我がミューズの微笑み

 関係者以外は立ち入りできない一室。ドアを軽くノックした私は軽やかな声に許可を得て中へ入った。
凝光がにこやかに私を歓迎する。舞台を終えてもあまり疲労が感じられない、いつもの優雅さだった。品のある振る舞いは生まれながらに身に着けた優雅さだと誤解されるが、彼女が他に類を見ないほどの努力家だからこそ会得されたものだと一体何人が知っているのだろうか。
「久しぶりね。元気にしていた?」
「もちろん。でも凝光がいない間はさみしかった」
「あら、私の親友はいつになっても私を口車に乗せるのが上手いわね」
 呆れたような口調だけれど彼女の唇は嬉しそうに頬を持ち上げている。凝光こそいつになっても素直じゃないが、彼女のこれは愛嬌すら感じるのだから不思議だ。気高く美しく、世界的にも高い地位を築く彼女に親友と言われることが誇らしい。
 凝光は有名なソプラノ歌手だ。本業とは別に事業も行い資産家としての地位までも確立している彼女は、貧富に関わらずあらゆる人々を支援して全世界の人々にその功績を認められている。
 彼女の人気は凄まじい。オペラ界では半ば神格化され、かなりの倍率になるコンサートを一度でも聴けば祝福を受けると言われる。事業については話をするだけでも利益を生むとさえ噂される。
 私達は幼馴染だ。私が関係者として立ち入りできるのはこのコンサートホールが叔父の所有だからという理由だが、そうでなくても帰国して最初のコンサートのチケットを彼女は用意してくれる。言うまでもなく破格の対応だろう。
 初めて凝光の歌を聴いたとき、それはもう深く感動したものだ。ピアノを習っているお友達よりも、音楽の仕事をしている両親よりも、テレビに出ている歌手よりも凝光の歌はきれいだった。それを知った叔父が彼女を支援したという経緯から私達は今の関係性にいたる。もちろん、彼女はそれを抜きにしても良き友だった。
 他愛もない話をしていると部屋の外から声がかかる。耳に馴染む低い声は何度か聞いた人物のものだった。他者との面会も私がいる場では遠慮してもらうのがお決まりだけれど彼だけは違う。入室した鍾離さんは今日も大きな花束を抱えていた。
 彼は若くして凝光に「先生」と呼ばれている。たしかに彼の放つ言葉には並外れた知性が宿っていた。彼は凝光のファンであり支援者でもあって、コンサートが終わったあとは必ずこうして花束を贈りに楽屋へやって来た。私はさておき、彼女のファンのうちそんなことが許されているのは後にも先にも彼だけだ。
「それじゃあ私はこれで」
「もう行ってしまうの? 夕方の約束、忘れないでね」
「うん、時間になったら迎えに行くね」
 私がいても彼は気にせずやって来るのだから彼がいても私が席を外す必要はない、と凝光は言うがそうはいかないだろう。滅多に特別扱いをしない凝光が特別扱いをしている人なのだ、気を回してあげなければ。
 鍾離さんに会釈をしてドアに向かう。背中に二人の視線が刺さっていたけれど気づかない振りをして部屋を出た。扉の向こうから「実に素晴らしい歌だった」と称賛が聞こえる。美男美女とはあの二人のことを言うのだろう。
 夕方になり、凝光は時間きっちりに楽屋から出てきた。軽装で、荷物は彼女のクラッチバッグと花束くらいしかない。車へ乗り込んできた彼女に荷物はそれだけかと尋ねれば他はマネージャーに任せたと返ってきた。
 帰国するたびにたくさんのファンレターや花束に囲まれること、それをマネージャーに預けて出かけることも見慣れている。凝光はめずらしいことに私の真意を読み取れなかったらしい。私が気になっているのは、いつも預けている花束のうち鍾離さんが持って来たものだけをどうして今日は手持ちにしているのかということである。
 まさかとうとうプロポーズを受けたのだろうか。花束はその記念で、嬉しさのあまり持ち歩いているのだろうか。想像を膨らませると同時に一抹の寂しさを覚えていれば、花束を凝視している私を見て彼女は朗らかに笑った。
「彼がくれた花、きれいよね」
「とってもきれい。珍しい種類の花だよね、見たことない」
「そうね。せっかくだし一輪あげるわ」
「えっいいよそんな……鍾離さんからのものを私がもらうなんてできないよ」
「いいじゃない。私がもらったのだもの、どうするかは私の自由よ」
 凝光は気前よく花束から一輪の花を抜き取って差し出す。申し訳なさから「幸せのお裾分け?」と尋ねながら受け取れば凝光は奇妙なものを見るような目で「何おかしなことを言っているの?」とだけ返してきた。
 これから食事に向かう予定だけど、まだ気温もそう高くはない時期だし車内に置いていっても萎れはしないだろう。上品な光沢のある花弁を指先で撫でながらそんなことを考えた。

 てっきり二人は恋人になったのだと思い込んでいたが私の勘違いだった。あのあと食事をして鍾離さんとの仲を聞いてみると、変な勘違いをするのはやめてと結構強い口調で言われてしまった。
 誤解するなという方が無理な話だと思ったけれど、どこか安心したのも事実だ。日本にはあまり長く滞在できない凝光と過ごせる時間に変わりはないらしい。
 あちこちに引っ張りだこの彼女は公演を終えるとまた出国してしまった。叔父が持つこのコンサートホールも凝光がいなくなれば静かな空間に戻る。元々大きな施設ではないため人の出入りが激しいのは良くも悪くも凝光の帰国時だけだ。
凝光の名声にやや見劣りする建物で律儀にコンサートを続けてくれる彼女のために最高基準の設備を整えているため、一度利用した団体に愛用してもらえることは多い。それでも地元の展示会や中小規模のコンサートに貸し出すだけに留まっている。
 平日の真昼に油彩画の展示を見に来る客はわずかだ。ロビーで案内業務をしているスタッフの暇そうな顔を見ながら休憩スペースでスケジュール帳を開いていた。今後の予定を詰めていれば横に人の気配が近づいてくる。ソファに空きはいくつもあるからと気にせずスケジュール帳とにらみ合いをしていれば背後から声がした。
「それは俺が凝光に贈った花か?」
 ぎょっとして飛び跳ねる。ソファから落ちそうになるのをなんとか堪えて振り向けば鍾離さんが立っていた。彼の興味深そうな視線はスケジュール帳に挟まれた栞に注がれている。
 凝光に分けてもらった花は数日きれいに咲いてくれた。萎れ始めたのが惜しくて押し花にしたのは単なる思い付きだった。立体のままでは乾燥させきれなかったから花弁ごとにバラして丁寧に乾燥させ、平面であの花を再現した。初めての試みだったけれど、以前このホールで押し花アートの展示をしていた際に作家に話を聞いていたからそれを思い出しながら作れば想像に近いものに完成させることができた。
私はスケジュール管理に大きめの手帳を使っている。ノートサイズともなればちょうどいい大きさの栞に出会うことがなかなかないため、栞にしたのはそういった理由もあった。ただ贈り主に知られたのは気まずいことこの上ない。凝光に贈った花を、無関係の女が栞にして持ち歩いているのだから。
 それをまさか彼に見られることになるだなんて思わなかった。だって彼は凝光の歌を聴くためにここへ足を運んでいるのだ。それに彼は一流のものを好むのだと聞いている。凝光にその話を聞かなくとも、上品な身なりや教養を考えれば容易に想像できた。彼女がいない無名のホールに足を運ぶ理由がない。
「えっと、はい。あの……凝光が一輪わけてくれて、とてもきれいだったから枯れるのがもったいなくて、それで、本当にすみません、彼女へ贈った花なのに」
「何故謝る? 彼女が渡したなら構わない。ところで……お前は花が好きなのか?」
「え? ええまあ、そうですね、人並みには……?」
 しどろもどろになりながら謝罪すると鍾離さんはたいして気にしてはいない様子で会話を続ける。気分を害したわけではなかったのだろうか、とひとまず安堵していれば彼は何事かを考えるように顎に手を添えた。
 どうしてこれが彼の贈った花だとわかったんだろう。できるだけ元の花を再現したとは言っても素人作品だ、咲き誇っていた時が失われ花弁の艶はなくなってしまっているし、重ね方も幼稚なのに。
 ふたたび訪れた静寂の中で疑問に包まれていると、私を捉えた彼の瞳は瞼に隠れ、ゆるりと笑みを作る。次はお前にも花束を持って来よう、と納得した彼に私はもう一度混乱と動揺に襲われることとなった。


 鍾離さんは頻繁にここへ来るようになった。というより、私が知らなかっただけで前から足繁く通っていたようだ。ロビーで何を鑑賞しようかと考えている様子を見かけたからひと声かけた、なんてことを繰り返していると次第に打ち解けて他愛ない話をする仲になった。じっと芸術作品を眺めている様子からは想像もできなかったことだが、彼は博識なだけでなく存外おしゃべりで親近感が湧く。
 そうして季節が巡り、凝光が帰国する時期がやってきた。彼女のオペラを鑑賞したあと、いつものように楽屋へ現れた彼はいつもより一つ多く花束を抱えていた。
「あら、とうとう私以外の歌姫に恋をしてしまったのね」
 花束の贈り先がわかってしまった凝光が私を見てにやりと笑う。
「違うの凝光、あの花を栞にしていたら鍾離さんが気を遣ってくれて……というか本気だったんですね」
「もちろんだ。約束は守る」
「あれは約束だったんですか……」
「いいじゃない、受け取りなさいよ。先生は自分の好意を押し付けるような人ではないから、花束を持ってきたということはあなたがはっきり断らなかったんでしょう」
「でも……私にはもらう理由がないのに。凝光に悪いよ」
「ハハハッ、お前ははっきりものを言うな。たしかにその通りだが凝光なら許してくれるだろう」
 鍾離さんが意味深に凝光に目配せをする。彼女はやれやれとでも言いたげに肩を竦めていた。二人の間で交わされる無言の会話に私は首を傾げることしかできない。
「先生が私をだしに使わなくなるなら何でもいいわ」
 凝光の言葉を聞いた鍾離さんは困ったように笑いながら私に向かって花束を差し出してきたのだった。

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