『万化と永劫うつくしきこと』

 書物や巻物が机の上を占拠していた。旅から帰ったまま投げ出されたかのようにトランクが置かれ、そこから着替えが飛び出している。客間でこれなら彼女の寝室はもっとひどいものだろう。
 片付ける時間も惜しくて、と真偽の怪しい言い訳が飛んでくる。研究にかまけてだらしのない生活を送っているとしか思えなかったが、彼女が私の望む答えを持っているのならばそれでいいから納得したことにする。
 来客の準備が整っていないことを詫びて彼女はお茶の入った湯呑を出す。机を囲んで向かい合うと宛煙さんは「アタシに聞きたいことって?」と尋ねた。
「宛煙さんの祖先は塩の民だったと書籍で拝見しました。塩神の最期をどうやって受け入れることができたのか……教えていただけますか?」
 彼女に連絡を取ったのはまったくの偶然だった。パイモンさんに話を聞いたあとも私は岩王帝君について引き続き調べていた。パイモンさんが話してくれたのは璃月を探し回っても得ることができない貴重な真実だったけれど、それも数千年に及ぶ歴史の一頁でしかないからだ。
 講談を聞き、学者達の談話に交じる。旅館に帰っても万文集舎で購入した岩王帝君に関する書籍を読み耽っていた私は、諸外国から見た帝君、つまり岩の民以外から見た璃月について書かれた本を読んでいた。
 著者は璃月人だが帝君に対しての信仰はあまり感じない内容で、読み進めていくうちにこの著者がパイモンさんが塩の魔神の話をしたときに同行していた人物だということに気づいたのだ。
 方方を探して著者の宛煙さんに連絡を取った私は話を聞くために彼女の自宅へと招かれた。信仰心から遺物をすべて持ち帰ろうとして契約を破った当時の彼女は、真実を知るという形で塩の魔神に対する信仰心を否定されている。彼女は鍾離さんの話を受け入れられず、否定して、遺跡を飛び出したらしい。
 だから鍾離さんの名は出さなかった。だけど彼女はまじまじと見つめて「……あなた、鍾離殿のご親戚よね。もしかしてこれは罰の続きなの?」と穏やかに尋ねた。
 本の巻末にあった連絡先へ手紙を送って宛煙さんに会う機会を得たのだが、私は彼女の本に興味が湧いたとしか書いていない。それなのに私が伏せていた事実を見抜かれて動揺を隠せなかった。肩を揺らした私を見て宛煙さんがおかしそうに笑う。
「驚かないで。なんとなく鍾離殿に似た気配を感じたの。年の功ってやつね」
「そう、ですか。……仰るとおり鍾離さんとは家族でした」
 顔は似ていないのだからおそらくは所作だとか、雰囲気だとか、そういったものが似ていると言いたいのだろう。養子とでも思われているのかもしれない。夫婦は似るなんて言うけれど、もし周囲から見て私達もそうだったのだとすれば、彼と私が共に生きた日々がまぼろしではなかったようで胸が熱い。
 過去として語った私を彼女は深く追求しない。代わりに「そうね、どう話せばいいかしら」と顎に手を当てて考えた。
「塩の魔神の最期をどう受け入れたかだけど……徐々にとしか言いようがないわ」
「時間が解決したということでしょうか」
「いいえ、そんな穏やかな受け入れ方じゃなかった。地中の塩での出来事は聞いたでしょう。……鍾離殿のことが許せなかった。契約を結んだのに私を欺いたうえ、信仰まで揺るがそうとしてるって……。だから彼に間違いを認めさせるため、塩の魔神の伝承を正すために……アタシは望んだ答えを手に入れることにした」
 宛煙さんの瞳が光る。反撃の機会を伺う目が私に鍾離さんの姿を重ねていた。
「調べ直したの。すべてを、初めから。銀原庁に伝わる文献はすべて読んだつもりだったけれどもう一度洗い直したわ。塩の民が岩神の庇護を求めたときの記録が別の形で残っていないか他の『七星八門』にも尋ねて回ったし、立って動けないようなご老人にも話を聞きに行った。モラクスと協定を結んでいた塵の魔神について研究している学者とも意見を交わした……。信仰を大事にしている人間にとって信仰を失うことは己を失うということ。まさに死に物狂いで探したと言えるわね」
「それで……鍾離さんが話したことの裏付けは取れたんですか?」
「まさか、いくら調べても出てこなかった。モラクスの璃月に塩の魔神についての記録が必要なかったことは間違いないわね。だけど鍾離殿の言葉を否定できるだけの情報も手に入れられなかった」
 子孫が多く籍を置いている銀原庁に資料が残っていないのであれば、よほどの奇縁がない限り当時の記録を他から見つけ出すことは困難だろう。
 彼女が鍾離さんの言葉に揺らぎながらも、与えられた真実を受け入れることができなかったのはそういった事情もあったからなのではないか。塩の民についてだれよりも詳しい自信が宛煙さんにはあったはずだ。だから博識であれども赤の他人に知った風な顔をされては我慢ならなかったに違いない。
「時が経つほど記憶は精彩を欠いていく。だけど強烈な感情だけは残るの。鍾離殿の言葉を受け入れてしまう気がして遠ざけていたけれど、遺跡での調査をもう一度自分の手で行いたくて地中の塩へ向かった。そして……数年間、私は感情に突き動かされて事実から目を逸らし続けていたことを受け入れるしかなかった。鍾離殿が話した話があの場で起こった過去に最も近いことを認めたの」
 目を閉じた宛煙さんは痛みに耐えるように顔を歪める。伏せられた瞼の裏には事実を語る遺跡が浮かんでいるのだろう。だけど彼女は首を振って、先の言葉に含まれていた誤りを正した。
「本当はわかっていたの、鍾離殿の言うことは正しい。鍾離殿があの場にいなかったとしても、アタシはいつかあの光景から鍾離殿と同じ結論を導き出したと思うわ。アタシに必要なのは考える時間だった」
 宛煙さんは物事には順序があるのだと語った。たとえ真実を渇望していたとしてもそれを得るための道筋や労力がなければ真実の価値を正しく認めることができないのだと。得たものが期待外れであればなおのこと、真実がどれほど事実に基づいていようと受け入れられないものだと。
 彼女の姿は私と重なった。鍾離さんの死が突然訪れ、私も受け入れざるを得ない状況に立たされた。だけど受け入れきれずにいた。
 ふと、彼が葬儀について往生堂で学ばせて、帝君について知るようにほのめかしたのは宛煙さんのことがあったからなのかもしれないと感じた。答えを与えられた彼女が動揺し、飛び出した姿を見て彼は何を考えたのだろう。鍾離さんの死を知った私を想像したとき、彼の頭には遺跡を飛び出す宛煙さんの姿が過ぎったに違いない。
 事実と真実は異なる、といつか鍾離さんが話していた。事実は起こった事柄や存在そのものを指し、真実とは偽りがない事柄を指す。
 宛煙さんが事実を受け入れるまで、塩神が帝君に殺されたという信仰が彼女にとっての真実であり続けた。真実が事実と一致するまでに何年もの時間を費やしただろうが、もし答えを受け入れるだけで歩みを止めていれば彼女は信仰をも失い、抜け殻のように過ごすしかなかっただろう。
 手紙では岩王帝君について調べたあとのことに鍾離さんは触れなかった。事実を知ってどうすればいいのか。きっと彼は私が真実と事実のどちらも受け入れて生きていくことを信じたのだ。
 鍾離さんの見ていた景色を見たかった。彼の記憶と寸分違わぬ景色、という意味では難しい話だ。だから彼は、彼の見ていた景色の見方を教えてくれた。これが私達の事実と真実だろう。
「今の回答で参考になるかしら」
「……ありがとうございます、欲しかったものは見つかりました」
 晴れ晴れとした気持ちで返事をすると宛煙さんはにこりと笑う。ただ、やはり思うところは尽きないのか口を尖らせた。
「それにしても鍾離殿は本当に容赦がなかったわ。アタシもアイツも──考古学者の振りをして金儲けに来ていたスネージナヤの男が同行していたんだけど、たしかにどちらもが鍾離殿と結んだ契約を破った。だけど……岩食いの刑、なんて言って元素力で攻撃することなかったんじゃないかしら」
 土砂が崩れ落ちるかのように宛煙さんの口から不満が流れ落ちてくる。私は勢いに押されながら相槌を打つしかない。
「契約を破ったとはいってもアタシ達はまだ遺物を外に持ち出してはいなかった。彼が遺跡の案内を辞めて警告するだけならまだしも、あの場で攻撃までしてくるのは公平ではなかった気がするわ」
「ええと、岩食いの刑とは……?」
「モラクスが神の権能を使って作ったとされる法律、それに出てくる刑罰の呼称よ。璃月七星八門がまだ商人が寄合を作っているだけで、モラクスが璃月を直接統治していた時代に、契約を破った者に与えた罰のこと」
「……それをあの人が再現したんですか」
「ええ。再現できていたのかは判断しようがないけど彼なりに根拠はあったのかもしれない。岩食いの刑について書かれた文献はほとんど残っていないから、アタシが探しきれていない記述を鍾離殿が知っていた可能性は高いわね」
 それは彼が岩王帝君その人だからだろう。なんてことは言えずに沈黙する。
 契約する際は慎重を期する必要がある。どこからどこまで契約が適用されるのか、公平性を保つには細やかなことまで定めておかなければ後々大変になるからだ。
 契約を重んじるからこそ契約に関する事柄は複雑化していった。それを守らせたり破ったときに裁いたりするための法律がその最たる例だ。だからこそ璃月の法律家は一件の相談でものすごい額を稼ぐのだと聞く。
 ただ璃月の法律がどう語ろうとも鍾離さんは決して今の彼女の意見に耳を傾けはしないだろう。私は宛煙さんの話にも一理あると感じたが、彼にとっては契約を破ると宣言した時点で罰を与える対象だ。彼が岩王帝君だと知った今こそ断言できる。
 言葉に詰まってお茶をずず、と啜る。
「なんてね。本当はこんなこと思ってないわ」
 気まずい顔をしている私を眺めていた宛煙さんが茶目っ気を含ませて笑った。自らの発言を撤回する彼女に面食らう。彼女の真意を探ると、怪訝な顔をしている私に頬を掻いてみせた。
「どこからが過失かは決めなかったから酌量の余地はあったかもしれない。だけど鍾離殿は双方の利益を守る立場としてだれよりも公平に状況を見ていた。鍾離殿はずっと冷静だったもの、あのままではアタシ達は間違いなく契約を破っていたとわかっていたのね。……岩神が治める国に帰化した璃月人として、彼の法を守りたいと思う。それがこの国に塩の魔神の遺跡を残していてくれた岩神への敬意の示し方だから」
「とても、素晴らしい考えだと思います」
 彼女の心は塩神の元にある。だけど、昔とは違って失われた歴史も今ある歴史も大事にしているのだということが伝わってきた。
 宛煙さんはこれをきっかけに学者の道を歩み始めたのだと言う。彼女のように事実を知らないまま生涯を終える人たちを減らすため、可能な限り事実のみをかき集めているのだと話してくれた。
 私が読んだ彼女の著書はまだ彼女なりの推論や考察が含まれており、最終的にはそれらもそぎ落としたいのだと彼女は語る。他の学者達にそれはただの年表だと言われて非難されたけれどね、と宛煙さんは苦々しい顔をする。
「いずれ遡れないところまで調べ尽くしたら一冊の歴史書にするつもりよ。他国から見た璃月とモラクスの歴史は違う。そのあたりも上手く織り交ぜたいと考えてるわ。魔神の最期についても改めて問題提起していくべきね。アタシもモラクスの送仙儀式を遠目に見たけれど、あんなに穏やかな死を迎えたのは岩の魔神だけだったみたい。すごい神だったのね、彼って」
 ふたたび宛煙さんの言葉に曖昧な笑みを返す。本当は死んでなかったのだから当然だとも、他の魔神と同様に被害は甚大だったとも言えなかった。彼女には悪いけれど鍾離さんの最期だけは民に知られることがないだろう。
 宛煙さんの話は非常に興味をそそられた。彼女が執筆した本、棚や机に積まれた文献が執筆のために用いられたのだろうと思えば、ここしばらくは文献を読み漁る日々を続けていたからなのか一度自分の目で読んでみたいと感じてしまった。
「ここにある帝君の書籍をいくつか借りることはできますか? 珍しいものがいくつかあるので気になって……」
「持ち出されるのは困るわね、絶版になってしまった書籍もあるし。ここで読むなら構わないからいつでもいらっしゃい」
 宛煙さんの厚意をありがたく受け取る。早速読んでいくつもりならお茶を淹れ直そうかと提案されたので頷いた。ここへ通う許可をもらったけれどすぐに立ち去るのは惜しい。心の拠り所を抱える者同士、もう少し話をしていたかったのだ。





岩王帝君についてどのくらい調べただろうか。お前の知らない俺を知り、お前は何を感じた? 龍と麒麟の姿として描かれることの多い書籍では俺と重ねることは難しいと感じているだろうか。一度でもその姿を見せてやれば良かったかと、今になってはそう考えることもある。
だれもが彼の偉業を称えただろう。だが俺の食道楽についてもいくつか話に聞いたはずだ。滅した妖魔の数よりも、実はチ虎の魚を焼いて食べた回数や、寝癖を直すのに苦労した朝の方が多い。俗世を離れ数々の逸話を残す彼の姿も俺の人生においてはほんの一部分に過ぎない。
人は長い時を生きる存在を特別だと言うが、俺にとってはもう六千年以上ものあいだ璃月の民こそが特別だった。璃月は岩王帝君がモラクスと呼ばれているときから民と共にある。モラクスが璃月を作ったと言われているが、璃月はお前達の願いから生まれた。岩王帝君の名は俺が人と生きたことを証明するためのものだ。それが俺は愛しく、そして誇らしい。
俺のすべてを知るにはおそらく生涯をかけても足りない。だが俺がどのように生き、どのように世界を見たか。お前の疑問に対する答えはすでにお前の中にある。

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