凍原は永き薄暮 7

『草露の章:ジヴァのワルツ』

 事業を畳み、屋敷を売って、慎ましやかな暮らしをして余生を過ごす。雪景色を音で感じ取りながら考えていた予定をすべて灰にしたのは他ならぬ公子様だった。
 たしかにプロポーズは断らなかった。本当にいいのかと疑問を投げただけだ。ただプロポーズという場面においてあの言葉は否定的な響きをしていただろう。当然彼は話を白紙に戻すだろうと思っていた。だけど結局のところ彼は私を抱き締めて、それでもかまわないと結婚を決めてしまった。
 失明したことでいずれ手放すことを決めた物事は彼が一手に引き受けると申し出た。執行官としての任をこなす傍らで私から家業を学び、運営した。当主の私に舞い込んでくる話のうち私では対処しきれないものを担い、屋敷を管理した。
 そして何より夫としての責務をすべてこなした。妻を尊び、愛しむ。あたたかな暖炉の火を囲んで、あの日の死を否定するかのように彼は私が生きているという証明をし続ける。
 彼のそれは単なる献身ではなかった。
「パーティー?」
 彼は私の手に指を絡めながら鸚鵡返しする。
「昔から付き合いのある方からのお誘いで……パートナー同伴が義務付けられているので知人に声をかける前に話をしておくべきかと思って」
「いいよ、一緒に行こう。いつ?」
 日付を伝えると悩ましい声が聞こえた。きっとすでに予定が入っていたのだろう。無理に合わせることはないと付け加えると声はもっとくぐもる。
「まあ、どうにかなるか。他の男に君を任せるわけにはいかないし」
「何も心配はいりませんよ。知人はみんな私の目について知っていますから」
「そうじゃなくて、着飾った君を他の男がエスコートするなんて耐えられないって話だよ。まったく……いつになったら俺が君に惚れ込んでるんだってことをわかってくれるのかな」
 恥ずかしげもなく言うと彼は頬に触れる。冗談めいた口調ではあったが、本気だと告げるように彼の指先はしっとりと艶のある触れ方をした。言葉に詰まっていると彼の軽快な笑い声が空気を揺らす。
「ハハッ、意地悪はこれくらいにしておこう。それより社交的な場に夫婦で同伴するんだから俺のことはちゃんと夫として扱ってね」
「ええ、もちろん……」
 含みのある言い方に引っかかりを覚えて口を閉じた。まさか私はまた彼の意図を掴めていないのでは、と思っていれば案の定くすりと笑う声がする。少し考えても思い当たる節がなかったため「今のはどういう意味でしょうか」と潔く降参した。
 彼はまさにそれだと言って私の唇を指で突く。ますます疑問が深まって首を傾げると彼はため息交じりに説明した。
「ずっと敬語のままだ。君のペースでいいとは言ったけどさすがに外でもこの調子だとね。だから少なくとも当日は敬語で話さないこと。君は公の場に出なくなったし、不仲だとか政略結婚だとか噂されてるんだ。女皇様にまで心配されるし……噂が真実になったら参ってしまうよ」
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「謝らないでくれ。でも君が気になるなら……そろそろ名前で呼んで欲しいな」
 彼がどんな顔をしているのか想像に難くなかった。本当は噂の的になっていても気にはならないのだろう。それなのに敢えて気にするような物言いをしたのは要望を通すためなのだ。もはや執行官を面白おかしく噂する話自体が実在するかもあやしい。
 意地悪は終わりじゃなかったのかと不満で口を尖らせる。声を押し殺しているつもりかもしれないが笑っているのはきちんと聞こえていた。
「……アヤックス」
「ん?」
 名前を呼べば彼は満足そうに返事をする。触れた手を取って引いて見せれば彼が近づくのがわかった。額を寄せれば互いの息がかかる。唇に落ちてきたキスはひどくやさしかった。

 先方も私の夫がどんな立場にいるかは知っている。彼を執行官として見るのは礼を欠くことだとわからない人ではなかった。
 挨拶を済ませたあとは無難に世間話や事業についての話をする。公子様が話に参加してきたことにはいささか驚いた様子だったものの、先方は当主の業務まで代行する彼に敬意を示しただけだった。好感触ではあったのだろう。
 会場のいたるところから視線を向けられていることには気づいていた。華やかな場に足の不自由な人間がいれば注目を集めてしまうのは仕方がない。中には執行官に車椅子を押させる女を眺める好奇の目も混じっていた。
 今までであれば家柄のこともあり声をかけてくる人間もいたものだけど今日に限ってはそれが一切ない。原因は私か、彼か。いずれにせよ滞在しても無意味なら長居する必要もなさそうだった。
「そろそろ帰りましょう」
「もういいのかい? 来てからまだそんなに時間は経ってないけど……まあ居心地がいいとは言えないか」
 私が気づく程度のことに彼が気づかないわけもなくあっさりと現状を受け入れた。見世物になるのは不本意なのだろう、車椅子を押して外へ出るのがわかる。
「だけど勿体ないな、もう少し君を見せびらかすっていう手もあったんだけど」
「……だれも羨みはしないだろうけど」
「そうかな? 俺を羨んでいた男は結構いたよ」
 それを言うなら私を羨んだ女性だって多かったでしょう、とは言わなかった。もうずいぶんとこの暗闇にも慣れて、目が見えないぶん他の感覚が研ぎ澄まされるようになった。表情が見えなくとも多少なら声で感情を読み取れはするが、他者と感覚を共有できない以上は眉唾物の話だ。たとえ彼が私の話を信じたとしても。
 ここはスネージナヤでも比較的あたたかな気候に構えてある。それでも薄着をしていれば体が冷えるな、と考えていれば彼が足を止めた。
「音楽が聞こえる」
「隣がダンスフロアなんでしょうね」
「……社交パーティーって全部そんなもの?」
「主催者によってさまざまだけど、彼はダンスが好きだからいつもこう。話を終えた後も会場を出て行ったでしょう? 情熱的な人だからタンゴばかり踊っているのに今日は違うみたい」
「へえ……」
 国で女皇陛下に次ぐ地位を確立していたとしても、闇を担う彼らは華々しい場とは無縁なのだろう。彼の実家がある地域を考えても社交界に触れる機会はなかったように思える。
「興味があるなら覗いてみる?」
 そう尋ねれば彼は頷いて車椅子の向きを変えた。
「本当だ、君の知り合いも踊ってるよ。優雅な曲なのにずいぶんと情熱的に踊るね」
 彼の感想に思わず吹き出す。見てはいないのにどんな踊りを見せているか想像できてしまったのだ。
「君もこういったパーティーで踊ることはあった?」
「もちろん、一通りは踊れたわ」
「ふうん……。思っていたよりも足下は忙しなく動かすんだね、ダンスには詳しくないけど動きが洗練されているかはわかるかな」
「……ふ、」
 堪えきれずに笑い声を漏らしてしまう。優雅ではない、と言外に酷評する彼がおかしくてならない。どうして笑うのかと不服を申し立てる彼自身も笑っていた。踊れもしないのにと私が考えたのが伝わったのだろう。
「俺が踊れないと思ってるんだ、でもあまり見くびらないでほしいな」
「踊ったことはないでしょう?」
「ないけど、動きを覚えるだけなら今ので十分だよ」
 自信家の彼らしい返答だ。試してみるかと言う彼に肩を竦める。戦い以外も器用にこなしてみせる彼ならば本当に一度見ただけで覚えてしまいそうだが、それを私に対して証明するのは難しいだろう。彼が本当に踊れたところで私は見ることも叶わない。
 わかっていながら提案するだなんて、と呆れていると彼が私の手を取った。
「大丈夫だから、細かなマナーは踊りながら教えて」
「えっ、いえ公子様、」
 私は踊れない。
 腕を引かれるまま腰は持ち上がるが、重心が前に傾いた途端に腱が切れた私の足は崩れてしまう。今にも膝が折れそうになって見えない目を強く瞑った。
 だけど衝撃はいつになっても訪れずに、かといって彼の胸に倒れ込んだ様子もない。妙な感覚に恐るおそる周囲の気配を探ってみるがしばらく考え込んでも一体何が起こっているのかわからなかった。
 立っている、のかもしれない。彼にリードされて私の足は前へ一歩ずつ踏み出していく。脚には力が入っていないはずなのに、太腿にドレスが擦れる感覚はまだ歩けていた頃を思い出させた。
 彼の躊躇のない歩調にもしっかりとついて行くことができていた。立ち止まった彼の腕が腕に回る。少しも違和感のない構えにようやく我に返って、何かが足に纏わりついている感触をようやく感じ取ることができた。揺れる水音がかすかに耳に届く。私の脚を水の塊が覆っている。水が、私を動かしている。
 公子様は神の目を使って水を巧みに操る。神の恩恵をまさかこんな形で使うなんて。驚嘆しながらも感情までは追い付かずに彼を見上げた。
「ダンスができるようなドレスじゃ……」
「心配しなくていいよ。上手くやるから」
 彼は始まった曲に合わせてなめらかに足を踏み出した。
 怪我を負って以来これほど激しく動いたことはない。だけどきちんと体の記憶は残っていた。一度見ただけだとは信じがたいほど彼は上手くダンスを踊っている。
 曲調は先ほど流れていた曲よりも早い。だが彼に動揺は見られなかった。手を離されたときは心臓が縮んだものだが水は私を綺麗に操ってスピンさせる。小粋なステップまで踏んで彼の腕の中へ戻って来るのだから気分が良い。
「本当に初めて?」
「初めてだよ、執行官たちがスネージナヤパレスに集まってダンスパーティーをするような面子に見えるかな」
「全然。でも上手ね」
 悪口をささやく彼に私も声を潜めて返す。彼に身を任せて大丈夫だとわかれば二度目は恐ろしくなかった。
 まるで魔法にかけられたようだ。何も見えないのに暗闇の中に彼の姿が浮かび上がってくるような気すらした。もはやリードする男性の意図を汲む必要すらないダンスだが、操り人形だと感じて気分が悪くなることもなかった。
 心底おかしかった。この場において最も経験の浅い彼がダンスフロアを支配している。歩けず、目が見えない女を踊らせることで自分の力を見せつけている。初めて会った日の彼を思い出した。私が魅入ったように、きっとフロアにいるだれもが今この瞬間を魅せられているのだろう。
 ワルツが終わると私を支えていた水が消えていった。すぐさま崩れ落ちようとする体を彼が抱き上げる。
「楽しんでくれた?」
 慣れた手つきで車椅子に下ろす彼に「とても」と返す。やさしい声音を聞きながら繋いだままの指先に瞼を乗せて、あと少しだけ夢の余韻を楽しむことにした。

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