凍原は永き薄暮 6

『夕ぐれおひめさま』

 迎えの中には父がいた。公子様の両親に事情を聞き、テウセルはまだ家に帰らず、ファデュイの拠点に私の姿がないことから状況を察した父も森に向かったらしい。
 父は道中で私を背負ってテウセルと共に歩いて来た公子様と合流した。彼も重傷を負いながら、自らを止血しつつ私の治療をして歩いていたのだと言う。彼が水元素の使い手で、武芸に秀で、いくつもの死線を越えたからこそ成せる技だった。



 窓際で外の天気を窺う。雪が窓を打ち付ける音が蝸牛に冷たく沁みた。今日はあたたかいですねと話しかける侍女にそうねと返す。飲み物を準備してくれたらしいので手を掲げるとマグカップが渡され、こもった熱が指先をじわりと包み込んだ。
 バニラの甘い香りが鼻をくすぐる。砂糖もはちみつも入れず、代わりにバニラを入れるように頼んだことがある。それから侍女が言いつけを守らなかった日はない。
「飲み終えたら旦那様のところへ向かいましょう」
 乳白色の液体が舌の上に広がっていく感触を楽しんでいると侍女が言った。
「お父様が帰って来てるの?」
「はい、先ほどご帰宅なさいました。お嬢様にお客様も来ていますよ」
「私に? どなた?」
「……それはまだ秘密、です」
 いたずらめいた口調の侍女に首を傾げた。私を訪ねてくる人なんて限られている。だれとも会うつもりはないと言っておいたから、父の承諾を得てここへ来ることができる人物となるとかなり限定されるのだ。
 髪を結おうかと聞いてくる侍女に頭を振った。朝起きて櫛を通しただけだが寝癖は残っていない。包帯を巻きなおすことになると時間がかかりすぎる。中身が空になったマグカップを手渡して父の元へ向かった。
 キィキィと車椅子の擦れる音が耳障りだ。決して軽くはないだろうに、職務だからと不快なこれを押して歩く侍女が可哀そうでならなかった。もう少し手当を増やしてあげなければ。
 侍女の給金についてもだが、今後のことについていよいよ本格的に検討しなければならないだろう。家業のこと、使用人の生活、そして私生活について。思い返せばなかなか壮絶な人生だったなと笑いが込み上げる。
 母が下の子を妊娠したとき祖父は中絶するように言い聞かせたが、それを跳ねのけた結果母は死んだ。祖父は父に責任があると言ってこの家から追い出し、私に家業を継がせた。だが資産運用は幼い私の手に余った。
 父と切り離された私の支えになってくれたのが母に長く仕えていた執事だ。執事は二度も私を助けてくれた。幼い頃はともに家業を回し、璃月にいた頃は私の代わりにいくつもの業務を担ってくれた。ただ苦労して身に着けた家業も手放さなくてはならない。今はすべての業務を執事が担ってくれているが、執事に主人の不便をこれ以上強いるわけにはいかない。
 いずれ父が老いてしまえばこの家を守る人間もいなくなる。歴史的価値の高い屋敷だが、管理ができなくなった建物の劣化は著しい。この屋敷を望む人物が現れてくれるとありがたいが、そうでなければ取り壊すしかないだろう。いずれにせよ早く手を打っておかなければならない。
 もし家を譲り受けてくれる人間が見つかったら使用人達もそのまま雇用してくれるように交渉するのが最善だろう。勝手のわからない人員を新たに募るのは無駄だし使用人にも生活がある。私には長年仕えてくれた彼らを守る義務があるのだから。
 手元に残ったものはわずかだが、あまり不満は感じていない。
 そんなことを考えていれば父の執務室に到着した。ドアをノックして室内へ声をかけた侍女がドアを開き私を中へ連れていく。暖炉の薪が爆ぜる音が近くで聞こえた。
「目の具合はどうだ?」
「だいぶ楽になってきたわ。最近は包帯も乾いてるの」
「どれどれ……」
 父の声が近づいてくる。細心の注意を払って目尻に触れた父は「本当だな、これならもう外して過ごせるんじゃないか」と口元を緩ませる。
「お前を誇りに思うよ」
「旦那様……! お嬢様はファデュイの戦士ではないのですよ」
 侍女が弾かれたように叱りつける。彼女は私が無謀な行動をとったことを良く思っていないのだ。心を砕いてくれているのだろうが、父が助長するような発言をするのが気に入らなかったらしい。
 怪我は戦士にとって勲章だといつか彼が言っていたのを思い出す。父も多くの傷をその身に抱えていた。彼らにとって傷が塞がれば包帯を取ることはごく自然のことで、身を挺して民間人を守ったことがある父だからこそ飛び出た言葉だろう。
 ばつが悪そうに父が謝るので小さく噴き出してしまう。たしかに顔に傷は残るが大した問題ではない。失明し、歩くこともできなくなった以上の不幸が、顔に傷が残る程度で上塗りされるとは思えないからだ。
「体調は平気よ。ただ、今後の身の振り方は考えておかなくちゃね」
「お前が気にする必要はない、治すことに専念しなさい」
「それはもちろん、そうするけど……まあいいわ、あとで話しましょう。ところでお客様が来てるって聞いたけど応接間で待たせているの?」
 私の問いに父はすぐ答えなかった。空気越しに躊躇いのようなものが伝わってきて不思議な気持ちになる。父の弱った姿はあまり記憶にないのだ。
「──ここにいるよ」
 全く気配のなかった人物が突如として部屋に現れた。少し前まで毎日のように聞いていた声は湖に浮かぶ氷のように硬い。気配がなかったのも当然かと声がする位置を見る。
「公子様、お久しぶりです」
「ずっと会いに来られなくて悪かった」
「そんな、どうぞお気になさらず」
「……腕を広げてくれるかい?」
 そう言われて広げた腕に重い何かが乗せられた。ふわりと鼻をくすぐる馨しい香りで彼の手土産の正体を知る。
「これは……花、ですか」
「璃月で君が気に入っていた花だよ」
 あそこで長く暮らしていたわけでも、あそこを離れて長い時が経ったわけでもない。それでも懐かしさに包まれて花束に顔を近づける。
 彼にもらった鉢花はスネージナヤに持って帰ったが、あたたかな気候で花を咲かせる植物はこの極寒の環境に耐えられなかった。休眠状態に入ることを考えて水やりは控えめにしたから根腐れすることこそなかったが、それでも次の花をつけなかった。あたたかな室内に置いていても自分が寒い所にいるのだということはわかるのかもしれない。
 花束には切り花が使われていた。他にも数種類の花が挟まれているらしく香りが混じっている。ひとときしか楽しむことはできないがきっと気分が華やぐだろう。
「ありがとうございます、大切に飾りますね」
 もう一度だけ胸いっぱいに花の香りを吸い込んで花束を膝の上に置いた。
 彼は璃月での任務中だった。だから私の帰国に付き合うことも本来できないが、討伐任務を引き受けたため一時的な帰国が許された。だから討伐を終えた彼は璃月での任務に戻ったはずだ。スネージナヤにいるのは璃月での任務も終えたからだろうか。
 それにしても、彼が手土産を持って挨拶に来るほど律儀だとは思わなかった。
「それで今日はどのようなご用件でしょうか。以前、北国銀行から融資をいただいた件についてなら執事も交えて──」
「仕事で来たわけじゃないよ。……君の様子を見に来るのは当然だろ? 婚約しているんだから」
「……婚約は破棄したいとお伝えしたはずですが……」
「承諾したつもりはないけど」
 理解しがたいことを言い始める彼にそうですかと気の抜けた反応しか返せずに沈黙が下りる。非難したいわけじゃないけど、ずっと私に連絡も寄越さずにいたのに今更撤回されても困ってしまう。
 討伐任務の件で彼も私も大怪我を負ってそれどころではなかったが、快復した彼は何も言わずに璃月に発ってしまった。討伐任務から帰ったら気持ちを告げる。彼とした約束に対するそれが答えなのだろうと思っていた。
 結局彼はどうしたいのだろうかと疑問が湧く。私の発言にどこか苛立った気配すら漂わせている彼に要領を得ないまま、私は彼が話を切り出すのを待った。
「……手を握ってもいいかな」
「どうぞ」
 彼は空気をやわらげて沈黙を破った。伺いを立てられたので腕を上げる。ものを見られない状態でいきなり触れられると驚いてしまうのだが、それを自然と気遣われたことがどこかむず痒い。
 彼は私の手をやさしく握った。そして持ち上げたはずの腕が下げられる。彼が屈んだのだと気づいたとき、指に冷たい何かが触れた。
 驚きで息をのむ。触れたものの正体など聞かずともわかった。初めて触れたが間違えようがない。寒空の冷たさを含んだままの金属が左手の薬指を包んでいる。
「俺と結婚してくれる?」
 希う声だった。彼の声は緊張で少しだけ張っていた。
 もっとずっと早くに聞いていれば喜びで抱き着いていただろう響きも今は外を吹く雪の音に負けてしまう。
 自分を責めているんですかと尋ねようとしてやめた。彼は謝罪や体面、あるいは自己犠牲といったつまらないもので動く人ではない。私が一生消えない怪我を負ったところで責任感だけで自分の人生を棒に振るようなことはしない。私達がただの他人であれば、彼はきっと一度だけ見舞いに来ただけですべてを終わりにする。
 だから、これが彼にとっての答えだった。そういえば彼は存外私に対しては不器用な接し方をする人だったな、と璃月でのことを思い出す。私を愛しているから負い目を感じて顔を見られなかった、だけどまだ愛しているから会いに来たのだ。
 やはりもっと早く聞きたかった。凍てつく冬の中で考える。
「……貴方って人は、本当に物好きですね」
「ひどいなあ……俺は真面目にプロポーズしているのに」
「だってそうでしょう。歩けない盲目の女を選ぶなんて」
 皮肉を言ったつもりはなかったが私の言葉に彼は息を止めた。触れられた指先越しに伝わってくる動揺を笑い飛ばす。
 重ねられた体温から逃れるように引き抜いた手で空中を掻いた。探るように動かしていけばやわらかな頬に辿り着く。彼の顔に触れたことなどないから目の前にあるのが彼の体かもわからない。
「最後に見たのは魔獣の攻撃が刺さっている貴方の姿です。どう考えても致命的な傷でした。……貴方も私も生き延びた、これが夢ではないことをどうやって確認すればいいんでしょうか」
 私は初めて胸の内を明かした。
 現状を嘆いたわけではない、未来に絶望したわけでもない。ただ私の体は不自由なものになってしまった。
 暗闇の中では他人の存在を感じるどころか自分自身の輪郭すらわからなくなる。夜に夢を見ているような気分が続くと、もしかすると私はあの日生き延びなかったのではと疑問を抱くようになるのだ。
 仮にこれが現実だとしても私はとっくに死んでいた。雪の上で、彼の弟を抱き締めながら眠る感覚が残っている。隣でもう楽になれとささやいた死の気配が今もそこにいる気がするのだ。あのとき消えたのは命の灯ではなく生への渇望だった。
「夢なのかもしれない」
 夢見心地にしては冷えた声だった。彼の手が私の手を覆う。
「今、私はどうやって生きているのかもわからないんです」
 死ねば何も残らないと彼は言う。だけど生きていれば何かが残るわけでもない。
 侍女が啜り泣いていた。それを他人事のように聞きながら彼の反応を待つ。頬に触れた手が濡れていき、彼が泣いているのだと知った。
 戦争には必ず犠牲が伴う。だが犠牲には勝敗の結果が伴わない。彼がその渦中で生きることを望むのであれば、彼は犠牲が出ることへの覚悟を決めておかなければならなかった。
 覚悟が足りなかったのは私も同じだ。彼の最も大切なものよりも優先されることはない、その覚悟が足りなかった。あの洞窟の中で、彼の弟を危険に晒した私に向けられた非難の目が私のすべてを否定した。
 心の傾け方は人それぞれだ。彼の戦う姿に惹かれたのに、それなのに私を一番にしてほしいだなんて笑い種だろう。私と彼は、違ういきものなのだと、旅の終わりに真実を突きつけられる覚悟が、足りなかった。
 冷たい指輪が彼の体温を吸ってあたたかくなっていく。これが生き物の温度なのだとすればあまりにぬるい。兄に憧れていた末の弟は震えずに眠れているだろうか。添えた手を握り込む彼の目元を拭って、終わらない冬の音がする暗い空を眺めた。


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