凍原は永き薄暮 1

『ゆきの王子さま』

 骨にまで沁みる寒さのなか外を歩いていたのは父を訪ねたファデュイを見ていると歯痒くて仕方ないからだった。現在は外交官として、過去には武官として名を轟かせた父にはそれなりの権力がある。父の古巣であるファデュイは、父を不忠者と嘲りながらも父を利用している。
 女皇陛下に執行官の位を賜るほどの実力者だった父は、受勲直前に獣の襲撃から民間人を守って怪我を負った。致命的な怪我でこそなかったが打ちどころが悪かった。任務外の戦闘で戦場に立てない体になった父は、女皇陛下の信頼を裏切る行為だと強く批判されてファデュイを辞めたのだ。
 私は父の行動を誇りに思っているし、外交官の仕事を斡旋してくださった女皇陛下も父に失望したわけではないと考えている。
 だけど多くの兵士達はそう考えない。目的のために手段を選ばない彼らは、ファデュイにとって有利となる案件を父の元へ非公式に持ち込んだ。そうして贖罪をしろと、ファデュイに貢献しろという態度を続ける彼らへの嫌悪感は募る一方だ。
「だいたい、お父さんもお父さんよ。女皇陛下のためファデュイに従うのは当然だなんて言って要求をのむんだから……」
 不遇に見舞われようと父は骨の髄まで戦士なのだ。彼らに甘い汁を啜らせるためではなく組織のため、女皇陛下のため、ひいてはそれがスネージナヤのためになると本気で思っているからいつまでも彼らの好きにさせる。ファデュイの駒であることを当然のように望んでいる。
 ざくざくと雪を踏みしめる足音ごと雪原は私の不満を吸い込んでいった。ヒュウと鳴る風さえも子どもじみた私の行動を笑う。馬鹿馬鹿しい、いい大人が腹を立てて供も連れずに果てのない雪の中を歩き回るなんて。
 冬の寒さに当たり散らすことしかできない自分が情けなかった。父にも不満はあるが、私が苛立つ理由は自分自身の失言のせいでもある。
 父が外交官としても成功できたのはファデュイとしての名声だけではない。この家は格式高い家柄で富に恵まれていた。だから父に取り入ろうとする輩は多く、喉から手が出るほど富と権力を欲している男達にとって一人娘の私は恰好の餌食だった。
 何かと理由をつけては食事や外出に誘われ、求婚される日々に嫌気が差していた。辟易とした私の口を衝いて出たのが「父のように強い戦士でなければ話にならない」という言葉だ。それからはファデュイの兵士が度々やってくる。
 よりにもよって、父を嘲る人間の筆頭に理由を与えてしまった。私が戦士で、執行官の座を手にすることができれば父の名誉を挽回することも私自身が侮られることもなかったのかもしれない。
 だけど私が武の道を進むには判断が遅すぎた。第二次性徴を終えて女らしく整えられてしまった肉体ではどれだけ鍛えても碌に筋肉がつかない。手のひらのタコばかりが増えていって、センスもないから諦めなさいと父には早々に見切りをつけられてしまった。せめて幼い頃から体を鍛えていれば最低限の体はできていると馬鹿な夢に縋ることもできたのに。
 綺麗な手のひらを見ながら溜息を吐く。こんなことを考えたってそれこそ仕方ない。空回りばかりしている自覚があるのならこんなところで燻らずにできることをすべきなのだ。冷え込んだ空気を肺に吸い込めば驚くほどあっさりと冷静になれた。
 怒りのまま長時間歩いていたし、寒さに慣れた体といえども大分冷えていた。本能が身体機能の維持を警告している。ただその本能に逆らうように呼吸という身体機能の一つが私の体温を外へと逃がした。家へ戻らなければ低体温症になってしまう。
 そうして身を翻した私の目に飛び込んできたのは自分の足跡ではなかった。
「──、─、──」
 目の前にいる得体の知れない何かが私に向かって吼えていた。いや、吼えたのかすらわからない奇怪な声だった。音もなく背後に現れたソレは一体いつから私に狙いを定めていたのだろうか。見たことのない、獣かも判断のつかない姿の何かが私を食らおうとしていることだけは間違いなく肌で感じ取れた。
 咄嗟にソレとは反対方向、家からさらに遠ざかる方角へ走り出す。助けを求めることがどれほど無意味かを知っていた。社会から隔絶された雪原で大声を張り上げて体力と気力を使うのは愚かな行為でしかない。目の前の獣を刺激することにも繋がる。それよりも逃げることに全力を投じるべきだ。逃げられるとは、思えないが。
 背後から私を追ってくる音はない。だけど今まで気づかなかったのだから追う音がするとは思わない。振り向かずにただひた走れ、体力が尽きても走り続けろ、生き残るにはそれしかない。
 脚が動かなくなって転んだときにようやく背後を見たが化物は変わらずそこにいた。立ち上がる猶予も隙もなく、とうとう死ぬ覚悟を決めた。つまらない最期だ、と他人事のように振り下ろされる爪を見る。
「今日の俺は運がいい、こんなところでアビスの魔獣と出くわすなんてね!」
 吹き付ける風のせいでどこから届いた声なのかはわからなかったが、私と獣以外のだれかの声がした。
 次の瞬間私を痺れが襲う。ソレに攻撃されたのかと思ったがどこも負傷していない。よく見れば脚へ絡みつく紫電があった。強さを増していく痺れに眉根を寄せる。
 おどろおどろしい猛り声が響き、弾かれるように顔を上げると獣が遠くで吼えていた。いつの間にあれほど遠くへ離れたのか。いいや、吹き飛ばされたのか。何者かに攻撃を受けた獣の両目が怒りで歪んでいる。
「あとで家まで送ってあげるから攻撃が飛んできたら自力で避けること、いいね」
 風を切って現れた背中から声をかけられる。そして彼は「そうこなくちゃ。久しぶりの獲物だ……楽しませてくれよ!」と言い放ち、駆けた。高揚が伝わる様子で命のやりとりを楽しんだ人物は、数分後その制圧した死骸の上から声をかけてきた。
「怪我はない?」
「だ、いじょうぶ、です」
「それは良かった。気を失わずにいてくれて助かるよ、吹雪のなか意識のない人間を運ぶのは大変だ。それにしてもこんな夜に出かけるのは褒められた行動じゃないね」
「すみません。家に居づらくて……」
「……まあ事情は聞かないでおこう。立てるかい? 手を貸すよ」
 差し伸べられた手は存外に華奢だった。なかなかの体躯をしていた獣相手にあれだけ圧倒的な存在感を放っていたにもかかわらず見た目の若さも私とさほど変わらない。もちろん服の下には膂力に適う肉体があるのだろうが、見たものを見たままにしか感じ取れない私の頭は軽く混乱していた。
 立ち上がった靴底に雪の固まる感覚が返ってきて生きた心地がする。ただ、化物への恐怖だけはとっくに消え去っていた。彼が宙を舞うたびに光の尾を引いていたものが何だったのかを私は良く知っている。外套に隠れてしまってもう確認できないがあれは女皇陛下に賜る邪眼の光だった。彼はファデュイの執行官だ。
 紫電は間違いなく彼の力だったのだろう。私の脚が動かないことを見抜いたうえで痛覚を刺激し、いざというときに動けるようにした結果が「攻撃は自力で避けろ」という指示だったのだとしたら恐れ入る。
「助けてくださってありがとうございます」
 間近に見上げた彼の顔は幼さが残っていた。感謝と尊敬を込めて心からの礼を口にすれば、彼も私の瞳をじっと見つめて礼を受け取った。
 彼はどうやら私の父に用があるらしく、現在邸宅にいるファデュイの人間達と同じ案件について話し合うためにここを訪れたと話した。任務を終えて真っ直ぐこちらへ向かったが任務地が離れていたため遅くなったとのことだった。
 隣で気分良く話をする男は『公子』タルタリヤと名乗った。

 家に着くと使用人の一人が「お嬢様こんな時間に男性を連れて来るなど……!」と声を荒らげ、外套を脱いだ彼が執行官であることに気づくとすぐに腰を深く折って謝罪を述べた。
 畏まらなくてもいいよ、と彼は笑い飛ばしたがこの屋敷でファデュイの執行官が無礼なもてなしを受けることなどあってはならない。彼らを父と並ぶ者だと思うからこそ、使用人達は彼に最上の敬意を示した。
「魔獣に襲われたところを助けてくださったの。公子様にあたたかい飲み物と食事を用意して差し上げて。何かご希望はありますか?」
「好き嫌いはないよ。……君も夕飯はまだなの?」
「私は先ほど済ませましたが……、外を歩きましたから、よろしければご一緒させてください」
「ハハッ、君がそうしたいならそうしようか」
 彼の笑い声が広間によく通る。どこで鍛えたのか知らないが、発声の心得がある役者のような話し声だ。戦場でも彼の指示はさぞ良く通ることだろうと考えていれば騒がしさに気づいたのか応接間から父と客人が出て来た。
 ファデュイの面々は彼を見て不快な顔を隠さない。部下ではなかったのかと考えてすぐに客人が別の執行官の名を口にしていたことを思い出す。執行官は現状十一人いる。彼らの口ぶりからして直属の部下ではないのだろう。では『公子』の案件ではないのだとすれば『公子』は何故我が家に、と疑問が芽生える。
 彼はと言うと無礼な態度を示す兵士にも笑顔を向けて「こんばんは、遅くなって申し訳ない」と声をかける。それに父が応じて彼の来訪を快く迎えるとともに、任務にあたったことによる女皇陛下への忠誠を労った。
 私が彼と共にいる理由を視線で尋ねられたため助けられたことを話せば父は感謝を重ねた。私には軽い叱責が飛んでくる。
「打ち合せはあとからでも構わないかな。お嬢さんに食事を薦められたんだ、体を動かしたあとだから空腹でね」
「もちろんです。すぐに準備させましょう」
「さて……食事が運ばれてくるまでに君達は話がどこまでまとまったか報告してくれ」
 場の空気を軽くする口調で切り出した彼をファデュイの兵士達の笑い声が包んだ。
「ご冗談を……公子様、我々は貴方の部下ではありません」
 屋敷の空調は万全だ。雪の中を歩いて来たからと暖炉の前に立つ私と彼はこの場のだれよりもあたたかな空気に包まれている。それなのに彼らの言葉にスウ、と空気が冷えた気がした。
 部外者の前で目下の者に侮られるという屈辱を執行官がどのような心境で受けているのか量ることができずに、私を含めた屋敷の人間全員が肝を冷やす。彼の気配は静かなものだった。外で魔獣と相対したときに放たれた殺気は漂ってこない。だけど私は隣に立つ男の顔を覗き見ることができない。
 奴らはやはり頭がおかしいらしい。彼と己の立場の違いも考えずに無駄な口ばかりがよく回るようだった。
「この件も我々が主導するとあらかじめ伝えておいたはず。それを突然やって来て、当然のように横槍を入れるとなると我々も困ってしまいますよ。それに」
「なんだって? よく聞こえなかったな……俺は報告しろと言ったんだ」
 執行官を軽んじる者に彼は冷たい威圧を浴びせた。
「命を擲ち上官に反意を唱えるその姿勢、俺は嫌いじゃないけどね……時間と場所は弁えるといい。この屋敷をお前達の血で染めると迷惑だ」
 彼が纏う空気をがらりと変えたのは一瞬だけだ。ただ、私の喉を一秒だけ締め上げたその殺気も、戦場を知る兵士にしてみれば心臓を握り潰されかねない衝撃だったのかもしれない。命のやりとりを初めて経験したかのように顔を真っ青にさせた兵士達は舌をもつれさせながら報告を始めた。

 食事を終えた彼は父と応接間にこもって話をした。ただの兵士ならともかく執行官が家にいるとなれば見送りに私も顔を出すべきだろう。家人の務めを果たすべくナイトウェアには着替えずに話が終わるのを待っていた。
 時計の針が真上を通過するまで話し合いは続いていた。豪雪が外壁を叩きつける音が睡魔を誘う。欠伸を噛み殺しながら暇つぶしに読んでいた本を捲っているとようやく使用人が私を呼びに来た。
「公子様がお嬢様とお話がしたいと応接間で待っていらっしゃいます」
「私と? ……わかったわ」
 なぜ名指しされたのか、どんな話があるのかわからずに首を傾げる。廊下に出て揺れるランプの光をいくつも通過する。歩き慣れた我が家の廊下が長くながく感じるのはどうしてだろうか。
 応接間へ到着してノックする。中へ入るとここにいるはずの兵士達の姿はなかった。父と『公子』だけが暖炉を囲むように置かれたソファに腰かけている。席に座るように促されて私も輪へ加わった。
「他の方々は?」
「彼らにはお帰りいただいた。礼儀を欠く客をもてなす準備は我が家にないからな」
 古巣に利用されるのは受け入れるが実力もない下級の兵士に侮られるのを許す人ではないのだ。執行官にすら反抗的となれば尚のことそうだろう。
 父の言葉に安堵する。顔も見たくないほど嫌気が差していたのだ。しかも真夜中だというのに吹雪の日に外へ放り出された不遇を考えると胸がすく思いがした。口元を抑えて笑いを噛み殺していれば彼も同意する。暖炉の炎に照らされた髪はさらに赤みを増して、長い脚を組み替える姿は様になった。
「力のない奴ほど力を誇示したがる、それも他者の力をだ。あそこの兵士はとくにその傾向が強いね」
「……公子様、お言葉ですがあまり執行官同士の対立を話題にするのはよろしくありません。我が家だから貴方に同情する者が多かったのです」
「いいんだよ、連携は必要でも連帯感は必要じゃない。執行官はスタンドプレイも多いからね。すべては女皇さまのためであればいい。他は冷酷に無慈悲に……それがファデュイだろ?」
 彼の言葉に父は沈黙を返す。父の反応を見て彼は笑った。
「意外だな、貴方も組織の体面を気にする側だったとは。俺は貴方とさぞ気が合っただろうと言われていてね、もう十年早く生まれて共に戦場を駆けていればファデュイの方針は塗り替えらえていたに違いないとまで言われたから、てっきり俺と同じように争いの火種を求めていたんだとばかり思っていたよ」
 父は肯定も否定もしなかった。父はたしかにファデュイの人間らしい人間だが、彼が言うほど冷酷ではない。民間人を庇って負傷するくらいの人なのだから。ただ父がファデュイでどのような評価を受けていたかを垣間見る。
 ファデュイの執行官にまで手が届かんとする父を見て育ったのだ、モンドの西風騎士団に聞く高潔さが人にとってかけがえのないものだなんて言わないし、ファデュイにそれを求めもしない。
 風に愛された自由の国と違ってこの冬国では苦痛や困難に打ち克つ強さこそ尊ばれる。それがたとえどんな犠牲の上に成り立つものであろうとも。だけど私は、実際のところ父の父親らしい姿しか知らないのだろう。
「公子様は父とお知り合いだったわけではないんですね」
「ああ、知り合いではないね。入隊した頃から彼の噂だけはよく聞いていたけど、当時子どもだった俺はまあ……色々と制限があってね。なかなか彼に会うことはできなかったし、任務が被ることもなかったから」
 執行官になる前も兵士として籍は置いていたはずだから父と顔を合わせたことくらいはあっただろうと思っていた。そんな私の疑問に公子様は丁寧に答える。子どもの頃、という単語が飛び出てきて耳を疑ったが彼はその点を深掘りする気はないらしい。
「俺が力をつけ始めた頃には貴方はもうファデュイを辞めていた。だから……この機に貴方と一度戦ってみたくてさ。ここへ来た一番の目的は手合わせだ、せっかく口実ができそうなんだから利用する手はないだろう?」
 不敵な笑みを浮かべる彼の姿にぞっと背筋が冷えた。彼が父に向けた視線は外で魔獣を捉えていたときのものと寸分の狂いもない。父は視線をいなして呆れたように息を吐く。
「執行官ではない私となら戦うことも許されるとお考えですか。いくらファデュイでの兵役経験があるとは言え、民間人相手に剣を向けるのは問題でしょう。……それに私がもはや戦えない身だということはすでにご存じのはず」
「女皇陛下が貴方に与えた邪眼はそのままだ。貴方があれを返上しようとしたとき、女皇陛下は国のためにそれを振るえと仰ったそうだね。……つまり戦場には立てなくとも貴方は邪眼を使って戦うことができる、違うかな?」
 先行きの怪しくなった空気に心臓の鼓動が煩くなる。ファデュイについての話に戦場の話。二人の会話を黙って見守る私はどこからどう見ても部外者でしかない。
 何故この場に呼ばれたのか疑問に思いながらも何も聞けないまま様子を窺っていれば、父が息を吐き彼はにこやかにほほ笑んだ。
「明日までご滞在ください、スケジュールに少し調整が必要です。昼頃なら時間が取れます」
「そうこなくちゃ」
「邪眼の使用は少なからず身体への負担があります。私はもちろん、貴方にも。任務に支障が出ては困るでしょう」
「心配ないよ、限度は心得てる。ああそうだ……俺が勝ったら、彼女にプロポーズすることを許してもらいたい」
「……はい?」
 急に振られた話題、それも予想しないもので思わず真顔で聞き返してしまった。驚いたのは父も同じようで目を丸くして彼を見ている。
「話が飛躍していてよくわかりません。一体どうしてそんな考えになったんですか」
「娘を見初めたと?」
「まあそんなところかな」
 混乱する私を差し置いて父が切り込む。彼はその問いを肯定した。
「今日初めて会ったけど感心したよ、彼女は戦場慣れしていない割に危険への対処能力があるし、生き延びる力もある」
「……それが理由ですか?」
「そうだねあとは……貴方の娘で、俺が今後ここへ通う理由も作れる。もう一つ理由があるにはあるけど……これは彼女との秘密にしておこう」
 父はこれまで言い寄ってくる男達に無関心だった。父並に強い戦士でなければ、と私がつけた条件は父にとってファデュイの一兵卒には適用されなかったのだ。だが執行官という実力者が名乗りを上げたので父は窺うような目を初めて向けてくる。
 彼の言い分はたいして他の男達と変わらない。違いがあるとすれば自分のために私を利用すると公言しているくらいのものだ。魔獣から救った命の恩人というアドバンテージがあることが有利にはたらくと考えた可能性はある。
 だが彼の立場を考えれば、私を引き合いに出さなくても父との手合わせは今後も継続できるはずだ。だとすれば一番の理由は伏せられた三つ目かもしれない。それが一体何なのかが気にならないと言えば嘘になる。
 退官した父と現役の執行官では勝敗の結果など戦わずとも決まっているようなものだろう。しばらく悩んだが、彼に抱いた印象は少なからず他の男達よりもいいものだった。私を利用するが、私の尊厳を踏みにじろうとしていない点も好感が持てた。
「まずは婚約する、というお話でしたらお引き受けします」
「ハハ、その返答も気に入ったよ。まあどうなるかは明日次第だ。俺が君のお父さんに勝ったら、その時はよろしく頼むよ」
 執行官と婚約すれば今のように辟易とした日々を送らずとも済む。結果的にはそんな打算から申し出を受けることにすれば、彼は負けるとは微塵も思っていない顔で訂正した。
 父がファデュイを辞めたとき私はまだ世間知らずの子どもだった。父が戦場でどのように戦うのかも知らない。だけど、怪我はともかくかつての父の威光も彼には到底敵わないだろうという気がした。


 戦士の戦い方というのはこれほどのものだったのかと舌を巻きながら二人が戦う様子を眺めた。昨夜の戦いは力に任せた一方的な蹂躙だった。素人同然の私でさえそう感じるほど彼は父相手にあらゆる策を張り巡らせていた。
 父も負けてはいなかった。退官する必要がどこにあったのかも私にはわからない。父の衰えを感じさせない動きは彼を喜ばせたようで、離れている場所に届くほど高らかな興奮の声が上がっている。どこか血に塗れた狂気さえ感じさせる彼の様子に昨夜感じた得体の知れない感覚を掴んだ気がした。
 執事に尋ねたところ『公子』の戦績は素晴らしく、それだけでも他の執行官に引けを取らないらしい。近い将来には戦績だけで彼らをゆうに超すとまで言われている。執行官の序列は実力によって数字が決まるわけではない。つまり彼は執行官になって最も日の浅い者でありながら凄まじい勢いで女皇陛下に勝利を捧げているのだ。
 なんでも争いに固執し常に強者を求めているのだとか。執行官の地位は彼が得るべくして得るものだったということなのだろう。執事の話を聞きながら私は気が重くなった。彼が私にプロポーズをしたいなどと言い出した理由に思い当たるものがない。私よりも父にプロポーズすべきなのではないかと思ってしまうくらいには、彼は父と戦っている現状が一番楽しそうだ。
 父を制圧した彼がこちらに向かって手を振る。まるで長年親しんだ友のように、昔から結婚の約束をしていた男女かのように、彼が私を見る顔はやわらかい。これから私は、強くて地位があり友好的だけど私を愛してはいない、知らない男と婚約してしまう。そんなおそろしい未来を架空の物語を読むような心境で待っていた。



 来月から璃月で長期任務に就くんだ。君もおいでよ。
 彼にそう言われたのは婚約して一か月後、会うのは四度目のことだった。私を気に入ったという言葉に嘘偽りはなかったらしく彼は殊のほか私を構いにやって来る。父に戦いを申し込むために来たのだと思ったがそんな素振りはなく、私との親睦を深めようとしていた。
 何を考えているのかわからない、と考えていたところでまた謎めいた提案をされた。唐突すぎる話題に驚くどころか首を傾げることしかできない。
「璃月に……?」
「そう。璃月は食べ物が美味しいらしいよ。璃月港は物流が盛んなことでも有名だっけ。岩の神が治める国は俺達の知らないような物や人で溢れているかもしれないね」
「仕事があります。それに私が同行していいものなんですか?」
「君の仕事はあちらでもできると執事に聞いているよ。……というより、実はもう半分くらい手配が済んでる」
 彼が落とした衝撃的な事実に愕然としていれば、何が愉快だったのか彼は声を立てて盛大に笑った。いつも以上に幼い顔立ちを見せる彼は、勝手に事を進めたことを口先では立派に謝罪した。
「君の意思を聞かなくてごめんね。任務地が璃月になったのは結構前だし、実は初めて会ったときにはもう連れて行くつもりだったんだ。初めからそう言えば君はすべて拒否するだろうと思ったからさ」
「当然です。……まさか三つ目の理由≠ヘそれですか?」
「どうかな」
 では三つ目の理由とは何なのだろうか。彼は私との秘密だと言っていた。私に話す気があるのなら勿体ぶらずに教えてほしい。
 彼から話すのを待っていたけれどまだ話すつもりはないのか、彼はにっこりと笑みを深めて太陽が浮いた空を見上げる。
「あれは人助けだよ。困っていただろう? 初めて会った日、君は兵士達を見てかなりすごい顔をしていたよ。婚約者に名乗りを上げる輩が殺到してるという話は俺も聞いていたし、俺にとっても連れて行く口実ができて都合が良かったからね」
 あの日、応接間では口にされなかった言葉を聞いて今度こそ驚いた。
 彼の言う通り、私は地位と名誉のためだけに言い寄ってくる男達に辟易としていた。結果的に彼を選びこそしたが私が跳ねのける可能性はあった。男除けのためにと言えば彼の勝算は上がったはずなのに、彼はあくまで前向きなことしか話さなかったのか。
 璃月に同行しなければならないとあらかじめ知っていればもちろん断ったが、彼はその点を除けば私に選択肢を与えていたのだ。
 本当にわからない人だなと無茶苦茶な彼のやり方を改めて評価していれば複雑な私の心境を察してか彼は少しだけ肩を竦める。強引な自覚はあるらしい。
「聞いてもいいですか」
「ん?」
「私を璃月へ連れていく目的は?」
 私は特殊な訓練を積んだ軍人でなければ、彼の役に立つような業種に就いているわけでもない。『公子』は女皇陛下の命令で璃月に行く。私の同行が任務の達成具合を左右するとは思えなかった。
 正直な考えを話せば彼は少しだけ考え込む。そして興味深いと言いたげに「やっぱり無自覚なんだ」とつぶやいてにんまりと笑った。
「魔獣を倒す俺を見て君はどう思った?」
「えっそれは……すごい方だな、と。もちろん感謝しました、公子様が来てくださらなければ私はあそこで死んでいたでしょうから」
「違うだろ? 君は俺に傅きたくなったはずだ。君は歓喜していた。俺という強者に出会い、助けられたことに」
「な、なに……を」
「目は口ほどにものを言うんだよ。君は会ったことのない敬愛すべき女皇陛下よりも俺を仕えるべき主だと認めたんだ」
 自信に満ちた物言いで断言する彼に動揺する。どうして私の気持ちを貴方が決めつけるのかと反論したくなったが、圧をかけられたかのように体が重く、口を開くことができない。
 だが実際彼が圧をかけているかどうかは関係なかった。私は彼の言葉を否定できなかったのだ。あの日の記憶は、襲ってくる魔獣よりもそれを圧倒する彼の鮮烈さの方が際立っていた。魔獣への恐怖は彼ですべて塗り替えられてしまっていることに気づき心臓が早鐘を打つ。
 彼は饒舌に話を続ける。
「俺には野望がある、いつか世界を征服して神の王座を踏みつけるのさ……! 頂点からの景色を君にも見せてあげるよ。……ああ、言っておくけど女皇様への反意があるわけじゃない。俺はスネージナヤのために最良の道を選ぶし女皇様のことも戦士として尊敬している。そのためにファデュイの執行官『公子』としての務めは果たすつもりだ──だが、俺の本能は常に闘争を求めてる。神々を巻き込んだ戦いの末に、俺は勝者としてすべての生き物が見上げる先に立つよ」
「なんてことを──」
「へえ……俺を否定するのかな? でも君は想像したはずだ、今、俺がそこに立っている姿を。その姿を望まないと言えるか?」
 度の過ぎた望みに絶句していれば彼は否定することを許さないとでも言いたげに畳みかける。たしかに想像はした。彼が世界を手中に収められるかはさておき、世界に君臨する彼の姿は魅力的だ。
 自分でも理解に苦しむ。恩知らずで薄情にも、過ぎたことだから言えるが命を救われた、たかがそれだけだ。あの一瞬だけでどうして彼に抗えなくなるのか。私は兵士ではなく、強さに固執しているわけでもそれに絶大な信頼を置いているわけでもないのに。
 自分の心がわからなかった。わかっているのは彼を否定する言葉が一つも浮かばないということだけだ。だからこそ焦燥にかられる。女皇陛下に対する背信だという自責の念に苛まれる。
「……信仰はそう簡単に移ろうものではありません」
 苦し紛れの言葉にしか聞こえないものになってしまったが彼は満足そうだ。まるで理性ある獣だ、そんな言葉が脳裏を過ぎる。
「君たち親子の女皇様への忠誠心は本物だ、だからこそ君が俺に向けた尊敬は好ましい。俺は君の期待に応えるよ、まずは璃月でそれを見ているといい」
 私に顔を近づけて、瞳を覗き込む彼の表情はあの雪の日のように美しかった。
 では彼が初めから私に対して友好的だったのは、彼の中で私が己の世界の一つになっていたからとでも言いたいのだろうか。いつか世界を征服した暁には、同じ世界の見下ろし方を私に教えてくれると、婚約とはそういった意味なのだろうか。
 考えるほどに喉を締め上げるような息苦しさが増す。体の奥で震えた心臓には気づかなかったふりをして私は目を伏せた。
 彼の言うことが真実か、真実ならばそれを受け入れられるのか。私自身のためにこの旅で答えを見つけられることを願うしかなかった。

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