凍原は永き薄暮 3

『かみさまのキラキラ』

 外が騒がしいとは思っていた。人々の声から不穏な気配を感じて外に出ると、私と同じように家の外に出ている人達が呆然と空を見上げていた。
 まだ日が沈む時間ではないというのに辺りは暗い。彼らが見ている方角が同じだと気づき、私も目を凝らして見てみる。空は文字通り暗雲が立ち込めていて不穏な気配を醸していた。空の先に不思議な影が蠢いて見える。
 故郷で見た魔獣。あれとは比較にならない巨大な水の生き物が、海面から天に向かって伸びていた。
「なんなの、あれは……」
 家の近くにいる人に駆け寄り、あの正体を尋ねた。だけど怯えた人々はまともに話せやしない。ようやく一人の璃月人が応答したかと思えばその璃月人すらわからないと言った。
「妖魔、ではないだろうか。いや妖魔でもないかもしれない。悪いものであることは間違いない……。ああ、ああ、もう璃月には岩王帝君がいないというのに……!」
 魔神戦争時代からの遺跡に何かが封印されている、という話は璃月だけに留まったことじゃない。ただこの国はその数が多すぎるのだ。戦争の跡が色濃く残るからこそ彼らは岩王帝君の治世に強い誇りと敬意を示してきた。
 ガチガチと歯を震わせなんとか話してくれた璃月人もそれ以降は黙り込んでしまう。仮にあれが魔神戦争時代の遺物だとすれば魔神かそれに連なる生物の可能性が高い。二千年前はあんなものが跋扈していたのかと思うと背筋が冷えた。
「逃げなきゃ、でもどこへ──」
 海の上で鎌首をもたげる敵の動きはまだ緩慢だ。だが逃げるにしてもスケールが違いすぎる。たとえ十数分の猶予が与えられているとしても、一撃放たれてしまえば脆弱な人間など虫のように散ってしまうに違いない。
 どこへ逃げればいいのかも皆目検討もつかず、周囲と同じく傍観に徹することしかできない。御しがたい恐怖が限界を超えて震えとなる。
 璃月の神はいなくなってしまった。この国にも軍は存在するだろうがあんなものとても一般人の手には負えない。神の目を持つ者にすら対処できるかどうか。
 すると空に浮かぶ城が一直線に敵へ向かって飛んで行くのが見えた。凝光様だ、と人々の不安な表情に期待が混ざる。どこかで聞いた名前だ、とその人物について先程の璃月人に尋ねてみた。
「璃月の政治方針は岩王帝君が定めるが、民を統括しているのは璃月七星なんだ。七星は璃月の商人が憧れる存在さ。そのうち『天権』凝光様は巨万の富を築く商人でありながら神の目を持つ実力者だ」
 彼女がいれば心配いらないという者もいれば、さすがの凝光様でもどうなるかと不安を拭い去れない者もいる。ただ期待せずにはいられないのだろう、空を見上げる者の瞳には一様に光が差していた。
 璃月に来て日が浅い私は彼らのように不安を払拭することはできずに呆然と空を眺めるしかない。すると今度は違う方向から光の筋が走ったのが見えた。どこか見覚えのある紫電を記憶から探す。
 公子様の邪眼の光だ、とはっとした私は光の行く先を追った。だれも気づかないほど細い雷光は海上の巨大な怪物には向かわず上方で滞空していた。まるで高みの見物でもしているようだった。
 ふと、この事態を引き起こしたのは彼なのではないかという考えが過ぎる。脳裏に浮かぶのは「退屈は嫌いなんだ」と話していた公子様の姿だ。彼ならば他国を血沸き肉躍る舞台に整えるのも難しくはないだろう。
 彼は空を漂い続けている。手を伸ばした先に激しく弾けた雷槍が現れ、それを大きく一振りすると彼は身を屈めた。次の瞬間、私が見ていた空間にはわずかな紫電だけが残っていた。
 やはり助けに向かったという様子ではない。疑惑が確信に変わり、とんでもない人について来てしまったものだと呆れが顔を覗かせる。
 とうとう五つの頭が巨大な城に向かって攻撃を放ち始めた。遠目にもわかるほどはっきりとした刃の軌跡がそれを迎え撃つ。璃月港に被害が及ばないように戦っているのだろう。だが魔神の存在感が肥大化して璃月港に迫っている。
 攻防を見守る人々の顔からゆっくりと希望が失われていく。どれくらいの時間が経過したのか、空に浮いた城がゆっくりと崩落しはじめた。
 周囲がざわついた。あの『天権』の力も及ばないのかと見えない恐怖が悲鳴に形を変えようとしたとき、城は海上付近で閃光を放った。空気を割るのではないかと思えるほどの爆発が突風を生み、突風は暗雲を吹き飛ばす。再び海上を見たとき魔神は影も形もなくなっていた。

 あれはかつて璃月港に混沌をもたらした『渦の魔神』オセルだった。だが璃月七星と仙人、そして異邦の旅人によって再び封印されたらしい。犠牲者はほとんどなく、璃月港は平穏を取り戻していた。
 港は変わらず賑わっているが、少なからず変化はあった。買い出しに出た先で好意的とは言えない視線に晒されたのだ。異邦人ではなく明確にスネージナヤ人に向けられた非難に肩身が狭くなる。スネージナヤの商人に理由を尋ねてみれば「公子様があの魔神を解き放った犯人だという噂が出回ってるんだ」と耳打ちされる。
 昨日の今日だ、まだ彼と顔を合わせていないため確認は取れていない。だが噂は真実だろう。璃月は世情に敏感な国だ。公子様が犯人だという噂も根拠があるからこそささやかれているに違いない。事実無根だと憤る商人には曖昧に笑っておいた。
 港に長く留まってもいいことはない。手早く買い物を済ませて帰宅しようと考えた私は市場に向かい、早口で魚を注文する。私が慌てている理由を察した馴染みの店主が苦笑いをして謝ってきた。
「悪いね、あんたらが悪いわけじゃないのにスネージナヤの人ってだけでこんな空気にしちまって」
 店主は値切りに慣れない私に値切りの仕方を教えてくれたこともある人のいい璃月人だった。どちらかと言えばそれは私が彼らに言うべき言葉だっただろう。新鮮な魚を一尾おまけされるとさすがに申し訳なさに襲われる。礼を言って、今後も贔屓にしようと心に決めながら家路についた。
 そして噂の渦中にいる公子様は不機嫌を隠さずに帰って来た。
「それがさ、岩神に神の心を差し出させるように初めから話がついていたらしい。俺の任務を淑女が横取りしたどころの話じゃないよ。女皇は噛ませ犬として俺を送り込んだってことだ」
「女皇陛下は公子様が何か行動を起こすと予想なさっていたのでしょうか」
「少なからずそうだろうね。ハァ……淑女にまで我慢を試されたみたいで気分が悪いっていうのに、女皇との力の差を見せつけられた気がして落ち込むよ。戦局を見る力は負けないと思っていたのに……まあ、彼女が強い戦士なのは喜ばしいことだけどね」
 愚痴を零し、気を収めるために彼は大口を開けてばくりと肉の塊に噛みついた。
「美味しいね、これ」
 しばらく咀嚼した彼は表情をやわらげる。ブロック肉はジャムでじっくりと煮込んだため舌でもほぐれるやわらかさになっている。外をあまり出歩けなかったせいで暇を持て余したため料理に時間をかけてみただけだった。だがこれで彼の気が少しでも鎮まったのだとすれば悪くなかったかもしれない。
「まあそんな感じで報告のために一度スネージナヤに戻らなきゃいけないんだ。『公子』についての噂は璃月中に広まっているけど情報操作しておいたから君個人にまで影響は及ばない。でも何かあったらすぐ北国銀行を頼ること」
「わかりました」
「淑女もスネージナヤパレスに戻ると言っていたし、国に帰ったらあの女の嫌味を聞きながら女皇様に説教されることになるかな」
 やれやれと彼は肩をすくめる。任務を果たせなかった責任を取らなければと言いたげな様子だ。だが、彼の言う通り岩神と平和的に交渉を進めていたのだとすれば、表向き与えた任務のことで女皇陛下も彼を責めはしないのではないだろうか。
「公子様の行動を予想していて任務を命じたのなら、女皇陛下は公子様がそう動くことを望んでいたのではありませんか?」
「どういう意味?」
「約束を反故にされる可能性を懸念していたとか、璃月の戦力を確認したかったとか」
「そうだとすれば俺を配置した理由にも納得がいくけどね」
「ええ。他の執行官様も強いのでしょうけど、公子様のお話を聞いた限りだとあまり好戦的ではなさそうですから」
「……彼らは単に策を巡らすのが好きなだけなんだけど、君の言い方だと平和主義者みたいに聞こえるよ。というより、もしかして……俺を慰めてるの?」
「それは──」
 心なしか身を乗り出して尋ねられる。慰めている、というのを否定する理由はないが、含みのある笑顔で見つめられると何となく視線を逸らしてしまいたくなった。顔を覗き込んでくる彼に冷や汗が流れる。
「……それより、部外者の私がこんなに詳しく話を聞いてもいいんでしょうか」
 強引に話題を変えると彼はあっさりと身を引いてくれた。
「別にかまわないさ。君はスネージナヤの人間だし父親はファデュイだった、一般人より信頼が置ける。俺から聞いたことを言いふらしたりはしないよね?」
「そうですが、他国の神と敵対しかねない任務内容なんて最高機密でしょう。もし貴方の立場が悪くなったら──」
「君まで俺を裏切るんだ」
「まさか」
 食い下がることを許さないように彼が口を挟む。わざとらしく口を尖らせていたが声のトーンは少し落ちていた。
 裏切るなんて大袈裟な言葉が飛び出してくるあたり、仕方ないと割り切っているだけで岩神と結んだ契約を明かされなかったことはそれなりに腹に据えかねたのかもしれない。元より彼は女皇陛下に服従しているわけではないのだ。
 それよりも彼への裏切りを示唆したと思われたことは不味かっただろうか。努めて冷静に否定したが、内心では心臓を鷲掴みにされた気分だった。黙り込んでいれば彼は短く溜息を吐いた。
「……君は俺が璃月でひと騒動起こしたことに何も言わないんだね」
 彼が寄越したのは寛大な許しではなくつまらなさそうな空気だった。私が一連の話を聞いて彼に責任を追及するとでも思っていたのだろうか。
「責めて欲しいような口振りですね」
「君は戦えないからね。魔神が璃月港に上陸していれば被害が出て、君も巻き込まれていたかもしれない。だから君が俺を責めてもおかしくはないと思うけど」
 個人の感情について語る彼に目を丸くする。必要性や責任についてはともかく、彼は私が恐怖から彼を責めても甘んじて受け入れるつもりだったようだ。
「まあ……恐ろしくはありました。どこに逃げればいいのかもわからなくなるくらいあれは禍々しかった。ただ、まあ……もし本当にあれが上陸すればどこにも逃げ場はなかったでしょう」
「そうだ、だから俺に不満の一つくらいはぶつけていい」
 真剣な顔をする彼にたじろぐ。
「……前々から感じていたことではありますけど、貴方ってやさしいのかそうでないのかわからない人ですね」
「心外だな、君にはやさしくしているつもりなのに。部下だとこうはいかないよ」
 彼は苦笑した。北国銀行での振る舞いなどを見ていれば彼の言う通り私は破格の対応を受けている気がする。今は形だけの肩書だがいずれ本当に普通の家庭を築いてしまうのではないか、と錯覚する程度には丁寧な態度で接していた。
 だが彼が私を璃月に連れて来た本当の意図は聞かされていたものとは違う。言うなれば私は彼の領土だ。領土に侵攻されることで己の危機感を煽り、より勘を研ぎ澄まして戦う。自ら極限状態を生み出すほどだ、彼は異常な戦い方を望んでいる。
 厳密に言えば彼は私を人として扱っていないのだ。だから、私達の関係について勘違いも期待もしないし、私を危険に晒した彼の行動を咎めはしない。
「でもせっかくですから、不満をぶつけるのは次の楽しみに取っておきます」
「甘いなあ……これきりかもしれないよ?」
「そうでしょうか、剣を交えていれば来てくださらないかも」
 冗談を言ったつもりが静寂に包まれる。機嫌を損ねただろうかと彼の表情を窺えば実に形容しがたい顔をしていた。それは一体どういう顔なんだ。怒りを買ったわけではなさそうだが、彼の感情をいつも以上に図りかねる表情だ。
 首を傾げていると、彼はふっと感情をすべて篩い落としたかのように真顔で納得した。頷かれてしまえばどういった心境なのか聞くことができなかった。

 翌朝、彼はスネージナヤ行きの船に乗って璃月を出た。早朝の港には穏やかな潮鳴りと鳥の声、水夫達の控えめな掛け声が飛んでいる。見送りにはエカテリーナも来ていたが璃月に来たばかりの歓迎を受けたときに比べると静かなものだった。
 長い船旅から少しでも退屈さを除こうと彼に弁当を持たせたが気に入ってくれるだろうか。そんなことを考えながら朝日が水平線から顔を出していく光景を眺める。
「港を歩くのはまだおすすめしないわ。魔神オセルの力の影響を受けたものが流れ着くかもしれないから」
 潮風に当たっていると声をかけられた。波の音に負けずに飛んでくる冷涼な声の持ち主は美しい顔に笑みを湛えて私を見ていた。
「では朝市も閉鎖中なんですね」
「いいえ、早朝に千岩軍が点検をしているの。それが終われば港が解放されるわ。普段はこんなに早い時間ここを歩いている人間はいないのだけど、偶然上から貴方達の姿が見えたから」
「意外です、港で働いていらっしゃるんですね」
「まあ……そんなところね」
 港が見える建物と言われて水夫達の宿泊所しか思い浮かばなかった。気品ある佇まいはとても港で働いているようには見えないと思ったままに話すが彼女はそうだともそうではないとも返さなかった。璃月の商人らしい話し方だから、港で働いているわけではなかったのかもしれない。
「船に乗っていたのは恋人?」
「……いいえ」
 一瞬、彼女を真似てみようかという考えが過ぎったがやめた。彼女は疑いの視線を寄越してくるが初対面の人間相手にこと細かな事情を話す必要はないだろう。黙って海を見つめていれば、彼女は私の隣へ並んで懐から煙管を取り出した。
「この国で商売をする恋人について来た、恋人は仕入れのために一時帰国した──そういうことにしておきなさい」
 今、私達は璃月での風当たりが強い。港の現状に詳しい彼女も当然噂の一つ二つは聞いただろう。その上での発言となると、彼女は船に乗った人物が公子様であると察しがついているのだ。
 呆れた様子は私を案じているかのように思わせるが、実際のところは彼の正体と動向を握っているという事実を暗に示すつもりで言ったのだろう。牽制しているのだ、大人しくしていろと。途端に彼女の横顔が険しく映る。
「彼のことをよくご存じなんですね」
「どうかしら。貴方の方が詳しいはずだけれど」
「私もあまり知りませんよ」
 彼女を挑発してみるが綺麗に躱されてしまった。
 彼と一緒に暮らしても彼の行動すべてを把握しているわけじゃないし、どちらかと言えば彼が見せてくれると言った景色よりも彼個人の癖や生活習慣ばかり知っていく。
 私がここで過ごすだけで彼の目的は果たされるのだろうが、私の目的は果たされなくなっていきそうだった。彼が世界を征服する様を見る、それを望む自分自身を知るという目的を。
 考えてみれば、国境を跨ぎ海まで越えた理由が消極的すぎる。いくら拒否権が与えられていなかったとは言え二つ返事で同行に了承して、さらには彼も言ったように危険に晒されているのに不満の一つも抱いていないのだ。その事実だけで彼に魅せられたというのが真実味を帯びてくる。
 苦笑していれば彼女は奇妙な目で私を見ていた。
「いえ知らないのと知ろうとしないのは違うんだなと思って……冷たいことと、あたたかくないことが全く違うように」
「ええそうね」
 彼女にとっては要領を得ない話だっただろうが当たり障りなく同意された。
「そういえば貴方はどうして港へ?」
「オセルを沈めた城を見に。あれは群玉閣と言って璃月を代表する建造物でもあったわ。中には価値ある物が揃っていたから、港へ漂着したものを回収しようとする人がいるの」
「そうなんですね、でもそれなら貴方も危ないでしょう。どうぞお気をつけて」
 私の言葉に彼女は微笑む。その表情が存外にやさしくて目を丸くした。
 彼女は「平気よ、この港のことはだれよりも詳しいもの。でもありがとう」と言いはるか先に広がる海を見つめる。美しい横顔にはどこか哀愁が漂っている気がして、私は静かに港をあとにした。



 報告を終えた公子様が璃月へ戻ってきた。任務地が変わる可能性もあったが、引き続きこの地の担当を続けることになったと聞かされる。当初の予定の一つでもあった璃月七星との交渉を図るそうだ。女皇陛下からは件のことに対する謝罪と彼の判断に対する寛大なお言葉をいただいたらしい。
 彼が璃月を離れていた時間はたいして長くなかった。璃月とスネージナヤを結ぶ海路に要する日数と報告のために滞在した一日。つまり最短でまた璃月に来たのだ。
 任務に一区切りついたのであればスネージナヤで少しのんびりすれば良かったのではないだろうか。家族に会えない寂しさを嘆いていた彼を知っているからこそ、家族の元で数日滞在してくるのだろうと考えていた私は早々と顔を合わせたことに内心驚いていたのだ。
 率直にそれを話せば彼は先日の微妙な表情を見せた。それは一体どんな顔なんだと今度こそ尋ねようとすれば「俺はまだ璃月でやるべきことがあるからね」と笑う。船で発つ前との変化から彼の心情を読み取ることはできない。
 目を瞬いていると手袋を着けていない手が伸びてきた。顔にかかっていた髪を掬い取ったところで彼ははっとして動きを止める。彼の不審な行動に眉をひそめる。
「何かついていましたか?」
「いいや、何もついてない、けど……」
 珍しく歯切れの悪い彼はそう言っておもむろに顔をもう片方の手で覆った。表情に翳を差して不味いことをしたと言いたげな様子に益々疑問が膨らんでいく。俯いた顔を覗き込む私に気づくと彼は仕切り直すように咳払いをした。
 真剣な瞳で彼は私を見つめる。私の顔から何かを探している、漠然とそう感じたが真意は読めない。
「……うん、戻って来て良かった」
 彼は一方的に納得したように口にした。
「? 何の話かわかりませんが」
「いいんだ、気にしないで。それよりも……まったく船の上は気が塞ぐよ」
 一方的に話を切り上げた彼は気晴らしに北国銀行へ行くかと言って立ち上がる。債務の回収を手伝うらしい。それってただの仕事では、という私の問いに「部下の指導さ。名実相応の気分転換だろ?」と去り際に言い捨てた彼の顔は実に楽しげだった。部下の命は死なない程度に玩ばれるのかもしれない。
「そうだ、夜の予定は空いてる?」
 一旦家を出た彼がすぐに戻って来て尋ねる。
「空いていますが」
「じゃあ一緒に食事でもどうかな。璃月の料理も結構美味しいよ」
 承諾すれば彼は弾むような足取りで今度こそ北国銀行へ向かった。

 異国の食事はとても美味しかった。中には辛すぎると感じた料理もあったが、辛いものが平気なスネージナヤの人間ならばだれもが璃月の食べ物を気に入るだろう。体が温まることは私達にとってそれくらい大切なことだ。
 ただ箸という食器、あれだけはいけない。長細い棒を二本扱うだけでも難しいのにさらにそれを片手で駆使するというのだから。璃月人はほんの子どもですら箸を巧みに操る。驚くほどに器用な民族なのだろう、もしくは指の一つひとつが生き物なのか。
 愚痴にも似た私の感想に公子様は腹を抱えて笑った。歩くこともままならないほどおかしなことを言ったつもりはないのに、そこまで笑われると恥ずかしくなってくる。彼の笑いが収まるまでその場に佇んでいれば周囲の目も気になり始めた。
 もうそろそろ笑うのをやめてください。そう小声で嘆願すると彼は頬を持ち上げたまま体を起こす。それでも歩き出す気配のない彼の手を掴んで引っ張った。人の目を気にして早くなる足に彼はしっかりついて来る。
 十歩ほど歩いたところでどこからか彼を呼ぶ声がした。気のせいかと思ったが彼も声に反応する。周囲を見渡すと円卓が並ぶ賑やかな酒の席からこちらに手を振る男性がいた。
 躊躇った彼は「あー…」と考える素振りを見せたあと男性を無視しようとした。だが男性がもう一度「公子殿」と繰り返すので短く溜息を吐く。折れた彼が手を繋いだままそちらへ歩いて行くので私はされるがままついて行った。
「素通りするには遅すぎたな。休暇を楽しんでいるようで何よりだ」
「嫌味は勘弁してよ、鍾離先生。……もしかして酔ってるの?」
「ハハハッ……悪いが今夜は一滴も飲んでいない。だが気分はいいかもしれないな、公子殿が隠していた婚約者殿にやっと会えたんだ」
 男性の視線が私に移る。私のことは知っている様子だったが挨拶と自己紹介をすれば彼も「往生堂の鍾離だ」と返した。すべてを見透かすかのような瞳でこちらを射抜き鷹揚に構えている。鍾離さんは公子様と並ぶかあるいはそれ以上の存在感を持つ人だった。
「さあ座ってくれ、話をしよう。酒団子でも頼もうか」
「食事してきたばかりなんだ」
「そうか。では茶だけでもどうだ? 珍しい茶が出ているぞ」
 鍾離さんが使っていなかった茶器を二つ取り出す。ちょうど三人分の茶杯はまるで私達が来るのを見越していたかのようだ。
「さて……わざわざ俺たちを呼び止めた鍾離先生がどんな話を聞かせてくれるのか楽しみだ」
「公子殿の期待に沿うかわからないがまずは今から振舞う茶について話をしよう。せっかく婚約者殿を招いているのだからしっかりと味わってもらいたい。ああ、失礼だが茶の知識はあるだろうか」
「璃月のお茶についてはあまり明るくありません」
「茶葉の苗木は土壌に鉱物を含んでいないことが生育の条件とされている。南部には鉱山が多いことからもわかるように栽培環境が適していないため、璃月港で流通している茶は北部産が中心だ。南部でも生産自体はされているがごく限られた場所でしか栽培できず、手間がかかる割に多くは収穫できないから南部産の茶を卸している店は希少だ。だが最近はその流通量が増えてきている。諦めなかった南部の民達が地理的条件に左右されない苗木を作ったんだ。鉱業が盛んだということは言い換えれば鉱物の豊かな土地柄だということ、苗木さえ根付けば栄養価の高いお茶が作れるだろうと彼らは考えた」
 饒舌に茶葉の由来を説明しながら鍾離さんはしっかりと茶を蒸らした。そうして渡されたお茶はわずかに赤みの差す黄色をしていた。
「どうだ?」
「とても美味しいです。璃月では緑茶が一般的だと聞きましたが、この香りは紅茶に近いですね。味もすっきりした甘みがあって……」
「その通りだ。土壌に適応するよう改良した苗木は豊かな甘みを持つ茶となった。わずかに発酵させた方が飲みやすく、色が薄緑でないのはそれが理由だ。そして──」
 上機嫌になってお茶について語る鍾離さんの勢いに圧倒される。話を聞く限りでは新しく作られたばかりの茶のはずだが、各地の気候や生産される食べ物の傾向、それらを踏まえてこのお茶にはどのような特性があるかなど詳しく考察されている。まるで璃月のすべてを知り尽くしているかのような話に舌を巻いた。
 璃月に詳しいわけではない私では話の一割も理解できていないかもしれないが、これだけの知識に触れるのは楽しいものがある。感心して鍾離さんの話に聞き入っていると、鍾離さんは話の途中で公子様を見た。
「表情が硬いぞ公子殿。俺が婚約者殿と話をするのはそんなに嫌か」
「そうだって言ったらどうする? このあたりで帰してくれるのかな?」
 鍾離さんは彼の問いに答えず、代わりに目を丸くした。
「存外に負けを認めるのが早かったな」
「別に鍾離先生と勝負してたわけじゃないよ」
「それはそうだが……何にせよ公子殿にとってはいいことだ。ふむ、そうと知っていれば俺も意地の悪いことはしなかったんだが」
「……それ本気で言ってないだろ。大方こないだの意趣返しってところだ」
 鍾離さんは今度こそ沈黙した。目を伏せて茶を啜る音だけが響いている。対する公子様は溜息を吐き、腹を立てるだけ無駄だと言いたげに肩をすくめた。
 険悪とも良好とも呼べない仲をしている二人に私はどうすればいいのかと迷った。微妙な空気を変えられるほど明るい話題はないし、鍾離さんのことをあまり知らないため二人が楽しく話せる共通の話題もない。
 このお茶、本当に美味しいですよ。苦し紛れに出た言葉は情けない声をしていた。興味なさそうに茶杯を手に取った彼は中のお茶を一口含む。
「まあ鍾離先生の見立てだし美味しいけど……君、これを気に入ったの?」
「私ですか? ええまあ、美味しいですから」
「そう。じゃあ買って帰ろうか」
 突拍子もないことを言い出した彼は近くにいた給仕を呼びつけた。店にある茶葉を包むように言われた給仕は酔った客を相手にしているかのような態度で断ったが、モラはいくらでも出していいという公子様の提案を聞いてバックヤードへ飛んで行く。
「公子殿、良ければ俺の分も頼んではくれないだろうか」
「先生は自分で買って」
 美味しいと感じたことに嘘偽りはないが特別気に入ったというわけではない。それなのに大ごとになったと慌てる私とは違い、鍾離さんはあわよくば自分の分まで頼もうとする。彼がばっさりと鍾離さんを切り捨てていると、茶葉を入れた包みを持って給仕と店主が笑顔を浮かべて戻って来た。

「婚約者殿が璃月の茶に興味を持ってくれたようだからまた機会があれば茶に誘おう」
 鍾離さんが笑顔を向ける。まだ先程の小競り合いが続いているような気配をそこはかとなく感じたが何も気づかなかった振りをしてありがとうございますと返した。
 お茶だけでなく食事の仕方も興味深いものだった。一年を通して雪が降るスネージナヤでテラス席がある食事処は多くない。また講談師という職業も存在しなかった。
 鍾離さん曰く、外で食事ができる店は講談師を雇っているらしい。食事と講談の両方を楽しむ、これは璃月ではごく自然なことだそうだ。とくに璃月の長い歴史を知るために講談を嗜む人間は多い。璃月人にとっても長く入り組んだ歴史を紐解く講談師の存在は欠かせないのだという。
 外なら璃月の景色を見ながら講談を聞けるためより臨場感が増す。鍾離さんの話を聞きながら先ほどまで食事の席で耳にした講談の様子を思い出し、私は納得した。
「講談ではないが雲殿のいる和裕茶館もおすすめだぞ」
「和裕茶館……それって港の近くにある建物?」
「ああ」
「それなら一度芝居を観に行ったことがあるよ。任務帰りに立ち寄ったから途中からしか観られなかったけど」
「それは勿体ないことをしたな。雲殿の芝居だったかはわからないがあそこの演目はどれも面白い、ぜひ最初から見るべきだ。公子殿は演劇を見るのが趣味だったか?」
「まあね。演じるのも好きだよ」
「それならなおのこと観ていくといい。公子殿ならいい席を取れるだろう」
 力説する鍾離さんに彼は少々気圧されながら頷く。そこまで言うなら今度観に行ってみようかと話を振られたので頷く。するとそこでふと違和感を覚えた。
「……どうしたの?」
 不意にポケットを探りだした私を見て彼が不思議そうに尋ねる。小物入れがなくなっているのだ。中身は手鏡とハンカチ、口紅くらいしか入っていなかったため失くして困る物ではないが、念のためにもう一度確認する。
「小物入れがなくて……店に置いてきてしまったんだと思います。たぶんハンカチを出したあとでしょうね」
 店からまだそう離れてはいない。高価なものではないため物盗りの被害に遭っているなんてこともないだろうし取りに戻ろう。そう考えて二人に「先に戻っていてもらえますか?」と尋ねる。
「待って、一人で取りに行くつもり? 君一人で夜道を歩かせるわけにはいかない。俺が取ってくるからここにいて、すぐ戻ってくるよ。鍾離先生この子をよろしく」
「わかった」
 有無を言わせずに公子様は走り出してしまった。彼が消えた方角を唖然として見ていれば隣で鍾離さんが耐えられないと言いたげに噴き出す。手で口元を覆ってはいるがあまり隠す気が感じられない笑い方をしていた。
 隣人の奇行に驚いていれば「いや、すまない」と努めて冷静になろうとしている鍾離さんの謝罪が飛んでくる。
「失礼を承知で言いますが変わっていると人に言われませんか?」
「ずいぶんと言ってくれる。だが仕方ないだろう、事情を知っていれば笑うなという方が無理な話だ。これだから人の子を見守るのは面白い」
「事情とは?」
「それについて俺の口からは言えない。公子殿に聞いてみるといい」
 誤魔化しもせずに断じられてそれ以上鍾離さんを問い質すことはできなかった。疑問が晴れずに悶々としている私を鍾離さんは見下ろした。
「そうだな……だがお前達を見ているともどかしくなったのも事実だ。少し世話を焼くとしよう」
 どこかからかうような口調だが表情はいたって真剣なまま鍾離さんは続ける。
「戦場では一瞬の遅れが運命を左右する。勝利を収めるには多少つたない案でも行動に移すことが重要だ、という意味の言葉を知っているか?」
「璃月特有の言い回しであれば、いいえ」
「そうか。これを璃月では兵貴拙速と言う。近い言葉もあるが──何も神業にこだわる必要はない。後悔しないよう公子殿にも教えてやるといい」
 思わせぶりな発言に首を傾げていると遠くから足音が聞こえてきた。振り返ると公子様が戻って来る姿が見える。彼が到着するなり鍾離さんは「では俺はここで失礼する」と言って夜闇へ消えて行った。
「何を話してたの?」
 小物入れを渡して彼が尋ねた。
「兵貴拙速という璃月の教訓を教えてもらいました。公子様にも教えるようにと」
「兵貴神速じゃなくて?」
「つたない案でも早く行動することが大事だそうです」
「ふうん」
 鍾離さんの言葉通り伝えたが彼は目ぼしい反応を返さなかった。鍾離さんが詳細を伏せた事情とやらに絡んでいることは間違いないため何か手掛かりになるものを得られないかと思ったのだが期待外れだった。
 彼に直接聞くように言われてもどこから話を切り出せばいいのか悩んでしまう。鍾離さんは私という婚約者を紹介されなかったことで公子様を揶揄っていたのだ。深く追求すれば私にとって都合が悪いことになる気がした。
「……お二人は仲がいいんですか? 公子様が無下にしなかったということはファデュイにとっても要人かとは思いましたが……」
 結局聞くに聞けず、苦し紛れに些細な質問をする。
「彼はこの国の神だった人だよ。今は凡人として暮らしているようだけどね」
「神って岩、っえ……?」
「ハハッ、たしかに気配は只者じゃないけど流石に俺も気づけなかったよ」
「そうじゃなくて、モラクスって……」
「死んだことにしているだけで……まあ、色々事情があるみたいだ。彼との利害関係も終わったし、それに関しては興味がないかな」
 そろそろ帰ろうか、と会話を切り上げて彼は歩き出す。
 彼は女皇陛下ともよく顔を合わせているから動じないのだろうが私はただの一般人だ。七国の神と対面する機会に恵まれることはなく、今日初めて七神の一人を目にした。それが酒の席で、茶と講談と芝居の話をしただけで終わったことに動揺を隠せない。
 公子様以上の存在感を持つと感じたのもあながち間違いではなかった。だがそれを誇るべきか否か悩んでしまう。あまり神に似つかわしくない言動を取っていた鍾離さんのことを考えると私の直感が間違っていただけにも思えるので仕方ないだろう。
 茶葉の袋を抱え直して考えた。少しくらい分けて持たせてやれば岩神に恩を売ることができたのではないだろうか。
「お茶の葉、少し分けて差し上げれば良かったですね」
「どうして?」
「欲しそうにしていたから……岩神との伝手を作っておくのもいいんじゃないかと思って」
 そこまで口にしたところで、そういえば彼は神の心を手に入れるためにここまでやって来たのだということを思い出した。伝手を作るどころか二人の間には因縁があるはずだ。先程はそれほど険悪な空気ではなかったが。
 私の言葉を聞いて何かを考えた彼は「彼はファデュイのことをよく理解している、契約がない限り俺達に与することはないだろうね。それに何度も支払いを肩代わりしてあげたから彼は俺に恩を作りすぎてるよ」とやはり興味なさげに答えたのだった。

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