凍原は永き薄暮 5

『しんえんのかいぶつ、星のささやき』

 船を降りると冷たい風が頬を撫でて思わず目を瞑った。同じ海風でも璃月とは気配が違う。帰国してみると懐かしさはいっそう増した。ここはスネージナヤでも比較的あたたかな場所だが、実家がある地域は息さえも凍っている頃だろうか。
 本当に帰ってきたのかと感じ入っていると遠くから子どもの声が聞こえた。冬空の下では声が良く通る。一直線に走って来た幼い男の子は、公子様が「テウセル!」と驚きと喜びで声を張ると彼の腰に飛びついた。
「テウセル……どうしてここに?」
「お兄ちゃんが帰ってくるって聞いたから連れてきてもらったんだ!」
「ああよかった、オヤジと一緒か。てっきり兄ちゃんとの約束を忘れて一人で来たのかと思ったよ」
「僕ちゃんと約束守ってるよ!」
 頬を膨らませて抗議する弟の頭を撫でながら彼が謝る姿に目を丸くした。彼の表情がここまでやわらかいのは見たことがない。家族を大事にしていることは知っていたが想像以上だった。
「お姉さんがお兄ちゃんの婚約者?」
 兄弟水入らずのところを邪魔してはいけない、と黙っていた私に下から無邪気な問いが飛んでくる。このくらいの歳でも婚約者なんて難しい単語がわかるのかと感心していれば「そうだよ」と彼が肯定した。
「婚約者ってお嫁さんになる人のことを言うんだよね? ……じゃあお姉さんはお兄ちゃんと結婚して、僕のお姉ちゃんになるってこと?」
「テウセルが仲良くしてくれるならね」
「仲良くできるよ! お兄ちゃんが帰って来たのはお姉ちゃんが家族になるよって話をするため? ……じゃあ今日はお姉さんもうちに来るの? 僕、お姉さんの話が聞きたい!」
 彼の弟は瞳を輝かせた。うちに、というのは公子様の実家にという意味だろう。婚約していると言っても家族と顔合わせをするなんて考えたこともなかったから心の準備ができていない。それに彼の本心を聞いていない状態で肩書ばかりが重くなっていくのは避けたかった。
 ただ小さな子相手に複雑な事情を話すわけにもいかず上手いこと収めてくれないかと彼に視線で助けを求める。顎に手を当て「うーん……」と彼は考え込んだ。
「彼女が急いで家に帰らなければならない用事があるなら無理だろうね」
「お姉さん、すぐおうちに帰らなきゃだめなの?」
 彼の言葉にほっとしたのも束の間、彼の弟が私を見上げる。
「仕事がありますから……」
「それはたしか執事が肩代わりしていたはずだけど……他には?」
「ほ……他?」
「……用事はないみたいだ。よかったなテウセル、お姉さんからいっぱい話を聞けるぞ。さあ馬車に連れて行ってあげて」
「やったあ!」
 私は「えっ……」と呆けた声を出すしかなかった。用事があるから今日は無理だと、そんな話の流れに持っていくのではないのか。彼もこの場を丸く収めようとしていると思い込んでいただけに驚きですぐ否定できず、私を放置して話がとんとん拍子で決まっていく。
 彼の弟が意気揚々と私の手を掴む。こっちだよと言って指差す先にはこの子が乗って来たのだろう馬車と、その傍に佇む中年の男性が見えた。二人の会話から察するに父親だろう。
 下に弟も妹もいないため手を引く小さな子の扱いがわからない。はっきりとものを言って泣かせてしまってはまずいと思えば碌に拒絶もできず、おろおろと彼の弟を見下ろすしかできなかった。
「それじゃあ俺は先に藻屑町へ行っているから、準備が整ったら連絡をくれ」
 部下に指示を出した彼が後ろからついてくる。馬車の前で見守っていた彼らの父親と目が合うと、頭が痛いとでも言いたげに苦々しい顔を向けられた。元気が溢れる奔放な我が子に手を焼いていることが窺えた。
 馬車は真っ白な雪道を迷わず進む。しばらく揺られていると藻屑町に入った。どうしようもなかったことではあるが、身一つで突然来訪してしまうなど礼儀に欠けている。せめて港で何か見繕えばよかった、と後悔するがすでに遅い。
 馬車で乞われるまま話をしているうちにテウセルにすっかり気に入られたようだ。私と彼の間を陣取った弟とはずっと手を繋いだままで、お利口に座っているテウセルにもっともっとと璃月の話をねだられる。
「寒いからもう少しそっちへ寄ってほしいな、テウセル」
 なんて言って彼がこちらに距離を詰めてくるため私達は狭くもない馬車の荷台でぎゅうぎゅう詰めになって座っていた。どうしてそんなこと、と視線で疑問を訴えても彼は満足そうな笑みを浮かべるだけで何も言わない。兄弟揃って機嫌よく私を見ているものだから調子が狂ってしまう。
 子どもの体温が高いというのは本当だったらしい。話に飽きて舟をこぐテウセルで暖を取りながら、小さい子の相手をするのも悪くないと考える。するとあたたかいよね、と公子様が小声で話しかけてきた。向けられる笑顔があまりにも穏やかで、考えていることを見抜かれてしまったのではないかと恥ずかしくなる。
 ざわつく胸を宥めていると、ほどなくして目的地へ到着した。馬車からは家がすぐ先に見える。道中の降雪で軽く体に積もった雪を払い落とし、目を擦るテウセルの手を引いて歩いて行く彼のあとについて行くと、家から子どもが飛び出して来た。港で見たばかりの光景だが、駆けてくるのはテウセルより歳を重ねた少女だ。
 妹は家族以外の人間がいることを知って慌てふためいた。なんとか父親の体に隠れるとつぶらな瞳で私を見上げる。兄妹揃って愛らしい顔をしている。名前を教えてくれたトーニャにはじめましての挨拶をすると彼女は健気に微笑んだ。
「兄貴達は?」
 彼の言葉にもうすぐ帰って来るはずだと答えがくる。彼の帰国に合わせて家族で食事する予定だったらしい。私という異物が割り込むことが益々申し訳なくなった。
 泊まっていくよねと当然のように尋ねる彼にさすがにそれはと遠慮する。だが聞き入れてはもらえなかった。家族が聞きたがった彼の話をする。勘弁してくれと言いたげな顔をされたけれど気づかない振りをする。穏やかに時間は過ぎていった。
 彼の家族にすっかり気に入られてしまい、アヤックスをよろしくだなんて言葉をかけられた。彼もその気で返事をするものだから、夜はなかなか寝付けなかった。


 翌日は子ども達の来訪で目を覚ました。弟や妹がいない私と違って、兄と姉を持つ子ども達は私という存在にすぐ慣れてしまった。人形遊びをしたり、本の読み聞かせをねだったり。あたたかな暖炉の前で私の周りを囲んでくれる様子は微笑ましいが、次から次へと変わる遊びに付き合っていると流石に疲れてしまう。
「あーあ、雪が降ってなかったらお姉さんにお兄ちゃんからもらったプレゼントを見せてあげられたのになあ」
 私の膝に座ったテウセルがつまらなそうにした。
「どんなお土産?」
「独眼坊と、ヒゲ船長と、鋼のジャック! あっでもお兄ちゃんと璃月に行ってたなら独眼坊は知ってるよね。そうだ、特別にアイアントニーも見せてあげる!」
「外にあるの?」
「庭に置いてるんだ。今すぐ雪がやめばいいのに……」
 独眼坊は見たことがあるだろうとテウセルは言うが名前を聞いたこともない。璃月を知り尽くしたと言えるほど滞在していたわけでも積極的に観光していたわけでもないから知る機会がなかっただけで璃月では有名なのだろうか。土産物なら露店で目にしたことくらいはありそうだ。
 トーニャがぎゅうと服の裾を掴んでいることに気づく。不安げに揺れる瞳はテウセルを捉えていた。元気いっぱいのテウセルとは違って大人しいこの子は何かを主張したくともまず躊躇ってしまうようだ。どうしたのかと声をかけてもまだ悩んでいる。
「みんな、パイが焼けたよ。焼きたてが食べたいならおいで、早い者勝ちだ」
 キッチンから身を乗り出した彼がパイを掲げながらこちらに呼びかける。オーブンから取り出したばかりのパイから上る蒸気が甘く香ばしい香りで子どもたちを誘った。弟達はそれまで考えたことがすべて吹き飛んでしまったかのように飛び上がって彼のもとへ向かう。
 途端に冷えた膝を擦りながら「トーニャは食べないの?」と尋ねると、トーニャが答えを返す前に彼がキッチンから出てきた。
「どうしたんだいお姫様、ティータイムにパイはお好みじゃなかった?」
 マグカップを二つ手に持った公子様が眉を下げて尋ねた。トーニャは小さな頭を一生懸命に振って否定すると立ち上がってパイを食べに行く。ここで遊んでいたときとはまた違った元気な声が響いてきて賑やかだ。
 彼は持っていたマグカップの一つを私に渡す。子ども達と入れ替わるように私の隣へ腰を下ろすと自分のマグカップに口をつけた。手のひらをじわりとあたためる飲み物はミルクのようにも見えるが、ただのミルクにしては華やかな香りを漂わせている。
「何か入っているんですか?」
「バニラだよ。本当はラム漬けしたベリーを入れたかったんだけど……君は酒がダメだって話していたから」
「覚えていてくださったんですね」
 ミルクを口に含むとバニラの甘い香りが鼻を抜けていった。ホットミルク自体を久しぶりに飲んだし、バニラで香りづけしたものは初めてだ。だが案外癖になる。
 彼の両親は外出していた。兄達も昼食を共にしたあとは仕事や家庭に戻っていったため家にいるのは私と彼と弟達だけだ。
 久しぶりに帰って来た兄が、翌朝からたっぷりと弟達に振り回された結果おやつにパイを焼こうかと言い出したのが二時間前のこと。驚くほど手際よくパイを焼いてしまった彼は、その見事な手腕で弟達からの尊敬とゆっくりと過ごせる時間の両方を手に入れたわけだ。彼の代わりにたった二時間子ども達を独占していただけでお手上げの私とは埋められない実力差を感じる。
「ずいぶんと気に入られてたけど子どもの相手は得意じゃなさそうだ」
「そうですね、あまり……。周りは大人ばかりでしたから」
「じきに慣れるよ。子どもの視点に立つこと、これが仲良くなる秘訣だ。まったく同じ立場になるんじゃない、彼らの夢を守ってあげればそれでいい。たとえば……いつもは家族で九等分のパイをお腹いっぱい食べたい、とかね」
 そう言って悪い顔をする彼がおかしかった。恰好つけているが、彼らの気持ちがわかるということは彼自身も幼い頃そう感じていたということだ。彼の可愛らしい一面に思わず笑みを浮かべてしまう。
「貴方が子どもの頃はまだ四人か五人兄弟だったでしょう? そのときもパイが足りなかったんですか?」
「オフクロは大きなパイを作ろうとしてくれたけどね。それでも年々小さくなっていったよ」
 はあ、と彼が溜息を吐くのでもう耐えられなかった。押えた口元から笑いが零れてしまう。家族が多いと大変なのだろうがどこか羨ましかった。
「お兄ちゃん! これ全部食べてもいいの?」
 大きな声が飛んでくる。こちらを覗き込むテウセルの表情は興奮気味だった。オヤジ達に見つかる前にな、と返す彼は楽しそうだ。夕飯が入らなくなるんじゃないかと思ったが水を差すようなので口にするのはやめておく。
「公子様、独眼坊って」
「シーッ……ここではその名を出さないでくれって言っただろ」
「あっ……すみません」
 声を潜めて注意されたことではっとする。彼は末っ子のテウセルにはファデュイで働いていることを隠しているらしい。ファデュイが女皇陛下のために功績を挙げているのは事実だが、そもそも彼らの行動を功績と呼ぶこと自体に眉をひそめる国民もいる。だから彼は家族の前で『公子』タルタリヤの話題を極力出したくないのだ。
 ただ教えられた彼の本名を口にするのはどこか躊躇われて、「……独眼坊って璃月で有名なんですか?」と誤魔化した。
「いいや、あれは俺が……その、おもちゃ販売員として商品展開しているおもちゃの一つでね」
「おもちゃ販売員……?」
「テウセルにはそう言ってあるんだ」
「……」
 おもちゃ販売員は子どもの憧れで夢も守れるから、と彼はそこだけは自信に満ちた物言いをするが、そんな偽り方をするから言い訳が苦しくなっていくのではないかと内心で考えてしまった。沈黙する私に公子様は不安を覗かせたが、彼の行動を制限するつもりはないので何も言わない。
 おもちゃと言うからには家に置けるものだろうと思っていたのだが、独眼坊とはどんなものなのかを聞いていくうちに余計に頭を抱えた。遺跡守衛と呼ばれるそれは壊れて使い物にならないだけで本来は人を攻撃する巨大兵器らしい。
「どうして庭にあるのかとは思っていたんですが、庭に置くしかなかった理由がわかりました。危なくはありませんか、爆発でもしたら……」
「そこは問題ない、きちんと破壊はしてあるから」
 物騒な機械も、より物騒な存在の前ではおもちゃ同然だということか。
 複雑な顔をしていれば、私の視線から逃れようとしたのか「明日も泊っていけばいいのに」と公子様は話題を変えた。
 いくら好意的な態度を取られているとは言えども二日も泊まれるほど図太くない。それに帰宅のための馬車を手配しているし、彼の家に泊まって夕方帰ることをすでに父にも連絡している。
 彼はこの町の近辺で討伐任務があるらしい。だからもう数日実家に滞在してからスネージナヤパレスに登城するのだと聞かされた。弟たちを溺愛している彼のことだ、私がいれば彼が仕事をしている間の遊び相手ができるとでも考えたのかもしれない。
 暖炉の炎が小さな音を立てて爆ぜている。燃えた木が二つに折れた音がしたところで彼が何かを言いかけた。顔を上げると炎に照らされて赤い横顔が見える。
「任務が終わったら会いに行くよ。そのときに……璃月では言えなかったことを伝えてもいいかな」
「……はい」
 眉を下げ、弱気になって尋ねた彼は私の返答を聞いて嬉しそうに息を零した。じっと私を見つめる視線は炎よりも熱い。逃げるように手のひらのマグカップに口をつけると空気がやわらぐ。
 初めて彼をこの雪の中で見たときは考えもしなかった。名ばかりの婚約者となり、任務で璃月を訪れていたのに私のために帰国した。永久凍土のこの地が、あの国のように鮮やかな色彩を纏う日がくるだなんて思いもしなかった。
 隣の体温を意識しないようにしていると家のドアが叩かれる。彼の家族であればノックなどしないし、私の迎えにしては早すぎる。来客予定もなかったのだろう、彼は不思議な顔をしてドアを見ている。
 彼が入口に向かうとドアの先にはファデュイの兵士が立っていた。彼は顔色を変えて兵士を外へ追いやり、自分もそのまま外に出た。弟達に話を聞かせたくないのはわかるが薄着のまま外に出るなんて。
 彼の正気を疑ってコートを二着掴み取る。片方を羽織ってあとを追いかけた。家からわずかに離れた場所で話し込んでいるのを見つける。仕事の話を聞いてしまうのは問題が生じるかもしれないが構わず近づいて、掴んでいたもう一着のコートを彼の肩にかけた。
「任務の前に風邪を引いて倒れますよ」
「ああ、ありがとう」
「……何かあったんですか?」
「討伐任務の日程が早まりそうだ。少し先にある森に対象が二体現れたらしい」
「まさか……今から出征ですか」
 急な事態に不安を隠せない。落ち着き払ったファデュイの兵士は『公子』を招集に来たという空気ではなかった。おそらく、すぐにでも出発できる状態を整えているのだ。頭を垂れ彼の命令を待っている兵士を見ながら確信を口にする。
 彼は戦士の瞳で私を射抜いた。静かにうねる水流の音がどこからともなく響いてくるようだ。このときを待っていたと言わんばかりに笑みを作ると、彼は兵士に「すぐ行くから」と告げて家の中へ引き返す。
 服を着替えて外出の準備を整える兄の姿を見て子ども達は異変を察知した。
「お兄ちゃんどこに行くの?」
「兄ちゃんは仕事に行かなきゃいけなくなったんだ」
「えっまたお仕事? 明日までおやすみって言ったのに……」
「ごめんなテウセル、すぐ帰ってくるから。オヤジ達が帰ってくるまでお姉さんと一緒にいい子で待ってるんだぞ」
 彼は駄々をこねるテウセルの頭を撫でる。機嫌を損ねたのだろう、テウセルは何も言わずに沈んだ足取りでキッチンに戻っていった。トーニャとアントンにも声をかけて、公子様は玄関前で見送る私に弟達の世話を頼む。
「オヤジ達はあと少しすれば帰ってくるはずだ。だけど……弟達が外へ出ないようくれぐれも目を離さないでくれ。討伐対象は魔獣だ」
 声を潜めて言われた内容に息をのんだ。
「魔獣ですか……?!」
「スネージナヤでは魔獣が確認される地域がいくつかある。まあ森の奥深くに行かない限り遭遇することは滅多にないけど……君のときがいい例だ、たまにああして人の出歩かない場所に出没するのさ。まあこの辺りまで来ることはないだろうけど、万が一を考えてみんなを家から出ないでほしい」
 彼の言葉に大きく頷く。両親が不在にしている今、彼らを守ることができるのは私しかいないのだ。荷は重いが気を引き締めた。
「君の見送りはできそうにない。帰り道は気をつけて」
「公子様も、怪我をしないでくださいね」
 闘気と緊張を纏って彼は雪景色に足を踏み出した。

「お兄ちゃんともっと遊べると思ってたのに。つまんない」
 口を尖らせて不貞腐れているテウセルを慰めているとほどなくして彼の両親が帰宅した。事情を話すと二人は心配と呆れを同時に滲ませる。母親は子ども達がきちんと家の中にいることを確認して私を労った。
「アヤックスは何も変わっていない」
 父親が頭を抱える。更生させるためにファデュイに入れたのは間違いだったと。
 冒険が大好きで物語の主人公に憧れ、だけど年相応に憶病だったはずの子ども。小さく弱い生き物が、ある日を境に自ら危険に飛び込んでいくようになってしまった。大人になるまでに小さな恐怖を一つずつ克服して勇敢になるのならまだ良かった。だけどあどけなさを残したまま突如としてすべての恐怖を支配したのだと。
 彼が長い間ファデュイにいることは知っている。だが自ら兵役を志願したのだと思い込んでいたため、父親の口から語られる幼い頃の話に驚いた。
 どうかあの子に人並みの安息を教えてやってほしい。私に懇願する父親の瞳は何かに怯えていた。頭痛をこらえる父親の姿をただ見つめることしかできない。そうだ、あの子はあの日も森に行った。そんな苦し気な声がやけに耳に残った。
「あら、テウセル? ……テウセルは?」
 彼の母親が周囲を探す。だが見当たらない末っ子の姿に顔を青褪めさせていく。上着と耳当てがなくなっていることに気づくと悲痛な声を上げて彼女は崩れ落ちた。
「そんな、あの子、また──」
 窓から外を見ると雪の上にまだ新しい小さな足跡が残っていた。兄に置いて行かれた寂しさと怒りで衝動的に外へ出たのだろう。
 雪はとっくに止んでいるため足跡が消えることはない。子どもの足で行ける範囲は限られているだろうし、今からでも十分追い付けるはずだ。魔獣が出ると話してしまったせいでよりいっそう心配が増しているのだろう母親を落ち着かせるために「大丈夫ですよ、近くにいるはずです。探してきますね」と言えば否定が返ってきた。
「テウセルはアヤックスを追いかけて璃月に行ったことがあるの、アヤックスがどこにいるかも知らなかったはずなのに……」
 口を押えて蹲る姿に嫌な汗が背中を伝った。

 私にまで危険が及ぶと父親はいい顔をしなかったが、私は魔獣と遭遇したことがあるから対処できると無理を通し、手分けをしてテウセルを探すことにした。
 テウセルはいい子だ、あれだけ私を慕ってくれる本物の弟のような子に何かあればと考えると気が気ではない。それに責任の一端を感じていたのだ。魔獣の恐ろしさを知っているのはあの場で唯一私だけだった。彼の両親が到着しても子ども達から目を離すべきではなかったのに。
 母親の心配通りテウセルは公子様を追っていた。足跡はファデュイの拠点に続いていたのだ。
 兵士に事情を説明して拠点とその周囲を探すがテウセルは見つからない。公子様がこの拠点を出発したのは二時間も前になるらしい。テウセルはほんの三十分ほど前まで家にいたのだ、彼を追ったとしても出征先に到着する可能性は低いという結論になった。家に引き返す途中で私達とすれ違ったのかもしれない。父親が一旦家に引き返してテウセルの帰宅を確認することにする。
 私は兵士と共に拠点で待機した。テウセルが帰宅していない場合は周囲をうろついていることになるが、目的地がわからない以上もう一度ここへ戻って来る可能性が高いと判断したのだ。
 私の立場を知った兵士がもてなそうとしたが腰を落ち着ける気分ではないため辺りを歩き回っていた。
 すると空の向こうで雷鳴が轟く。胸騒ぎがして、公子様が向かった森の位置を兵士に尋ねれば雷鳴が聞こえた方角を指で示した。ここからどれくらい歩いてかかるのかという問いには三十分ほどですと返ってくる。
 テウセルはあの雷鳴を聞いただろうか。あれが公子様の邪眼が放つ音かはわからない。ただ行動力があって好奇心旺盛なあの子どもは、雷鳴がする方角へ向かうだろうという確信があった。
 一人で船に乗り、璃月へやってきて、無事に公子様の行き先を当ててみせた前例がある。たとえ道中に魔獣がいてもそれすら潜り抜けて彼の元までたどり着くかもしれない、そんな運を味方につけた子だ。
 私は森へ向かうと一方的に兵士に告げて拠点を飛び出した。
 悪い予感が当たらなければそれが一番だったが私の予想は的中した。森に入る手前にいくつもの足跡が残っていた。ファデュイの兵士に支給される制服一式、その靴裏の模様と、それに紛れるようにして子どもの足跡が上書きされている。
 公子様が出発したときはまだ雪が降っていた。ここへ到着するまでの足跡は消えたが、目的もなく彷徨うテウセルが偶然この辺りまでやって来て足跡を見つけてしまった、そんなところだろう。
 普段の私であればファデュイの拠点で待機していた兵士に助けを求めただろう。だけどテウセルに迫っていること、そして焦りから冷静な判断を下すことができなかった。引き返すよりも追った方がテウセルの身の安全に繋がるかもしれない、そんな考えが私を突き動かす。
 森に入り、奥に進んで行くと切り立った谷底に続く道が現れた。谷底には魔獣が何体か倒れていた。私が出会ったのはあとにも先にも公子様に助けられたときの一体のみだ。あれだけでも十分恐ろしかったというのに、それが複数いるのだから恐怖は底知れない。
 脚が竦みそうになっていると、魔獣を覗き込む小さな影が視界に映った。遠目でははっきりと断言できないがテウセルだろう。テウセルは魔獣の間を縫うように飛び跳ねている。遺跡守衛をおもちゃと言われて育ったテウセルの瞳には魔獣も巨大なぬいぐるみに映るのかもしれない。
 大声でテウセルを呼ぼうとしたがハッとして口を押える。もしこの近辺にファデュイから逃れた魔獣が隠れていれば刺激してしまう。テウセルに追いついて連れ戻す方が安全だ。
 そう考えて走り出すのと同時にテウセルも走り出した。魔獣の死骸の先に洞窟の入口が見えている。待ってと声をかける間もなくテウセルの姿は洞窟の先に消えた。
 なんとか魔獣の合間を通り抜けて私も洞窟の入口に辿り着く。自分を奮い立たせて暗い道の先へと足を踏み入れた。光る鉱石を頼りに洞窟内を進む。谷に足を踏み入れたときからずっと背筋を震わす獣声が響いている。
 どうか早く見つかってほしい、テウセルに心の声を送りながら進んでいると光が見えた。獣声に交じって武器の弾ける音が響いている。
 暗がりを抜けるとひらけた空間があった。音は足下から聞こえてきた。空洞を覗き込むと階下でファデュイの兵士が巨大な魔獣を囲んでいる。光の尾を引いて戦っているのは公子様だ。応戦している兵士はごくわずかで、多くが薙ぎ払われたかのように壁際で気を失っていた。彼らが息をしているのかまではここからではわからない。
 まるで闘技場を見下ろすかのようだ。気性を荒立てた獣に剣闘士が挑む、古い歴史にある趣味の悪い見世物のような光景が広がっていた。だが獣は獅子とは比較にならない。より大きく、獰猛で、姿かたちは異形と呼ぶほかになく、理解を超越した能力を行使している。以前見た魔獣よりもっとずっと恐ろしい個体だ。
 悲鳴を上げそうになるのを堪えながらテウセルの姿を探す。ここから階下へ降りて行けるスロープの下、岩影に隠れるようにして小さくなっているテウセルが見えた。戦う兄を目で追いながらも意識が定まらない様子でテウセルは呆然と座り込んでいた。
「テウセル、」
 できるだけ静かにスロープをくだる。話しかけた私を見るなりテウセルはよろめきつつ胸に縋ってきた。初めて見る魔獣、初めて見る人の死から恐怖の輪郭を捉えきれなかったから呆然としていたのかもしれない。だが今は肩が恐怖で震えている。
「帰らなくちゃ、ここは危ないの」
「でもお兄ちゃんが、」
「お兄ちゃんは大丈夫だから」
 兄が戦う姿を目にしても彼が戦士だという事実とは結び付かなかったのだろう。おもちゃ販売員達を心配する声に大丈夫と繰り返してテウセルを立たせた。彼らを気にするテウセルの手を引いてスロープをのぼって行く。
「わっ」
 段差にテウセルが躓いた。途端、魔獣の咆哮が私達を捉える。弾かれたように背後を見ると魔獣が牙を剥き出してこちらを見ていた。
 魔獣の反応で彼も私達に気づいた。信じられない光景を目にしたような顔をしたのが一瞬のこと。状況をすぐに把握した彼は怒りを露わにする。放たれた鋭い視線は私を責めていた。
 膨れ上がる彼の怒りは魔獣にとっての殺気と変わらない。共鳴するように大きな雄叫びを上げて魔獣が彼に襲い掛かる。「ここは俺に任せて、あの二人を地上に連れて行け!」と残っていた部下に命令を飛ばすと彼はこれまで以上の勢いで魔獣に弓の雨を降らせた。
 ファデュイの兵士は満身創痍だったがすぐ私達に追いついた。守るように周囲を固める彼らに被害のほどを聞く余裕などない。最短経路で洞窟を出た瞬間、先頭を走っていた兵士が鎧を打つ重い音と共に空を舞った。
「ヒッ……」
 装備が擦れ合う金属音を響かせながら兵士は射ち落とされた鳥のように雪の上に転がった。兵士の四肢は本来曲がらない向きに折れ、骨が肉から突き出している。雪を赤く染めるばかりで一向に動かない兵士にテウセルが悲鳴を上げる。
 洞窟内にいる魔獣とは別の個体が二体、私達に狙いを定めていた。血の匂いに引き付けられたのか、私達が出てくるのを待ち伏せていたのか。
 洞窟にいた魔獣に比べれば小柄だ。それでも鋭い爪と牙を持ち、体表は頑強な鎧で覆われて、いくつもの目が全方位を観察している。幼体だろうか、地下にいた大きな魔獣よりも声が高い。兵士が私達を守れという彼の命令に従って戦闘態勢を整える。
 谷底には多くの死骸が転がっていた。何もすべてが公子様によって倒されたわけではないだろう。ファデュイで厳しい訓練と実践を積まなければ戦線で生き残れないはずだし、公子様が戦っていた洞窟内で立ち上がっていた兵士たちは討伐隊の中でも実力者揃いのはずだ。
 ただ、仲間を殺されたことで気が立っている獰猛な魔獣の爪は今度こそ人間を生きて帰すことを許さなかった。体力を消耗していなければ兵士達でも敵う相手だったのだろうか。ほんの数秒の間に二人の兵士が四肢をがれた。顔を真っ青にさせているテウセルを強く抱き込むがそれにより打ち勝てるのは私自身の恐怖に対してだけだ。
 一人、また一人と数を減らしていく仲間を見て、私達を一番間近で守っていた兵士がテウセルを連れて逃げろと口にする。その兵士は璃月に向かったとき船に同乗した一人でもあった。
 兵士に頷き身を翻した直後、バチン、と嫌な音がして脚が動かなくなる。
 何が起こったのか理解することができなかった。気づけば膝をついて冷たい雪の上に倒れ込んでいた。手を繋いでいたせいでテウセルまで巻き込んで転んでしまう。呆然と後ろを振り返る。足首が、赤く染まっている。
「お姉ちゃん……!」
「だっ、大丈夫ですかっ!?」
 テウセルと兵士の案ずるような声をどこか遠くで聞いた。足首に妙なものが貼りついているのが気になった。目を凝らしてみるが邪魔なものが多すぎてよく見えない。だがそうか、貼りついているのは、体から剥がされた筋肉だ。
 地下が震えた。揺れから逃れるように彼と彼を追ってきた魔獣が姿を現す。洞窟内は戦える状況ではなくなったらしい。
「テウセル、……ッ!」
 公子様と目が合った、気がした。
 痛みが全身に回り始めて思考が掻き回されていく。彼がこちらに気を取られた瞬間を狙って攻撃が振り翳されるが彼は剣で受け止める。兵士が私達を守るように小さい魔獣との間に立って応戦しているが、一歩でも後退すれば魔獣の攻撃が届いてしまいそうな距離だ。
 巨大な魔獣を押し返すと公子様は空に弓矢を二つ放った。矢と共に水が天から流れ落ち、目の前で戦っていた魔獣を押し流す。私達から離れた場所で、今度は遅れて落ちてきた矢が押し流した魔獣の急所を貫く。
 洗練された戦いぶりに思わず痛みを忘れた。しかも彼本人は攻撃を放ったあとすぐに目の前の獲物に向き直ったのだ。彼だけがこの戦いに命を賭けていないようですらあった。どれほどの死線をい潜ればこんな芸当ができるのだろうか。
 私達を守っている兵士も感動で打ち震えていた。そして彼に鼓舞されたように迫り来るもう一匹の小さな魔獣に斬りかかる。だが爪を振り下ろす勢いだけで兵士を蹴散らすと魔獣はテウセルを狙った。
 爪先が掲げられた瞬間、洞窟内で向けられた公子様の怒りが脳裏に蘇る。考えるよりも早く体が動いた。
 大きな鯨が優雅に空を泳いでいる。彼が呼び出したのだと直感した。
 私達はそれぞれが命の星座を持つらしい。占星術で知ることもできるが活用法がないから私は自分の命の星座を知らない。戦術を定めるべく調べる戦士もいると聞くが彼はどうなのだろうか。あれが彼の命の星座だとしたらなんと美しいのだろう。角の生えた鯨は冬空の空気をたっぷりと吸い込んできらめいている。
「……ッ避けるんだ、────!」
 こちらに注意を配っていた彼が目を見開く。鯨が巨大な魔獣を飲み込むのと、魔獣が放った氷塊が彼の胴を貫くのは同時だった。そしていよいよ魔獣の爪先がテウセルの前に身を差し出した私を切り裂いた。

 長くは生きられない。私は、それを知っていた。

 まず感じたのは頬を伝う熱だった。それが血なのか、涙なのかはわからない。燃えるような熱さが顔に集まって、次に外から眼球を押されているかのような圧力を感じた。眼窩を越えて脳まで押されるかのような感覚はどこか眩暈にも似ている。
 痛い。脳はたしかにそう訴える。だが顔を割かれた痛みは、私が自覚できるほど痛覚に訴えてはいない。痛いけど痛くない、不思議な感覚だった。血に塗れた視界はとっくに暗転していて何も見えない。
 燃えるような熱が次第と寒さに変わっていくことに安堵を覚えた。
 腕の中で震えるテウセルに怪我はないかと尋ねる。私の声は今にも掻き消えそうなほど弱っていた。返事はなかったが無事だろう、生きていなければ冷えていくこの体で腕に抱いた子どもの体温を熱いと感じられるはずがない。
 ガフガフと獣の荒い呼吸が離れた場所から聞こえた。私達への興味を失ったらしい魔獣が食事を始めた音だ。息絶えた兵士達はそこら中に散らばっている、餌は選り取り見取りだ。
 獣は栄養価が高い女や子どもを狙うものらしいが、あの小さな個体は脂身の多い肉が好みじゃないらしい。いや、もしかすると魔獣は食事をしているのではなく人間の死体で遊んでいるだけなのかもしれない。
 彼はどうなったのだろうか。最後に見た彼は態勢を崩され、魔獣の攻撃をその身に受けていた。無事では済まないかもしれない。いいや、あれほどの傷であれば彼さえ生きているかどうか──。
 震える彼の弟に走って逃げなさいと言わなければ。魔獣の腹が満たされるのを待つ方が安全か、奴らを刺激せず助けを待つのが賢明か、正しい行動などだれにもわからない。だからテウセルを奮い立たせるなら今しかない。
 支離滅裂な思考に歯止めがかからない。走馬灯とはこんなものだろうか、とどこか冷静な私が口にする。
 唇はわななき、歯がガチガチと音を立てた。失血によるショック症状だ。腕の中に子どもを抱いているかもわからない。何も感じられなくなっていく。遠くで彼が弟を呼ぶ声がしたような気もしたが、それが現実かどうかも判断がつかなくなっていく。
 いっそのこと出会う前に死んでしまっていればよかったんだと声がした。それでも私の幸せを願う人がいたから、死にゆく体でただ彼を想った。



 顔をぐちゃぐちゃにして泣いている子どもが雪で汚れた裾で顔を拭った。雪国生まれなのに足取りはふらふらと覚束ない。まるで雪の上を歩くことに慣れていないかのようだ。真っ白な雪が点々と血で赤く汚れている。それを見るたび恐怖を煽られて子どもはしゃくりあげる。
 ──兄ちゃんはテウセルを背負ってあげられない。自分の足で歩くんだ、できるな?
 前を歩く兄にそう諭されて弟は力なく頷いた。弟の様子を気にしながらも兄は歩みを止めない。この雪道の途中で止まってしまえば、抉れた胸部の傷のせいで自分の命すら危ないことを理解していたのだ。
 背にあるボロ切れを捨てて行けば兄弟の帰路は楽になる。一体何を背負っているのかと注意深く覗き込んだところでそれが自分だとようやく私は気がついたのだった。
 地平線すら雪に覆われ、黄金の夕日が姿を隠そうとしていた。兄弟は美しい光景に一瞥もくれずに歩き続けている。
 雪の上に灰が降る。彼らの赤毛が薄暮を照らすまばゆい夕日になる。

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