凍原は永き薄暮 4

『ないしょばなし』

 彼が数日家に戻らない日が続く。璃月に腰を据えて任務にあたることになってから北国銀行に執務室が設けられることになった、と話していたためおそらく籠りきりで仕事をしているのだろう。もしくはどこかで武器の手慣らしでもしているか。
 だから彼を心配したとか、彼に用事ができたとかではなく単に口座からお金を下ろすために北国銀行へ来ていた。それがどうしてか敷地を跨いだ途端にたくさんの視線を浴びせられる。社交界での経験からいい視線ではないことはすぐに察した。
 頼っていいと言われたものの璃月に来てから一度も北国銀行を頼ったことはなく、こちらへ迷惑をかけた覚えもない。白い目で見られる理由は何一つとしてないはずだった。疑問は感じたが衆目に晒されることに慣れていたこともあって視線を無視して窓口へと向かう。
 窓口にはエカテリーナの姿もあった。彼女は他の職員と話をしている。目が合えば軽く手を振るくらいのつもりでいたのだが、彼女は私の姿を確認するなりそそくさと受付から出て来て別室に案内した。まるで腫れものに触れるような扱いだ。
「……私が来た途端に空気が変わったけど何かあったの?」
「い、いいえ、貴方が気にされることは何も……」
 歯切れが悪い彼女の顔を何も言わずに見つめれば居心地悪そうに視線を逸らされた。その反応では何かあると言っているようなものだ。だが無理に話させるわけにもいかない。小さく息を吐いただけでそれ以上尋ねはしなかったものの彼女は落ち着きがないままだった。
 口座からお金を下ろすだけのはずが商談や契約に使われるのだろう個室に通され、紅茶まで振る舞われる。エカテリーナが少額のモラを上質な布の上に載せて大袈裟に運んでくるものだから居た堪れない。少々の視線や陰口に晒されたところで気にするほど繊細ではないと抗議したくなる。
 用事が済んだため早々に北国銀行を出た。銀行横にある階段を下りていくとどこからか「どちらを選ぶんだろうな、公子様は」という声が聞こえた。
「そりゃあ婚約者だろう。あそこは母方が古い家柄で女皇陛下に仕えてきたこともあり信望が厚い。父親は執行官に名が挙がるほどの実力者だったうえに今は名のある外交官だ。……『公子』様は他の執行官様からの風当たりが強いから、国内での地盤を固めるなら絶対にあの女性を手放しはしないさ」
「でもテウセル様が来ていたときの異邦人との会話を聞いただろ? 家族を紹介するとまで言っていたんだぞ、ほとんどプロポーズだったじゃないか! ずっと気の置けない仲という空気もしていたし……『公子』様があんなにだれかと親密にしているのを見たことあるか?」
「だったら婚約者をわざわざ任務地に連れて来たのはどう説明するんだ」
「心は移ろうもの。婚約者のことも大切にしていたかもしれないが、璃月で真実の愛を見つけたんだろう」
 聞こえてきた会話で、北国銀行で何故あのように注目されたのかを理解した。彼の不貞の噂が職員の間で波紋を呼んでいたのようだ。そこへ私がやって来たからひと悶着起こるのではないかという好奇と不穏で場が満たされたというところだろう。
 彼の興味を引く人物には私も興味がある。公子様自身が一筋縄ではいかない人物なのだ、彼の情を傾けられる人間に好奇の眼差しが向けられるのは仕方ない。私でさえそうなのだから、他の人間が同じように考えてしまっても不思議ではなかった。
 だからと言って私は彼の交友関係を一々改める気にならない。彼らは「婚約者がこのことを知ったらどうするんだろうな……」と憐みの言葉を零しているが、私の答えは気にしないの一言に尽きた。
 それにしても彼らは社交辞令というものを知らないらしい。使いどころは見極めるべきだが、貴方がスネージナヤに寄ったときはぜひ我が家でもてなしましょう、なんて他国の要人相手に言い慣れていれば自然と出てくる言葉だ。
 そう考えたところで私はそれ以上の興味を失った。

 ファデュイの執行官『公子』による岩神モラクス暗殺の噂は、璃月七星がすぐその死因を明らかにしていたためとうに収束していた。一部の璃月人から鋭い視線を向けられることはあったが、港をふらふらとしていても問題ない程度に日常が戻っている。食材を買うついでに散歩でもしようかといつもは素通りする店を覗いて回る。
 璃月港はいつ来ても賑わっている。活気のある港は嫌いではなかった。単に流通する商品の量に差があるのだろうが、スネージナヤの景色はいつどこにいても冷たく寂しい気がするのだ。
 次の定期便で父や使用人宛てに何か贈り物をしてもいいかもしれない。そんなことを考えて布製品を眺めていれば聞き慣れた声がする。顔を上げると離れた場所に公子様の姿があった。
「こ、子どもが浮いてる……!」
 彼の隣を漂う物体を見て、目を凝らした瞬間、私の頭に衝撃が走った。
 一瞬、璃月の名産である凧か何かの類かと思った。だが厚みがあって、血が通っていて、何より遠目に見ても生きている。ジタバタと手足を動かして傍にいる人物へ何かを主張している小さな子ども──子どもなのだろうか──はくるりと宙で円を描いて何かを指さしていた。
 まさかあれが先ほど噂に聞いた異邦人なのだろうか。浮いている子どもだけでなくその子が話しかけている少女も変わった出で立ちをしている。
 そこで璃月に来て間もない頃に彼が面白い人間に会ったと話していたことを思い出した。宙を浮く子ども連れた旅人とは、まさに彼女のことなのではないだろうか。
「ああ旅人の連れてる子か。珍しいよね、最初は仙人か何かかと思っちゃった」
「有名なんですか?」
「璃月の英雄よ。凝光様や仙人と一緒に海の上で魔神と戦ったんだって。……あっちの浮いてる子じゃなくて剣を持ってる子ね」
 店番をしていた女性が親切に説明してくれる。魔神をけしかけた彼とは敵対関係にあったはずだが、どういう経緯で打ち解けたにせよ彼の関心を引いた理由がわかった。彼は少女と一戦を交えたいとでも考えているのだろう。もしかするとすでに戦った後かもしれない。
 隣の男は知らないけど、という言葉に知人ですとは言えなかった。彼が手に取った髪飾りを少女の頭に宛がったのだ。やるわね、と女性は笑う。璃月特産の霓裳花で作ったハンカチをいくつかと、それに添える便箋を購入して私は港をあとにした。

 存外に動揺していることが我ながら意外だった。彼がどれだけ私に微笑みかけても私を好きなわけではないことは理解していたし、私からも一線は引いていた。だが近くで過ごすとどうしても他人以上の親近感を抱いてしまったらしい。
 ただ動揺も時間が経てば薄れる。一度落ち着いてしまえば、いつかこういう日がくることを心のどこかで悟っていたのかもしれないと思えるほどに冷静に自分を見つめていた。静かすぎる家の中で気持ちを整理するのは容易いことだった。
 彼が望むまま璃月まで付き従い、彼のことどころか自分のことすら知ろうとしなかった。彼に心を傾けておきながら、彼はだれにも気を許しはしないと思っていた。
 いつからこれほどまでに盲目な人間になっていたのだろう。もしかすると、彼は私にあの日私は彼の戦う姿に魅せられたわけではなく、本当は彼に恋をしていたのかもしれない。
 今更何もかもが遅い。長い溜息を吐き、そして大きく息を吸う。落ち着くために飲み物を用意し、自室で仕事の書類に向かいながら頭を整理していたが、グラスが空になってしまったのでキッチンに向かう。
「あ、ただいま」
 彼が帰宅していた。つい先程の出来事のせいで姿を見た途端「え?!」とあからさまに驚いてしまう。
「ひどい反応だね。もしかして俺のこと忘れちゃった?」
「い、いえ……しばらく帰って来なかったでしょう、一人に慣れすぎてしまって」
「……うっかりしていると本当に俺の存在は君の中から消えてしまいそうだ」
 誤魔化せないかと思ったが彼は私の言葉を疑わずにしみじみとつぶやく。それがどこか真に迫っていて黙り込んだ。
 お腹が空いたと言う彼に何か作ろうかと提案する。自分で済ませるから構わないと返されたので空のグラスを水洗いし飲み物を注いだ。
「仕事をしてたの?」
「はい。公子様はこれからおやすみですか?」
「いいや、二時間後にまた出るよ。璃月七星が新しく進める公共事業について人員を募っていたから、北国銀行は資金援助に名乗りを上げることにしてね。他にもいくつかの団体が立候補したから七星を交えた交渉の場を設けられた。俺も璃月支部の関係者として出席することになったんだ」
「執行官として出向くんですか?」
「さすがに執行官として同席するとまずい、適当な肩書をさげて行くよ」
「七星との商談ですからね。頑張ってください」
 ありがとう、と言ってひらひらと手を振る公子様を背に自室へ戻った。
 机の上に広げていた資料をまとめて脇に置く。執事に向けて綴る便箋を取り出し、仕事に関する指示を書き連ねて筆を止めた。故郷は今頃雪でも降っているのだろうか。真っ白な便箋が故郷の雪を思い起こさせる。
 あの寒空が懐かしい。吹雪の中でならこのままならなさも温度を失ってくれたに違いない。そんなどうしようもないことを考えていると自室のドアが控えめにノックされた。公子様だ。ドアを開けると彼はどこか落ち着かない様子で立っていた。
「どうかなさいましたか?」
「君に渡すものがあるんだ。手を出して」
 言われるまま手のひらを差し出すと小さな桐箱が置かれる。大きさだけでは何をプレゼントされたのか想像できない。中身を聞いても「開けてみて」と言われるだけで教えてはもらえない。仕方なくその場で愛らしく結ばれたリボンを解く。
 中には宝石をあしらったピアスが入っていた。小さくシンプルだがそれなりに値は張る品物に見える。ピアスを贈られる意図が汲めずに恐るおそる顔を上げた。
「贈り物をいただく理由が思い当たらないんですが、何かの記念日でしたか?」
「深い意味はないよ、偶然見つけたんだ。君はそういったものを着けていないから贈るのにちょうどいいだろ?」
「……いいんですか?」
「もちろん。君のために買ったんだからもらってくれなきゃ意味がない」
「ありがとうございます」
 礼装のためにピアスホールは開けているが普段は着けないことも多い。髪を耳にかけて何もない耳たぶに触れる。穴が塞がっていないことを確認してピアスを着けた。
「どうですか?」
「似合ってるよ。俺の見立ても悪くないね」
 得意になる彼に思わず笑いを零してしまった。そんなことをわざわざ口にするなんて、自信家の彼にしてはめずらしく贈り物に自信がなかったらしい。どうして笑うのかと不服を申し立てる彼になんでもないと返すが納得してはいないようだ。だが彼はあまり不機嫌ではなさそうにやわらかな空気を纏っている。
 用事は済んだのか彼は踵を返す。そして二時間後と言っていたのにすぐ家を出てしまった。彼の足音が遠ざかっていくのを聞いてとうとう堪えきれなくなった。
 重要な商談を控えていて時間に余裕があるわけでもないのにわざわざ帰宅するなんておかしいと思っていたのだ。日が沈む時間帯であればシャワーを浴びるとか着替えるだとか理由はあるだろうが、まだ明るい中途半端な時間に軽食のためだけに帰っては来ない。
 鏡を覗き込んで自分の横顔を見る。璃月のデザインだがシンプルで故郷の服にも合わせやすい。鏡を何度も覗き込んではそんなことを繰り返し考える。呆れるほど単純な自分を自覚しながらも頬が弛むのを止めることができなかった。
 それから彼と過ごす時間が増えた。自室で仕事をしていれば様子を見に来てあまり根を詰めないようにと声をかけられる。食事を共に囲むことも増えた。寝食に使ってはいても彼の痕跡は感じられなかった家の中から彼の生活感が漂うようになった。
 さすがにこれで勘違いしないのは難しい。だけど魔神が璃月港を襲ったときのような状況がくれば彼はやはり私を選ぶことはないため必要な距離は保ち続けた。



「……いい香り」
 港で花屋の前を通るとさわやかな香りがした。気になって足を止める。客の来店に気づいた店主が表に出て来てすかさずどの花をお求めですかと尋ねた。
 スネージナヤにいた頃は部屋に飾る花を欠かしたことがない。だが気候の違う璃月で取り扱われている花はスネージナヤでは目にしたことがない品種も多く、どの花にどんな意味があるのかさえわからなかったから今まで手に取らずにいた。
 花の香りが気になったと伝えれば、ぜひ顔を近づけて確認してみてほしいと店主は促す。それならと花の香りを探すと一つの鉢へ行きついた。
「ええと……これかしら」
「お目が高いですね。そちらは香膏にするのにも人気のある花なんですよ。値は張りますが水やりも難しくはないため枯らすことなく長期間楽しめます」
「そうなんですね。おいくらでしょうか?」
 璃月にどれほどの期間滞在するかはわからない。それなりに背丈のある鉢花は帰国するときに持ち帰るには不便だ。だけど花のある日々は彩りが増す。とくに今は花を愛でたい気分だからと購入を前向きに検討する。
 だが値段を聞いて思いとどまった。払えない額ではないが、先々で手離すかもしれないことを考えると購入に踏み切れる値段とは言えない。苦笑いを浮かべながら手持ちが少ないことを告げて花屋を去った。
 家に帰ると買わなかったはずの鉢花が置かれていた。
 せっかく璃月にいるのだからここでもいくつか不動産を扱ってみようと思っていて、仕事に関わる打ち合わせをこなしていたらすっかり夜が更けた時間に帰宅することになった。リビングには彼の姿があり、いつもは逆なのになあと新鮮な気持ちに耽っていたらダイニングテーブルの傍に置かれた大きな鉢が目に飛び込んできたのだ。
 偶然かもしれないが、偶然ではないかもしれない。混乱しつつ鉢花について尋ねる。
「あの……公子様これは……?」
「買わなかったって聞いたから」
「でもどうやって……」
「部下が偶然花屋にいる君を見ていてね」
 仕事終わりに買ってきたんだと言う彼に沈黙していれば彼の表情がゆっくりと曇っていった。
「良かれと思って買ってきたんだけど、もしかして余計なことをした? ……花の世話は手間がかかるだろうし、ちょっと無責任だったかな」
「そんな、嬉しいですよ。……大事にしますね」
 彼の言う通り無責任なのだろうが嬉しいと言ったのは嘘ではない。むしろ感情が表に滲み出てはいないかと心配になるくらいには嬉しかった。彼は単純に私が見ていた花の特徴を聞いて買ってきただけなのだろうが、それが黄色でなかったことを都合のいいように受け取る。
 花に顔を近づけると馨しい香りがした。切り戻した花を部屋に飾るために花瓶も準備しなければならない。たくさん花を咲かせる品種のようだから手入れが楽しそうだ。何にせよ璃月の花について何も知らないから調べなくては。
 花を手のひらで包みながら考えていれば、公子様がやさしい笑顔を向けていた。

 借り入れている家の向かいには老夫が住んでいる。公子様にもらった鉢花を外に出して日の光を浴びせていれば、いい香りがするねと言って老夫が近づいて来た。
「彼にもらったのかい?」
「はい」
「スネージナヤにはない花だろう、世話の仕方はわかるかね」
「実はまだ……花屋では日が当たるところに置いてあったので日光浴をさせた方がいいんだろうと思って外へ出してみたんです。これから調べるつもりで」
「なるほどねえ」
 老夫は私の隣に腰かけると手に持っていた陶器を傾け、ぐいと一杯引っかけた。朝からお酒を飲んでいる姿は見慣れていたが隣で飲まれるのはさすがに考えものだ。
 老夫には子どもがいない様子だし世話を焼く人間がいないのだろう。そう思えば、他人同然だがつい「明るいうちからお酒を飲むなんていけませんよ」と小言を口にしてしまう。老夫は堪えていない様子でからからと笑った。
「スネージナヤ人がみんなお前さんみたいにお人よしならいいんだがね。怖い顔してファデュイだ何だと、何を考えとるのかワシらにはちっともわからん」
「それを言うなら璃月人も本心を隠してばかりでしょう」
「あれは商売の時だけだ。岩王帝君は契約の基準は公平だと仰った。相手の主張と自分の主張を見極め公平の下に契約を結ぶのであれば慎重になるのは当然だ。だがそれを抜きにすれば璃月人は仁義を重んじる。仁をもって義をなし、義によって仁を尽くす。これもまた重要だと帝君は仰っている」
 それを言うならばスネージナヤ人もすべてがファデュイのような人間ばかりではない。だがファデュイの中には大義を利用して非道な行為に手を染める者、己の欲望を満たす者がいるとも聞く。彼ら他国の人間にとってはそういったファデュイこそがスネージナヤ人なのだろう。スネージナヤで璃月人は岩の心を持っているなどという認識があるように。
 老夫は向かいに越してきた私達のことを仕事の出張で璃月にやって来たスネージナヤの若夫婦だと思っている。隠しているつもりはなかったが彼がファデュイの執行官であることは伏せていた方が良さそうだ。
 すでに酔いの回っている老夫の話し相手をしていれば家の中からお湯の沸く音が聞こえた。花を外に出すだけのつもりだったから火にかけていたことをすっかり忘れていた。老夫に断りを入れ、慌てて火を止めに向かう。
 再び外に出ると老夫は立ち上がり家に帰ろうとしていた。
「花見、楽しませてもらったよ。美味い酒をありがとう」
「あまり飲みすぎないでくださいね」
 ふらふらと覚束ない足取りで歩く老夫が家の中に入るのを見届けてから私も家の中へ戻った。
 日がとっぷりと暮れた頃に来客があった。ドアを叩いたエカテリーナが「夜分遅くにすみません、公子様の武器を取りに参りました」と口にした。彼のことだから常に武器を携帯しているのでは、と考えたところで隠語かと思い至る。彼女を部屋に案内すると書類を持ち出してきたので間違っていなかったようだ。
 手短に感謝を述べてエカテリーナは出て行った。玄関を離れて自室へ向かおうとすると再びドアがノックされる。持ち忘れた書類でもあったのだろうかとドアを開くと無骨な男が立っていた。
 どちら様ですか、と尋ねる間もなく口を抑えられる。家の中に私を押し戻す男の背後から見たことのない男達がさらに二人現れた。ドアを閉め、猿轡を噛ませられて体を縛られる。頑丈な革の袋に入れられたかと思うと浮遊感に包まれ、よし行くぞ、という声が聞こえて誘拐されることをようやく理解した。
 必死に暴れるが縛られていて思ったようには身動きが取れない。静かにしろと苛立たしげに殴られた場所が痛くて何も言えなくなってしまう。
「おい、あそこにいるジジイに見られたんじゃないか?」
「あの爺さんは問題ない、いつも飲んだくれて碌に何も覚えちゃいねえ」
 気持ちの悪い揺れに耐えながら私は男達が目的地に到着するのを待つしかなかった。

 誘拐の主犯と実行犯は別だった。到着した建物で、璃月でもスネージナヤでもない異国のいで立ちをした男がファデュイに借りがあると話し始める。私を袋詰めにした男達は雇われただけの傭兵らしい。手荒な真似をしたと、たいして申し訳ないと思っていない態度で口にする主犯を毅然と見つめる。
「私を使って恨みを晴らそうというのね」
「その通り。別に君に危害を加えるつもりはない、『公子』が来れば君の首に刃物を当てるが、君が暴れなければ無傷でことを終えることができるだろう」
「……執行官がどのように選ばれているかご存知?」
「もちろん。私はね、戦場で名高い『公子』と手合わせしようだなんて思ってはいないんだ。奴から金を毟り取るために交渉する状況を生み出したいだけなのさ。だから君にはあの男が動けなくするためにひと芝居打ってもらいたい」
「危害を加えないという貴方の言葉には信じるに値する価値があるかしら。私達は何の信頼関係もない、初めて顔を合わせた他人なのに」
「価値はなくとも信じるしかないだろう。君に担保がない以上、君の安全は君の協力にかかっているのだから。それに君達の婚約は形だけのものだと聞いている。君が『公子』のために命を差し出す必要はないのでは?」
 ファデュイすら知らないことをよく調べたものだ。黙っていれば肯定と見なしたのか「よろしく頼むよ、共犯者のお嬢さん」と高らかに言い放ち男は勝利を確信した。
 移動中の事故≠除けばたしかに手荒な扱いは受けていない。むしろ食事は済んだか、手首を結ぶ縄はきつくないか、などと私の機嫌を取っている。よほど協力させたいようだ。
 そろそろ彼の元に私を誘拐したという報せが届いた頃だろう。男がそう言ったとき表で呻き声が上がった。素早く反応した男が「早いお出ましだな」と追い詰められた顔をしながら私を立たせた。
 だが姿を見せたのは公子様ではなく黒い影だった。
 影はまず部屋中の明かりを消した。そして男達を一人ずつ攻撃すると、暗闇の中で身動きが取れないでいたのだろう主犯を昏倒させたようだった。静かになった暗い部屋の中で手首が自由になる。
「どうやってここが? 一体どうして、」
「それは命より大事な質問か?」
 暗闇に向かって放った言葉に応えたのは公子様ではなかった。だがその声は信じがたいことにとても聞き慣れたものでもあった。廊下に出ると月明りでその姿が明らかになる。皮と骨ばかりの細い足を俊敏に動かし、半ば私を引きずるように走るのは向かいの家に住む老夫だった。
 仕事もせず昼間から酒を飲んで千鳥足になっていたのが嘘のようだ。常人ではありえない身のこなしに彼が向かいに住んでいたのは偶然ではないのだと悟る。
 誘拐されたとき外で見ていたのだ、だとすればどうしてそのときに助けてくれなかったのか。どうしてこのタイミングで私を助けたのか。疑問が次々と浮かんでは消える。それを老夫にぶつけたところで満足する答えは得られないだろう。
 拠点は存外に広かった。ずっと走っているせいで足が悲鳴を上げたが文句を言う余裕もない。敷地の外に出ても周囲には林しかなかった。璃月港からかなり離れていることだけはたしかだ。
 遠くに公子様の姿が見えた。目が合うと彼は一気に距離を詰めて近づいてくる。私の腕を引くと彼の背に庇い、老夫を睨みつけたまま青く透き通る水の剣で空気を断った。いつでも戦闘に入ることができる構えで警戒されても老夫は動じない。
「待ってください、彼は助けてくれたんです」
「勘違いしちゃだめだよ。結果的に助けただけで、君を助けることが目的だったわけじゃない。……望みは?」
「──玉莫壇から手を引け」
「なるほど、『天権』凝光か……厄介な耳≠セ」
 慌てて止めようとしたが彼は冷静だった。老夫の意図を知って苦い顔をする。
 脳裏に一人の女性の姿が浮かんだ。
「だがその耳≠ノ助けられたのは事実だ。ファデュイは玉莫壇から手を引く、執行官『公子』が約束しよう」
 彼が言い放てば老夫はするりと闇の中へ消えた。
「怪我はない?」
「ええ何も……誘拐犯は公子様が来るまで危害を加える気はなかったみたいで」
 そのようだね。彼が私の全身を見下ろしながら頷く。
「奴らは建物の中に?」
「全員倒れています」
「付き合ってもらってもいいかな、債務を回収しなきゃいけない」
 わざわざ危険に飛び込むのは気が引けたが手を引かれるまま彼について行った。走るので精一杯だったが誘拐にはかなりの人員が割かれていたらしい。転がっている人間はかなりの数に上り、無事で済んだことに胸を撫で下ろさずにはいられない。
 公子様は意識がない人間の手足を容赦なく折っていった。重い音が響き続けて、耳を塞ぐことができない代わりに目を逸らした。
 一時期は兵士を目指したこともあるから荒事自体は平気だ。だけど容赦なく他者に制裁を下すような訓練にまでは至らなかったから、たとえそれが私の代わりに下される報復だとしても一方的な暴力の音には耐えられそうになかった。
 軟禁されていた部屋に到着する。室内で昏倒していた者の中にはかろうじて意識が残っている者もいた。ここにいて、と男達から離れた場所に私を待たせて彼は水槍を取り出す。
 木が軋む音がした。男の一人が埃を散らす壁に穴を空けて倒れている。穴の周囲は水で濡れていた。公子様はさらに別の一人を蹴り上げ、双剣で浮き上がった体を斬りつける。逃げ出そうとしたのか、足下で体を起こそうとしている一人の腕に槍を落として地面に縫い付け、弓で這いつくばる端の方にいた一人の胸を射た。
 痛みと恐怖による男達の悲鳴が上がり、助けを乞う声が空気を震わす。だが彼は一言も発しない。強者と刃を交えるときはあれほど楽しそうにする横顔からは一切の感情が抜け落ちている。債務の回収とはよく言ったものだ、彼の目には人が映っていないのかもしれない。
 主犯は君かな。
 ようやく落ちた彼の声が私の心臓を握るのは容易かった。まばたきをして次に前を見たときにはもう主犯の男は息絶えていた。床に血の海が広がっていくが公子様の姿は綺麗なままだ。武器を仕舞った彼が両手を胸に抱え込んでいる私を見る。
「俺が怖い?」
 暗い水底から声がした。そんな問いを投げられるほど怯えた顔をしていたつもりはない。鏡がないため確認しようもないが、できるだけ慎重に言葉を選ぶ。
「敵わない相手は怖ろしいものです。だから彼らの恐怖は理解できます。でも公子様は私の敵ではありませんから」
 魔獣と出会ったときから彼が私を害すると思ったことなど一度もない。そのつもりで答えたけれど、彼は力なく笑うだけだった。
 家路までの道のりは暗いが彼がいるというだけで安心感がある。ただ、真っ直ぐ家に帰っても眠れる気はしなかった。それを彼に告げると散歩しようかと返される。静かな夜だ。港近くまで来れば潮風が鼻をくすぐった。昼の璃月港、早朝の璃月港は見たが夜の姿を見るのは初めてだった。
 外灯から離れた場所では地面と暗い海との境界がわからなくなる。あまり進みすぎては海に落ちてしまうかもしれない。私のつぶやきを拾い上げた公子様は「海水も多少はコントロールできるから心配ないよ」と口にする。芸に秀でた人だ。
「国に帰ろうか」
 海に浮かぶ月を見上げたとき、思いもしない言葉が飛んできた。
「スネージナヤにいれば君に手を出す奴はいなくなる」
「まあ……父や公子様に目をつけられたくはない者が圧倒的でしょうから、命に代えても怖くないスネージナヤ人が現れない限りはそうでしょうね」
 振り返った先には、傷ついたような顔をしている公子様がいた。
「でもどうして? 今回のことは想定の範囲内だったでしょう」
「たしかにあの老夫の助けがなくても君を傷つけさせはしなかったけどね」
「そうではなくて……貴方はこういったことに巻き込まれるのを望んで私を連れて来たんでしょう?」
 私を任務地へ連れて行くという戦士としての判断を彼自身が覆そうとしているのだ、問わずにはいられない。まさか、私が大事だからとかそんな情に左右される凡人のような理由で言ったわけではないだろう。
 私の問いに彼は一瞬だけ目を丸くした。そして歯を食いしばると唇をきつく引き結ぶ。躊躇いを顔に滲ませ、眉根を寄せて、最後にふっとすべての緊張を弛めて元の顔に戻った。
「参ったな、気づいてたのか」
 また読み解くのが難しい顔をして、と頭を捻っていた私を差し置いて彼は乾いた笑いを落とす。真実を言い当てたことに対する反応にしてはやけに後悔に塗れた声だった。失望されることを怖れる子どものような顔をしていた。
 彼は命を賭けた戦いを好むが生存に対しての執着も強い。そうした冷静さを保つ理性を残しながらもああまで戦いに没頭できるのはもはや狂気とも呼べた。彼の世界には己と強者しか存在しない。興味関心が湧かないその他大勢を脅かす必要はなく、ゆえに他者を顧み、だれかの無事を願う必要もない。……はずだった。
 愚鈍ではないつもりだけど、思い込みが過ぎたのかもしれない。それとも彼を知ろうとするあまり彼のことを客観的に分析しすぎていたのか。だが私が覗いていたのは深淵ではなく人の心だったのだ。彼がたまに浮かべていた妙な表情の意味がようやくわかる。この人もまた、私を愛してしまったのだ。
「ハァ、スネージナヤで君にあんなことを言ってしまった自分がかっこ悪すぎていい言葉が浮かんでこないよ。でも必ず伝えるから……だからあと少しだけ待っていて欲しい。国に戻ってから話をさせてくれ」
 これは彼の世界を見るための旅なのだ。私は笑って頷いた。



 大きな荷物は後日あちらに到着するように手配したと彼が言うので身の回りの品だけを持ち出した。日用品のほとんどは璃月で揃えてもらっていたため荷物が嵩張ることはない。ただ来たときとは違い、彼からの贈りものがたくさん増えていることに面映ゆさを感じる。
 見送りに来たエカテリーナが寂しそうな顔をした。彼に下った璃月での任務は終わっていない。だから彼女は私との別れを惜しんでくれているのだ。国に戻ったらぜひうちへ寄って、と言って彼女の手を握る。世話になったお礼をするつもりだ。
 乗船の準備が整い、公子様と一緒に桟橋で列に並んでいると視線を感じた。港からだれかが見ている。振り返って辺りを探すと、港を一望できる建物の窓際にホワイトブロンドの女性がいた。
 誘拐犯から接触がある前に、私が誘拐されたという匿名の報せが北国銀行に届いていた。向かいの家に住んでいた老夫は彼が報せを受け取る前に雇い主の指示を受けて行動したのだろう、というのが彼に聞かされた話だ。
 老夫に対して彼は『天権』凝光の名を出していた。璃月七星の一人、璃月に訪れる危機のなか仙人と七星の仲介を担い、彼らと共に璃月を守った人物。彼女のことを私は知らない。
 見慣れた髪だと笑みがこぼれる。港で話したあの人はファデュイを危険視していたはずだ。だがそればかりではなかったのかもしれない。彼を牽制すると同時に、私に襲いかかろうとしていた暗雲を気にかけてくれていたのかもしれない。そう考えるのは都合が良すぎるだろうか。
 彼女に向かって手を振ると遠くであの美しい笑みを浮かべていたような気がした。

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