龍の嫁入り

 爪先が小石に引っかかる。あ、と思った瞬間には体が傾いで視界いっぱいに地面が広がった。だけど脳を過ぎった衝撃も痛みも訪れることはなく、私の顔に触れたのはやわらかく肌触りの良い毛束だった。
 きつく瞑った目を恐るおそる開く。青みがかった白色の毛が見えて、ほんのりと香る清心の匂いがうるさく鳴る鼓動をゆっくりと静めた。助けてくださった方は心配そうな声で私を呼んだ。転びかけた体勢を整えてその御方を見上げる。
「ありがとうございます甘雨様」
「はい。疲れているのではありませんか? ずっと歩いていますし、少し私の背で休憩してはどうでしょう」
 ふわふわの手が私の頬をやさしく撫でる。甘雨様の背から弟達が不甲斐ない姉を見下ろしていた。
 洪水が私達の家々を、丁寧に耕した畑を流してしまった。これまでも水害に見舞われたことはあったけれどこの年ばかりは手の施しようもないほど被害が甚大で、璃月の民は故郷を捨てなければならなくなった。
 帰離集を離れて南へ向かう。南の地盤は農耕に向かないが、ゆえに水害は起こりづらい。森林が多いため土壌は豊かでそこから流れ出た養分が湾岸の魚を育てている。
 岩王帝君の案で南下することとなった私達はわずかに残った家財を持ち出して移動していた。仙人の皆様は私達を外敵から守り、ある方は家財を運ぶ手伝いを、ある方は病人や子ども、老人など長旅が障りになる弱者を背負ってくださっている。
洪水のせいで両親は死んでしまった。他にも多くの民が流され、家族を失った者は多い。互いに助け合いながら進んでいたけれど、甘雨様はとくに子どもばかりが残された一家を気にしてくださっていた。私はとうに成人しているけれど下の弟妹達はまだ幼く、私から離れたがらないから近くを歩いてくださっていたのだ。
「ありがとうございます。だけど平気です、子どもではないんですもの」
「そうですか……あなた一人くらいならいつでも場所を開けますから、遠慮なく頼ってくださいね」
 濃紺の角がやわらかな毛の間でふるりと揺れる。頷いて荷物を抱え直し、私は気を入れ直して前を向いた。大移動する列を先導するのは岩王帝君だ。空の向こう、雲で見え隠れする神々しい御姿を見ていると、疲労もまだ忘れられない両親の死も一時やわらぐ。帝君がいれば私達はきっと大丈夫だ、そう自分を奮い立たせた。
 私達のやりとりを聞いていた竈神様が足元へやって来た。愛らしい小さなお体に頬を緩ませてどうなさったのかを尋ねると、もうすぐ昼時だからと竈神様は私に蒸し饅頭を差し出す。腹を満たせば元気も出ると仰るけれど気遣ってくださったのだということはすぐにわかった。
 瑞獣のうち肉を口にすることをかたく禁じている一族の甘雨様には野菜だけの具を詰めた蒸し饅頭が渡されている。他の民も休息を取ることになり、竈神様は慌ただしく蒸し饅頭の配給にかかった。
「嬉しいです……私、お腹が空いてもう我慢できそうになくて」
「……あら、清心の香りがしましたからてっきりお食事を済ませていらっしゃるのだと思っていました」
「ちっ違います、あれは空腹に耐えかねて食べたわけではなくて……! 子ども達の昼寝のとき体に清心の花がついたみたいで、捨てるわけにもいきませんし、その」
 背に乗せていた子ども達を下ろして蒸し饅頭を頬張ろうとしていた甘雨様が弁明する。責めたつもりではなかったが必死になっている姿が微笑ましくて笑ってしまった。

 日が沈んで景色が見えなくなるほどの闇の中、小さな篝火を頼りに布を織る。
 住処を移すのは暮らしに影響を及ぼす作業だ。移動は日中でなければできないが、野営をするためには明るい時間帯から準備を始めなければならない。日中すべてを移動に充てられるわけではなかった。
暗くなる前に食糧の調達も行わなければいけない。そのために必要な道具や、港街を作って生活していくための資源も調達しながら移動する必要がある。資源も、人手も、時間も……私達には何もかもが足りない。
 両親がいないからとほとんどの仕事を免除され、それなのに当たり前のように食料を分けてもらう。うちの弟妹だけでなく似た境遇の子ども達の世話を私が担っているからとはいえ、本来なら大人に交じって体を動かさなければならない年の私がただ飯食らいをさせてもらっているのは心苦しかった。つらいのはみな同じだというのに。
 だから皆が寝静まっている間も火をつけて衣服を縫い、朝はだれよりも早く起きて朝食の仕込みをした。昼間にふらついたのも眠る時間が短すぎるせいだと竈神様に叱られてしまったけれど、せめて皆の手足が止まる夜に新たな生活で必要な物を少しでも揃えておくことで貢献したいのだ。
 仙人の皆様の姿は見えないけれど有事の際にはすぐ私達を助けられるように近くにいらっしゃるらしい。だから夜に活動しても危険はないだろうと、あまり闇を怖れる気持ちはなかった。弟が身じろぎする音に手を止めて、穏やかな寝息が聞こえてくるのを確認してまた手を動かす。
 がさり、と草の擦れる音がする。獣が近づいてくることはないはずだけど念のために警戒して草むらを見つめていれば、木々の影から精悍な顔立ちをした青年が現れただった。獣が飛び出してきたのではないかと悲鳴を上げそうになったのを慌てて抑え込む。見たことがない顔だ、璃月の民ではないだろう。
「あまり無理をすると明日に響く。そろそろ眠ったらどうだ」
「失礼ですが貴方は……?」
「仙人のひとりだ。昼は瑞獣の姿を取っているからこの姿を見ても俺がだれかわからないだろう。元の姿では皆の眠りを妨げてしまうため人の姿をとっている」
「そうなのでしたか。仙人様にご足労をいただき誠に光栄です」
 人並外れた佇まいには説得力があった。人に似た姿にもなれる方がいるという話は聞いていたけどまさかこの目で拝見できるとは思いもしない。驚きと感動に満ち満ちて腰を折ると楽にするよう声をかけられる。
 鍾離と名乗った御方は視線を私の手元に戻した。
「お前はいつも遅くまで布を織っているな」
「ええ。手先の器用さには自信がありまして」
「朝は早く起きて竈神とともに皆に食事を振舞っている」
「ええ。朝は皆慌ただしいものですから」
「……少し休め。昼間ふらついていただろう」
 やさしい声音に頬を緩ませた。頭を振って、今日の目標がまだ終わっていないからと告げる。苦々しい顔をした鍾離様は篝火に近づいて私の隣に腰を下ろした。黒色の不思議な色合いをした手を差し出すと、私の顔をじっと見つめた。
「ならば俺も手伝おう」
「いけません、貴方様にそのようなことをさせるわけには……」
「構わない。仙人達が交わした契約は民の暮らしを守るというもの。お前もその一人だ。お前が健やかに暮らす手伝いをするのも俺が結んだ契約に含まれる」
「……ご厚意に感謝いたします、鍾離様」
 道具を渡すと鍾離様はしげしげと手元を眺める。扱い方を教えると驚くほどに容易く布を織ってみせるので感動した。だが、たかだか十とそこらしか生きていない私と違って民の暮らしを見守り続けてきた仙人が道具の使い方ひとつわからないはずがないのだ。恐れ入りながら私も作業を進めて、その日の夜は鍾離様のお力添えでいつもよりずっと早く眠りにつくことができた。



 手伝ってくださるのはあの日限りではなかったらしい。鍾離様が意図したのは私が夜更かしをして作業に当たる期間はずっと、という意味だった。
鍾離様は毎日欠かさず私の元へ顔を見せてくださる。会うたびに打ち解けていき、他愛ない話も増えていく。鍾離様が気を抜いたように笑うと胸の奥がくすぐったい気持ちになった。
 ここのところ、弟達は目を覚ますと必ず私が夜中に作った織物の確認をする。今までよりもっとずっと綺麗な織物がたくさん完成しているからだ。仙人様が手伝ってくださったのだと話すとお会いしたい、お礼を言いたい、だなんて口にするけれどみんな起きていられた試しがない。
 それを話せば鍾離様は愉快でならないと言いたげに笑った。
「幼子は長旅に耐えられないからな。しかし可愛いものだ、俺に会いたいとは」
「人の姿になれるというところが気になったみたいです」
「そうだな、仙人が自分達と似た姿になれると聞けば興味が湧くだろう。数日もすれば旅も終わる。新たな地で衣食住を安定させるのにはまだ時間がかかるだろうが……落ち着けば下の子たちに会いに来よう」
 鍾離様は弟達を見て微笑ましい顔で仰った。
旅を終えても会ってくださる。喜びが胸の内に広がり、頬が緩んでいないか心配になって私は篝火から顔をそらした。手元に視線を注いで今夜の作業が一刻も早く終わるように努めている素振りをする。だけど、できるだけ長くこの時間が続くようにと行動に矛盾する願いを抱えてもいた。
たった数日のことだけれど私が鍾離様を慕うには十分すぎた。仙人の皆様は私達の暮らしを守るために様々な契約を交わしてくださっている。だけどいくら鍾離様が慈悲深い方だとしてもこの願いは叶わない。わかっているのに、弁えなければならないと自制しながらも鍾離様を想う気持ちは日に日に膨らんでいた。

「鍾離という名の仙人……ですか?」
 甘雨様は思い当たる節がないと言いたげに首を傾げていた。
 海辺に到着し、長い私達の旅が終わった日のことだ。帝君が山を移動させ低地を作る。その偉業を目の当たりにした民は彼に畏敬の念を抱き、地面に臥せって感謝を口にする。
 仙人の皆様のおかげで住処を失っても私達は新たな地で生きていくことができるのに、どなたもか弱い私達を労ってくださった。甘雨様も私に声をかけてくださったおひとりだ。一息ついている今なら構わないだろうか、と考えた私は鍾離様がどちらにいらっしゃるのかを尋ねたのだった。
 会うと言ってくださったのに旅が終われば途端に不安になった。我ながら浅はかだという自覚はある。瑞獣の御姿を知っていればせめて会えずとも遠くから鍾離様を拝見して満足できるかもしれない、なんて愚かな考えから生まれた行動。そんな私を嘲笑うかのように甘雨様は「そのような方は知りません」と口にする。
「もっとも仙人は多くの名を持つものですし、私が知らないだけという可能性はあります。人の姿に興味を示さない仙人も、仙道を極めて人間の姿になる仙人もいますから、留雲真君に尋ねた方が早いかもしれませんね……」
 ご存知ないという甘雨様の反応は、私を冷静にさせるには十分だった。
「い、いいんです! あの方に内緒であの方について詮索するなんて、なんて無礼なことを……どうか聞かなかったことにしてください。幾日にも及ぶ旅路にお力添えいただきありがとうございました。甘雨様こそ今夜はゆっくりお過ごしになって、疲れを癒してくださいね。それでは……」
「あっ……待ってください、」
 甘雨様が引き留めるのも聞かずに弟妹がいる場所へ向かう。早速炊き出しを始めている竈神様を囲んで大人が慌ただしく準備していた。流されなかった家を仙人の方々がいくつか運んでくださったので、当面はそこへ集まって雨風を凌ぐことになる。
 建材を用立てるのは力ある者たちの仕事だ。私も長旅の途中に行っていた作業とは別に新たな仕事が割り当てられるだろう、やることは山積みだ。もし、もしも本当に鍾離様が会いに来てくださるのだとしたら、それがたった数分でも舞い上がるほど嬉しい。未来に思い馳せるだけで頑張れそうだった。そうでなければならなかった。



 農耕で暮らしてきた私達にとって漁で食い繋いでいくことは想像を遥かに超える困難の日々となった。農耕は手間と時間を要するが収穫期を迎えれば次の年は何の心配もいらない。だが漁はそうもいかない。
 魚を獲る術を持たず、仙人の皆様に知恵を借りながら浅瀬でなんとか最低限の魚を手に入れて、不足は山の恵みで補う。それでも浅瀬では徐々に魚が消え、沖へ出るためにまた知恵を借りて船を作った。
 鍾離様は家族で暮らす小さな家が建った時に一度顔を見に来てくださった。ただ弟達は新しい家にはしゃぎ疲れたせいでいつもより早く寝入ってしまっていて、今日も会えなかったなと残念そうに笑っていらした。
 漁に慣れて漁業が安定しはじめると余裕が生まれた。民は仕事を開拓していくことができ、鉄鋼や織物の生産などに手を伸ばしていくと生活が豊かになる。
 すると岩王帝君は次の整備を始めた。民の生活がより良くなるように生活の道筋を立てるという。民の暮らしを助けていた仙人の皆様は、その半数が帝君を助けるために持ち場を離れた。他ならぬ私達の暮らしのことだから、と民をまとめる立場にあった者が代表としてその輪に加わる。そしてここは璃月港と呼ばれるようになった。
「姉ちゃん、俺達はもう大丈夫だから姉ちゃんの幸せを探してくれよ」
 私を見下ろせるようになるほど大きくなった弟が口にする。帰離集を離れて数年が経った日のことだった。
 竈神様のお力で災害に見舞われることなく平穏な暮らしを手に入れた私達の国は帝君の庇護の下みるみるうちに発展していった。何の心配もせず眠れるようになると未婚の男女は次々と結ばれ、新たな家庭を築いていく。私にも機会はあったが下の子達がいることを理由に遠ざけ続けていた。
 本当は、まだ鍾離様のことを忘れられずにいたのだ。だけど弟達はもう何もわからない子どもじゃない、このままでは姉が独り身なせいで肩身の狭い思いをしてしまう。
とうとう覚悟を決めるときがきてしまったのだなと、近々行われる婚礼のために縫っていた衣装を膝に置いて弟を見据えた。良い人を探さなくちゃね、と言えば弟は明るい顔をして家を飛び出していった。

 日暮れ時、完成間近の婚礼衣装を妹達と囲む。特別な装飾を施す衣服はそう何度も縫う機会がない。必要な時がくれば自分で用立てられるように、教えられるうちに模様を教えておいた方がいいと思ったのだ。
 弟が作っている夕食の匂いが漂うなか、静かな我が家の戸を叩く音がした。婚礼衣装を置いて出向く。戸を開けると外には鍾離様が立っていた。
「まあ……! お久しぶりです鍾離様」
「久しぶりだな。突然すまない、お前に用があって来たんだが時間をもらってもいいだろうか」
「ええ、どうぞ中へ。よろしければ夕食も召しあがってください」
「ありがたくもらうとしよう」
 家を訪れた鍾離様に弟は目を瞠り、妹達は色めき立つ。凛々しく際立ったお顔をお持ちの鍾離様を見てはそう反応せざるを得ないだろう。ようやく挨拶ができるなと鍾離様が数年来の約束を口になさるのが心をあたたくした。
 出会ったときと変わらず若々しい彼を見ていると自分がずいぶんと年を取った気分になる。出会ったとき私は十代の半ばを過ぎたばかりだった。まだ嫁入りも難しくない年ではあるけれど、あのときとは違い輝くような若々しさを失ったせいだろう。
 婚礼衣装をご覧になった鍾離様が私のものかと尋ねる。仕事で作ったものだと言えば、生きるために続けていただけの作業が私の暮らしに役立つ職となったことを鍾離様は心から喜んでくださった。
「高貴な方とお見受けしますが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
 私の反応から弟が丁寧な態度で尋ねた。名乗るほどの者ではないがと前置きをして鍾離様は自己紹介をする。
「俺は鍾離という。お前達がまだ幼い頃に起こった大きな水害で大移動したのは知っているだろう。そのとき彼女と縁を持ったんだが、俺は到着後ここを離れることになった。つい先日帰って来たんだ」
 鍾離様はそこで一度言葉を切った。仙人だということはお話にならないのだろうかと首を傾げて彼の顔を見るが、目が合っても微笑みを返されるだけだ。ふと、瑞獣の姿では民を驚かせてしまうと仰っていた昔を思い出す。弟達をこれ以上驚かせないために凡人の振りをなさるつもりなのかもしれない。
 食卓を囲みながら会話を続ける。弟の料理は鍾離様の口に合ったようで安心した。味に深みを出すにはどうすればいいか、こういう食材は知っているか……知識の豊富な鍾離様に弟の緊張がほぐれていく。妹達も真剣に彼の話に耳を傾けていて、なぜか私が誇らしげな気持ちになった。
「ところで、お前が伴侶を探しているという話を聞いたんだが」
 鍾離様は私を見る。まさか彼がその話題を出すとは思いもせず、心の準備が少しも整っていなかった私の声は見事に裏返ってしまった。
「も、……もう身を固めないといけない年ですからね」
「その口振り、まだ相手はいないということだな?」
「え? ええ」
 念入りに確認を取る鍾離様に何かに気づいた様子の弟が慌てて会話を遮った。
「鍾離様、姉には苦労のない結婚をしてほしいんです」
「……姉思いだな。ふむ……だがその点は心配無用だ」
 首を傾げていると鍾離様が立ち上がる。私の元へやってくると、鍾離様はどこからか花束を取り出して「俺と婚姻の契約を交わしてくれないだろうか」と尋ねた。
 弟がどうして心配するような瞳を向けてきたのか、私はようやく理解した。鍾離様が仙人だと知らないのだから、身分は高そうだが素性の知れない男の元へは嫁に出せないとでも考えたのだろう。
冷静に考える傍らで私は熱に浮かされていく。私でいいのですか、という自信のない言葉は鍾離様の真剣な瞳で喉奥につかえたまま飛び出せずにいた。これほどにない嬉しさが涙となって滲む。口を手で覆いながら必死に頷くと、妹達の歓声が響いたのだった。

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