桃花に紅 肆

 ある日の朝のこと、鍾離はいつものように起床しての到着を待ってから璃月港へ赴いた。準備は十全に整えた。残るは女の魂を呪う魔神の怨嗟を辿るのみである。これが存外に難しかった。
 何せ魔神はとうに死んでいる。魔神の怨嗟には妖魔を生むほどの力が宿るが、どれだけ強い力だとしても形を成さないことには捕らえられない。また過去には魔神戦争を制し、一度は神の座にまで上り詰めた岩王帝君は民を守るための仙力をいくつも身に着けている。鍾離が傍にいれば怨嗟が鳴りを潜めたままであるため、距離を取り呪いの影響が出るのを待つ必要があったのだ。
 そうして白む空を眺め、瑠璃月港で朝市の支度を始める商人が増えた頃に鍾離は家へと戻った。陽の気が高まる時間帯は陰の力も弱まる。から何も連絡がなかったことを考えるに今日もおだやかな一日を過ごすことになりそうだ。家路を急ぎ、鍾離の気配を察知して庭先へ出てきたと世間話をしていると女が起きる気配がした。衣ずれの音、寝具の軋みを聞いてはそろそろ暇すると申し出る。
 だが音はすぐ止んだ。二度寝に入ったらしい女には少々呆れたが尊敬する人物を前におくびにも顔に出さない。が姿を消すと鍾離は苦笑いしながら寝室へと向かった。
 女は朝が苦手というわけではない。昨夜は普段より早めに床に就いており、とくに疲れた様子もなかった。風邪の兆候もなかったためきっと寝ぼけているか気分が怠けているのだろう。珍しい行動に二度寝を許してやりたい気持ちはあったが、寝すぎるのも体に良くないものだ。鍾離は女を起こそうと寝室のドアを開ける。
 だが鍾離の予想を裏切って女は起きていた。寝具から抜け出してはいないが上体を起こしている。どこか呆然としている女に鍾離は疑問を覚えたものの、おはようと気持ちの良い朝を分けるように爽やかな声をかけた。鍾離に気づいた女は「え、あ、ああ……」と気の抜けた反応を返す。妙な様子に鍾離は女の顔を覗き込む。
「どうした、悪い夢でも見たのか」
「そうではなくて、いや変な夢は、見たんですけど……そうじゃなくて……」
 脚が、動かないんです。
 女の発した言葉に鍾離は眉をひそめた。
「脚が動かない……? 痺れているのか?」
「ええと……その……なんて言えばいいのか私もわからなくて……」
「痛みがあるのか」
「いや、うーん……石になった、みたいな感じ……? ええ……?」
 戸惑い続けているが鍾離の会話に応じる声には次第と冷静さが戻っていく。それでも言葉が見つからないということは説明が不可能なほどには未知の体験なのだろう。鍾離の指先がピクリと動く。今一つ要領を得ない事態だが良くないことが起こっていることだけは間違いない。
 布団を捲り、投げ出されている女の脚を見下ろした。肌は健康的な色合いをしていて一見どこにも異常はない。
「触れてもいいだろうか」
「はい」
「……ふむ。体温はあるな、血の巡りもいい。屈伸もできるから筋肉が硬直している様子でもなさそうだが……何か異常はあるか?」
「何も……痛くもありませんし」
 どこからどう見ても正常そのものである脚を見ても鍾離の悪い予感は消えない。頭の奥で警鐘が鳴る。頭痛を引き起こしそうなほどけたたましい音に顔をしかめながら鍾離は手袋を外して再び女の脚に触れる。
 鍾離は常時手袋をしている上に就寝時以外では肌の露出自体が少ない。二人の間にある距離は友人に留まらないものの恋人ではないため素肌で触れ合うことなどなかった。気恥ずかしさに襲われる女が何か別のことを考えて意識を逸らそうとしたとき、ふと触れられた箇所に違和感を覚えた。鍾離に触れられているというのに、肌はその質感も温度も伝えてはこなかった。
「し、鍾離さん……感覚がない、かも」
 なんだと、と鍾離が怪訝な顔をする。感覚がなくなっているという明らかな異常事態にすぐ気づかないことなどあるだろうか。女自身も自らを疑わしくは感じたが、『感覚がない』というのは『妙な感覚がある』ことよりもよほどわかりづらいものだ。脳の知覚は感覚そのものが存在してこそ成立するものである。
 女の発言に一瞬だけ思考を止めた鍾離だったが、即座に切り替えてどこから感覚が失せているのかを足先から順に触れていくことで確認し始めた。脛から膝、指の腹で腿を押しても女は首を横に振る。上半身に近づくほど戸惑いを見せ始める女が不安を紛らわすようにぎゅっと鍾離の裾を掴む。
 女が感覚を認めたのはへそ辺りからだった。鍾離の体温も感じないと言う。石になったようだとは言い得て妙だった。体の約半分以上の感覚がしない状態がまるで宙を漂っているかのような浮遊感を女に錯覚させる。
「動かすぞ」
 何をと女が問う間もなく鍾離は女の脇に手を入れてその体を持ち上げた。寝具に腰掛けた自分の膝の上に持ち上げた女を乗せると、険しい顔をして女の半身を睨みつける。鍾離の瞳が淡くきらめいたことに気づき、また何かを見ているのだと女は黙って様子を見守った。
「……呪いの影響か」
「呪いの?」
「体を失った魔神から意識は消える。千年以上を経ても呪いを残し続けるほど強い魔神だったんだろうが、時の力を前にしては殺すために苦しめるという複雑な思考を残せなかったんだろう」
「……でも魔神の残滓は私を殺そうとしているんですよね。どうして脚が動かなくなるんだろう……」
 不思議そうにしているだけの女と違い、鍾離は深刻な表情をしたまま黙り込む。往生堂で女の魂が揺らいだときのことを思い出していた。あのとき胡桃は女を生者と定義するべく、手を繋ぎ生者である自分自身との物理的繋がりを持つことで対処した。
 魂が体に引きずられるように、体もまた魂に引きずられるのだ。生を動、死を静と表現するとすれば女の半身はまさしく死んでいた。
 鍾離はこの事実を女に伝えはしなかった。女の身に降りかかる死の予感が鍾離を躊躇わせる。言葉にすることでより死の到来を早めてしまうのではないかという恐怖を煽られた。暗い表情を取り繕うことは容易だった。鍾離は女をこれ以上不安にさせないよう努めて精霊な声で声をかける。
「一夜で動かなくなったのは気になるが、腰で留まったなら日中すぐに悪化することはないだろう。まだ手の打ちようはある。往生堂へ行って、胡桃の見解を聞くことにしよう」

 荒い足音をさせて往生堂へやって来た鍾離は「堂主はいるか」と硬い声を張りながら少女の姿を探した。普段の鍾離を思えば随分と冷静さを欠いた姿に従業員達は何事かと緊張を走らせる。
「ただいま外出中です。どうかなさったんですか……?」
「堂主の力を借りたい。居場所はわかるだろうか」
「わかりません。午後には戻るかと思いますが」
 鍾離に抱えられた女は視線を彷徨わせて従業員と鍾離の顔を見比べた。往生堂の者はそれを見て女にかかわる重大な何かが起こったに違いないと察する。堂主の胡桃が鍾離に乞われて女を気にかけて出かけていることは周知の事実だ。理由までは明らかにされていないが、胡桃が協力している事柄と言えばおのずと絞られる。
 生と死の領域にまつわること。女は身の安全が脅かされているのではないかと従業員達は理解した。
 往生堂は夜の葬儀に向けての準備中だったが、それでも数人割いて堂主を探そうかと年長者が鍾離に提案した。死者と生者を秤にかけて送別を蔑ろにしたわけではなく、どちらも選んだのだ。胡桃がこの場にいたならば生者を死者から切り離すための儀式を行うと言って従業員を二分したに違いない。
 だが鍾離は申し出を断った。一刻の猶予も残されていないかもしれない状況、そして胡桃の所在が知れない時点で成すべきことは決まっていた。
 鍾離は往生堂をあとにし、人の寄り付かない山間に向かった。人の子では到底不可能な壁立千仞の崖を鍾離は軽々と登る。健脚では説明がつかない跳躍を目の当たりにし、さらには脳を揺らされたことによる眩暈で女は鍾離の人間離れした身体能力を嫌というほど実感した。
 崖下に降り立った鍾離は顔から血の気が引いている女を見て慌てたが、鍾離の移動に凡人の体はついていけないのだと知ると実に気まずい顔をして謝った。
 吹きすさぶ上空と違い、窪地には肌を撫でるような穏やかな風が流れていた。周囲には模様が刻まれた石碑が点在し、窪地の中央には模様が刻まれた円形の踏石もある。だが古い遺跡は大半が欠け落ちて風化し、所どころ割れた部分からは草が青々と茂っていた。手入れの行き届いていない遺跡であるにもかかわらず女が遺跡を美しいと感じたのはそこら中を舞う大量の岩晶蝶によるものだろうか。
 遺跡に唯一異質な点を挙げるとすれば鍾離が仙術のために揃えた道具一式が遺跡中央に鎮座していることだった。荘厳な装飾の道具は佇まいだけでも長い歴史を感じさせる代物である。見事な道具は綻びた石の建造物からは当然のごとく浮いていた。
 あれは一体何だろうか。女が疑問に思いながら道具を眺めていると鍾離の背後にが現れた。
「鍾離様、指示通り準備は整えました。いつでも始められます」
 が抱きかかえられたままの女を一瞥すると鍾離が「彼女を降ろすことはできない。片手は塞がる」と口にする。は厳粛な顔で応じる。
「妖魔を滅するのに鍾離様のお手を煩わせるわけにはいきません。それが我に課せられた務めです」
 の言葉に鍾離は短く息を吐く。璃月を守るために目の前の夜叉と契約したのは数千年前のことだ。女の件では妖魔の気配を辿り葬ることに長けたの助力を得るだけのつもりだったが、が契約内のことだと主張するのであれば鍾離も無下にできない。
 仁義を示すと公平であるべく鍾離は一つ提案した。
「……降魔大聖、一時的な処置に過ぎないがひと薙ぎごとにお前の体を蝕む痛みは俺が請け負おう。仙衆夜叉として結んだ契約を再び果たすといい」
 鍾離の言葉には目を見開き、畏まって額を鍾離が掲げた腕の前に差し出した。の額にある菱形の文様に手を翳すと、鍾離の指先がわずかに揺れ、光が与えられた。は一度鍾離の顔をじっと見据えて深く頭を垂れた。
 命のやりとりが行われるのだということを女もとうに感じ取っていた。女を降ろす気はないと言った鍾離に意見する気はなく、女は邪魔にならない程度に鍾離の肩に回した腕に力を込めた。鍾離は女に心配はいらないと声をかけると道具の脇に立ち、呪文を唱え始めた。
 岩晶蝶が消え、風が止む。禍々しい気配が足下から這い寄ってくるのを女は確かに感じた。不快感と恐怖から鍾離の首にしがみつくと、女を安心させるように抱える腕に力がこもる。
 鍾離の左手に岩の結晶が形成され、道具の周囲を飛んだ。金色が窪地をほの明るく照らす。女が顔をゆっくりと持ち上げてそれを眺めていると離れた位置で槍を構えていると目が合った。水に濡れた瞳に女を収めては静かに微笑んでいた。
「靖妖儺舞」
 光が弾けて消える。女には大地から薄い黒布が飛び出したように映った。薄布の出現と同時にの顔を仮面が覆う。次いで掲げた槍先の方向にの姿も消えた。
 風が駆けていた。が迎撃を繰り返していることだけ女は理解する。薄布は千々になり焦げて地面の上で灰となる。そして他の布を裁つ風によって空気に溶けて消えた。暗雲を晴らすかのような光景だった。
 風を捉えつつ忙しなく視線を動かしている鍾離が一際険しい表情を作った。ぐ、と眉間の皺を深くして「掴まっていろ」と女へ端的に言うと膝を軽く曲げる。ドッ、と重い音が響いたかと思えば二人は宙を闊歩していた。地面から岩の柱を押し出した勢いで空を飛んでいるのだと女は予測したが、状況を把握できたとは言えども鍾離ほど冷静ではいられない。
 鍾離と共に過ごす日々の中で、鍾離の非凡さを感じることはそれなりにあった。乖離した金銭感覚や達観した物事の捉え方、深い造詣。時には凡人らしさを気がける鍾離の振る舞いこそが可笑しく感じたこともある。ただそれらは他人と少しずれているという程度の認識に留まる物事だ。
 人智を超える業を次々と見せる鍾離を見ていれば、女が非凡だと思っていた一面は鍾離が凡人らしく振る舞えていたことの証明でしかなかったのだ。宙に投げ出されてゆうに十秒は経っている。だというのに落下する気配はなく片腕だけで支えられた体は安定していた。空を飛ぶ鳥と言うよりは見えない足場の上に立つかのように鍾離は空にいる。
 女は信じられない思いのまま鍾離を見つめていた。たなびく髪は璃月特産の石珀のごとく輝き、瞳は神々しくきらめいている。空から地上を見下ろす鍾離の横顔は四千年の歴史を率いた事実に相応しく武と理知に溢れている。ここに在るのは母国の雷電将軍と同じく神の座に座る者、岩王帝君そのものだった。
 地上でが高く跳び大地に己が身を突き刺した。すると倍以上もの槍が岩石を抉り顔を見せる。岩の柱を伝い鍾離を捕らえようとするものをが槍先に巻き取るとそれは抵抗する間もなく霧散していった。
 辺りを覆っていた夥しい数の薄布は一片も残らず場は静寂に包まれた。ゆっくりと降下していく鍾離がに問う。
「普段もこの程度か?」
「いつもより手応えはありません。璃月を狙う魔神の怨嗟も時を経るごとに弱まりますが、あれらは集まると強大な影響を及ぼします。それを考えると魔神の魂を依り代にしている残滓がこれほど弱いというのは些か……」
「これは千年しか時を経ていない。岩の二千、彼岸の千だそうだ」
「ではまだ余力を残しているでしょう」
 の予想に同意した鍾離は地面を睨みつけた。、と声をかけるとが鍾離の意図を汲み素早く距離を取る。
 天道、ここにあり。
 鍾離の言葉と共に辺り一面が暗くなった。空に閃光が走り女は鍾離の背後を見る。雲を割る光の中心に巨大な天体がある。星と呼ぶには複雑に形を成す多面体だが、その表面はたしかに岩を想起させた。岩王帝君は岩の神である。これほどまでに規模の大きな岩創造物を生み出せるものなのかと、女は恐れよりもまず神の偉業を目の当たりにした感動で満たされた。
 轟音を響かせて地表に迫るそれを女は最後まで見届けた。衝突による熱と烈風が女を襲うが、間近で隕石が落ちたにもかかわらず女は無傷だった。女が不思議に思って周囲をよく見ると女を守るように黄金の紗が漂っている。
「鍾離さん、これ……」
「どうやら地上にいなければあちらの攻撃が届かない。攻撃が届かなければあちらも身を潜めたままだろう。お前は身を守る術を持たないからな」
 自らが攻撃を防ぐ際は玉璋を全方位にひと巻き展開すれば十分だが、戦えない女は玉璋の隙間を突いて襲いかかる攻撃に対応できない。そのため衣服のようなシールドで鍾離は女を守っていた。いつしか巨龍を作ったこともある鍾離の器用さあってこそ成せる芸当だ。
 鍾離の言葉通り、石化した地表がひび割れ、厚い岩が完全に破壊されると同時に黒い物体が噴き出した。薄布だったときとは比較できないほど濃い煙とも液体とも呼べないものが二人に襲い掛かる。
 鍾離は攻撃をいなし続けた。いなされた攻撃の大半は再び二人を襲うべく進路を変えようとしたその直前でに薙ぎ払われる。の手を逃れた攻撃が戻ってくると鍾離はそれを迎撃した。
 地にいくつもの岩の槍が降る。風がそれを粉砕して再び浴びせる。目まぐるしく変わる戦場の景色を女はもはや視界に収めることすら叶わない。時折間近にやってきた黒い怨嗟の塊が女の生を呪う声がすると、芯まで冷えるような鍾離の怒りを間近で浴びることになる。それの繰り返しだ。
 攻防はしばらく続いた。鍾離やにとってたった数時間の戦など、魔神と熾烈な争いを繰り広げた数千年や大陸中に湧き続ける妖魔を退治した時間に比べれば易いものだ。だが仙人は人の住む場所を妖魔から守ることはできても人をそれ以外の病や怪我から守る術を持たない。女の脚からそれが這い上がってくることに鍾離は直前まで気づかなかった。
「鍾離様……!」
 何が起こったのか女にはわからなかった。鍾離が女の名を呼び何かしようとした刹那、死角から飛んできた攻撃によって鍾離の左腕が飛んだ。
 重い腕はたいして宙を舞うことなく、ぼとりと肉の塊が落ちる重々しい音だけを響かせて足下に転がった。上腕の中ほどから先が綺麗に切り落とされた鍾離の顔が苦痛に滲む。おぞましい量の血が切断口から落ちていくのを見て女は悲鳴を上げた。反対側の腕で抱き上げられている女は断面こそ確認できないが尋常ではない出血を見れば当然の反応と言える。
 女の脚はすでに魔神の残滓が好きにできる領分だった。そこから湧き上がる黒いものが女の心臓に延びかけていた。鍾離は残滓の動きに気づき左手でそれを払おうとしたのだ。誘い込まれたように残滓に手を伸ばした鍾離の腕を、別方向からの攻撃が狙ったのだった。
 涼しい顔をしていた鍾離の変化に女はわななく。目に涙を溜めてひたすらに鍾離の名を呼ぶことしかできない。呼吸が浅くなる鍾離を見て血を流していないはずの女が青白くなっていく。
「鍾離さん、しょ……しょうりさ、だめ、だめ……!」
「大丈夫だ、俺は、それより怪我はないな」
 形容できない恐怖で平静さを失っている女と違い鍾離は冷静だった。離れた場所でこの瞬間を待っていたとばかりに地面から噴き出た黒い物体が集まり、膨れ上がっていく。内側で爆発でも起こっているかのように膨れては萎み膨れては萎む。ほんの二、三秒程度の時間だ。奇形は瞬きのうちに刃のような鋭い形へと変化し、鍾離に向かって真っすぐ伸びてきた。
 だが鍾離こそこの瞬間を待っていた。鍾離の目前に、攻撃を阻むように岩柱が生成される。次いでその両脇に二本、さらに先へ二本。攻撃は鍾離への最短距離を奪われ方向を変えようとするが岩柱が黒い塊を囲みきる方が早かった。巨大な柱同士が共鳴し、黒い塊を打つ。数秒後、魔神の残滓は完全に消滅していた。
 長い息を吐いてその光景を見つめていた鍾離の元へが駆けてくる。女ほどではないがの顔色も決して良いものではなかった。
「鍾離様、」
「問題ない。腕を持って来てくれるか」
 はすぐ近くに落ちていた腕を言われた通りに拾う。鍾離は女に「悪いが右手を空けたい」と言ってゆっくりと抱えていた女を地面に下ろした。だが女は立つこともままならなかった。鍾離は苦笑し、女が倒れてしまわないように共に腰を下ろす。
 鍾離は空いた手で左腕を受け取り塵を払った。そしてあろうことか、切り落とされた腕を何事もなかったかのように切断面に合わせる。継ぎ合わせるように鍾離が指先で切断部分をなぞると小さな石珀が肌を覆っていく。そして石珀は肌の上で溶けたように消え、傷すら見えない状態の腕に仕上がっていた。
 左手で拳を作り、開く。鍾離は落とされたはずの腕を元に戻したあと問題なく動くかを確認した。多少の錯乱を残しつつも人智を超えた術を見せられた女は、今度はまた違った意味で思考を止めざるを得なかった。
「うで」
「ああ、治ったぞ」
「治ったって、そんな、えっ?」
「これくらいなら問題ない。俺は人間じゃないからな」
 神を辞めて凡人になったって言ったじゃない。
 今更すぎる言葉が女の頭に浮かぶ。起床した段階で理解の範疇を超えてはいたが、かろうじて処理できていたことすらもはや女にはわからなくなっていた。右を左だと言われ、足を手だと言われれば今ならそうかと納得するだろう。
 かつての女であれば鍾離の成すこと一つひとつに驚くこともなかっただろう。長い時を共に生き、同じものを見ることができる唯一の存在だった。だからこそ互いを理解できなくなってしまったことは一抹の寂しさを感じさせる。だが構わないと鍾離は心に決めた。鍾離のために涙を流した女をもう二度と失わないよう力いっぱいに抱き締めて息をした。



 すべてに片が付き、魔神の残滓が呪った魂は次第と人間の体に馴染んでいった。生と死の境界を保つ往生堂、生者と死者を見る力がだれよりも優れているそこの堂主が判を押したとなればこれ以上憂うことはない。
 女が生者として存在を確立する様子を喜びながら、それにしても不思議な状態だったと胡桃はしみじみ口にする。普通であれば陰陽どちらかに偏り、不安定な状態が続くもの。だからこそ往生堂で初めて女と顔を合わせたとき、胡桃は女が生者を死者の世界へと巻き込まないように細心の注意を払い、女自身にも釘を刺したのだ。だが胡桃の心配した事件は一つも起こらなかった。
 鍾離は胡桃の言葉を聞いてある仮説を立てていた。女の前世は魔神である。怨嗟だけで妖魔を生む強大な力は当然生前の女も手にしていた。女は、魂に残った力で陰陽の均衡を保つことに全霊をかけたのではないだろうかと。
 胡桃の言葉通りであれば、非力な人間の体は魔神の魂が持つ陰の気に敵わずその均衡は魂に傾くはずだった。だが女は声に促されるまで稲妻で平和な日常に身を置いていた。海を越え鍾離と出会っていなければいずれ一人であの光景を見ることになっただろうが、本来ならば生まれ落ちた瞬間に残滓に食われていてもおかしくはないところを少なからず大人になるまでは平穏無事に過ごせていたのだ。
 陰陽を保てず、鍾離との約束を果たせない時が迫っていた。女の魂はそれを察して、鍾離を頼るように女の意識へ介入したのかもしれない。
 そうだとすれば、璃月にやって来てしばらくは魂に魔神だった頃の意識が残っていたことになる。呪いが消えてしまった今はもはや跡形もなく消し飛んでしまっただろうが、鍾離はかつて愛した女と言葉を交わせたかもしれない機会をみすみす逃したことが無念でならなかった。せめて一言、謝罪がしたかったのだ。
 鍾離は何故女が魂に呪いを受けたのかを察していた。敗した魔神ごときに易々と呪わせるほど甘い魔神ではなかった。岩の魔神モラクスと共に戦場を駆けた存在なのだ。若蛇龍王とはまた違った形で鍾離は女を友と認めていた。強かだったはずの魔神が呪われ、愛する者と最期を過ごさなかった理由などたった一つだ。
 稲妻人らしい造りの顔を眺めて感傷に浸る。傍で過ごすほど面差しが似てくるように思うのは鍾離の願望か知れないが、姿かたちを変えても湧いてくる愛しさは同じだ。似ても似つかない色をした瞳が振り返るのを、気が遠くなるような時の中で鍾離は見つめていた。
「これとこれ、どっちがいいですか鍾離さん……鍾離さん?」
「あ、ああどうした?」
 むっと口を尖らせて女が鍾離の顔を覗き込む。肩に反物を二つ、腕に一つかけられた女は鍾離の心ここに在らずといった反応にさらに不機嫌を露わにした。
「考え事ですか、自分が連れて来ておいて……」
「す……すまない」
「鍾離さんがどうしても一から仕立てるって言って聞かないから選んでるんですよ。わかってますか?」
「……悪かった……」
 女の剣幕に言葉を詰まらせる鍾離は、非があったことを素直に受け入れてもう一度謝った。店主はまあまあと言って女を宥めすかし、鍾離の機嫌を損ねないように「きっとご納得いただける柄ではなかったのでしょう」と耳障りのいい言葉を並べる。
 花嫁衣裳を仕立てたいから店にある反物をすべて見せてほしい。来店するなりそう口にした鍾離に、これまでも何度か太客である鍾離の品物を扱ってきた店主は棚をひっくり返してとっておきの反物をいくつも並べた。費用が嵩むため乗り気ではなかったものの他ならぬ鍾離の頼みだからと承諾した女だったが、いざ連れて来た当人の意見を仰いでみればうわの空を返されれば憤るのも仕方ない。
 妻になってほしいと乞われて、とうに鍾離に心を許していた女は差し出された手を取った。何も自分を守る姿に絆されたわけではない。長くはない日々の中で少なからず女は鍾離に好感を抱いていた。鍾離を失う恐ろしさを身に染みて感じた女は、二度と離れずに済む形を求めたのだった。
 呪いを排してすぐの頃はまだたどたどしさが残っていたが近頃はすっかり態度も軟化して、鍾離と女はすっかり恋人らしい触れ合いをするようになっていた。女が微笑みかけることも増えた矢先に機嫌を損ねてしまったと、そっぽを向いている女を見ていよいよ慌てた鍾離は失敗を取り戻すように反物を検分し始める。
「これは良いものだ。手触りで判断せずともわかる、糸も丁寧に紡がれ織目も美しい。こちらは織り込まれた金糸がほどよく光に照らされているな。花嫁の高潔さを際立たせるのに相応しい品を感じる。これは──」
「……似合うかどうかを聞いてるんですけど」
 不貞腐れたように意見する女に鍾離は苦笑した。花婿が婚礼に使う衣裳を選ぶ花嫁に関心を示さなければ不安にさせるのも当然だ。鍾離は女の頬を両手で包み込んで目を合わせる。不安で拗れた糸を解くように、ゆっくりと言い聞かせる。
「ここは璃月でも一番の職人が直接品を卸している店だ。店主も目利きができるし良いものしか揃っていない。だから……そうだな、たしかにどれが良いものかなどをあらためて見る必要もないだろう。だがどの反物をとってもお前の前では霞むこともまた事実だ」
 鍾離の言葉は甘くあまく耳に溶けていった。すべてが似合うとも似合わないとも取れる、相手に解釈を委ねる無責任な言葉ではあったが、鍾離が浮かべた表情を見ればどちらの意図で口にしたかなど考えずともわかる。溺愛していると言わんばかりの鍾離に女は羞恥で震える。
 人を惹きつける容姿を持ち、教養も備えた完璧と言わざるを得ない青年が愛の言葉を囁く光景を目にすれば、当事者ではない店主も頬を染めてしまうものだ。妙な空気が流れるまま反物選びは続いた。

 衣装を仕立てる職人とも話を終えて二人は帰路にある茶屋で一服していた。璃月港が一望できる、とまではいかないが見晴らしのいい場所だ。運ばれてきた茶を飲み、目を伏せて楽しんだ鍾離はしみじみとした様子で女に声をかける。
「いつかお前の生家にも行きたいものだな」
「……稲妻に、ですか?」
「ああ。いるんだろう、父や母といった人たちが」
「いますけど……離れてもいいんですか」
 神の座を降りても璃月を、人の盛衰を見守る。落ち着いた頃に神としての自分自身についてを、女が魔神だった頃の話も絡めて話した鍾離が最期に語ったものだ。
 数千年生きているという点だけ見るのであれば、岩神は稲妻で語られる土着の神のような存在と言える。四千年前に国を持ち、以来長きにわたり信仰されている神。他国でも自国ですら代替わりが行われてきたなかそれがなかった唯一の神。その鍾離が神を辞めても璃月を見守っていくと言うのだから国を離れる気はないのだろうと女は受け取ったのだ。
 だが鍾離は女がどうしてそんなことを聞くのか理解できなかったように「俺はもう凡人だからな。だめだったか?」と尋ねる。神の責務を果たす必要はたしかにもうないのだろうが、女は鍾離の認識と自分の認識がずれているような気がした。鍾離がそれでいいなら構わないと曖昧に笑うしかない。
「そうだ、今の名を教えてくれ」
 鍾離は微笑む。ずっと知りたかったんだ、と囁くように言う鍾離の声はどこか弾んでいる。桃花と呼ばれることに慣れすぎていたため忘れていたが、口止めをしていた鍾離自身にすら本名を教えていなかったことを女は聞かれて初めて思い出した。
 女は聞かれた通り久しく聞いていない名を教える。鍾離は存外に綺麗な発音で名を反芻した。璃月港は商業の中心地であるため稲妻由来の物もあれば商人も多くやって来る。それでも耳慣れた響きではないはずだと女が感心すれば、鍾離が一拍遅れて咳ばらいをした。
「長く生きていれば様々な知識を得る。大したことじゃない」
「……どうして照れるんですか?」
 いつもの鍾離であればなんてことない口調で返す言葉が、まるで生まれて初めて褒められた子どものようなたどたどしい謙遜になった。視線を彷徨わせる鍾離を見て女はおかしくなる。鍾離が万物に精通しているのは今に始まったことではない。これまでも幾度となく感心してきたというのに、どうして今更稲妻の発音がきれいに出来ていることを褒めれば照れるのか女にはわからなかった。
 鍾離は分が悪いといった顔をしながらも正直に白状する。
「他ならないお前の名前だ、間違わないようにしなければと緊張したんだぞ。……見逃してくれたっていいだろう」
 目を逸らした鍾離の表情は硬い。女が視線を合わせようとしても顔を背け続ける鍾離の目元はほんのりと赤く染まっている。化粧だとは言い訳ができない染まり方だ。鍾離の凡人らしい仕草に女が微笑ましさを覚えると、鍾離もすぐに頬を弛めて笑った。
 鍾離は凡人となった。岩の魔神として生き続ける自身を変えることはできないが、これからはただ一人と運命を共にすることができる。それがどれだけ幸福なことかを知ることができるのは世界にただ一人だけだ。愛しさは、目元の紅に姿を変えた。

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