凍原は永き薄暮 8

『草露の章:岩神の瞳』

 感謝と友情を込めて贈り物をしたわ。近いうちに貴方を訪ねる人がいるから楽しみにしていてね。
 達筆な字で書かれていると聞く手紙は四日前に届いたものだ。凝光さんとの手紙のやりとりも片手で数えられる回数を超えた。贈り物の内容にもよるが、璃月からの移動距離を考えれば早ければ今日にでも客人は到着するだろう。
 ただ外は相変わらず吹雪いている。彼女の手紙によると璃月人に運搬の依頼をしていそうだし、届けてくれる異国の民が無事到着するかが心配だ。スネージナヤ人でさえ年間何百人も雪による事故で命を落とすのだ、何事もなくこの吹雪を抜けて来てくれることを祈るしかない。
 彼女とはスネージナヤに戻ったあとに親交ができた。誘拐された私を助けてくれたことへのお礼の手紙を送ったのだ。
 私を助けるのが目的ではないと彼は言ったし、事実彼女は『公子』と駆け引きを行う機会を狙って監視をつけていたのだとはわかっている。だけどあの老夫が口にした仁義というものについての話が強く印象に残っていた。
 礼を欠くわけにはいかない気がした、言ってしまえばそれだけだ。だから返事がくることは期待していなかったけれど彼女は丁寧な返事を書いてくれた。
 すぐに助けられなかったことへの謝罪、無事帰国できたことへの労い、そして結婚の祝辞。ジュエリーボックスが同封されていたことに首を傾げていたけれど、まさか結婚のお祝い品だとは思いもしなかった。たまに任務で結婚指輪を外している彼にせっかくだから使ってみようと提案したら指輪を外さないようになってしまったけれど。
 ささやかな返礼品をつけて返事を送ればまた手紙が届いた。そうしてやりとりをするうちに文通が日常となった。もっとも私は文字が読めないし書けないため侍女に頼んでいるのだけど、侍女は毎度のごとく凝光さんの親切さに感動している。
 彼女はどうやらスネージナヤに商いの手を伸ばしたいと考えているらしく、璃月のお茶を輸出できないか模索していた。相談を受けて、スネージナヤの気候を考えると体を温めるようなものなら可能性があると道を示したのは何度目の手紙だったか。
 彼女は私の意見を参考にして商売に着手したらしい。感謝とはこの件についてだ。
 昼食をとってすでに数時間は経っているはずだ。今の季節は日が沈むのも早いうえに雪が降っているとなればすでに辺りは薄暗くなっている。馬車も走っていないだろうし今日はもう客人も来られないかもしれない。そう考えていれば使用人が来訪の知らせを運んだ。
「久しぶりだな」
 客人は名乗るよりも先にそう口にした。だが声ですぐに鍾離さんだとわかった。凝光さんの遣いにしては少々意外な人物だ。数年ぶりに会う友人に頬を弛ませれば落ち着いた足音が近づいて来た。
「お久しぶりです鍾離さん、ようこそお越しくださいました。道中は何もありませんでしたか?」
「ああ問題ない。話には聞いていたがこちらの天気はすごいものだ。歩きながら考えていたんだがスネージナヤでは岩も凍るんだろうか……。凍った水が岩を割ることは知っているが、岩がそのまま氷漬けにされるかは俺も経験がなくてな」
 外套を脱いだ彼を応接間へ案内する。歩きながらそんなことを口にする鍾離さんに何とも言えずにひとまず笑みを返しておいた。それは岩神ジョークだろうかと疑問になるが、朗らかに笑う鍾離さんの様子からは冗談だったのか本気だったのかを読み取ることはできない。
 寛ぐように促すと鍾離さんはソファに座る。少し離れた位置に私も移動して二人で暖炉を囲んだ。
「吹雪が続くでしょうから今夜は泊まってください。食事を用意させますが何か苦手なものや食べられないものはありますか?」
「苦手なものか……水産物は出るだろうか?」
「確認させますね」
 侍女が厨房に向かうと鍾離さんが荷物から何かを取り出す音がした。執事がそれを受け取って私の膝に置く。手触りのいい箱はそれなりに重く、膝を埋め尽くしてしまうほど大きい。
「凝光から預かった品だ、中身は茶葉だと聞いている。一緒に茶器も選んだと言っていたか。茶葉の輸出事業に手を貸したそうだな」
「ええ、鍾離さんにお茶の話を伺ったときのことを思い出したんです。璃月は新しい茶葉を作った実績があるから、きっとスネージナヤで好まれるお茶も作れるのではないかと思って提案してみたんですよ。貴方の名前は伏せたつもりでしたが……こうして鍾離さんが荷物を預かったということは事業に携わったんですね」
「いや、茶については聞かれていない。だが凝光が直接出向いて荷物を届けてくれないかと依頼をしてきた。友への礼を尽くしたいと言っていたからお前と付き合いのある人間に荷物を任せたかったのだろう」
「……凝光さんは私達が知り合いだとご存じなんですか?」
「凝光は璃月港で起こることのほとんどを把握している。俺がお前たちと茶を飲んでいたのも知っていたんだろうな」
 早朝に港を歩く執行官の婚約者をいち早く見つけたことを思えば想像に難くない彼女の行動と抜け目のなさに苦笑いを零す。私の苦笑の意図を察したのか鍾離さんもおかしそうな声を漏らした。
「それでは……鍾離さんにはご迷惑をおかけしてしまいましたね」
「気にするな。これまで璃月を離れたことはなかったが、たまには見聞を深めるために旅をするのもいい。それにお前たちの顔も見たかった」
 中を検めてほしいと言われたため包みを開けると二対の茶器が入っていた。つるりとなめらかな肌をした茶器には蓋がついている。璃月で外食をしたときは紅茶と同じようにティーポットに似たものを使用していたが箱の中には他に何もなく、見たことのない形をした茶器に首を傾げた。これだけでどうやってお茶を飲むのだろうか。
 離れた場所からでも手元が見えたらしい鍾離さんが「ふむ」と小さくつぶやく声がした。答えを求めて私は顔を上げる。
「精緻な模様が施された美しい蓋椀だ。蓋椀を使ったことはあるか?」
「いいえ」
「では使い方を教えてやろう。まず蓋椀に茶葉を入れ、直接湯を注ぐ。葉が開けば蓋をわずかにずらして茶葉が流れ出ないようにしながら飲むんだ」
「蓋をずらしながら……?」
 鍾離さんが立ち上がり「中にほぐれた茶葉があると思え」と言いながら蓋椀を握らせた。わずかにずれた蓋を抑えるように手を固定され、誘導されながら飲む動作を再現してくれる。
「要領はわかりました。慣れるまでは間違って茶葉まで飲んでしまいそうですね」
「ああ、難しければお前たちが使う茶器で濾して飲んでもいいぞ」
 私には少し難しいかもしれないと感じていれば鍾離さんは私の心を読む。
「蓋椀は璃月で普段使いされる茶器だから夫婦茶碗として贈っただけだろう。あの凝光がこれだけ心を砕いているんだ、お前のことを慮らなかったはずがない。俺も蓋椀について知ってほしくて説明しただけだ、作法は気にせず使うといい」
 鍾離さんは璃月について語るのが好きだ。だから私の目が見えないことを気遣っただけではなく、ただ知識を与えただけだと言ったのも本心だろう。鍾離さんは私から離れて再びソファに腰を沈める。
「ところで怪我の具合はどうだ? 凝光から聞いた話によると傷は完全に塞がったようだが、後遺症などはなかったのか」
「感染症にはなりませんでしたよ。寒さが厳しい日に頭痛はしますが……。いっそ義足でも作れば良かったと思うときもありますが、不自由していないなら別にいいんじゃないかと彼が言うので結局そのままなんです。車椅子が不便なときは大抵抱えてくれています」
「公子殿は逞しいからな、お前一人を抱えるのは造作もないだろう。好きなだけ甘えるといい」
 穏やかな声だった。鍾離さんは「夫婦仲が良さそうで何よりだ」と心底安堵したように話す。
「実はお前たちが結婚した頃、公子殿が一通の手紙を寄越してきた。案外礼儀を重んじる男だなと手紙を受け取ったときは笑っていたが内容は痛ましいものだった」
「何が書かれていたんですか?」
「お前から生きる喜びを奪ったことへの後悔だ」
 鍾離さんの口から飛び出た言葉にぐっと喉が締まる。私にはその時期に彼が後悔する理由に思い当たるものがあった。
「戦いに生の瑞々しさを見出すあの男らしい後悔だ。俺の助言を素直に聞き入れていれば良かったなどと反省するものだから相当堪えていたようだな」
「助言ってたしか……兵貴拙速、でしたっけ」
「ああそうだ。暗闇が己を変える感覚には覚えがあるらしい。せめてお前の瞳が光を失う前に気持ちを伝えていれば変わらずにいられるものもあったのではないか……そう書いてあった」
 明かされた内容に拳を握る。古傷を抉られるような気持ちにさせられたが、私が目を背けてはならない話題だった。
 目が見えず、歩けなくなってしまったことに私は絶望していなかった。絶望などしていないと、当時の私は考えていた。不自由な体で暮らしていく大変さで気が塞ぐ暇がなかったのは事実だが、生き延びたことを喜べないのは果たして絶望していないことになるのだろうか。
 私はたしかに絶望していたのだ。そうでなければ、プロポーズをしてくれた彼を傷つけるような言葉なんて口にしなかったに違いない。私は、生にこだわる彼が死人を妻に迎えようとすることを嘲笑ったのだ。
 彼は私に謝罪しなかったし、鍾離さんの口から語られた後悔を彼から聞いたこともない。きっとどちらを口にしても私達の関係が苦しくなるだけだった。もし私が彼との縁を切りたいと感じたらそうしようとさえ考えていたかもしれない。彼は出会ったときからそうだった、いつだって私に選ぶということをさせてくれたから。
 あの頃の先の見えない苦しさを思い出して俯いていると鍾離さんは慌てた。
「余計なことを言った、お前を苦しめるつもりはなかったんだ」
 鍾離さんの落ち着かない様子が伝わってきておかしくなる。私達は雪解けを迎えた。だから言葉を探している鍾離さんに笑顔を向ける。
「私、長くは生きられないんです」
「……どういうことだ?」
「この家に生まれた子どもは長生きできないんです。母も、祖母もそうでした。私は失明したときだけじゃなく出会ったときも彼に命を救われているんです。この先だってどうなるかわからない……だからあのときはみっともなく彼に当たりました。鍾離さんにまで心配をかけてすみません。でも今は精一杯生きるつもりです。たくさん回り道をしたけどそれもすべていい思い出にしようって彼とも話しました。だから大丈夫ですよ、むしろ彼が言えなかったことを知ることができて良かった」
 彼が言えなかった本心を聞いて悲観したり私達の仲が険悪になることはない。その気持ちが伝わったのだろう、鍾離さんは小さく笑った。
 部屋のドアがノックされ、返事をすると入口から聞き慣れた足音が響いてきた。
「本当に鍾離先生がいる、こんなことがあるなんてね」
 彼が驚いたように言う。話し込んでいるうちに日が落ちて、彼が帰宅する時間になっていたらしい。彼は私にただいまのキスをすると鍾離さんに声をかけた。
「まさかスネージナヤで、それも我が家で鍾離先生と話をする日がくるなんて思わなかったよ。この国はどう? 璃月から出ない先生には寒さが厳しいんじゃないかな」
「ああ、岩も凍るのか気になっている」
「それって何かのジョーク? 先生の体が俺達と同じように血と肉でできているなら凍ると思うよ」
「ふむ、そうか」
 彼は私と同じことを考えていたが、難なく返答したぶん私より鍾離さんの扱いに慣れていた。彼の答えにどう納得したのか、そもそもそれは解決すべき問題だったのか疑問は残るが鍾離さんは与えられた答えに満足気だ。
 彼はだれにでも比較的友好的だが他者に固執しない。それなのに凝光さんに関してはあまりいい顔をしない。彼女がプレゼントをくれるようだと話したときも反応がいいとは言えなかったが、彼女の遣いが鍾離さんであれば話は変わるらしかった。夫婦茶碗を見て「凝光も気の利いたものを贈るじゃないか」と口にすると興味深く蓋椀を眺めている。
「そうだ、せっかくここまで来たんだから夕食前に軽く体でも動かそうよ。神をやめて碌に戦ってないなら体も鈍ってるだろ? 璃月を離れて以来、俺も場数を踏んでもっと強くなったからね。遠慮なんてしなくていいから存分に戦おうじゃないか」
「お前は相変わらずだな。まだ生傷の絶えない日々を送っているのか? 奥方をあまり困らせてやるな」
「それは無理な話だ、半分は仕事だからね。それで返事は?」
「気乗りしない。俺はお前に会いに来たわけじゃないんだ」
 呆れた口調で鍾離さんが返す。その言葉は彼の琴線に触れたらしく、珍しく機嫌が急降下する気配がした。
 彼は執行官の中でも若く、自由奔放な気質もあってか厄介払いされることが多いのだという噂は耳にしている。そのなかで鍾離さんは彼を子どものように扱いながらも邪険にしないから、彼も憎まれ口を叩きながら鍾離さんを慕っているのだろう。こうやって不機嫌になるのも多少なり気を許しているからだ。彼は否定するだろうが。
 言い合う二人の声を聞きながらそんなことを考えていると、背後から「今のは私が聞いていてもよろしかったのでしょうか」と執事の控えめな声がする。鍾離さんが神だったという衝撃の事実が飛び出したことにようやく気づいた私は、ちっとも気づいていない二人の代わりにどう説明するか頭を悩ませることとなった。

 翌朝になると雪はすっかり止んでいた。雲も晴れて太陽のあたたかな陽射しが差し込む洋間で食事をする。モーニングコーヒーを飲み終えたあとに出立の準備を整えた鍾離さんは世話になったと口にした。
「お前に渡すものがある」
 鍾離さんは屈み、私の手に何かを握らせた。装飾品だということはかろうじてわかったものの指で触れただけでは確証が持てない。これは何かと尋ねてみる。
「髪留めだ。凝光の遣いを引き受けることにした理由の一つはこれでもある。だが、たった今まで渡すべきかどうか考えていた」
「ふうん……その口振り、ただの髪留めじゃなさそうだ」
「ああ。使えるのは一年に一度だけという制限はあるが、失った目の代わりになる」
 鍾離さんの言葉に目を剥いた。彼も「冗談だよね?」と信じられない話を耳にしたように聞き返す。だけど鍾離さんは彼の疑問を否定して話を続けた。
「石にも記憶がある。俺はその記憶を読み取ることはできないが、それができる者を知っていた。俺なりに工夫すればお前の目として代用できるんじゃないかと思いついたんだ」
 そうですか、ありがとうございます、などと理解力のある返答をすることはできなかった。盲目の人間に光を与えるのがどれほど超常的なことか。たとえ彼が神だったとしてもすぐに受け入れることができない。
「ここに石が填まっているだろう。これをそのまま眼球だと思い、見たいものを石の視界に収めるように使え。髪留めだからどこに着けてもいいがお前の目で見ているようにするためには前髪を留めるか、石が後頭部から覗くように後ろ髪をまとめるのが一番だろう」
 鍾離さんの説明を半ば呆けて聞いていた。あまりの出来事に神ってすごい、と月並みな感想しか出てこない。彼は感心したように鍾離さんを質問攻めにしている。説明したところで理解できるのか、と挑発的な言葉を投げる鍾離さんに彼が拗ねたところで、鍾離さんは私達の反応が愉快でならないと笑った。
「ここまで驚かれるとは思わなかった」
「驚くのも当然だ、どう考えても人間業じゃない。鍾離先生は自分が神だったってことをもっと自覚するべきだよ」
「俺は填めてある石を作っただけだ、たいしたことはしていない。それに試したから大丈夫だとは思うが動かない可能性もある。俺も万能じゃない」
「それでも……、一体どうお礼をすればいいのか」
「友への贈り物だ。お前がそれを使い、幸福に生きることが俺への礼になる」
 鍾離さんの言葉に頷く。過分な贈り物にも思えるが鍾離さんの真心を断るなんて失礼はできずに髪留めを握り締めた。良かったねと隣でささやく彼が自分のことのように喜んでくれるから微笑みを返す。
「……お前たちが今を悲観し、過去に囚われていればその髪留めはお前たちを苦しめるだけのものとなった。だが人間は強いな」
 やわらかな声音でそう言い、渡せて良かったと話した鍾離さんを見送った。



 髪留めは一年に一度しか使えないが、鍾離さんが一度使うには十分な岩元素を込めているから最初だけはいつ使ってもいいらしい。記念日に使うか、それとも特別な日を一日増やすか、かなり悩んだものの答えは出ずに私はまだ髪留めを使えずにいる。
 ジュエリーボックスにそれを仕舞って、毎日寝る前にいつ使おうかと考えながら触れるだけの日々を繰り返してもう半年も経過してしまった。夜が更けて今日も使えなかったと息を吐く。
 慌ただしい足跡が近づいてきて、彼が私の名前を呼んだ。そして帰宅するなり少し出かけないかと言い出す彼に首を傾げる。
「こんな夜更けに氷上釣りへ連れて行ってくれるの?」
「まさか、そんな危ないことはさせないよ。オーロラが出そうなんだ、君と一緒に見たくて」
 彼の声は弾んでいた。この辺りでオーロラは珍しくない。彼もここで暮らしてもう何年も経つのだから初めてオーロラを見るわけではないはずだ。ただ彼はこういった鑑賞ごとに私をよく付き合わせる。演劇でもバードウォッチングでも、音だけで楽しめるものからそうでないものまで。見えない私を彼が憐れまないのは私にとって救いだ。彼の趣味を見えないというだけで共有できないのは寂しい。
 聞けば使用人達にもすでに指示を出したらしく、外にはキャンプスツールとあたたかな飲み物を準備しているらしい。私は風邪を引かないように防寒着をしっかりと着せられて彼に抱えられた。
「アヤックス待って、髪留めを取ってくれる?」
「使うの? ……もう夜だよ、暗くて見えないなんて可能性もあるんじゃないか?」
「性能の確認ができてちょうどいいでしょう。それに今日使わないとずっと使えずにいそうだから」
 悩んでばかりで一向に行動に移せずにいた私の心が決まるのを彼は何も言わずに待っていた。だけど小さく笑ったあたり、急かさなかっただけでそろそろ使ってはどうかと思っていたのかもしれない。片腕で私を抱えたままジュエリーボックスを開けた彼は取り出した髪留めを私に握らせる。
 綺麗に見えるといいねと二人で期待に胸を膨らませながら外へ出た。焚火の近くに置かれたキャンプスツールに下ろされると、いつの間に持っていたのか厚手の毛布を膝にかけてくれる。
 耳当てをして、フードを目深に被っているから前髪に着けるしかない。彼は私の手から髪留めを取って、軽く髪を掻き分けて留めた。
「どう? 見えた?」
 期待を込めた問いが落ちてくる。しばらく目を凝らしたが私の世界は相変わらず真っ暗だ。
「……ううん、何も」
「……そっか。鍾離先生も失敗するんだね」
「ひとときの夢だったけど悪くはなかったかな。景色はどんな感じ?」
 仕切り直すように尋ねれば彼はオーロラの様子をこと細かく説明する。彼は相変わらず読み聞かせが上手くて、頭の中に彼が語る光景が鮮やかに広がっていった。君に比べれば霞んでしまうけどね、なんて最後に付け加えてくるものだから馬鹿なこと言わないでと頬を抓ると彼は子どものように笑った。

 夢を見た。鍾離さんにじっと見つめられ、品定めをされる不思議な夢だった。眉間に刻まれた深い皺がふっと緩み、満足そうにすると鍾離さんの指が私を摘まみ上げる。視界の隅できらりと何かが光った気がした。
 見様見真似で作ったが上手くいったな。璃月から遠く離れたスネージナヤでは岩元素の恩恵が少ない。使えるほどの元素力を貯め込むには……良くて一年といったところだろうか。いっそ若陀のように彼女に瞳を入れてやれるなら話は早いんだが。さて俺の仙術がきちんとはたらくか試すとしよう。
 声が聞こえるというよりは考えていることが意識に流れ込んでくるかのような感覚だった。鍾離さんの心を見通したように私は彼の考えていることを理解する。そしてこの夢の正体にもようやく気づくことができた。これは、鍾離さんが贈ってくれた髪留めが見ていた景色だ。
 鍾離さんは席を立ち別室へと消える。数分もしないうちに戻って来たかと思えば、驚くことに鍾離さんとよく似た女性が目の前にいた。
 彼──彼女は髪をゆるく纏めて頭の後ろに髪留めを着ける。岩王帝君は様々な姿を持つ、と璃月港の講談師が話していたのは記憶に残っているが、まさかこの目で真実を確かめられる日がくるとは思いもしなかった。
 懐かしい璃月港の景色は鍾離さんが意図した贈り物だったのだろうか。手紙で尋ねることはできるだろうが鍾離さんの秘密を暴いてしまう心地がして気が引ける。そのままにしておこうと考えていれば、帰宅して髪留めを外した鍾離さんがそれを箱に仕舞った光景を最後に視界は闇に包まれた。
 闇が滲む。暗いことに変わりはないはずなのにじわりと違う色が混じったような違和感に首を傾げた。だれかの手が私の前髪を触っているのだ、と理解したのはこの光景が思い当たるものだったからだろう。視界を覆っていた手が離れていくと彼の期待に満ちた顔が私を覗く。
 どう? 見えた?
 先程とは違い音は一切聞こえなかった。だけど彼が何と言ったのかを私はたしかに知っていた。
 ああ、こんなことが許されるのだろうか。首を振る私に彼は一瞬だけ残念そうな顔をして、だけどすぐ吹っ切れた様子で私の隣へ腰かける。冷えた空気を追い出すように互いの間にあった距離を詰めた。
 空がどんな様子か彼が説明するから見えもしない空を私も眺めたのだ。だからだ、ぱっと上を向いた途端にオーロラが視界いっぱいに広がったのは。美しい光彩のヴェールがかかっている。光が存在しない世界を否定するかのような瞬間だった。
 鼻が赤くなってると言われた気がする。やはり彼の方を向いた私の鼻を彼がおかしそうに指先で突いた。用意されたあたたかな飲み物で暖を取りながら二人でまた夜空を見上げる。私達は寒空の下で身を寄せ合って笑っていた。
「どうしたの……」
 注意を払ってはいたものの鼻をすすっていたせいで彼を起こしてしまった。掠れた声が私を探る。顔に触れた彼の指が濡れた頬に気づいた途端、彼は緊張を張り詰めるとともに飛び起きて私の様子を窺った。
 泣くことなど滅多にない私を見て彼はひどく狼狽していた。そんな彼に泣きながらも笑い返す。
 夢で見た夜空の話をして彼は安堵した。素敵な贈り物をもらったねと笑い合う。鍾離さんにもいつかあの美しい夜空を見せてあげたいものだ。きっとそのときは、かの地で友人と過ごした時間のようにすべてが欠けることなく存在するだろう。

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