桃花に紅 弐

※伝説任務・好感度ボイス・キャラスト等のネタバレ注意

 長時間かけてしっかり火を通した篤鮮を頬張る。舌でも楽に分けられるほろほろとした肉、良い塩加減のハム、ちょうどよい歯応えを残した筍はこだわりの素材を鍾離自らが調理したものだった。
 数千年もの年月を神として過ごしていた割に鍾離は所帯染みている。金銭感覚はないが普通に暮らしていける程度の常識は備えているし、温厚で人々とも友好的に接する様子から人の暮らしに交わることに慣れているのが窺える。
 軽策荘まで筍狩りに行くと言い出した鍾離に移動距離を聞いたときは女も驚いたものだが、鍾離にとって国の南部に位置する璃月港から北部の軽策荘まで往復するのにかける労力は人が玉京台へ行くのと大差ない。
 軽策荘の奥地にある人の踏み入らない竹林で早朝に頭を土から出したばかりの筍を探して採る手間はかかるが、それも素人に比べれば文字通り朝飯前だった。
 鍾離はよく自らを凡人と言うが、鍾離が定義する凡人の範囲は広すぎる。璃月人は何かしら譲れないこだわりを持っているとも聞いていたが、鍾離のそれは度を超していた。凡人ならば採れたての筍は下処理して夕食に使えるようにするだけで終わるものだ。朝食も昼食も、帰宅するなり夕食に向けて仕込みを始めた鍾離に呆れて、手が塞がった鍾離の隣で女が二人分を準備したのだった。
 だがいざ出来上がった篤鮮を食べれば鍾離に対して抱いていた呆れも吹き飛んでしまった。立ち上る湯気も気にならないほど美味な一品を夢中になって食べる女を見て鍾離は鼻高々と言った様子だ。椀の中身をぺろりと平らげてしまった女に「まだ食べるなら取り分けるぞ」と言う声は弾んでいた。
 満腹になった女は、満足感を覚えつつもこのままでは非常に不味いと頭の奥では警報を鳴らしていた。鍾離が美食を好むことは知っていたし鍾離がそれらを食べるということは必然的に女も食事を共にするということなのだが、美食の多い璃月でそういった食事を続けていれば肥えるのは舌だけではない。手元にある鍵が置かれた真鍮の平皿に自分の顔が映っていたため恐るおそる女が覗き込むと、頬の肉は稲妻を発ったときよりもふっくらとしているように見えた。
 ひい、と女が小さく悲鳴を上げると不審に思った鍾離が平皿を覗き込む。平皿に鍵以外見当たらないことでさらに不審さが増したと言いたげな顔で「どうした?」と問えば女は慌てた様子で「べつに何も」と取り繕った。女の声は硬かった。
「何もないはずがないだろう、そんな情けない声を出しておいて……」
「べつに、なにも」
「……そんなにむっとしていれば最近膨れてきた顔がもっと膨れるぞ」
「聞かなくても気づいてるじゃないですか!」
「ははっ」
 悩みを言い当てられた女は鍾離に噛みつくが笑って流されるだけだ。ふくよかになったことを指摘されたのも腹が立つが、女は鍾離の言い方も気に入らない。気品のある顔立ちや佇まいからは想像がつかないが鍾離は存外に口や足癖が悪い。それにしても「膨れる」と言うのはいかがなものか。
 鍾離は怒りでわなわなと震えている女の背後に回る。頬を包むように両手を添えたかと思うと下から救い取るようにして持ち上げ、そして指先で厚い肉を摘まんだ。いよいよ女の逆鱗に触れ、女は目尻を吊り上げたまま背後から覗き込むようにして自分を見下ろす鍾離を睨みつける。今にも噛みつこうとするミドリガメのように口を開いた女に向かって鍾離が浮かべているのは安堵の笑みだった。
「俺は今の方が好ましい。ここへ来たばかりの頃のお前はやつれていて気が気じゃなかった」
 鍾離の手のひらはまだ肉の弾力を楽しむように動いていたが、嘘偽りのない言葉を聞かされた女は何も言えないまま口を閉じた。声に悩まされ気が重く、たしかにこれまでと比べれば多少体重は落ちていたがやつれていると言われたのは予想外だ。鍾離の目には女が参っているように見えて心配をかけていたのだろう。
 とはいえ、このまま太り続けるのは許容できない女は「これからはきっちり食事管理をしますから」と返す。女の言葉に対して鍾離は楽しみだと返すだけだった。


 ある日、鍾離は往生堂で講義の予定が入っていた。一緒に来るかと聞かれて女は頷く。
 対策を施してあるのか鍾離と暮らす家は安全だと聞かされて女は基本的に家で過ごしている。外を出歩くのは鍾離が共にいるときだけだ。外出は貴重な機会のため、同行が可能であれば女は鍾離と共に外出することを望んだし鍾離も積極的に促すようにしていた。
 往生堂で鍾離がどのような講義をするのか聞かされてもいまひとつ理解できなかったが、教鞭を執る姿を見てみたいという野次馬精神を女は覗かせていた。
 往生堂に到着した頃にはすでに従業員達が講義を受けられるように準備を済ませていた。講壇を囲むようにずらりと並んだ椅子に座っていた従業員たちは、鍾離を見るなり立ち上がって一礼した。
「ようこそ〜、桃花さんはこっちね」
 邪魔にならないように端の方へ。女がそう考えたのも束の間、胡桃が間延びした声で女を呼んだ。往生堂の従業員からは離れた場所にある椅子に座ると鍾離の声が往生堂内に響き渡る。
 鍾離の落ち着いた声は普段より凛として聞こえた。博識であることを称賛されると鍾離はかならず記憶力がいいだけだと訂正する。人々はそれを謙遜だと捉えるが鍾離の正体を知れば納得する者もいるだろう。そして次はその尋常ならざる記憶力の良さに感心するはずだ。
 胡桃は鍾離の抱える謎について聞かされていないが面白おかしく想像を働かせてはいる。もし真実が胡桃の想像通りではなかったとしても、神にも通じるほどの知識量を鍾離が手にしている事実は揺らがない。それがどれほどに得難いものか胡桃は正しく理解できていた。生と死、二つの世界に触れる往生堂は一般人以上に人や彼らの文化への深い理解が必要なのだ。
「──つまり、葬儀においてお前たちが行うべくはまず『思い』の形を正確に捉えることだ。人を送る際に生者が死者と深い縁を結ばず、それでいて送る気持ちだけを込めるというのは難しく──」
 鍾離の声を聴いているうちに女の思考がぼやけ始めた。真面目に講義を受けている往生堂の従業員たちに失礼だと内心で己を叱咤していたが、次第と奇妙さを覚え始める。女を襲うのは眠気ではなく、酒に悪酔いしたときのような視界のぐらつきだ。
「なに、どうしたの……頭? たしかに揺れてるね。うーんあれは寝てる感じじゃないかな」
 女の異変に気づいたのは胡桃だった。だれもいない空間に向かって話し始めたかと思えば女を見て数回頷く。講義の邪魔をしてはならないという判断なのか小声だったこと、また堂主の奇怪な行動に皆が慣れていたことから胡桃のひとりごとに意識を向ける者はいなかった。
 胡桃は軽い身のこなしで女に近寄ると、意識の抜けた様子で宙を眺める女の顔を正面からじろじろと観察する。そして何かに納得すると座っていた椅子を女の横まで運び、何故か女の前髪を整えてから再び着席した。胡桃は女の右手を握ったまま引き続き鍾離の講義を聞き続けた。
 講義が終わって従業員達が鍾離に一礼する。通常業務に戻っていく従業員を脇目に、鍾離は胡桃がまだ大人しく座り続けていることに気が付いた。胡桃の肩にもたれかかるようにして女が眠っている。可愛らしい気遣いに感心しながら鍾離は女の体を起こすが、繋がれたままの手がそれ以上動かすのを阻んだ。
「鍾離さんってば面白いものを連れて来たよね」
「なに?」
 前髪の隙間から鍾離を見上げる胡桃の瞳がにやりと笑う。怪訝な声を返した鍾離だったがすぐにはっとして女の肩を揺らした。握った体は軽かった。
「大丈夫、私がずっと捕まえてたから。どうやら鍾離さんが話した往生堂という立場からの死生観は、彼女の不安定な在り方をより死者に近づけてしまったみたいだね。場所も悪かったのかな、ここは『送る』準備をする場所だから」
「どうやって留めたんだ? 何かしているようには見えなかったが」
「肉体が生きていることに変わりはないから、死に近づいた分だけ生に近づけてあげればいいとおもったの。だからイチかバチか手を繋ぐっていうシンプルかつわかりやす〜い方法を試してみたら効果はてき面! さすが私! ってわけ。あ、これ往生堂の新しいサービスにできないかな?」
 契約は形がなくても効力を持つが、目に見えない商売に金銭は発生しない。普段の鍾離であればそんな指摘をしただろうが今はそれどころではなかった。
 魂と肉体が馴染んでいない。胡桃の分析は鍾離も女に聞いて知っていた。それがまさかこんな形でさえ影響を及ぼすとは思い至らず、女を安易に連れてきてしまったことを後悔する。
「それで今後は……どうなんだ。また同じようなことが起こる可能性はあるのか?」
「うーん……例えるなら炎が揺らいだようなもの、これで悪い癖がつくことはないと思うよ。そこは保証する」
 胡桃の言葉に鍾離は安堵する。たまに質の悪い冗談を言うこともあるが、死と生の在り方について語るときの胡桃は極めて誠実だ。繋いだ手を胡桃に渡されて受け取った鍾離は、女の鼓動をたしかめるようにきつく握り込んだ。
 相当強い力を込めたせいで女が痛みに呻く。うっすらと開かれた瞳が心配そうな鍾離をぼんやりと見つめた。起きたか、と話しかけた鍾離の声が掠れていたことに寝起きの女は気づかない。
 眠気に襲われていたわけではないと自覚していたことなどすっかり忘れてしまった女は、講義の途中で眠るという非礼を謝った。気にするなと言って唐突に抱きしめてきた鍾離に女は首を傾げる。二度と失いはしないという鍾離の誓いは言葉にこそならなかったが、鍾離の様子から何か良くないことが起こったのだと女は漠然と察した。
 女の魂にかけられた呪いを解かない限りそれは続く。鍾離はとうとう動き始めることにした。鍾離は『待つこと』の合理性を理解している。胡桃は「悪い癖はつかない」と口にした。そうだとすれば、女の『揺らぎ』は最大限に利用すべきだろう。元は武神と呼ばれた男の瞳は千年秘め続けた闘志を燃やしていた。



 お前を呪っている魔神の残滓を迎え討つために必要な物がある。
 そう言って鍾離は物品の調達のために家を空けた。こうした日がここしばらく増えている。璃月港で買えるような物であれば話は簡単だが、凡人でも手に入れられるようなものは仙術には使えない。準備にはそれなりの時間と労力を要した。
 鍾離が不在にしているときはが家の周囲を警戒した。稀にだが胡桃がやって来るときもある。胡桃がいるときは姿を見せないが、近くにいることは鍾離に聞かされていた。有事の際はを呼ぶようにと毎日女に念を押して鍾離は外出する。
 女とは随分と打ち解けて今ではすっかり茶会を開くのが日課になっていた。茶会と言っても簡素なもので女が焼き菓子を振る舞うくらいだが、これを機に俗世に慣れるといいと鍾離に声をかけられたが至極真面目な面持ちで茶会に参加するためどこか物々しい空気が消えない。
 作法通りに茶器を扱って茶を啜るの姿は、少年のあどけなさを残しながらも品を感じさせた。怜悧な眦がゆるりと下がるのを見ながら女は相談には絶好の機会だと身を乗り出す。
さん、私も何か武術……のようなものを身に着けたいんですけど、だめでしょうか?」
「武術? 何故突然そのようなことを」
「護身のために……あっ、さんに文句をつけるわけじゃないんです。でも守られてばかりで私だけ行動しないっていうのはどうかと……」
 呪いを受けている自覚さえない女には現状への不安や恐怖を抱きようもないが、己を取り巻く環境が慌ただしく変化していくなか当事者が一歩も動かずにいることに女は居心地の悪さを感じていた。
 だが突飛なことを言い始める女には怪訝な顔をする。極めて凡人的な発想だった。武神とも言われる岩王帝君がどれほどの実力を備えているのかを凡人には知る術がない。璃月人にとっては超人的に語られる仙人も稲妻人にとっては遠い存在だった。だからこそ護身などまったく必要がない状況だということが女にはわからない。
 魔を祓い続ける日々に身を置くは鍾離に比べて多くを細かなことまでは記憶しない。だが非凡だった頃の女とは似つかぬ発言に小さく息を吐く。在り方が変わるだけでこうも違うものかと考えながらも、目の前にいる凡人を否定することはなかった。
「鍾離様は何とお考えなんだ」
「ええとそれは……聞いてなくて、鍾離さんには。言い出しづらくて……」
「……聞く相手を間違っている。我はただの護衛、あなたが頼るべきは鍾離様だろう」
 もっともな指摘に女は言葉を詰まらせる。女は人の身で魔神の怨嗟と対峙すると言っているわけでないのだ、過保護すぎるきらいのある鍾離も反対はしない。それに鍾離は他者にものを教えることを好いている節がある。
「どちらにしろ我のやり方はあなたに真似できるものではない。鍾離様に聞いてみるといい、あの方なら何か良い方法を見つけてくださるはずだ」
 仙人に説かれてもすぐ腹を括ることができない女の視線を躱しては茶を啜る。素直に鍾離を頼れない理由があるのだとしても、女の身を守る以上のことに立ち入るべきではないとは主従の立場を弁えていた。
 蚊の鳴くような声で「……わかりました……」と口にした女に満足していれば、は背に人の気配を感じ取っておもむろに後ろを向いた。
「来客の予定があったのか?」
「ありません、胡桃さんとも特に約束はしていませんし……」
「これは……璃月七星、たしか当代の玉衡だったか。真っ直ぐここへやって来るぞ」
「ゆ、ゆーへん……?」
「既知の間柄ではないのか。では……これも鍾離様が戻られたときに聞くといい、我は璃月の執政には詳しくはない。七星は顔を明かさないと聞くからどうせあなたが彼女の素性を知っていれば怪しまれる。我の話も一旦忘れろ」
「はあ……」
「我はあやつに会うつもりはない。離れた場所から気配を消して様子を見ているから何かあればすぐに呼べ」
 最後に「人間にしてはよく走る」と呟いては瞬く間に姿を消した。
 数分後、の言う通り人の足音が近づいてきた。すぐに戸を叩くかと思えば来訪者は何かを躊躇いながら「……いきなりは……でも……」と悩ましい声を漏らしている。これまで鍾離の紹介以外にこの家を訪れた人物はいなかったため、の反応から来訪者が危険人物ではないと検討がついていたとしても女は緊張していた。
 意を決したように叩かれた戸に恐るおそる近づいて女は戸を開ける。そこには華やかな衣服に身を包んだ刻晴が立っていた。
「往生堂の鍾離先生がこちらにお住まいだと聞いたのだけど、ご在宅かしら」
 女を見た刻晴は、戸越しにも伝わっていた躊躇いを微塵も感じさせない凛とした様子でそう尋ねた。
「鍾離さんは外出中です」
「あ、あらそう……」
 鍾離の不在を聞いて勢いをなくしてしまった刻晴は黙り込む。来訪の理由がわからない女は刻晴の反応にどうすればいいのか困惑した。
 刻晴からは多少の緊張と、それ以上の疲労が感じられた。執政という言葉をが出していたことを思い出し、たしか璃月の運営を担う地位を七星と呼ぶのではなかったかと女は思い出す。多忙な身の上で無理をしてここへ来たのではないかという可能性が浮かんだ。
 狼狽した様子で「出直すしかないようね……」と刻晴が口にするのを見ていよいよ可哀想になった女は引き返そうとする刻晴を慌てて引き留める。
「良ければ中で待ちませんか? そう遅くないうちに戻ってくると思いますし」
 しばらく悩んだ末に刻晴は家へ上がった。

 卓上に放置されていた二人分の湯呑を見た刻晴が「先客がいたの?」と尋ねてきたため、すでに帰ったと誤魔化したが刻晴は湯気の上る湯呑を一瞥しただけだった。
「自己紹介をさせて。私は刻晴、璃月七星の玉衡よ」
「初めまして、桃花です」
「……璃月人じゃないのよね?」
「稲妻生まれです。鍾離さんにそう呼ばれてて……」
 奇妙な顔をした刻晴が女の返答にわずかに動揺した。頬を染めて仲がいいのねと口にする刻晴が何を考えているのか女は察する。これはまず間違いなく、恋人同士だけの愛称だと勘違いされている。
 鍾離に遠慮して刻晴が女の本名を聞き出そうとする前に、稲妻の言葉は発しづらいだろうから同じ名前で呼んでもかまわないと提案した。本名を口にすることを鍾離に止められていたからだ。他国の名前が言いづらいことは否定できないのか刻晴はやむなく女の提案をのんだ。
 女が茶を淹れると刻晴は「ありがとう」と迷いなくもてなしを受ける。そして茶を飲んで小さく唸った。
 鍾離は一級品しか手に取らない。この茶も相当良い品であり、高い地位にいてもてなしを受けることもそれなりに多い刻晴が茶の品質を理解できないはずがなかった。茶請けのお菓子を口にしてまた唸る。人間の食事に詳しくないには当然なかった反応だ。
「お茶もお菓子も本当に美味しいわ。……今日は助言をいただこうと思ってきたのに何だか悪いことをしたわね」
「気にしないでください、お客様用にたくさん準備してあるんです。助言って何の話ですか?」
「もうずいぶんと日が経つけれど、璃月をずっと統治してきた岩王帝君が天に昇ったの。それからは彼が行ってきた璃月にかかわるすべてを私たち七星が執り行っているんだけれど、それがもう……すごく……はあ……」
「……大丈夫ですか?」
「ええ……とにかく大変で、帝君がどれだけ素晴らしいかを再確認したわ。それでもこれからは自分たちの力で前に進まなきゃいけないと思って仕事をしていたんだけど、あることで躓いてしまって……。往生堂の先生の話は聞いていたから、力を貸してほしいとお願いしに来たの」
 刻晴の言葉に女は頷きながら背中に冷や汗をかいていた。緊張する女に気づかない刻晴は鍾離の考え方は帝君に似ていると口にして追い打ちをかける。鍾離は岩王帝君その人なのだから考えが似ているのは当然だろう。むしろ同じなのだ。
 刻晴が鍾離と帝君の類似点に気づいたのはひとえにずっと帝君を見続けてきたためだ。だが初対面である女にとって、刻晴は言外に鍾離の正体に探りを入れにきた刺客同然だった。
 秘密が脅かされているのは鍾離だというのに何故か女が危機に瀕したかのような錯覚を覚えていた。海を隔てた隣国とは言えども、稲妻で暮らしている人間にも岩神の名は轟いている。そんな人物の弩級の秘密を抱えているのだから他人事ではいられないのも当然である。いつ口を滑らせてしまうかわからないと女は言葉少なになりながら内心で鍾離に助けを求める。
 気が気ではない状態で刻晴の話に相槌を打っていると、女の願いが届いたかのように鍾離が帰宅した。刻晴を見ても驚く様子はなく、まるで来訪者を知っていたかのような反応だ。あらためて自己紹介をする刻晴に鍾離は丁寧な態度で接する。
「それで刻晴殿、俺に聞きたいこととは何だろうか?」
「天衡山の治水を見直すことにしたの。先月の大雨で璃月港側の水路が氾濫して大変だったから裏手に遊水地を造ろうとしたんだけど、この辺りには歴史的価値のある遺跡も多いからどう設置するか悩んでいて……」
「なるほど。案はいくつ出ている?」
「これと、これね。こちらは結構いい案だと思うの。ただ進めるにはここに問題が……」
 巻物を取り出して広げた刻晴は順序良く手段とそれに付随する問題点を説明していく。顎に手を添え、鍾離は相槌を打ちながら耳を傾けていた。行政について詳しくはないが女は自分が璃月の土地開発という内政に関わる事案を聞いていてもいいものか悩んでいた。
「刻晴殿の言う通り、景観や文化が損なわれることはあってはならない。だから遊水については空いた平地でまかなうしかないだろう。そこまでの水路の引き方と、他の治水とどう組み合わせるかが問題だな。識者を連れてこことここで地質の調査をしてみるといい。ただ個人的な見解を述べるとすれば……水路はこの山肌に沿うように引き、遊水地はここに造るべきだな」
「……なるほど、この辺りは雨が流れ込んでも比較的すぐ川へ水が流れる水はけの良い土地ね……! 流石だわ、往生堂の先生は素晴らしい見識をお持ちだと聞いていたけど、貴方の知識は本当に多岐に渡るのね」
 刻晴は弾んだ声で鍾離を称賛する。鍾離は刻晴の言葉を聞いて曖昧にほほ笑むだけだ。時間に余裕ができたら必ずお礼をさせて、と言って刻晴は意気揚々と家を飛び出して行った。雷のような人だったと女が言ば鍾離が声を上げて笑った。
「速戦即決が彼女の強みだ。刻晴が七星になってあらゆることを成し遂げてきたのもその意志と行動に支えられている」
「そうなんだ……。あれ、呼び捨て……? さっきは刻晴殿と呼んでいませんでしたか?」
 態度こそ普段通りだったがそれなりの振る舞いをしていた鍾離が突然刻晴を呼び捨てにしはじめたため女は疑問になる。鍾離は少しばかり得意げな顔をして答えた。
「彼女は璃月七星、この国での最高権力者の一人だ。俺はただの凡人だから呼び捨てにしては不味いだろう? それなりの振る舞いをしなくてはな」
「……慣れてるんですね。もしかして今みたいなことは初めてじゃなかったりします?」
「ははっ」
 鍾離の反応から察するに凡人のふりをして市井に交じるのは一度や二度ではなさそうだ。悪だくみをした少年のように笑う鍾離を見て女も笑う。
「あっ、そろそろさんに出てきてもいいと伝えないと……」
には外で会ったぞ。刻晴が来ていると報告したあと帰って行った」
「そうなんですね」
 刻晴を見ても驚きもしなかった様子を思い出して女は納得する。の報告がなくとも鍾離は気配で刻晴の来訪に気づいていただろうがわざわざ言うことでもない。
 それならと女はの助言通り鍾離に同じ相談をすることにした。お願いがあるんですけど、と切り出した女に鍾離は何故か目を期待で光らせたが、護身のために武術を習いたいと言われると虚を突かれた様子で「必要か?」と返す。
 肯定も否定もなく、純粋な必要性への疑問。鍾離のその反応だけで、女は自分がどれほど無意味なことで時間を潰したかを悟るのだった。

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