凍原は永き薄暮 2

『おしゃべり毛布』

 璃月の領海に入り、近づいてくる港を見て船の上で感嘆の声を漏らした。海上からは璃月港の全貌を捉えることができる。スネージナヤとは異なる様式の建物は厳かさと豪華さを両立していて規模だけで言えば母国は比べ物にならないほど立派だ。
 入り江には様々なデザインの船が係留されている。スネージナヤの商人も璃月へ赴くことは多く、他国との交易を行う重要な拠点でもある。話には聞いていたが他国の商船がこうして山ほど集まっているのを実際に目の当たりにすると感動せざるを得なかった。さすがテイワット最大の港湾都市だ。
 私は母の家業を継いでいる。資産運用が主で、商業に関しては精々が出資をする程度だった。璃月へ来ることになったのは想定外の出来事だったがこの機に何かしら経験を積んでもいいかもしれない。
 期待で胸を膨らませていると、背後から「はしゃぐのはいいけどそんなに体を乗り出すと海に落ちちゃうよ」と公子様のからかう声が飛んできた。
「はしゃいでいません。感動しただけです」
「そういうことにしてあげよう。……スネージナヤを出たことがないんだっけ?」
「ええ」
「いいね、せっかくの機会なんだから楽しむべきだ」
 手すりから離れた私を見て笑いをかみ殺す彼は私の主張など聞こえなかったかのように言った。私を幼い子どものように見ているのだと視線から察する。
 不服を覚えているとファデュイの兵士から声がかかる。スネージナヤと璃月を結ぶこの定期船は着岸の準備に入るらしい。
 あくまでこれはスネージナヤの商船だ。公子様はファデュイとして璃月へ入国するわけではなく、スネージナヤ最大の金融機関である北国銀行、その璃月支部勤務の人材として入国することになっている。
 そのため彼に付き従って璃月入りするファデュイの兵士達も数は多くなかった。璃月で任務にあたる際に必要な補充程度の人数だ。デットエージェントと呼ばれる兵士の一人が「着岸の際は揺れますのでお気をつけて」と声をかけてくれる。それを聞いた公子様が掴まっておけとでも言うように腕を差し出した。
 四方八方から雄々しい声が響く。船を操る乗員達、水夫達が声を張り号令を掛け合うなか、いつもは猛々しく戦場を駆けるファデュイの人間が箱の中で静かに下船の時を待っている光景はなかなかに奇妙だ。船と岸に寄せる波のぶつかる重い音が響いて船は静止する。
 彼は兵士達に無駄のない指示を出し、手早く荷下ろしをさせた。父と手合わせをする戦士としての姿と穏やかに話す彼は見てきたが、上官としての姿はほとんど見たことがない。初めて会ったときに部下を威圧していたときくらいか。
 三つ目の顔を新鮮な気持ちで見ていれば彼が私の方を向く。笑みを浮かべて船の下に視線を投げると、腕をわずかに持ち上げて「行こうか」と口にした。船を下りるまでエスコートしてくれるらしい。
 人と物が慌ただしく行き交う港の中に北国銀行の職員の姿を見つける。彼らと合流し、私達はそのまま璃月支部へと向かった。
 ファデュイは国外活動の際に北国銀行を拠点にしている、まことしやかに噂されている話は紛うことなき事実だ。多額の資金を動かすことができれば他国でも自由が利く。金融機関を大陸中に置くのはよく考えられていた。ファデュイがスネージナヤの人間にすら国の闇と言われるのは、外交以外の手段で他国に圧力をかけ、内政干渉を行い、そのための手段をこうして選ばないからだ。
 かくいう私もここ璃月では何の影響力も持たない完全な部外者である。璃月支部の重役が公子様を連れて北国銀行の奥に向かうが私はその場に残された。見慣れない内装の建物を見渡す。貯金を下ろすときはここへ来ることになるため今のうちに建物を見て回っておくべきだろうか。
 だが公子様に同行していた私のことを璃月支部の職員は把握していたらしく、すぐに別室に案内された。美味しい焼き菓子とあたたかな紅茶を出される。
「璃月にも紅茶があるんですね」
「いえ、そちらはスネージナヤから取り寄せたものです。璃月は緑茶が中心ですので紅茶が必要でしたら私共が用立てます」
 璃月港にはスネージナヤの商人がいるのだから商品の輸入は難しくないだろう。別にわざわざ北国銀行経由で購入する必要はないが、彼らがそう言ってくれるのであれば厚意に甘えることにした。
 職員は北国銀行璃月支部の口座の扱いについて詳しい説明をしてくれた。引き出しの手順については今までと変わらないが、契約に煩い璃月人に合わせて利用形態が複雑らしい。これまでの口座をそのまま運用するのではなく新しく口座を開設した方がいいと勧められた。
 口座の開設手続きを終えると、ほどなくして打ち合せを終えた彼がやって来る。私を迎えに来たのではなく、早速任務にあたるため先に家に帰っているように伝えに来たらしかった。
「何か不都合があったらいつでも北国銀行に来てくれ。俺に用があるときもここへ来れば連絡が取れるから。遠出以外なら外出も自由にして構わないし……ああ、俺はあまり家には帰れないだろうから好きに過ごしていいよ。家への案内は……君が知っているね、よろしく頼むよ」
 用件を言い終えると彼はすぐさまどこかへ行ってしまった。傍らで呆然としている職員に名前を聞くと彼女はエカテリーナと答えた。窓口業務をメインに執行官との橋渡しする役目も負っているらしい。
 彼女は降って湧いた仕事に視線を彷徨わせた。おそらく、私の実家や父についても知っているのだ。ファデュイにとって扱い難い人物である私を放って婚約者がとっとと出かけてしまったからどう対処すればいいのか頭を悩ませているのだろう。
「エカテリーナ」
「は、はい」
 声をかけると彼女の背がぴんと伸びた。そこまで萎縮せずとも、と苦笑いを零す。
「公子様は仕事熱心なようですから案内をお願いできますか?」
「もちろんです」
「これからよろしくお願いしますね」
「ええこちらこそ……では、お住まいまでご案内します」
 公子様は一体何をお考えに、という声が聞こえてくる。彼女は案内を任されたことに対してではなく、彼が到着早々に婚約者を放置した現状に戸惑っていたようだ。

「……あまり家に帰らないのでは?」
「当初の計画がすべて台無しになってしまってね……様子を窺うことになったんだ」
 璃月初日の夜こそ本当に帰宅しなかった公子様だが、二日目は日暮れ前にふらりとやって来たのだった。新居にまだ馴染めない私とは違い、彼は当然のように自宅へ帰宅した空気を醸している。
 夕食はどうするのかと聞けば食べると返された。調理にかかる前だったから構わないが、この様子だとこれから先では急に食事が必要になるとか、逆に不要になる場面も出てきそうだ。
 彼は脱いだ上着をイスにかけるとダイニングテーブルに巻物を広げて何かを考え始めた。巻物の上をなぞる指が冷たく一点を叩く。スネージナヤではあまり見ない書物の形に興味をそそられたが、ファデュイの任務に関わるものだろうから話題に触れずキッチンへ向き直った。
 彼が食べるならもう一品増やした方がいいだろう。何を追加しようかと考えながら食材を洗って切っていく。
 璃月の深い歴史を持つ食文化には興味があるから土地勘が出てくれば外食を楽しむのもいいかもしれないが、環境が変わってしばらくは自国の料理を口にしていた方がいい気がした。
「手際がいいね、慣れてるの?」
 手を動かしていれば後ろから声をかけられた。真後ろに立っているのではないかと思うほど近くから聞こえた声に肩を揺らして振り返る。すると真後ろどころか肩越しに手元を覗き込む彼と目が合った。
「わっ……、」
「ああごめん、驚かせたね」
「いえ、ええと……慣れてるか、ですか。スネージナヤでは自炊もしていましたから」
「使用人がいたのに?」
「……そんなにおかしなことですか?」
「いいや、ただ生粋のお嬢様だと思っていたから意外だっただけさ」
 彼は鍋を覗き込んで感心したような声を漏らすと、次は面白そうに笑った。
「俺も料理は得意なんだ。今度振る舞ってあげるから食べてみてよ」
「ありがとうございます……?」
 その会話で満足したのか彼はまた仕事にかかるべく離れていく。出会って日が浅いというわけでもないのに、相変わらず掴みどころのないおかしな人だ。
 彼にとって一つの征服の形が婚約という手段を導き出した。だけど私の権利をすべて奪うようなことはせず意見を尊重するし、支配的な言動を取るどころかこうして手料理を振る舞うと約束もする。彼の抱える矛盾は面白く、どこか恐ろしくもある。
 特別上手いわけではない私の手料理が彼の口に合えばいいけど、と途端に不安が沸き上がってくる中で調理を再開した。
 私の手料理は彼のお気に召したようだ。味付けに関して要望はないのかと尋ねても好き嫌いはないとだけ返ってくる。適当な返事だったわけでも、頓着しない様子でもなく、満足げに食事している様子から本当に好き嫌いがないだけなのだということは伝わった。
 屈託のない笑顔を浮かべる彼は年の割に幼く見える。そういう顔立ちなのだろう。愛想もいいため勘違いしてしまうが彼は執行官なのだ。可愛い、なんて失礼な考えを持ってはいけない。そんなことをよくよく自分に言い聞かせながら黙々と食事をした。



 璃月はスネージナヤとはかなり気候が違う。スネージナヤは一年を通して極寒の国だ。晴れる日はあるものの雪が積もり続ける程度には年間平均気温は低い。自国とは離れた位置にある璃月はあたたかな天気が続いた。湿度も違うため体が慣れなさそうだとは思っていた。だからこそ食生活は変えないでおこうと考えていたのに。
「風邪、じゃないとは思うけど……」
 気だるい朝だった。額に手を当ててみたが発熱している様子ではない。悪寒もしないし、くしゃみなどの症状もない。とはいえ、環境に適応できずにストレスになっていることは間違いなさそうなので無理をしないに限る。
 ベッドを出てキッチンに向かうと彼が朝食の支度をしていた。
「おはよう。……具合が悪そうだね」
「体がだるくて……」
「朝ごはんは食べられそう?」
「ええ、熱はありませんから。調子が悪いのは気候のせいでしょうね」
「それならいいけど……。体を鍛えなよ、多少のことでは左右されなくなる」
 一緒に璃月へ来た彼は健康そのものだから彼の言も間違ってはいないだろう。
 素直に聞き入れると彼はフライパンの上に生地を落とし込んだ。ジュウと音を立てて焼き上がる生地を手際よく折りたたんで皿へ移す。彼が作っているのはスネージナヤではよく見られるごく普通の朝食だ。
 朝食を運んで飲み物を出そうとすれば「座ってて」と声をかけられた。大人しく座って待っていると、彼は目の前に焼いたばかりのクレープとそれに合わせる具材を並べていく。食欲はあるがさすがにこんなに入らない。そんなことを考えていれば私の表情だけで察した彼がなんてことないように言った。
「俺が食べるから無理しなくていいよ。君が朝どれくらい食べるのかわからなかったから多めに作っただけだ」
「……ありがとうございます。料理がお得意なんですね」
「朝食を褒められてもなあ。君の褒め言葉は俺が夕飯を作ったときにでもとっておいてくれ。ほら冷めないうちに食べて」
 クレープを取り分けられて、促されるまま口に運んだ。食べやすい薄さでありながらもちもちとした歯ごたえがあり、ほんのりと甘い味付けが好みだ。サワークリームとベリーを乗せて食べるのもいい。彼は魚卵を乗せているが、体がだるいと朝から生物を食べる気分にはならなかったので助かった。
 均等な厚み、均等な大きさと形に揃えられたクレープを眺める。私はつい朝食を適当に済ませてしまうこともあるが彼はそういう日がないのだろう。片手間に自室の掃除をしているのを数日前に見た。彼は几帳面な人のようだ。
 手を持ち上げるのが面倒だと考えていると行儀悪く食器をぶつけてしまった。カチャン、という軽い音が響くが彼は気にした様子もなく食事を続けている。
 璃月港からそう離れていない場所に私達の住居はある。ほどよく人通りはあるが人の往来が多いとは言えず、港の活気は伝わるような立地だ。初日はそんな印象を抱いたこの家は、今朝は異様なほどの静寂に満ちていた。
 璃月の神が暗殺されたのだ。生活の大半を家の中で、仕事と家事をこなして過ごしていても噂は耳に入ってくる。あれほどの活気が鳴りを潜めるほどの事件だ。
 あまりにも時機が良すぎるため、最初は「まさか公子様が」なんてことを考えたものだ。だが迎仙儀式と呼ばれる行事は璃月で最も規模の大きな行事らしい。多くの人が集い注目を浴びる岩神をだれにも知られずに殺すのは難しい。
 いくら彼でも白昼堂々と他国に戦争を仕掛ける真似はしないように思えた。彼について詳しいわけではないが少なからず彼は強者との戦いを求めているだけで一方的な殺戮や弑逆を好んでいるわけではない。
 目的のために手段を選ばないとしても、頭の切れる彼がそのような暴挙に走るとは思えなかった。何より彼は予定が狂ったと言っていた。彼の予定が迎仙儀式に関わるものだったかはわからない。だけど何となく、岩神の暗殺は彼にとっても予想外の出来事だったのだろうという漠然とした予感があった。
 体の制御が聞いていないからか、彼が朝食を作る姿に新鮮さを覚えたからか。彼の顔をまじまじと見ながら物騒な話題に思考を割いていると彼は怪訝な顔をした。
「俺の顔に何かついてる?」
「……ぼーっとしていました」
「本当に調子が悪いんだね」
 穴が開くほど見つめていたのか彼は苦笑して食器を置く。追及はされなかったが、私の下手な誤魔化しに騙されたわけではないだろう。思っていた以上に食事が進まずにのろのろと食べ進める私と違い彼は料理を綺麗に平らげてしまっている。タイミング良く食事を終えただけだ。
 朝食を作ってもらったのだから後片付けくらいはやっておこうと考えていると席を立った彼が私の方へ回り込んだ。横から顔を覗き込むと、彼は私の額に手を当てて熱を測る。
「これから熱が上がるな」
「どうしてわかるんですか?」
「何となく。でも当たると思うよ、弟達の看病をしていたからね」
「……ごきょうだいがいらっしゃるんですね」
「上も下も三人ずついる」
 彼は真ん中なのか。面倒見が良く引き際もわかっているが主張はしっかりする、そんなところは上と下に囲まれて育ったからなのかもしれない。一人で納得していれば彼は手際良く皿を片付け始める。私が片付けると言う暇もなかった。
 慌ただしく動く彼に申し訳なく思いながらソファに横たわる。その間、彼が璃月で何をしているのかをそれとなく聞いてみた。
「執行官が直接出向く案件なんて決まってるよ」
 俺は権謀術数や陰謀が苦手だからね、と言って彼は笑った。武力行使でなければならない内容なのだということはわかったが一体他国で何をするつもりなのか。それを考えると顔が引きつってしまった。
 璃月に来て早々任務の予定は狂ったが、代わりに面白いものを見つけたと彼は楽し気に話してくれた。宙を浮く子どもを連れた不思議な旅人がいるらしい。彼の武勇とは違った異国の旅人の話はなかなか面白かった。
「冒険譚を聞いているみたいな気分です。話をするのが上手いんですね」
「小さい頃にオヤジが何度も聞かせてくれたからかな、無意識にそれをなぞっているのかもしれないね。……さて、胃にやさしいものをいくつか作っておいたから、昼も食欲があったら食べるといい」
 彼は手に持った箱を私に持たせる。歩けるかと聞かれたので頷いて自室へ向かった。後からやって来た彼の手には水盤がありタオルが一枚浸されている。
 私が布団にくるまったのを確認してもう一度額の熱を測ると彼は濡れたタオルをそこに乗せた。安静にしているように私に言い聞かせると彼は支度をして家を出た。

 ひたりと顔に心地いい冷たさが広がって起こされた。目を開けると彼の顔がぼんやり映る。
「熱が上がってるよ」
 彼が何か話しかけているが寝覚めの頭ではわからなかった。横にずらした顔からタオルがずれ落ち、濡れタオルを絞り直して額に乗せてくれていたのだと理解する。
「ホットウォッカでも飲む? お腹は空いた?」
「……お酒は飲めないので……」
「じゃありんごの砂糖煮でも作ろうか。トーニャがこれはよく食べてくれたんだ」
 トーニャってだれ、という疑問は言葉にならなかった。体が熱くて不快感が勝る。布団から這い出れば寒くないかと聞かれたので頭を振った。差し出されたコップを受け取って中の水を飲み干す。タオルは冷たかったが飲み水はぬるかった。
 こくりこくりと喉を動かしていれば次第と意識がはっきりしてくる。夕飯の時間なのかと合点がいき、りんごでは全然足りないと空腹が訴えた。
「お肉食べたい」
「じゃあスープを作ってくるよ。食欲があるのはいいことだ」
 彼は快活に部屋を出て行った。
 サイドテーブルに置かれた時計が小さな音を立てて時を刻んでいる。まだ日が落ちて間もない時間帯に彼が帰宅したのは私が風邪を引いたからなのだろうか。
 これが私を従えている態度なのか甚だ疑問だが彼は気さくに接してくれる。ただ、まだ心を許されているという気配はなく璃月に来てからも一定の距離感を感じていた。だからこうして甲斐甲斐しく世話を焼かれることになるとは思いもしなかった。
 弱っているからだろうか、彼の気遣いが存外に沁みる。
 彼は兄弟がいると話していた。任務で国を離れた今は時間を縫って会いに行くこともできなくなっただろう。そこで私の看病をしていると昔の記憶を掘り起こされたのかもしれない。私は彼の兄としてのスイッチを入れてしまったのだ。
 戻って来た彼の手には大きな椀があった。一口サイズに切り分けられた鳥肉、しんなりとするまで煮込まれたニンジンにキャベツが入っている。自分で食べられるかと聞かれたので頷く。盆ごと膝の上に置いた。熱が上がりきってしまうと体が楽に感じるのは妙なものだ。
 彼が作ってくれた料理をすべて食べ終えると彼は「次はこれ」と小さな包みを渡してきた。
「これは?」
「風邪薬だよ。不卜盧という名前だったかな、璃月では指折りの店らしい」
「ふーん……変わった包み……」
 薄い紙が折り込まれた包みからはたしかに粉の音がする。開いてみるとままごとをする子どもがすり潰した草の根のような粉末が中に入っていた。毒とまでは言わないが健康に害がありそうな色だ。
「……」
「ああ、見た目からすでに不味そうだよね。実際不味いけど効能はあるらしいから」
「…………、……」
 ちっとも飲む気がしない。渋い顔をしつつ試しに指先で少し掬って舐めてみれば舌いっぱいに苦みが広がる。味はもちろん不味いのだが、これを粉のまま飲み込めというのはハードルが高い。顔をしかめていれば彼が私の手から薬を奪う。
 薬をお湯に溶かされたため腹を括るしかなかった。受け取った薬入りのお湯を流し込むと苦みが口内に満遍なく広がっていく。これは、むしろお湯に溶かしたのは悪手だったのではないか。あまりの不味さにそう思わざるを得ない。
 粟立つ肌を抑えつけて舌に残る不快感をなんとかやり過ごしていれば彼は腹を抱えて笑った。涙が出るほどおかしいかと睨みつければ、目尻に浮いた涙を拭いながら彼は「ごめんごめん」と口にする。
 謝罪を無視して布団に潜り込む。
「体が弱いのは遺伝?」
 小さな子を寝かしつけるように布団を叩いてきたのでもう会話は終わりだと思っていた。唐突に彼が投げつけた問いの真意がわからない。布団から顔を覗かせれば彼が心配そうに見つめている。
「君が風邪を引いていることをエカテリーナに相談したんだ。話の流れで色々と聞いてしまってね。君の実家──母親のこととか」
「……別に虚弱体質ではありませんよ」
「君の家は早死にする人間が多いと聞いたんだけど。結構有名だそうだ」
「それは……血が薄い、とでも言うべきなのか……子どもが死んでしまう家なんです。だから季節の変わり目とか環境の変化に関わらず、わけもなく突然体調を崩すことが昔は多かったです。……今回はただの風邪ですが」
「母親も病気がちだったと聞いたけど」
「外を出歩かない人だっただけですよ。死因は出産のせいですから。……破水が早すぎて処置が間に合わなかったんです。それで生まれる予定だった子と一緒に」
「生まれようとした子どもと一緒にか……因縁を感じてしまうね」
「案外、本当に何か起こったのかもしれませんね」
 母の記憶は朧げだ。成長してから寂しいと思うことはあまりなくなったが風邪を引いて弱っているせいか無性に恋しくなった。
「母が死んで、母が継いだ家業が一時的に立ち行かなくなったんです。だから生活を元に戻すまで使用人を減らしたこともあります。身の回りのことを何でもできるようにならなくてはいけないと感じたのはそのときですね。炊事も仕事も、だれかを頼らなくてもこなせるようになったのはその成果です」
「へえ、君が璃月での生活に不便を感じていなかったのはそういう理由か」
「もしかして私が泣きつくと思っていたんですか?」
「スネージナヤでは使用人を当然のように使う君しか見ていなかったからね」
「意地悪なんですね……」
 私にそう言われて初めて彼は意地悪そうな表情を作った。昔のことを思い出していると頭が冴え始めて口が良く回る。
「お言葉ですが、私だって貴方が丁寧な生活を送っていることが意外でしたよ。国を出るまで生活の細やかなことは丸投げされるのだと思っていました」
「褒め言葉と取らせてもらうよ。何事も選り好みはしない主義なんだ、技を磨く過程で得たものにはときに技を得ること以上の価値がある」
「家事が得意なのはそれが理由ですか?」
「そこは必要にかられて、かな。兄弟姉妹が多いと食事ひとつすらも大変でね、オフクロに任せっきりにはできないだろ? よく手伝いをしていたんだ」
 そうなんだ、と生返事が零れる。兄弟というものを持ったことがないから、大家族の大変さはわからない。だけど家事の手伝いをしている小さな彼の姿を想像して寂しさが少しだけ紛れる。
「いつかわかるさ。それよりもう寝ないと」
 彼と話していたから眠気は吹き飛んでいる。そう思っていたのに布団を叩かれ続けると瞼がゆっくりと降りていつのまにか眠ってしまっていた。



 璃月港で買い物をしているとエカテリーナを見かけた。声をかけると彼女からお茶に誘われる。今日は休日らしい。璃月の文化にはまだまだ明るくないため彼女の申し出を快く受けた。
 彼女は璃月支店に赴任して長いらしく、観光に来た他国の人間なら絶対に通らないような小路を躊躇なく進んで行った。足の速い彼女に遅れないようにと息を切らしながらついて行くと彼女は眉を下げつつ「申し訳ありません、つい癖で」と話す。大方ファデュイの任務で隠密行動にあたることも多い、といったところだろう。
 到着した店は開けた場所にあった。人も少なく、過ごしやすい。気軽に一息つくというよりは、腰を据えて大事な話がしたいときに向いている場所だ。
 団子が美味しいのだと言ってエカテリーナは二人前を注文した。すぐに届けられた団子は璃月の調度品らしさを漂わせる器に盛られていた。
 飴色の蜜が添えられていて、甘さは個人の好みで調整するようになっているのだと言う。花の香りが苦手でなければぜひかけてお召し上がりください、と店員に勧められたので、エカテリーナに倣いながら蜜を団子の上にかけ流してみた。
 団子は全部で五本ある。こんなに食べればお腹がいっぱいになってしまうのではないだろうか。そんなことを考えながら試しに一つ食べてみると、甘い団子と華やかな香りの蜜が溶けるように口の中へと消えていった。
 感動で思わず鼻から声が抜ける。慌てて口を押えるとエカテリーナが微笑んでいた。
「お気に召されたようで何よりです。せっかく璃月までいらっしゃったのに公子様は任務でお忙しくなさっているので……何かできることはないかと思っていたんです」
「お気遣いありがとうございます」
 彼女のやさしさと気遣いにあたたかな気持ちになる。二つ目に手を伸ばそうとしていれば、何かを思い出したように彼女が遮った。
「敬語はおやめください。貴方は公子様の婚約者でいらっしゃるんですから」
「……ただの婚約者でしょう」
 彼の権力を己のもののように振るうことには抵抗がある。形ばかりの肩書だけでそれを振るうことを彼に許されてはいないという意識もあった。それにおそらくエカテリーナの方が年上だ。璃月で生活を送るうえで彼女には何度も世話になっている。失礼な態度は取りたくない。
 だけど事情を知らない彼女は真面目な顔をして「いけません、私共の立場もございます」と言う。そこまで言われると頷くしかない。渋々と了承した私にエカテリーナはほっと息を吐いた。
「璃月には公子様のご希望でいらっしゃったのですか?」
「そうね、彼に来るように言われて……。先に言っておくけれど初めはちゃんと断ろうとしたのよ」
 任務を与えられた執行官に部外者が随伴するなど恥を知るべきだと言われても仕方ない状況だから、先手を打って本意ではなかったことを口にしたのだが、どうやら私は読みを間違えたらしい。私の言葉を聞いたエカテリーナは嬉しそうに声を上げ、興奮気味に自分の手を握り込んでいた。
 勘違いをさせたのは明らかだった。だが彼女は私達が璃月に到着したときから私と彼が想い合っているのだと誤認していた節がある。今更訂正したところですんなりと信じてくれそうにない。
「婚約者を連れて行くと本国から連絡が来たときは驚きましたが……今では納得がいきます。公子様は部下にも気さくでおおらかな方です。璃月の文化を知ることにも積極的でよく食事にも連れて行ってくださいます。貴方が風邪を引かれた日も誘いがあったようなんですが……すべて断ったうえに、業務も途中で切り上げて早めにご帰宅なさったんですよ」
「そうなの?」
「私に『璃月で一番の薬舗はどこか』とお尋ねになりました。職務中も気が気ではないといったご様子で……」
 彼がエカテリーナに薬のことを尋ねたという話は聞いていた。だが用意させたとかそういうものだったのだろうと思っていたのだ。まさか彼自身が私のために行動していたとは思わずに驚きで目を瞠る。
 彼女は彼の様子をつぶさに語った。逆に私の話もよく聞くのだと言われて彼がどんな話をしたのか興味が湧く。料理が上手いだとか、気遣い屋だとか、そんな話をしたらしい。傍から見れば恋人の惚気だ。エカテリーナの誤解が加速するのも頷ける。
 エカテリーナの思うような関係ではなかったけれど彼女の話を聞いていても不快感はなかった。自分の意思で彼と婚約しているのだから不快感を覚えたところで仕方ないのだけど。
 それにしても、彼が私に対して好印象を抱いているのはやはり間違いないのだ。北国銀行の職員に向けて私達の仲が良好だというアピールをする必要はない。彼自身、エカテリーナの前で私をぞんざいに扱ってみせたのだ。今更取り繕うものはないだろう。それなのに彼女が勘違いするような言動をしてみせるのだから。
 面映ゆくて顔を逸らして聞いていた私に、なぜか念を押すような口調で「私は貴方の味方です」とエカテリーナは締め括る。彼女の真意を知るのはしばらく先のことだった。

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