『百夜の仁恕を知らず』

 昔、客卿としての地位に就いていた鍾離さんは往生堂で講師をしていたらしい。堂主に預け物をしているから受け取って来てほしい、と頼まれた。
 報酬を後払いにしているから受け取る際に彼女の手伝いをいくつかこなしてきてほしいとも言われて、構わないけれど往生堂のような特殊な業務を私ができるのだろうか、なんて疑問が頭に浮かぶ。
「往生堂で働けと言っているわけではない、胡堂主も難しいことはさせないはずだ。それに俺の見識の深さに感心したお前が言ったんだろう、俺がどのように生き、どのように世界を見てきたのか興味があると。あそこで学ぶことはお前の役に立つ」
 確信を得ているかのような響きを持っていた鍾離さんの言葉はやけに耳に残った。
 璃月港から遠く離れた土地に居を構えているから、璃月港へ行くのにも数日を要した。久しぶりに訪れた璃月港は変わらない活気に満ちている。
 岩王帝君との別れを経ても璃月港が商業の中心地という地位を保ち続けているのは神と共にある地の名に恥じることがないようにと民が努力した賜物だ。帝君の神託により繁栄した璃月が衰退することは帝君の歴史を失うことでもある。岩王帝君を深く敬愛している私達は決してそんな結末を描いてはならなかった。
 店先に並ぶ置物や絵皿、箸置きから靴べらにまで帝君があしらわれている。帝君が天に昇ってもなお璃月は彼と共に在り、私達の生活から損なわれることはない。
 鍾離さん手書きの地図を見ながら璃月港を歩く。大通りから逸れると建物の華々しさは薄れ、落ち着きのある景観になってきた。人々の喧騒から遠ざかっていくと門前に木札がかかった建物が見えてくる。
「ここが往生堂……」
 建物の周りに人の姿はなく、建物の中から人の気配もしない、静かな場所だった。
 往生堂は葬儀屋である。璃月人は死に近い物事と縁を持つことを避けるため彼が往生堂を訪ねてほしいと言わなければ私も関わることはなかった。彼らの勤務時間は夜間だ。今は太陽が真上に昇る時間帯だが返事をしてくれる従業員はいるのだろうか。
「戸を叩いてもいいのかな? 葬儀のときも会話なんてほとんどしないって聞くし、何かしきたりがあるのかも……お世話になったことがないからなあ」
「あなたがだれかの葬儀を必要としている璃月人か、死んだことに気づいていない死者であれば、ここ往生堂のお世話になるべきお客様です。しきたりはありますけど、どんなご要望にも柔軟にお応えしてみせますから是非ご相談ください」
「ひゃっ!」
 背後から声をかけられ、驚きで心臓が飛び出そうになりながら後ろを向く。声をかけたのは往生堂の従業員のようだ。女性は格式高い黒い礼服に身を包み、梅の枝が付いたつばのある帽子を被っている。
 人を食ったような言い回しをしつつも愛想よく笑った彼女は小首を傾げて私の答えを待っていた。バクバクと鳴りやまない心音を抑えこみながら深呼吸する。失礼のないように深く腰を折り、彼女に自分の名を告げた。
「鍾離をご存知でしょうか。昔、講師としてこちらに出向いたことがあると聞いています。彼が堂主様に預けたものを引き取りに参りました」
「ああ鍾離さんの! めずらしいお客さんだなあ、鍾離さんは元気?」
「ええ、とても。お知り合いですか……?」
「私が往生堂七十七代目堂主、胡桃だよ。鍾離さんに預かったものは往生堂で保管してるから、どうぞ門の中に入って」
 胡堂主の後ろを追いかけて私は往生堂の敷居を跨いだ。
 往生堂内の空気は澄みきっていた。黒を基調にした調度品が数多く並び、璃月港の奥まった場所に立地しているせいか雰囲気が暗い印象は拭えないものの、大きな窓から陽光をたっぷり取り込んでいるため居心地はいい。従業員が落ち着いた声で話すのも好感が持てる。
 葬儀以外では往生堂に関わらないのが璃月の慣習である。彼らも同じ人間なのだから往生堂と縁ができるだけで死に近づくなんてことはありえないのだが、それでもなんとなく恐怖や抵抗感を抱く璃月人は多い。私もその一人だったが、往生堂にやって来るとそれらはすぐさま薄れた。
 私は胡堂主の執務室に通された。彼女は懐から鍵を取り出し、鍵がかかった机の引き出しから木箱を取り出す。それを持ち私の方へと戻ってくると、彼女は「座って」と傍の椅子を指さした。
「それが鍾離さんの荷物ですか? 封はされていないようですけど……」
「時がくれば引取人と一緒に開けてほしいと言われたから、封をする必要がなかったんだろうね。中には私へ宛てた何かも入っているのかもしれない」
 鍾離さんの意図をすべて見通した物言いに緊張が走る。箱の蓋が開くのを見守っていると、中には木札と手のひらに収まる大きさの化粧箱が入っていた。
「さて、これは往生堂に依頼をするための木札だから私宛てだね。化粧箱は……まだ何もわからない。木札に指示が書いてあるかもしれないからそれを見て判断しよう」
 そう言って胡堂主は木札に書かれた依頼に目を通す。納得したように彼女が頷くと帽子の紅梅が揺れる。胡堂主は手に握った木札をしばらく見つめていた。
「これはあなたが持ち帰って」
 彼女は私に化粧箱を差し出した。縁に刺繍が施してある上品な化粧箱は宝石が中に入っていると言われてもおかしくない代物だ。だけど受け取ったそれは予想していたものよりもずっと軽く、中身が入っているかさえ疑わしい。
 鍾離さんは一体どうしてこの化粧箱をわざわざ往生堂へ預けていたのだろうか。そんな疑問を感じていると胡堂主は木札だけを持って便箋を仕舞う。
「さあ、鍾離さんから話は聞いてるよね。往生堂の仕事を手伝うって」
「あ、はい。私にできることがあればいいんですが」
「大丈夫、難しい仕事はないから。だけどたっくさん手順があるからしっかり覚えてね。鍾離さんは往生堂で講師をしていたくらい葬儀の伝統にも明るいひとだったから間違えるとどうなるか……」
 手を口の前に翳し、にやりと含み笑いをしてみせる胡堂主の勢いに飲まれてぴんと背筋を伸ばす。鍾離さんに知恵を乞うたとき、それを真に理解できるまで彼が決して手を緩めないことを私は身をもって知っていたからだった。
 まず手伝ったのは葬儀に使う道具の調達だ。亡くなった者の身分と貧富にかかわらずに葬儀を行うのが往生堂の信条で、あらゆる状況を見越して葬儀に用いる道具が準備されているらしいが、生憎と鍾離さんが望むものはここには一つもないのだと言う。
 そこで璃月港を歩き、往生堂が贔屓にしている店で位牌や喪服などを準備した。位牌に使う素材が特別なのだと説明してくれた胡堂主は店先で大量のモラを支払っていた。ただ、木棺は往生堂にあるごく普通のものでいいそうだ。
 注文した道具が完成するまで少なくとも一週間はかかる。その間は霊の守護、埋葬の方法、そういった事柄を教わった。耳慣れない響きの古めかしい文言も、一語一語にいたるまで説明を受ける。全部覚えてね、と言われたので往生堂の片隅を借りて持たされた分厚い本の内容を頭に叩き込んだ。
 勉強の息抜きにと胡堂主が手作りのお菓子を持って来た日もあるが、このお菓子がなんとも表現しがたい味わいをしていた。決して味が悪いわけではないけど、ぽそぽそして、もそもそしている。腕前を理解したうえで絶妙な味付けのお菓子を持って来たと言うから質が悪い。謝罪として即興で作ってくれた詩は実に素晴らしかったが、しばらく苦い記憶が残るだろう。詩は帰ったら鍾離さんにも聞かせてあげたい。

 位牌を作るのが難航してまだしばらくかかりそうだという連絡が入ると胡堂主は私を葬儀へ連れ往くことに決めた。葬儀というものがどうして必要なのか私なりの答えを見つけ出すように、と課題を与えられる。家族を失ったことがない私にはいくつもの手間がかかる儀式の手順を覚えることよりも難しい課題だ。
 胡堂主が仕切る葬儀は完璧だった。璃月に古くから在り続ける葬儀屋の名に恥じない見事な仕事だとここで働いて日が浅い私にも理解できる。
 はっきりと答えが出たわけではなかったけれど、葬儀というものは決して遺された者のために存在するのではないのだと感じた。送るという儀式はすべてが故人のためのものなのだ。悲しみも、思い出に浸ることも、すべては故人のためにすべきこと。
 だから私も時がくれば故人のために悲しまなければならない。たとえ深い悲しみに呑まれて、進むべき道さえ見えなくなったとしても、送ることを疎かにしてはならないのだ。そう、感じた。

 それからまた数日は往生堂に滞在した。いくつかの葬儀に連れられたあと、往生堂に戻った胡堂主は私を執務室へと招いた。二人分のお茶を準備すると課題の答えは出たかと尋ねられる。拙いながらに感じた物事を告げると胡堂主は満足気に頷いた。
「死はね、私達のすぐ傍にあるの」
 彼女の唐突で独特な言い回しには頭を捻る必要があった。頭の中で彼女の言葉をかみ砕きながら私は茶をズズ、と啜る。
「葬儀をしている往生堂は知らずしらずのうちに死へと近づいている、なんて意味じゃありませんよね」
「言葉のままだよ。人生を一本の道に例えると、あなたが生まれた瞬間に道は始まりあなたが死ぬ瞬間に道が終わる……そんなイメージを持つでしょ? だけど私の認識は違う。世界には陰と陽の二つがあって、死者の旅路は世界を変えて続いていくの。生と死の間に境界があるだけで私達の命は続いていく。どこまでも、どこまでもね」
 聞いたこともない死生観に私は苦笑いを零したが、胡堂主はいたって真剣な眼差しで私を見つめていた。何も言えずに黙っていれば彼女はやわらかい笑みを浮かべる。
「送ることを疎かにしてはならない……あなたの認識は正しい。だけどあなたの言葉は、私には感情を押し殺してでも故人を思いやると言っているようにも聞こえた」
「そ……そう深く思いつめたわけではないですよ」
「ともかく、死を重く捉えすぎないでほしいの。私達は悲しんでいいんだよ。だって生きていたって友人との別れは悲しいものでしょ。だけどあなたにも生という旅路があるんだから、だれかの死に囚われつづけるのはいいことじゃない。葬儀は故人を送るためにあり、遺族にとっては気持ちを新たにして歩みを再開するためにある、そう捉えたっていいの」
「そうですね。……胡堂主は葬儀屋の割に飄々としすぎている気もしますが」
「ええっ、私はすっごく真剣だよ? ただちょっとみんなよりも詳しいぶん、おそれたり特別扱いする必要はないと知っているだけ。境界を越えた経験がある堂主なんて数えるほどしかいないんだよ、自慢じゃないけどね」
 さらりとすごいことを言い始める胡堂主に手に持っていた茶器を落としそうになる。冗談だろうと聞き返したが彼女は笑みを深めただけだった。往生堂には臨死体験ができるサービスもあると聞いたが、まさか本当に臨死できるのだろうか。
 往生堂の世話になって一週間以上が経ち、他の璃月人よりも彼らを理解した気になっていたがまだまだ未知数な存在だと考えを改める。話を変えようと咳払いをしたとき執務室の扉が重い音を立てて開いた。
 わずかに開いた扉の向こうから顔を覗かせたのは小さな子どもだ。赤みの差す黒髪を持ち、不思議と人を惹きつける瞳をした子どもが胡堂主の元へ駆け寄った。子どもは彼女に何かをささやくと私を横目で見る。胡堂主がそれに頷いたり返事をしたりして、そして子どもは納得した様子で部屋を出て行った。
「あの子は……?」
「下の子なの。こっちの勘が良くてね、七十八代目はあの子が継ぐことになるかな。いつもは私について回って葬儀の勉強をしてるんだけどここ数日間は立て込んでたから従業員に預けていてね。……あなたのことが気になったみたい」
 あの年頃にしては落ち着いている印象を受けたが、従業員でもないのに往生堂に長期滞在している客人が気になったのだろう。かわいらしいと笑っていれば胡堂主が立ち上がって伸びをする。
「それじゃあ位牌が完成した連絡もきたことだし受け取りに行こう。そのあと往生堂で学んだことをあなたがちゃんと身に着けたか確認して鍾離さんの依頼は終わり! 木棺はあとであなたの家に送るけど、位牌は帰るときにきちんと包んで持たせてあげるね。あ、報酬は前払いでもらってるから気にしないで。さあ行こう」
 胡堂主はこれが鍾離さんに聞いた最後の講義だと言って遠い眼差しを向けた。


 荒れた室内を片付けることもできないまま数日が立っていた。自ら育てているという立派な梅の枝を抱えた胡堂主がここを訪ねて、部屋と私の惨状を見るなり私をきつく抱き締める。たった一人で孤独に耐えていた私を彼女はそっと労った。
「堂主としてじゃなく胡桃としてならあなたを悼んでもいいでしょ、鍾離さん」
 窓から風が吹き込み彼女の赤い毛先を揺らす。私よりもずっと晴れ晴れとした顔は彼が進んでいるのだろう道を真っ直ぐと見据えていた。
 往生堂に葬儀を依頼するときは喪主が表にある木札に送る人の名を書くのが伝統らしい。私は、彼の望みどおりの葬儀を行えたのだろうか。





説明もなく往生堂の手伝いをするように言って困らせてしまったな。俺がお前に葬儀を執り行って欲しかったのは、俺が岩王帝君であるという真実を明るみに出せないことや凡人と同じ葬儀が行えないこと以外にも極めて深刻な理由がある。
俺は死の間際にお前を遠ざけなければならなかった。それは俺が岩の魔神であることに起因している。魔神の死は、たとえるならば床に落ちて割れた花瓶のように、瓶の中の水をまき散らし鮮やかに咲かせていた花を枯らすような現象だ。凡人の体は魔神が死ぬときに流れ出る力に耐えられない。お前を傍に置いていれば岩の魔神の力がお前を岩にしてしまっただろう。
生まれは変えられないが、お前と過ごした凡人としての日々はかけがえのないものだった。鍾離というただの人としてお前に送られたかったんだ。俺のささやかな願いを叶えてくれたこと、感謝する。
真実を聞いて怒りを覚えるかもしれない。失意にくれ、俺のあとを追おうとするかもしれない。だがどうか幸福に生きてくれ。俺は消えるのではない、お前の人生という長い道の途中にいただけだ。俺はこれからもお前が歩いた道に在り続ける。
長く生きるのも悪いことではないと六千年生きた俺が証明しよう。

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