葵心いまだ差わず 壱

 天守閣の最上階に座す御方、空を穿つ雷霆の如く我々を導きくださる御建鳴神主尊大御所様の凛とした声が私を呼ぶ。
 これまでは城下に出ることなく政務に当たっていた将軍様が折に触れて城下へ降りるようになったのは最近のことだ。奉行所や臣民からの報告だけで済まさずに、この目で国を見たいと仰る将軍様に異を唱える者はいない。よって将軍様が不在にしている間は恐れながら私が政務の一部を預かっている。
 本日は光華容彩祭という歴史の影に消えた催しが再興されることで外出なさっていた。走衆もつけずにお歩きになるなど、という声は武を極めし将軍様には無礼にあたる。そうして数刻ののち、慣れたご様子で一人お戻りになった将軍様を出迎えたのだ。

「城下はいかがでしたか?」
「そうですね……記憶にある容彩祭とは様相が違いました。話に聞いてはいましたが神子の好きなものが詰め込まれた催しになっているといったところでしょうか。ですがいい祭になるでしょう、多くの民が参加しているようで様々な出店があり、離島も賑わっていましたよ」

 やわらかな表情をおつくりになる将軍様に私も思わず笑みを零す。貴き将軍様に親しみを持つなど身の程を弁えない行為だが、軽薄にも私見を述べさせていただくとすれば、御前で話すだけでその神威に飲まれてしまいそうなほどの空気を放っていた以前と比べてずいぶんと穏やかになられた気がしていた。
 何が起こったのかはわからないけれど、私は将軍様の変化を喜ばしく思っている。花がほころぶように楽しげにお話を続ける将軍様に相槌を打ちながら私はしばらく見ていない城下の様子に思いを馳せた。

「そうそう、貴方に頼みたいことがあるのですが」
「なんなりとお申し付けくださいませ」
「神子が送ってきた人形の見本品があるでしょう。あれを天領奉行に送ってほしいのです。差出人は旅人で」
「御建鳴神主尊大御所様像のことでございますね。承知いたしました、早速手続きに参ります。……社奉行に用事があるため一緒に済ませてこようかと思いますが、外出許可をいただいてもよろしいでしょうか?」
「構いませんよ、せっかくですから貴方も祭の雰囲気を楽しんできてください」

 将軍様から旅人の名が出てきて合点がいった。将軍様に何が起こったかわからないとは言ったが、かの者がお心を変えるきっかけになったことくらいは察しがついている。八重宮司様がいい風を運んできたと仰っているのを聞いたけれど、此度も稲妻に新たな風を運びこんでいたようだ。
 政務を将軍様にお戻しして退室する。預かった御建鳴神主尊大御所様像を見下ろして少々惜しい気持ちを抱きつつも、これは私の所有物ではないのだと律して見目のいい化粧箱を見繕い、天守閣を後にした。



 天領奉行府へ品を届けた足で、武士数名が護衛するもと、馬を駆り社奉行所へと向かう。影向山の近くに構える神里屋敷へ行くのはいつぶりだろうか。
 社奉行所の入口に立っている者が私の顔を知っていてくれた。おかげで煩雑な手続きも必要とせず中へと案内される。
 光華容彩祭は八重宮司様と社奉行が連携を取って執り行われている行事だ。社奉行の顔でもある妹君、白鷺の御方が離島で忙しなく働いていることは聞き及んでいる。つまり、通された先にだれが待ち構えているのかは考えずともわかった。

「ようこそいらっしゃいました、葵様」

 社奉行、神里家当主神里綾人様が立ち上がって私を迎える。少なからぬ縁はあれども互いの立場や公務もあり対面するのは久方ぶりだった。親しみをもって将軍様にいただいた『葵』の名で呼んでくれる彼に私も礼を尽くす。

「お久しぶりですね神里様。お時間をいただきありがとうございます」
「いえいえ、遠路はるばるいらしてくださったのですからどうぞのんびりなさってください。とびきり美味しい茶菓子があるのですぐ用意させましょう。お好きだったでしょう、甘い物」

 覚えていてくださった嬉しさから表情が崩れた。
 若い時分は甘いものに目がなく暇さえあれば城下に出て甘味を買い集めていた。今の役職につく前、神里様が将軍様にお目通りするまでの待ち時間に話し相手を務めたことが何度もある。年が近いこともあってか話も弾む彼相手に、気に入っている甘味を分けたことも数知れない。
 もう随分と昔のように感じるのだから年を取ってしまったなあと年寄りじみたことを口にすると、まだ若いではありませんかとわずかな呆れを含んだ苦笑を返されてしまった。
 そうして他愛ない話をしていると神里家の家司がやってきた。注がれた茶から漂う香りだけでも社奉行が出すにふさわしい品格をしていることがうかがえる。

「本日はどのようなご用件でいらっしゃったのでしょうか」

 お茶を飲み、ひと息吐いたところで神里様が会話を切り出した。
 容彩祭について社奉行が申請した書類のうち、五歌仙が描かれる画布を祭の終了後どう扱うかについてのみ回答が滞っていた。今では失われてしまっている物語について、たとえ他国の絵師による現代の解釈が含まれようともそれを再現した絵は重要な文化遺産になるため、他の有力な氏族も交えて検討すべきだと判断されたのだ。
 話し合いによって決まった内容と後日正式に書面が届くことを伝え、容彩祭とは別の政にかかわることについても話をした。

「以上が社奉行にお伝えする内容です」
「ご丁寧にありがとうございます。しかし、葵様が直々にご訪問なさるにしては些か内容が緊急性に欠ける。どれも奉行所の人間を介していいものばかりです。何か他の事情があるのでは?」
「ご明察のとおり、実は将軍様に頼まれたおつかいのついでに寄ったのです」
「私とのお茶がついでとは。あんまりな言い方ではありませんか」
「公務ばかりの日々を送っていらっしゃるそうですから、息抜きになっていいでしょう?」

 ちっとも不満や悲しみなど感じさせない顔で言う神里様は、笑うだけで取りつく島もない私にわざとらしく肩を竦めた。立場を脇に置いたおふざけに相応な反応をしてくださるところは彼の度量の広さ故だろう。
 たまに奇天烈な食べ物を薦めてられることはあるものの、由緒ある神里家の当主らしく確かな舌をお持ちだ。神里様がすすめたお菓子は実に美味で舌鼓を打つ。どこで購入したものだろうか、将軍様も甘いものがお好きでいらっしゃるから手土産にしたいものだ。

「少し前のことになりますか。天領奉行の九条鎌治様と勘定奉行の柊千里様の婚姻が話題に上ったでしょう」

 将軍様のことを思い出したので城下を騒がせていた噂を口にした。神里様はそれが本当の目的だろうとでも言いたげな瞳を笑みの向こうへ巧みに隠す。彼は相変わらず社交辞令や世辞といった煩わしい物事が嫌いなのだなと思い出して座りが悪くなった。普段から利権の奪い合いをしているご老公を相手にしていればもはや癖になっているのだ、前置きをするというのが。
 結論から述べていいのであればと菓子を置き居住まいを正した。彼も私が空気を変えたことに気づき社奉行の姿勢をとる。

「勘定奉行で生じた不穏の芽については承知しておりました。先の天領奉行に次ぐ此度の件、どのように始末をつけるか見守っていましたが社奉行が執り成したご様子。……三奉行が安定するのは良いことです。当代ある限り空を駆ける雷霆が遮られることはないと安心いたしました。神里家がこれからも鳴神のご意思と共にあることを望みます」
「過分なお言葉、痛み入ります。より一層精進して参ります」

 将軍様に名代を立てられたわけでもないため出過ぎた真似かとは考えた。それでも私は神里家の忠義を尊敬していて、せめて一個人として感謝を伝えたかったのだ。尊大な物言いになってしまったことに少々ばつが悪くなって言い訳じみたことを考える。
 将軍様は滅多なことでは公に彼らを労うことがない。そも、姿を表に出すことすら数百年なく、側用人やごく限られた女中のみが身辺のお世話や政務の伝達を行う時代が続いていた。
 そんな中、私はありがたくも将軍様のただ一人の側用人を務めている。貴き御方のお言葉を一番近くで拝聴している私が、お言葉をそのまま伝えることまではできなくとも、そこに含まれた感心のひと欠片を国一番の忠臣に届けてやるくらいはきっとお許しくださるだろう。
 静かにお茶をすすると、ふっと神里様が小さく息を漏らす。彼のゆるんだ眦に私の口もゆるんだが茶器が見事に隠してくれた。

「葵様は近頃どのようにお過ごしになっていましたか?」
「神里様と似たようなものです、政務ばかりでした。ですが今日は祭の様子を少しだけ見てから帰ろうと思います。八重宮司様も大変お力を注いでいらっしゃることは聞き及んでおりますので」
「ぜひ楽しんでいかれてください。どうぞお体を崩されませんよう」

 お茶もお菓子もなくなり、ちょうどいいタイミングで会話が終わる。社奉行をあとにする私を見送るため神里様も共に外へ出た。
 待機していた武士の一人が私が乗って来た馬を引いて近くへ来るのを見て意外そうに「馬に乗れたのですね」と言われる。白鷺の御方ほどではないが私もそれなりの家格を持つ家に生まれた身、必要な芸事は身に着けている。披露しているのは筆の腕のみだが、と言えば神里様は愉快でならなそうに笑っていた。
 突然の外出にもかかわらず不満の一つもなく護衛を務めてくれた武士達にも何か城下で手土産を買って持たせてやらねば。
 そんなことを考えつつ鎮守の森を抜けた頃、足場が悪いこともあって一旦馬を下りて川を渡った。心地よいせせらぎを聴きながら再び馬に跨ったとき、どこかから空気を裂くような音が走る。鼓膜を破るような嘶きと、武士の緊迫した声が私を揺らす。
 悲鳴を上げる間もなく、私は意識を失った。



 目が覚めて真っ先に視界に入ったのは旅人とその連れの姿だった。
 どうして二人がいるのか。どうして私は最後の記憶がないのか。色々と疑問が浮かんでは消える。ひとまず体を起こそうとしたところで違和感を覚えた。体が動かせない。首を限界まで捻って見てみると添え木で固定された体が視界に入り、落馬したことを思い出した。
 激しい痛みはないが鎖骨か腕の付け根あたりを骨折しているらしい。落馬は下手すると命をも落としかねない危険を孕んでいる。この程度の怪我で済んだのは運が良かったと言えるだろう。
 社奉行の手伝いをしていた旅人達が偶然近くを通り、尋常ならざる騒ぎを聞いて駆けつけてくれたのだと聞かされた。暴れる馬とそれを落ち着かせようとする武士、気を失う私を呼ぶ声で現場は混沌としていたと言う。彼らは私を天守閣まで運び、律儀にもしばらく付き添っていて見てくれたのだ。
 こういうとき側用人という高すぎる身分の扱いには困ったものである。無理に叩き起こすことも、治療を済ませて放り出すことも許されない。控えていた女中を呼ぶ。旅人に世話になったことへの謝罪と礼を述べると、彼らはまだ仕事が残っているのか「お大事に」と言って天守閣をあとにした。
 半日ほど意識を失っているなど何とふてぶてしいことか。将軍様に申し訳が立たないと思っていれば役人よりも先に将軍様が顔見せに来てくださった。しばらく政務は気にせず療養に努めるように、と厳しく、厳しく言われてしまった。





 横になっている状態で降って沸いた休暇を楽しめるわけもなく、かといって仕事をすることも禁じられてしまっては暇を持て余してしまう。二日目にして私は早くも女中を困らせる木偶の坊になってしまった。なにせ将軍様から絶対安静を言い渡されてしまったせいで見舞いに来る人間もいない。
 側用人からの華麗なる転身に各所から泣き言を零されていると客人の報せが舞い込んでくる。神里綾人様だ。
 体を起こせないことを謝罪すればどうぞそのままでと気を遣われる。多少距離は離れていたけれど、このような角度で彼を見上げることなど今までなかったため目新しさを感じた。

「お怪我の様子はいかがでしょうか?」
「馬から落ちたにしては軽い怪我で済みました。大見得を切った直後にこの始末です、お恥ずかしい」
「いいえ、矢が馬に向かって飛んできたとのことですから仕方のないこと。大事に至らず安心いたしました。もう報告はお聞きになっているのでしょうか」
「天領奉行が調査中とまでは。そのご様子ですと、神里様はすでに結果をご存知なのですね」
「社奉行の管轄で起こったことですから。……よろしければ人払いをお願いできますか」

 真剣な顔をされたため不思議に思いながらも人払いをする。距離を詰めても構わないかと聞かれて、一瞬だけ頭を悩ませた。横になる怪我人と話をするには不都合もあるだろう。頷けば、今までにないほど近い距離に彼は座り直す。

「葵様に随行していた武士の一人が天領奉行府で拘束されています。榎並という名に覚えは?」

 感情のない声がよく見知った名を口にする。彼が言わんとすることを、事の顛末を、愚かにも私はようやく理解したのだった。

「顔なじみの武士です、護衛が必要なときはよく名乗り出てくれていました。しかしあの日の供ではなかった」
「ええ。詳しい取り調べは今も進められているところですが……子どもでも扱えるような小型の弓が、貴方がたが通った道脇の木に引っかかっているのが確認されました。榎並はいつも貴方の供を務めていたからか、出迎えと称して後から合流したことも疑われなかったようですね。しかし、現場近くでスミレウリを採集していた民が、一人不審な動きをしていた榎並をあの日見ていたのです」
「まあ……偶然スミレウリを集めていた民がいたのですか」
「偶然スミレウリを集めていた民がいたのです」

 それは絶対に偶然スミレウリを集めていた民ではない。そんな確信を抱きつつも、話の腰を折ってはいけないかと思い口をつぐむ。

「弓の精度を考えれば狙いはあくまで落馬でしょう。大怪我に繋がるかは運次第だったかもしれませんが貴方の命を狙ったことに違いはありません。ですので将軍様にお願いして一切の面会を絶たせていただきました。葵様のお立場では難しいこともあるかもしれませんが、しばらくは表に出ることを避けた方がよろしいかと」

 一息に言い切った神里様に私は小さな溜息を吐いた。大丈夫です、という呟きが存外に情けない声になってしまう。何が大丈夫なものかと眉をひそめる彼を見据えて私は微笑んだ。

「義兄の企みでしょう。そしておそらくは、刺客と呼ぶほどのものでもないのです。神里様も気づいておられるのでは」
「ご実家とは仲がよろしくなかったというお話なら覚えております」
「はい。もはやよしなしごとだと思っていましたが……随分と恨まれていたんですねえ」

 ぽつりと零した感想に神里様は沈黙を返した。
 私は天領奉行の末席に名を連ねる男の、不貞の末に生まれた。まるで謀られたかのようにその家の正妻が息を引き取り、入れ替わるように母と私は迎えられた。
 義兄と義姉は私より一回り以上も年が離れていて、どう足掻いたところで妾腹から生まれた私など敵にもなりえなかったはずだが、片親を失っただけではなくその地位を即座に奪った母子に向ける憎しみは義兄と義姉を疑心暗鬼にさせたのだろう。
 跡目争いに巻き込まれないよう、母は私に家臣としての振る舞いに徹するように口をすっぱくして言った。母の言いつけどおり私は能力を磨いた。忠誠心を示さんとばかりに言われたことを何でもこなした。それが私の身を守る盾になると信じて疑わなかった。
 だが私だけでなく母も、自分達が置かれている状況などまるでわかっていなかったのだろう。私達という異物が家の隅で息をしているだけでも疎ましくてならなかったのだ。義兄は、家督を継いだ途端に私達母子を家から放り出した。
 復讐がそこで終われば良かったのだろう。雨に打たれた母が高熱を出して死に、私も野垂れ死ぬところを将軍様の目に留まった。実家にいようと天守閣にいようと成すことは変わらない。お傍に置いていただくのだからと何でもこなしているうちに今の地位を手にした。追い出した子どもが幕府の要人になって自分達の前に現われたからたまったものではなかったのだろう。
 側用人の暗殺を目論むこと、自分達がどれほどの危険を冒しているかわからなくなるほど、激情は人を盲目にさせるらしい。

「一体何人をどれほどの額で買収していたのか知れませんがずっと機を狙っていたはずです。そして、それほどの時間をかけても落馬事故を起こすことしかできなかった。あの家が持つ力なんてその程度、榎並がいっそ可哀想に思えるほどですよ」
「情けなどかけるべきではありません。葵様、貴方は幕府の地位で言えば将軍の次に貴き御方。いかなる理由、いかなる立場があろうとも彼らは貴方の命を脅かした罪を償わなければならないのです」
「では……彼らの処遇は神里様にお任せします」

 そうまで拘るなら仕方ない、とあっけらかんとして返せば神里様は些か驚いた様子で私を見つめていた。

「よろしいのですね?」
「天領奉行と社奉行の間で折り合いがつくのであればお好きに。正直なところあまり興味がなくて……私は雷鳴轟く空を見上げるのが好きなのです。地上で慌てふためいている蟻のことなど、どうでも」
「……大胆なことを仰る」

 真意を笑顔に隠してしまう神里様が、いつになく心を乱されているようだった。心底驚いたと言いたげに目を丸くすると幾ばくか寂しさに似た色を表情に乗せる。見たことのない姿に私も驚くほかになかった。
 私は彼に対して冷たい態度を取ったことなどないが、彼はいつだって他者との距離を必要以上に置いている。それなのに今日はやけに互いの距離が離れていることを嘆かれている気がした。

「どうなさったんですか。いつになく気落ちしていらっしゃるようですけれど」
「葵様がご自分に頓着しないからです。貴方がその態度を貫くのであれば私は怒るに怒れません、こうしてやるせなさを覚えることしか」
「私のために怒ってくださるだなんて……」
「当然です」

 飄々と仕事をこなし、自身の務めを全うするいつもの神里家当主の姿とは程遠い。物珍しさから感情を露わにする神里様を凝視していると、一瞬だけ視線が交わった。咎めるような、案じるような、一言では表せない感情を込めた瞳だ。
 妙な沈黙が流れるこの場をどう収めればいいものか考えていると、これ以上は胸の内を明かすつもりはないと言うように神里様が頭を垂れる。失礼しました、と謝罪して後ろに下がると、もう一度私の体調を案じる言葉をかけて退室していった。かなり一方的な客人であった。





 神里様はそれから数度、治療という名目のもとに登城した。神の目を持つことなど知らなかったため一体何の冗談かと笑ったものだが、神里様が水を巧みに操る姿を見てすっかり言葉をなくしたのだった。
 水元素が治癒に役立つことはしっていたけれど我が身をもって実感することになるとは思いもしなかった。事故の対処といい、感謝してもしきれないほどである。
 痛みがないということは骨折もほとんど治り始めているということである。たかが一週間で置き上がれるようになった私はこれ幸いと筆を取った。まだ万全とまではいかないが簡単な書き物くらいなら可能で、その簡単な書き物によって処理すべき事項が政務には山ほどある。
 軽く政務をこなすつもりが三半刻ほども経ってしまいさすがに肩がだめになって筆を投げた。翌日は一日休む羽目になった。

「葵ではないか、なぜ部屋を出て歩き回っておるのじゃ?」

 散歩には何の支障もないため人がいない場所を探って歩いていると、遊びにいらしていた八重宮司様と鉢合わせしてしまった。
 しまったという感情を思いきり顔に出してしまった私を八重宮司様が見逃すはずもない。八重宮司様は口をわななかせてショックを受けたと言いたげな完璧な顔をつくった。

「なんと悪い側用人じゃ……主の気遣いを無下にするとは」
「こ、これはただの散歩でございます。外の空気を吸っていただけでございますので」
「あの葵が言いつけ一つ守れぬうえに言い訳まで! 頭を打って人が変わってしまったに違いない、嘆かわしいのう……。そうだ妾が将軍様に口添えしてやろう、もうしばらく休暇を与えて自分探しの旅でもさせてはどうかとな」
「八重宮司様……!」

 涙を浮かべて沈痛な面持ちを浮かべる八重宮司様に慌てふためく。人を弄ぶことが趣味であらせられると存じていても内容が内容なだけに肝が冷えた。散歩をお叱りになることがなくとも、将軍様の命に背いた事実は依然として存在するからだ。
 血の気が引いた私を見て愉快そうにした八重宮司様は「なに冗談じゃ、泣くでない」と先の言葉を撤回する。そうすぐに涙は引っ込むものではない。綺麗に爪紅を塗った指先で私の目元をつつく悪戯好きの仙狐様に心臓は未だうるさく鳴っている。

「しかし似たようなことを考えてはいる。汝……しばらく社奉行の手伝いをする気はないか?」
「社奉行の手伝い……ですか?」
「祭事は社奉行の務め。妾が心血を注いだ容彩祭も例に漏れぬが、復興に向けた手続きの煩雑さや手探りで進めていることもあってか人手が不足しがちでのう。祭の運営に必要な事務作業をこなす傍ら、混乱する現場を収めるために綾人も何度か離島に出向いておった。しかし容彩祭の開催中も社奉行の通常業務が休止することはない。容彩祭が終わった今、社奉行は溜まりに溜まった業務で大変なことになっておるのじゃ」
「社奉行は抱えるお家の数が少なく、要事をこなせるだけの人材が少人数に留まるとは聞いたことがあります。ゆえに神里家に業務の配分が偏ってしまうとも。私にお手伝いできることがあるのでしたらもちろんそういたしますが……」
「では早速影に話をつけにゆくぞ。ふふ、若造の反応が楽しみじゃな」

 元より私の現状は神里様の提案によるもの。執務自体に問題はないのだから、あとは将軍様の采配次第だ。
 加えて私が側用人として行っていたのはあくまで将軍様の補助である。私がいなくとも政務が滞ることなどない。私に引き継ぐ以前は八重宮司様が稲妻のすべての事務をこなしていた。現在はそれらが人の手で行えるよう振り分けられており、そうなさった御本人でもあるからこそ私がいなくとも問題ないことをご理解なさっている。
 八重宮司様は唇の間から真っ白な牙を覗かせて美しい笑みを湛えていた。



 正式に将軍様の命が下され、社奉行から迎えを寄越された。社奉行に到着すると神里様が直々に私を出迎える。いつもの隙のない表情ではあったがどこか疲労が滲んでいた。客人としてやってきたのではないからともてなそうとする神里様の厚意を断る。
 業務が滞っていると八重宮司様は仰ったけれど、説明を聞く限りでは少々の無理をすれば何とかなる程度まで片付けられていた。もちろん、これも今日までに社奉行の人間が寝る間も惜しんで業務にあたったからだろうが。
 まさか神里様の隣に机を用意されているとは思いもしなかったが、せっかくなので同じ空間で公務にあたることにする。出ていこうとした家司を呼び止めて、勝手ながら書吏を傍に控えさせるよう指示した。よろしいですかと形ばかりの了承を取れば神里様は納得したように、ほんのわずかに感心した様子で頷く。
 そこからは地獄のような書類をひたすらに捌いた。無言で仕事を片付けていく私と神里様から、やれあの紙を取れ、やれこの紙を他の奉行所へ運べ、と言われた神里家の書吏が可哀想になるほどに。

「そろそろ夕餉が運ばれてくる頃合いですか、切り上げるとしましょう」
「夕餉のあとはいかがなさいますか?」
「本日はこれで終える予定です。病み上がりの葵様に初日から無体を強いるわけにはいきませんから」

 ふう、とわかりやすく一息つく神里様を見て、満身創痍の書吏がなんとか笑顔を取り繕って退室した。きっと神里様がもう一人増えたかのような心地がしているだろう。夢に見ないといいのだが。

「お疲れのようですね。厨房を使ってよろしいのでしたらお茶でも淹れて参りましょうか?」
「どうぞお気遣いなく。……葵様は将軍様にもお茶を振舞っていらっしゃるのですか?」
「少なくありません、政務中の将軍様はただならぬ空気を纏っておられるせいか皆足が竦むようで」
「そうでしたか……。では暇ができましたら茶会でもいかがでしょう、綾華も誘って」
「白鷺の御方にお会いできるだなんて楽しみです」

 社奉行所で公務にあたるのであればかの高名なご令嬢に会うこともあるだろう。茶会と言わずに遅くならないうちに挨拶をしておきたいものだが、神里様と同じく多忙な彼女にいつ会えるかは時の流れに任せるしかなさそうだ。
 公務で天守閣にいらっしゃったとき自慢の妹だと話していたが、彼女のことを本当に大切にしていらっしゃるのだということが今も口振りからうかがえる。八重宮司様も好感を示していらした。民に白鷺の姫君と呼び慕われるほど素晴らしい人物なのだろう。

「ところで、葵様はどうして社奉行にいらしてくださることになったのでしょうか。ご厚意はありがたいのですが、率直に申し上げますと多少無理をすれば片付けられる業務量ではあるのです。将軍様が貴方を遣わしたことにも驚いてはいますが、貴方が天守閣を離れた驚きの方が私の中では大きく……」
「お聞きになっていませんか? 八重宮司様が社奉行を心配していらしたのですよ」
「八重様が?」

 事情を知らない様子だったので経緯を説明する。社奉行の業務が逼迫していることはもちろんだが、社奉行に身を寄せる方が事態は好都合にはたらくのだ、と。神里流の使い手の傍にいるのだから身の安全も保証される。私を目の上のたん瘤に思っている義兄も私が役職を下げられたと思い大人しくなる。将軍様を説得なさっていたときに八重宮司様が仰っていたものを一言一句違わずになぞる。
 八重宮司様の推薦だという点以外は神里様も気づいていた様子で納得したように頷いていた。ところがしみじみと不思議なことを口になさる。

「なるほど……恩を売っておこうという魂胆ですか。いやはや敏腕さることながら、私より手段を選ばない恐ろしい御方だ」

 剣呑な雰囲気ではないものの神里様の口振りには含みがあった。もしかしてお二人はあまり仲がよろしくないのだろうか、などとうっすら考える。尋ねたところで神里様が本音を言うことも、将軍様の眷属であらせられる八重宮司様に対する不敬な発言をすることもあり得ないだろう。
 八重宮司様と神里様がお話しになっている場面に遭遇したことがないため何とも言えないが、少なくとも神里様の抜け目のなさは八重宮司様に「つまらぬ」と言わせる類のものだという気がした。面白いことを求めて動く八重宮司様が神里様へ働きかけるとなれば、神里様も何かしら思うところがあるのだろうと苦笑する。

「では事が済めば葵様はあちらにお戻りになってしまうのですね」
「そのつもりです。神里様には何から何までお世話になってしまうことになりますから、せめて公務にてお返しさせてください」
「私がしたくてしていることですからお気にやまずに。では……ご実家のことはしばらく心配無用になったということで」

 はい、と返事をすればちょうど家司が夕餉を運んできた。
 神里家の味付けを楽しみながら、神里様が最後に言った内容がふと引っかかった。深く考えずに流してしまったが、実家の心配がなくなったという表現はまるでそれらを保留にしておくと言っているようでもないかと。調査を含めた義兄の処罰については神里様に一任しており、彼も迅速に対応するという姿勢を見せていたはずだ。
 気のせいだろうか、と頭を捻りながら夕餉を咀嚼した。

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