『春麗の匣』

 風が潮の香りを運ぶ。いつもと違って頬に直接当たるそれが孤独を煽った。だけど銀杏の葉は赤漆の建物に映え、玉京台を囲む峻嶮な岩山が威厳を語る。璃月は彼が誇る通り今日も美しい。
 結婚して家を建てるまでは璃月港で暮らしていたし、そうでなくとも彼とはよく璃月港を歩いたものだ。往生堂へ来た先日もこの一帯を歩いている。それなのに悠久にも思える彼の時間に触れていたせいかずいぶんと懐かしさに駆られた。
 通りの先に万民堂があることを思い出して足を向ける。鍾離さんは万民堂、とくに香菱さんの料理が大好きだった。彼女の名を知らない者は璃月港にはいないだろう。彼女は食材の仕入れのために長期的に万民堂を空けることもあるが、鍾離さんは彼女の新作を欠かさず食べていた。彼が好きだった味をまた食べられるだろうか。
 万民堂に到着すると店は相変わらず賑わっていた。まだ日は明るい時間だが早めの夕飯なのかどの席にもたくさんの料理が並んでいる。厨房の奥から「お客さんごめんね、席に座ってちょっとだけ待ってて!」と香菱さんの声が飛んできた。
 空いた席に座って待っているとほどなくして香菱さんが注文を取りに来る。山椒炒めと手軽に食べられる串物を数人分頼み、串物は持ち帰りにしてほしいと伝える。
「ねえ、前によくうちで食事をしてくれてたお客さんだよね?」
「覚えてくださってるんですか?」
「もちろん覚えてるよ。お客さんは毎日来るけど、あなたは本当に美味しそうに料理を食べていてくれたから! 辛い料理って熱いともっと美味しいでしょ? 話をしていてもちゃんと料理が冷めないうちに食べてくれたのも嬉しかったの」
 伝票に書き込みをしている香菱さんと会話をする。
 食事の作法にも細やかだった鍾離さんは、会話を途切れさせることもなく料理が冷えることもない箸の運び方で食事を取っていた。彼に合わせて食事をしていれば必然と私も同じペースで食事することとなる。
 温かい料理は温かいうちに食べるのが一番美味しい。そんな当たり前だけど大切なことを大事にする人だった。そうして美味しいものを食べる鍾離さんを見ていると料理がもっと美味しく感じるのだ。彼女が見たのは私のそんな姿なのだろう。
 照れくさくなって視線を彷徨わせていると、向かい合う席にいつも座っていた鍾離さんを思い出して追加で料理を頼む。
「あ……あと翠玉福袋と山椒豆腐の定食も持ち帰り用に包めますか?」
「どっちも汁が零れやすいものだから気をつけて持って帰ってもらわなくちゃいけないけど、それでも大丈夫? 家族に持って帰るの?」
「ええ。たしか鍾離さんはこれをよく食べていたはず……」
「鍾離さん……? あなたまさか鍾離さんの知り合い?」
 パアと彼女の顔が明るくなる。思いもしなかった香菱さんの反応に思考を止めた。
「彼は元気? 昔はよく来てくれたけどもうずっと顔を見ていないから璃月港にはいないんだろうなって思ってたの。すっごく色んなことを知ってる人だったからお仕事でも引っ張りだこなんでしょ。新作を出すたびに欠かさず食べに来てくれて、たまにアドバイスもくれたんだ! 懐かしいなあ」
 私はすっかり足が遠のいてしまったが彼がここで食事をしたのは四年前が最後ではないはずだ。数か月前にも料理を持ち帰ってくれた。私の顔を覚えていてくれたのだから鍾離さんがここへ来ていたことも知っているはずなのに。
 そう考えてはっとする。私は、香菱さんがこれまで彼と親し気に話しているのを見たことがない。知人ならば近況を教え合うものだが、私達に向けられていたのは「いつもご贔屓に」という言葉だけだ。
 彼はだれからも好かれる。顔を合わせれば声をかけられ、知恵を貸し、手土産を持たされていた。だけど璃月港で彼を鍾離と呼ぶ人が一体何人いただろうか。
 万民堂に彼女の知る『鍾離』は何年も来ていないのだ。
 香菱さんの知る『若い頃の鍾離さん』と私が知る『若い姿の鍾離さん』はどれくらい違うのだろう。彼とともに戦った仙人の多くが人の世を離れているのに、彼は顔を変え、容を変えてずっと人間の傍にいたことが愛おしくてならない。
 料理が運ばれてくるまでの間、きっと彼もそうしていたのだろうと思って、万民堂の外に見える人通りをただ眺めていた。

「わあっ」
「わっ……!」
「……えへへ、驚いた? 璃月港であなたに会えるなんてね。買い出し中かな?」
 往生堂の近くにある橋梁で胡堂主に背中を叩かれた。私よりも年上のはずなのに私よりも幼く笑う胡堂主は悪戯が成功したことを満足そうにしている。私は落ち着きを取り戻すために咳払いすると胡堂主に返事をした。
「璃月港には滞在してしばらく経つんです。調べることがいくつかありまして。ただもうすぐそれも終わるので、家へ帰る前に往生堂へお礼に伺おうと思っていたところだったんですよ」
「お礼って何の話?」
「鍾離さんのことについて、葬儀から色々とお世話になりましたから」
「あれは鍾離さんの依頼だからあなたは気にしなくていいのに!」
 私の言葉を聞いて胡堂主は面食らう。だけど抱えていた袋を持ち上げてわかっているけどお礼をさせてほしいと視線で訴えれば仕方ないというように肩を竦めた。
 久しぶりに訪れた往生堂で袋の中身を広げる。万民堂で持ち帰り用に頼んだ料理はまだ温かい。串物は冷えてしまっても美味しく食べられるから持ち帰ってもいいと言ったけれどちょうど全員集まっているからと胡堂主は従業員を集めた。
 知らない従業員もいたが私達は全員で料理を囲んだ。仔細は伏せて胡堂主が私のことを鍾離さんの縁者だと紹介する。従業員のほとんどが彼を知っているらしく、鍾離さんは元気にしているかと友好的な態度を見せてくれた。
 そういえば鍾離先生も万民堂の料理を差し入れしてくれたことがありましたね。
 食事をしながらだれかが思い出を振り返った。往生堂で働くことになると璃月人との接触を極力減らすために外出の頻度が減るのだと言う。そうでなくとも業務の時間が夕方から深夜にかけて行われるため外食の機会がない。
 その日は往生堂への依頼が立て込み、休む間もなく業務に当たっていたそうだ。疲れ果てて帰宅する気力もない従業員の前に、たくさんの料理を抱えた鍾離さんがふらりと現れたらしい。
 香菱さんの新作を試食したらあまりにも美味しかったものだから差し入れすることにした、と気前よく食事を振舞う彼が神々しく見えたと従業員達がしみじみ口にするので、当たらずといえども遠からず私は笑いが止まらなくなってしまった。
「ああそうだ胡堂主、これを見ていただいても?」
「なになに、どうしたの?」
「彼がこちらに預けていた化粧箱の中身です。彼の所持品だったらしいんですけど」
「ああ! 中身は神の目だったんだ」
「たしか胡堂主も似たようなものをお持ちじゃありませんでしたか?」
「ふふん、これのことかな?」
 胡堂主はくるりと体を回転させると背中で輝く赤い水晶を見せた。鍾離さんが預けていたものは光のないガラス玉だが、胡堂主のものはまるで生命が宿るかのように内側から輝いている。
「これも元は赤色だったんでしょうか」
「彼のものだったなら岩元素、橙色をしていたはずだよ。今は輝いていないのが気になるところだけど……」
 どれどれ、と言いながら受け取った神の目を胡堂主は訝しんだ。
「これ軽すぎじゃない?」
「それは……偽物だということですか? 彼が元素の力を扱えることは聞かされていましたが神の目を直接見たことはないので私には真贋を見極めることができなくて」
「神の目なんて滅多にお目にかかれるものじゃないもの、鍾離さんが往生堂に預けていたなら尚更仕方ないよ。うーん、軽いこと以外は本物だと思うけど……鍾離さんはこれについて何か言ってた?」
「もう使えない神の目だと……手紙を読む限りでは本物のようではありましたけど」
「じゃあ本物か。ここまで精巧な模造品を作ることはできないと思うし、往生堂で厳重に保管されていたから中身がすり替わったなんてことありえないからね。重みがない……込められた『願い』がない、それとも叶った? 空っぽの神の目を見たことはないけど面白いね。まるで魂が肉体を離れるみたい」
 胡堂主は手のひらの上で神の目を転がす。鍾離さんが身に着けていたときは石珀のような色合いの光を灯していたはずだと聞かされる。
 いままで私は神の目とは無縁の生活を送っていたからたいして知識がなく、彼の手元に神の目がなくても彼が元素の力を扱えることに微塵も疑問を抱かなかった。だからこれが彼の持ち物だということもあまりぴんとこない。扱いかねているのだ。
「神の目を巡って諍いが起こることもあると小耳に挟みました。もし手放した方が良ければ、彼が頼んだ木棺の中に入れておこうと思うんですが」
「その必要はないんじゃない? 窓辺にでも飾っておきなよ、あそこに辿り着ける人なんてそれこそ神の目を持ってる人くらいだから」
 胡堂主が呵呵大笑する。彼女がそう言うのであればと袂に神の目を仕舞った。
「鍾離先生と言えばやっぱり帝君の送仙儀式ですね。璃月建国以来、数少ない仙人を送る行事を見事こなしてみせたんですから。古い文献を読み解くのも膨大な知識を必要とするのに鍾離先生はあの若さで一体どれほどの学問を修めたのか……」
「ええ、璃月人が帝君との別れを受け入れることができたのは間違いなくあの送仙儀式に一点の曇りもなかったからでした」
「そもそも璃月七星を相手に帝君の遺体を管理する権限を持ち帰って来られたのも素晴らしかった。学問の権威が正しく行使されるとはああいうことなんだ」
 鍾離さんが往生堂で講師をしていた頃に懇意にしていたのだろう従業員達が彼の話題で盛り上がっている。彼を送るための準備をした場所で彼の話を聞く。もう彼を送って日が経つというのに、たった一人で葬儀を行ったからか今この場が故人を偲ぶための場のように感じて不思議だ。
 かなり素敵な男性だったのに浮いた噂が一つもないのがまた良かった、と輪の中で盛り上がるものだからほんのわずかに悪戯心が湧く。
「私、鍾離さんの奥さんを知ってますよ」
 往生堂の従業員達はぴたりと動きを止めた。そしてようやく私の発言を理解すると一斉に驚きの声を上げた。詰め寄ってくる彼らを相手にしていると、その惚気何時間くらいかかりそう? と胡堂主が時計を見ながらそっと私に尋ねるのだった。


 小高い山の上にあり、璃月全域とまではいかずとも広域が見渡せる景観のいい私達の家。陽ざしが差し込むあたたかな窓辺に椅子を置き、そこから外を眺めるのが鍾離さんの日課だった。
 彼だった鈍色の岩石は椅子を中心に散乱していた。死の間際も璃月を見渡していたのだろう。やさしく、愛し子を見つめるようなあの瞳で。
 破片は掃除して木棺に詰めてしまったが形を残していた石や破片は集めて椅子の上に残してある。換気のために閉じ切っていた窓を開けるとうすく風が吹き込んで、椅子の上に陽光を注いだ。膝に乗るくらい小さくなってしまった彼を見下ろして、まだ少しだけ拭いとることのできない違和感を覚えながらも、ずっと言えなかった言葉をようやく口にする。
「ただいま」
 往生堂へ送り出されたあと、私は鍾離さんに一度もただいまを言えなかったのだ。彼の言葉を借りて言うならば私は道に迷っていた。彼がいなくなってしまったから、我が家に帰って来たという実感が湧かなくて、ずっと、ずっと。
 たった四文字を口にするのにこんなにも時間がかかってしまった。それでも彼はきっと許してくれる。手放していいとは言われたけど、ささいなことを共有するのが好きなあの人は私がここを住処にすることを喜んでくれるはずだから。
 カリ、と塊を指先でやさしく掻くと岩石の表面は思った以上に容易く剥がれ落ちた。美しい石珀が顔を覗かせる。璃月港でも滅多に出会えない逸品だ。見間違えてなどいない、何故なら石珀は愛しているとささやいた彼の瞳と同じ色をしている。
 椅子の上から拳ほどの大きさの石珀を一つだけ取る。璃月港へ行く機会があったら加工を依頼しよう。彼が着けていた耳飾りと同じデザインで作ろうか。
 六千年以上もの歳月を捧げられた璃月を窓辺から見つめた。彼が愛した料理、彼が愛した劇、彼が愛した風景……それらすべてが私の傍で息づいている。そしてこれからもずっと。なんだか鍾離さんの六千年をすべてもらったような不思議な心地だ。
 彼のように長く生きれば、次は私が彼を見つける日がやってくる。そのときまでは彼の六千年の続きを私が紡いでおこう。

 おやすみなさい鍾離さん。また、会う日まで。





昔を懐かしんでつい何枚も書き連ねてしまった。胸を震わす感動は筆舌に尽くしがたく、良き思い出は記憶の中でこそ輝きを放つ。だからこれ以上はやめておこう。
明日はお前を往生堂に送り出す日だ。民を巻き込まない場所に家を建てたせいで山を下りるのもひと苦労だろう。気が紛れる程度でしかないが地を歩きやすいよう靴に手を加えておいた。どうか怪我のないように、無事璃月港へ着いてほしい。
胡堂主に託した物だが、中身はお前にとって無用の長物だ。俺が持っていた神の目はすでにその役割を終えた。俺は願いを叶えた、次はお前が願いを叶える番だ。
ここへ越してきたのも春だったか。却砂材が描く山の稜線、荘厳な赤漆の壁。この窓から璃月のすべてが一望できた。璃月は神と共にある地、神は失われたが神と共に歩んだ歴史が消えることはない。
物寂しさを感じたときもあったが、なによりお前が傍にいた。ともに過ごした時間はわずかだが数千年で最も美しく輝くひとときの一つだ。お前の傍で璃月を見守る数年は凡人になった俺の最期に相応しいものだった。ここで眠れることを嬉しく思う。
じき朝がくる。外の梅につぼみがついていたが今日には花開くだろうか。春の香りがすると言って好んでいただろう、咲いていればひと枝折って膝に置いておく。
今日このときは永遠の別れではない。お前の旅が終わるとき、また会おう。

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