の衣を纏うことが増えましたが、見慣れてしまって最近では化粧に合っているのかもわからなくなってしまい……綾華様のお言葉に心安らぎました」

 綾華様がおかしそうに笑う。良家のご令嬢に相応しくおだやかに話す方だ。結った髪が静かに揺れているのを見ながら午後の日差しに目を細める。

「おや、茶会をしているのかい?」

 背後から声がかかり、振り向いた先に神里様がいらっしゃった。兄を呼ぶ綾華様の声と、主君を呼ぶトーマ殿の声が重なる。仲のいい神里家の様子に微笑ましくなりながら、一拍遅れて私も公務から戻った彼に挨拶をした。

「お兄様もぜひ。トーマ」
「はいお嬢。準備をしてまいります、しばしお待ちを」
「ではお相伴しようかな」

 失礼いたします、と言って神里様が私の隣に正座する。楽し気に位置取りして笑い合う兄妹にそちらで良いのですかと聞くのも野暮なため了承する意味で会釈のみしておいた。
 茶会が始まるというのに公務の話をするわけにもいかないだろう。かといって綾華様と話していたのは着物の柄について、神里様が加わった場では適切な話題とは言えない。ここは兄妹に委ねるべきかと二人をうかがう。

「お兄様とお茶をするのも久しぶりですね」
「互いに立て込んでいたからね。こうしてのんびりと過ごせるのも葵様が来てくださったおかげだ。二人でどんな話をしていたんだい?」
「花木やお天気、あとはお着物のお話などをしました。葵様は紫色のお着物をよくお召しになるのだそうです」
「たしかにお見掛けするときは紫……とくに葵色をよく身に付けていらっしゃいますね。お好きなのですか?」

 神里様の話にどう説明すればいいものか頭を悩ませる。言葉を濁している私に兄妹揃って不思議そうな顔を向けて、私が話しだすのを待っていた。

「明るい紫色のことを葵色と言いますでしょう。将軍様を表す濃紫に近い色合いが側用人であることを示すのに適していたのです。将軍様にこのような意図はなかったのでしょうが、若気の至りといいますか……続けているうちに幼稚な発想だと思うときもありましたが止め時を見失ってしまい……」

 もにょもにょと小さな声で言い訳を述べた私に綾華様が「お可愛らしいですね」と口にする。
 快活な足さばきでトーマ殿が庭へ戻ってきた。茶会を仕切り直すための準備を整え終えると庭にはふたたび静寂が訪れる。神里様は当主に相応しい所作でお茶をいただく。腕を上げたねという賛辞に綾華様が破顔一笑した。



 社奉行を訪ねた民の対応をするために綾華様は離席することとなった。茶会はお開きになり神里様と屋敷の中へ戻る。神里様の執務室へ続く縁側からは海を一望できた。水平線に沈んでいく夕日が美しいのだと神里様が話す。潮の香りが吹き込んで、庭とはまた違った風情を感じた。
 神里様が公務で外出していた間に片付けた業務の確認をお願いする。すべてに目を通し終えた彼が問題ないことを告げると、申し訳なさそうに居住まいを正した。

「先ほども話しましたが、社奉行の業務は葵様のお力でずいぶんと捗りました。あらためて感謝申し上げます」
「民のため、ひいては国のためですもの。かしこまらないでください」
「そうはいきません。私は、貴方に謝らなければならないのです。……実は本日の公務で八重様にお会いしまして、今しばらく葵様にお力添えをいただきたい旨を相談して参りました。八重様から将軍様に話を通してくださるとのことでしたが……貴方には事後承諾をいただく形となり申し訳ありません」
「将軍様の許可が下りるのでしたら構いません。しかし容彩祭が終わった今、社奉行には数か月先まで大きな祭や婚礼などの行事は控えていなかったかと思いますが、私は一体何をすればいいのでしょう」
「業務の効率化についてご意見をいただけますか。そしてそれを社奉行内に定着させたいと考えております。ご存知かと思いますが社奉行は三奉行のなかで最も人手が足りていません、葵様のお手を煩わせることにはなりますが余裕があるうちに打てる手を打っておきたい次第です」

 天領奉行は公安、勘定奉行は金融、社奉行は文化に関わることを担っている。だが実際に仕事を振り分ける段階になると三奉行のうちどこに渡すべきかという問題に行き当たるときがある。そして適切な判断を下すのが困難な場合が多いのだ。そうした場合、大抵が社奉行へと相談されることになると彼は話した。
 神里様の判断で他の奉行所が担うべき業務であると判断した場合は他へ流し、それ以外は社奉行が業務にあたっているのが現状だが、これは非常に効率が悪いとのことだった。話を聞きながら同感する。三奉行の役割を明確化し、周知させて連絡の無駄を省くべきだろう。

「それと可能な限りで構わないのですが、社奉行の職員に書類の作り方をご指南いただけないでしょうか。役人方に目を通していただく際の書式がありますでしょう。ずっと教えなければと思いつつも手が空かず先延ばしにしておりまして」
「普段はどうなさっていたんですか?」
「私が筆を入れておりました」
「それは……大変なこともおありでしたでしょう。神里様のご負担が減るよう計らいますね」

 私の言葉に神里様は肩の荷が下りるとでも言いたげな身振りを見せる。わざとらしさがおかしくて声を立てて笑ってしまった。

「これは八重様からの伝言ですが、二日後に鳴神大社へ来て欲しいそうです。屋敷を出て前方の道を進むと石階段がありますのでそちらを登っていくだけですが、必要であれば人を付けましょう」
「道案内は大丈夫です。鳴神大社へは一度行ったことがありますので」

 鳴神大社への道中が危険だとは思えないので護衛も不要だろうと道案内は断る。社奉行の人員が不足しているという話をしたあとに頼む気にはなれなかったのだ。





 鳴神大社に向かうため社奉行を出発した私は頭を捻っていた。神里屋敷を出る前に警備はご安心をという神里様の言葉をトーマ殿が伝えに来たのだ。だが神里屋敷を出たのは私一人である。
 以前のように、スミレウリを採集している民でも近くにいるのだろうか。奇妙な気持ちで周囲をそれとなく見ながら鳴神大社に向かうものの、鳥居をくぐり終えるまでそれらしい人影はついぞ見つけることができなかった。
 鳴神大社の入口に立っている巫女に八重宮司様に招かれた旨を伝えると奥殿まで案内される。社の入口から顔を覗かせた八重宮司様がおいでおいでと手招きをしていた。

「よう来たのう、葵。汝の好きな茶菓子もたんまり用意しておる、今日はのんびりしてゆけ」
「はい。そちらの方は……?」
「八重堂の作家で聡美と言う。聡美、こちらがかの葵の御方じゃ」
「お会いできて光栄です葵の方様。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「ええ、よろしくお願いいたします」

 よろしくって、何を?
 にっこりと微笑むお二方に合わせて咄嗟に笑顔を取り繕ったが何のことだかわからなかった。八重宮司様が何かしらの目的があって聡美さんと私を同席させたことはわかるが、その先が全く想像できないのだ。
 八重堂とは、八重宮司様が立ち上げた出版事業の名だろう。そこに所属する人物となれば行政に携わる氏族の一員ではあるまい。鳴神大社の巫女というわけでもなさそうだ。宮司、出版業の従業員、側用人が集まる目的とは一体。

「さて、葵の頭は疑問で満ちておることじゃろう。なぜ妾が汝を八重堂の作家と引き合わせたのか、聞き耳を立てようとする不届き者を排除してまで秘密の会合を開こうとしているのか……娯楽小説ならば『私の人生、どうなっちゃうの〜?!』といったセリフが入るはずじゃ」
「は、はい」

 聞き耳を立てようとする不届き者とは、そんな疑問を挟める空気でも、突然の妙な声音を指摘できる空気でもなくて神妙に頷く。

「容彩祭が終わり、八重堂の出版物や一般公募で反響があった印刷物の再版も終わって、八重堂は次の出版に向けて動き始めておる。聡美と次に出す小説の題材について打ち合わせを行っていた際に妾は思いついたんじゃ、葵をモデルにした物語を書いてはどうかとな」
「将軍様の側用人は当代では葵の方様おひとり。八重様と懇意にしていらっしゃると知って様々なお話を聞くうちに創作意欲を掻き立てられました! お若いのに実力で今のお立場を得られたなんて尊敬いたします」
「最近の娯楽小説には転生ものが多すぎる。じゃが他の作品に触発されて創作意欲が沸くこともまた事実、作家達に他の題材を探せと無理を通すのも難しくての。それに流行を先取りするならまだしも流行を意味もなく断つなど言語道断じゃ。その点、聡美は色んな作風や題材を使い分ける技術をすでに持っている。実在する人物をモデルにすればリアリティもあってよい。ちょうど汝らが面白いことになりそうなこともあり今が好機と判断したのじゃ」
「左様でございますか」

 わからない。八重宮司様が何を仰っているのか、最初から最後までわからなかった。そもそも娯楽小説というものが理解できていない。何冊か将軍様に寄贈なさっていたことは知っているが、将軍様が熱心に読んでいらっしゃる姿を見守るばかりで私は手に取ったことすらなかった。
 八重宮司様も私の反応を見れば私が話の本質を少しも理解していないと感じただろう。それでも事を進めようとするのだからきっと私の理解は必要ないに違いない。問われたことに答えれば十分、そんな空気が漂っていた。
 わかっておるじゃろうが、国の政務に障ることは言うでないぞ。
 きらりと光った紫が言外に告げる。深く頷いた私にぱっと空気を切り替えた八重宮司様は手のひらを小気味良く叩いた。

「では、綾人との出会いから今日までのやりとりを存分に話すとよい」



「信じられぬ……あの若造、妾がここまでお膳立てしてやったというのに何も進展させていないとは……」

 半眼になりぶちぶちと不満を漏らす八重宮司様に身が竦んだ。聡美さんは八重様に苦笑しつつも「ですか十分すぎる情報をいただきましたよ。幕府でのし上がっていく痛快さだけでも面白くなるかと。早く帰って執筆したいくらいです」と興奮の色を乗せて話す。

「実在する人物を元にしていると知っているからこそ作中で描かれる恋模様が現実なのか創作なのかと読み手はハラハラドキドキするのじゃろう。好奇心を煽るのがポイントじゃ、真相をたしかめたくなって人伝手に噂を集めようとし、それが新たな読者を増やす呼び水となる。相手が社奉行様というのがまたいいんじゃ、民に近しい白鷺の姫君の兄でありながら、滅多に姿を見せない謎に包まれている人物というな」
「どうかご心配なく、娯楽小説なんですからいくらでも想像を膨らませて書きますよ。絶対に面白いものを生み出してみせます、八重堂の主力作家としての矜持がありますから」
「まったく、汝の手腕を心配してなどおらぬ。創作だけに留まらぬ可能性があるというのに創作するのがつまらぬだけじゃ」

 お二方の会話は毬よりもぽんぽんと良く跳ねる。内容を理解するよりも先に会話が進んでいくため感心しながら聞いているばかりだが、場の空気を楽しみながら耳を傾けていれば八重宮司様の呆れたような視線が飛んできた。

「汝はどうなのじゃ」
「どうとは?」
「あの若造をどう思っている? 客観的に評価するならば綾人は眉目秀麗、文武両道な人物。物腰もやわらかく女子にはさぞ人気ある男子と思うが」
「ええと……」

 即座に答えることができない質問に口を手で覆って考える。

「社奉行様はそれほどまでに素晴らしい男性なんですか?」
「うむ、まあ……惚れると面倒そうな男ではあるから薦めはせんが」
「ますます小説にうってつけの人物ですね……馬に蹴られたくはありませんが参考にお話をうかがいたいような気はします。社奉行様を主役にしたスピンオフを書いても面白いかと」
「……稲妻を脅かさんとする影と愛する者に迫る牙、様々な思惑が暗躍するなか、冷徹さとやさしさの両面を見せる奉行様に読者の心は鷲掴みされてしまい──……! 反響間違いなしではないか。社奉行に取材を申し込む手紙を書いて葵に持たせるとしよう、紙と朱印を取ってくる」

 答えを悩んでいる間にもお二人の会話は弾み、八重宮司様は質問の答えも聞かないまま社から姿を消す。放置された私が呆然としていればメモを取っていた聡美さんと目が合った。
 人が良い笑顔を浮かべた聡美さんは八重宮司様と違って遠慮がちに口を開く。

「それで……いかがなのですか、社奉行様のこと」

 好奇心、小説の題材としての情報収集。先程までのそういった気配はなく、個人として向かい合い胸の内を聞かれている気がした。だから私も臆することなく用意した返事を出すことができる。

「八重宮司様も仰るとおり素敵な男性だと思います。そうですね……時々可愛らしい意地悪をなさるところも、笑うと少し幼く見えるところも魅力的かと。ただ私はこれまで公人としてあの方と接してきましたので皆様がお望みの感情を抱いたことは一度もなく……」
「……ふふ、そうですか。参考にさせていただきます」
「何か参考にするところがありましたか……?」

 前言撤回、情報収集だったと知り肩を落としていれば社の戸が大きな音を立てて開いた。

「妾は今、何か面白いことを聞き逃しはしなかったか?」
「すべて小説に書きおこしますのでご安心ください」

 手に紙と朱印を持った八重宮司様が深刻な表情をして飛び込んで来たことに驚いていると、聡美さんが楽しみでならないと言いたげに返事をして八重宮司様を歯噛みさせていた。



 鳴神大社をあとにして赤々と照る夕日を見ながら神里屋敷へ帰る。私よりも先に公務を終えて社奉行へ戻っていた神里様に、八重宮司様から託された手紙を渡した。内容に目を通した神里様は取材の申し込みに不可解な顔をする。

「私をモデルにした娯楽小説を書きたい……とありますが、鳴神大社で一体どんな話をしたんですか?」
「神里様と同じです。庶民が側用人に出世する話を書きたい、と仰って」
「……成程。困りましたね……」

 たったこれだけで何かを察した様子の神里様は手で顔を覆った。不都合があるのであれば断ってはどうかと言うが、神里様は曖昧に唸るだけだ。
 神里様は懸念をなくすために多少の不都合には目を瞑るべきかとつぶやいた。一度話をする機会は設けておくべきかと検討する様子に大丈夫だろうかと心配する。多忙な時間を縫ってまで対応すべきとは思えない。
 社奉行が多忙なことはここへ私を遣わす後押しをした八重宮司様も理解しているはずだが、と考えたところで頭を振った。あの方は自分の欲望に忠実だ。人を困らせることにおいては右に出る者がない。神里様が困り果てるのもきっと計画のうちなのだろう。





 社奉行の職員に業務の手ほどきを始めて幾日かが過ぎた。私が教えられることなど数少ないものだったが、職員たちが達成感と業務の効率が上がった喜びを忌憚なく口にしてくれるものだから安堵する。神里様の負担が減ったことについても我がことのように喜ぶ者が多かった。あたたかな職場だ。
 存外にゆったりと過ごす時間があり、綾華様が手掛けた書画を拝見したりトーマ殿からモンドの話を聞いたり、社奉行の職員と世間話に興じたりして過ごすこともあった。朝になると布団の中で体を起こしたまま社奉行で過ごす一日の計画を立ててしまうくらいには私にとって居心地のいい場所となっていた。
 葵様がこのまま社奉行にいてくださればいいのに、と誰もが言ってくれる。それがまた心地よく、面映ゆい。
 神里様は並々ならぬ棋局の腕前をお持ちで、いつか勝ちを取ってみたいのだと意気込むトーマ殿の相手を何度か務めていると、それを知ったらしい神里様にも棋局に誘われることとなった。公務の息抜きに一局いかがですかと言われて対局する。
 若い時分から政界に参入しただけあって、神里様は巧みな策を弄して着実に私を追い込んだ。袖で隠せないほど苦い顔をして応戦する私を涼しい顔で見つめているのが憎らしい。

「ご実家の件ですが、先日ご挨拶をする機会がありましたので少々お話をして参りました」
「えっ?」

 急な話題に意表を突かれて駒を予定とは違う段に置いてしまった。あ、と思ったときにはすでに遅く、神里様が次の手を指す。
 仕方ないため後々この状況を巻き返そうと考えていると神里様が言葉を続けた。

「お義兄様が落馬事故を手引きしたのではないかという件です。九条家当主代理の九条鎌治様、天領奉行将領の九条裟羅様が揃う場にて、葵様のご実家の処遇を決める話し合いに同席いたしました。事前に押えた証拠を九条裟羅様と共有して私の意向は伝えておりましたので、当日は座っていただけですがね」
「そうだったのですか」
「側用人である葵様に危害を加えるなどあってはならないこと、それも天領奉行に籍がある一族の長が加害者となれば事は重大です、将軍様に仇名すも同然ですから。九条鎌治様も深刻に事態を捉えておられました。他家の承認を得たうえで委任状を持ち、ご実家は九条家の名の下にお家取潰しと相成りました。社奉行神里家当主として連名で将軍様への献上書を作成しております」
「えっ」

 またあらぬ場所に駒を置いてしまう。目を丸くしてどうかなさいましたかと聞かれるが、あまりにも呆気なく家がなくなったものだからしばらく呆然としてしまう。

「いえ、そう……ですか。なくなったのですね、あの家は」

 口に出してみるとあの家に愛着などなかったことをしみじみと感じる。だが胸にざらりとした感情だけは残ることに気づき、ふっと腕の力を抜いた。

「あの家に私の居場所はありませんでしたが、私の中にはあの家の居場所があったようです。まさか反骨心で自分を保っていたなど気づきたくもありませんでしたが……あ、」

 ぱちん、と神里様が指した駒に声が漏れる。盤面を見れば私の敗北は明らかだ。参りましたと口にすると神里様が立ち上がった。将棋盤が置かれた机を回り込み私の隣に腰を下ろす。袂を整える所作に煩わしさがにじみ出ており、目を瞬きながら神里様を見上げると険しい顔を向けられた。

「葵様」
「はい」
「貴方の敵に回った者へ与えるのは情け容赦のない罰だけにするのです。そして、貴方を大切に思う者にのみ心をお割きなさい。身も心も国のために捧げるのが公人というものですが、人としての尊厳までも奪われていい道理などないのですから」

 神里様から鋭い叱責が飛ぶ。言葉尻に少々の苛立ちが滲んでいた。

「怒っていらっしゃるのですか」
「何故そうお考えに?」
「……いえ、失言でした。どうぞお忘れください」

 以前は私が自身に頓着しないから怒るに怒れないと言われた。ならば私が自分に向き合ったから怒っているのだと考えるのが妥当だ。だが、きっとこの答えは神里様が望むものではない。正直に言えば何となくもっとお怒りになる気がして発言を撤回した。

「お心遣いいただきありがとうございます。……ご忠告は深く胸に刻んでおきます。側用人として力の使い方を誤っては将軍様のご迷惑にもなるでしょう、義兄を捨て置いたのは私の間違いでございました。……仰る通り、私がすべきは神里様や社奉行の皆様に礼を尽くすことですね」

 お茶を濁すように笑みを浮かべて言えば場の空気が弛緩する。今の返答で及第点くらいはいただけたのだろうかと密かに胸を撫でおろすしかなかった。





「お戻りになるのですね。長いようで短い日々でした……すごく寂しいです」

 綾華様の声が悲し気に揺れる。すっかり打ち解けて姉と妹のように過ごしていたから寂しさがひとしおに身にしみる。神里様とは公務で会えるだろうが、市井と社奉行を繋ぐことが多い綾華様とは滅多なことでは会えなくなるだろう。掴んだ手のひらをぎゅっと握り返した。

「暇を見つけて遊びに参ります。綾華様、どうぞ息災にお過ごしください」
「はい、葵様もどうかお元気で。お兄様をよろしくお願いいたします」

 そうして長く世話になった神里屋敷を離れ、私は久しぶりに将軍様がいらっしゃる天守閣へと戻ったのだった。

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