桃花に紅

※胡桃やの伝説任務・好感度ボイス・キャラスト等のネタバレ注意

 往生堂の扉を叩く音がする。来訪者を告げる音に、往生堂の中にいた者達は顔を見合わせて奇妙な顔をした。
 往生堂を訪ねる人は多くない。往生堂は璃月人が必ず人生に一度は訪れる場所だが、人を送ることを得意とする点から決して利用頻度が高くなる場所ではないのだ。
 それに加えて、璃月には死と深い縁を結ばないという意味で往生堂と距離を置く風習がある。葬儀の夜はもちろん、昼間でさえ往生堂やそこの制服を纏った者には近づかない。これは偏見や迫害ではなくれっきとした璃月の伝統文化だ。
 だからこそ、往生堂の者は驚き、そして叩かれた扉を睨んだ。ファデュイのように他国の者が訪ねてくることが稀にだがある。先日も往生堂と縁を持つ人間を頼ってファデュイの人間が──それも執行官と呼ばれる悪評の象徴たる人物がやって来た。あのときも往生堂は璃月七星とファデュイの間に挟まれてひと騒動起こったのだが、またそのようなことが起こるのではないかと警戒したのだ。
 年長者が扉へと近づいた。他の者は目配せをして、いつ何が起こってもいいように奥に控えている堂主を呼びに行く準備を整える。開かれた扉の先から差し込む陽光はまぶしく、厳かな雰囲気に満ちた往生堂の中を珍しく明るく照らした。
 年長者は扉を開きはしても口まではそうしなかった。往生堂から外の人間への交流を持つことはしない。扉の外で、来訪者は異質な世界を覗いているかのようにわずかな戸惑いを見せる。
「あの……往生堂はこちらで合っているでしょうか」
 若い女がそう尋ねた。短く肯定するとまた黙り込んだ年長者に女はほっとした様子で言葉を続ける。
「鍾離という方を訪ねるように言われました。『機は輪転した、約束を果たせ』──と伝えればわかるそうです。お会いできますか?」
 見るからに他国の服装に身を包んだ女、恐らくは稲妻から来たのだろうと思わせる顔かたちから受ける印象はやわらかく穏やかだ。先日と違って揉め事が起こるとは思えないが、面倒事は起こりそうな気配がする。
 それに往生堂の者だからこそわかることだが、女が纏う空気は死に近いものがあった。奥にいる堂主を呼べばさらに面倒なことになりそうな気配すらある。
 鍾離先生がいると大変なことばかりだ。往生堂の者たちはそう一様に考えたのだった。


 時機が悪く、鍾離はここしばらく往生堂へ姿を見せていなかった。客卿である鍾離は他の者と違って通常業務に関わることが少ない。たとえば岩王帝君のような仙人を送るという特別な仕事を執り行う立場なのだ。
 送仙以外でも鍾離が往生堂で業務にあたることはあるが、他の従業員たちとは業務内容が違う。鍾離が行うのは従業員の見識を広めるための講義や、葬儀に必要な物品の真贋を見極めることだった。
 往生堂の世話になっていることから鍾離は業務内容にこだわることなく惜しみない協力を申し出ている。だが人が「往生堂の鍾離先生」と言うほど鍾離は往生堂へ入り浸っているわけではない。鍾離はあくまで講師の一人であり、鍾離が往生堂の外で何をして過ごしているのかは、昼間に出かけることが少ない往生堂の人間こそよく知らないのである。……支払いの請求以外では。
 来訪者にそれを説明し、往生堂は静まり返った。異変を察した堂主が表に出てくる前に女を外へ出した方がいい、そう判断した年長者は「鍾離先生をお探しなら思い当たる場所をお教えしましょう」と言って外へ案内しようとする。
 扉を開く前に、往生堂に再び陽光が差し込んだ。扉の向こうには尋ね人である鍾離が立っている。
「すまない、驚かせてしまったか。今から出かけるのか? 少し確認したいことがあるん、だ……が……」
 一同を見て、そして年長者の隣に立っている女を見て動きを止めた。小さく何かをつぶやき、鍾離は黒革で覆われた手で顔の下半分を覆う。鍾離が何をつぶやいたのかは誰も聞き取れなかった。一番近くにいた年長者だけが、異国の名前のような響きだったと考える。
 ぽろり。鍾離の瞳から一粒、涙が零れた。突然扉が開かれ、鍾離が現れたことにも驚いた往生堂の者たちは今度こそ目を剥いた。たった一粒ではあるが鍾離が涙を流した。何事にも動じず、岩の不動さを示すかのような生き方をする鍾離が大きく感情を揺さぶられたと言わんばかりの反応に驚かずにはいられなかった。
 一体何者なのだと一同の視線が女に集中する。だが当の女は戸惑ったように目の前で涙を零した男を見ていた。
「俺を探しに来たんだろう」
「え? ええと……貴方が鍾離さん……ですか?」
「そうだ」
 知己の仲ではないらしい。往生堂の者たちは何も発さず二人の会話を見守る。
「……もうそんなに時が経ったんだな。だがずっと待っていたぞ、お前のことを」
 鍾離は感極まったように女の頭を抱き寄せ、目を伏せた。
 顔を合わせた途端に泣き、初対面であるにもかかわらず熱い抱擁を交わした鍾離を女が警戒するのは当然だった。どこか落ち着いて話ができる場所へ移動したいと言われるが女は渋る。この男と二人きりになるのは危険ではないか。そして女は周囲に助けを求めた。
 出会って間もないという意味では大差ないのだが、鍾離と比べれば比較的マシだと判断された往生堂の者たちは女の内心を察して同情した。だが普段は極めて穏やかな鍾離が危険人物になり得ないことは全員が承知している事実だ。
 女を前にした異様な反応を考えるとある意味では安全と言い難いかもしれないが、それでも鍾離を止める術を往生堂の者たちは知らない。璃月人はだれしもがこだわりを持っているが、鍾離のこだわりは常人のそれを超える。一度決めてしまった物事を覆すのは容易でなかった。今回もそうだろう。
 しばらく沈黙のやり取りが続き、他に聞かせられる話でもないのではないかと鍾離が尋ねたことで女は仕方なく場を変える提案に同意した。女が鍾離を訪ねた理由は自身以外に知りようがない。なぜ他人に知りようがないのか、鍾離はまるでそれさえも知っているかのような態度を見せていた。真相を確かめるには目の前の男と向き合うしか道はないだろうと女は腹を括った。
 葉が美しく色づいているのを見上げて「ここの紅葉はひと月では終わらないぞ。緋雲の丘に並ぶ料亭はふた月後まで予約すら困難なほどだ。緋雲の丘に並ぶ樹木の紅葉は長く、璃月のもっとも見応えのある景観の一つでもある。赤い漆の建造物に黄や赤の葉が重なるとそれは美しいものだ。海灯祭ほどではないがこの三か月間は通りが観光客で溢れ返る。俺も毎年眺めのいい料亭で席を取るから、今年は共に行こう」と饒舌な鍾離に女は曖昧に頷いた。
 機嫌よく話し続ける鍾離から半歩遅れて歩く女は、戸惑いながらも鍾離の観光案内に耳を傾けた。初めて訪れた璃月港は鍾離が自慢げにするのも納得がいくほど美しい場所だった。鍾離の博識さは見知らぬ道程も退屈させない。
 やがて目的地へ着くと女は懐に忍ばせた刀をそっと服の上から撫でた。あきらかに私邸の雰囲気を醸した家屋に鍾離は女を招き入れようとしている。未婚の身としては承服しがたい状況だ。
 気が立った猫のように鋭い視線を投げつけてくる女にさすがの鍾離も苦笑した。話をするも何も、女がこの様子では実りある会話にならないだろう。話をしながら歩く道すがら、訪ねて来た女がその実よく状況を把握できていないまま璃月まではるばるやってきたことを鍾離は見抜いていた。
「家に上がらなくともいい、庭を見ながら話をしよう。茶を淹れてくるから裏手に回ってくれ」
 鍾離の提案に女の緊張が少しだけ和らいだ。

 女は頭痛がするとでも言いたげに頭を押さえて鍾離の話を整理した。
「貴方は前世の私と……後世で一緒になる約束をした?」
「ああ」
「わけがわかりません……」
 理解できないというよりは理解したくないと言いたげな顔で女は溜息を吐いた。
 自慢の茶と茶請けを堪能した女に鍾離はまず何から話すべきか考えて、自分の素性から話し始めた。唐突に「俺は岩王帝君だった」と聞かされた時点で女は頭が痛かったわけだが、話を最後まで聞かないことには自分の抱える問題を解決できないと感じて黙っていたのだ。ただ最後まで聞いても容易く納得できる内容ではなかったのだが。
 歴史では語られていないものだと言う。七国が成ったとき、岩王帝君は愛した女と別れを告げた。
 彼に劣らず特別な力を持っていた女は魔神戦争の終盤で魂に呪いを受け、治療のために稲妻の神を頼らなければならなくなった。建国したばかりの時期はどの神も国を安定させるために奔走しており、稲妻の神がこちらへ出向くことも岩王帝君が女の旅に同行することもできなかった。
 七神の由来は同じではない。精霊だったものもいれば、岩王帝君のように魔神だったものもいる。岩の魔神はまだそのとき生まれ持った岩の力しか知らず、女のことは呪いに精通した稲妻の神に託すことでしか解決の糸口がなかった。
 だが呪いに詳しい稲妻の神でも呪いを解ける見込みがあるかわからなかったという。
「もし呪いを消せないときは輪廻の輪に入れると聞かされた。呪いが消えるまで苦しみ続けるよりも、人間と同じ魂の質に変換することに俺は望みをかけたかったんだ。そして七国の神が璃月で会合を行うようになった年に稲妻の神から輪廻すら難しい状況だったと聞かされて手紙を受け取った。しばらく眠りにつくと……何百年、何千年後になるかわからないが必ず璃月へ戻ってくると……」
 そう話した鍾離の声には深い悲しみと愛情が込められている。先程から女は鍾離が話すたびに瞳の奥が熱くなるのを感じていた。泣きだしてしまいたい衝動に駆られるのを必死に抑える。
 焦がれるように指先で頬に触れられて女は弾かれたように身を引いた。悲し気な表情を向けられると胸が詰まる思いはしたが、仮に今の話に納得したとしても女は鍾離と一緒になると決断するわけではなかった。
「はっきり言います、私は声を消せないかと聞きに貴方を訪ねただけです」
「声?」
「毎日毎日、どこを歩いて何をしていても約束を果たせとうるさいんです。貴方の名前と一緒に声がして……」
 悲鳴にも近い女の嘆きを聞いて鍾離は眉をひそめた。どんな言葉か正確に言うように促すと「往生堂の鍾離、機は輪転した、約束を果たせ」と女は繰り返す。本当にそれだけかと鍾離が再度確認すると、女は困惑した様子で頭を捻った。
「ええと、うーん……。あったしか『岩の二千、悲願の千』とも……」
 女の言葉に険しい顔をした鍾離が手袋を外す。何をするつもりかと女が身を竦めると、たしかめることがあると言って鍾離は手のひらをぐっと握った。骨の軋む音が響くと女の目の前で鍾離の手がほの明るい光を放ち始める。注視しなければ昼の陽光に掻き消されてしまう程度の光が、瞬きをするたびに次第と煌々と照り始めた。対照的に鍾離の肌は漆黒に染まっていく。まるで太陽を閉じ込めた黒岩のような腕が女の前に存在した。
 動揺を隠せない女に「言っただろう、俺は岩王帝君だと」と鍾離はこともなげに話す。
 神の心を手放したことで、かつて神として存在した男は今では行使していた力の大半を失って生きている。神をやめたからといって魔神としての力まで失ったわけではないが、力の落差だけを考えるのであればまさに「凡人の鍾離」と自称するのもおかしくないだろう。
 だが失った力は神の心を手にしたことで得た力のみであり、岩王帝君として璃月を治世しながら研鑽を積むことで新たに得た力までは失っていない。仙人と共に磨いた仙力のうち、夢枕に立つことがそれである。そして女に対してこれから取ろうとしている手段も仙力の一つであった。
 女の額に自身の額を合わせ、光る手を背に回した。急に距離を縮められて女は動揺するが鍾離の顔はいたって真剣で、むしろどこか緊迫した空気さえ漂っている。服の上を行ったり来たりしていた手が止まり、はっとした女はようやく鍾離が心臓の位置を探していたことを知った。
 鍾離の瞳が手と同じようにきらりと煌めいた。一瞬で瞼に隠された光を女が惜しい気持ちで眺めていれば、頭から心臓にかけて血の巡りが早まった気がした。胸の高鳴りのようでもあり風邪の引き始めにも似た感覚に戸惑っていると女の瞼の裏に何かがちらつく。それが目の前の男──今の姿ではない鍾離であると感じたのは錯覚ではない。
「……なるほど。『悲願』ではなく『彼岸』か」
 離れていった鍾離は先程よりもさらに険しい表情を見せた。鍾離がどんな事実を把握したのか女にはわからない。ただ常人を超えた力を見せられたことで目の前の男が口にした『岩王帝君と彼に愛された女』の話が真実味を帯びてくる。
「一体何が……」
「俺も全容を把握できたわけじゃない。お前の身に何があったのか確認する術もない……最初の七神はもう俺とモンドの神しか残っていないからな。俺が持つのは知恵と記憶、そこからわかるのは現在とほんの少しの未来だけだ。……お前の魂にかけられた呪いが再びお前に降りかかろうとしている」
「そ、れはどういう……呪いが、え?」
「お前が聞いた約束を果たせという言葉……最後の約束だと思っていたが違うらしい」
 勝手に納得していく鍾離を女は睨みつける。金と時間をかけて稲妻からやって来たというのに、鍾離と会って状況が改善されるかと思えば混乱を極めていくばかりだ。しかもその拗れた糸の先は悪い方向へと伸びているようである。
 記憶よりも大人びた姿の女を見て鍾離は刻んでいた皺を解した。心配することはないと宥めるように女の顔に手を添わせて吊り上がった目尻を触る。
「お前は最期まで強かった……俺は最初の約束を果たせないまま別れたんだ。だから今世こそお前を守ろう」
 もうしがらみはないと言って高らかに宣言する鍾離は好戦的に笑った。



 女は宿をとっていたが、一人にさせるわけにはいかないと言って聞かない鍾離に押し切られる形で鍾離の家に住むこととなった。
 鍾離を探すのに少なからず数日を要すると踏んでいた女はある程度まとまった金を持って来てはいたが、想定以上に長期滞在することになったため浮いた宿代も当面の生活費に充てなければならない。
 こうなれば璃月で仕事を探した方がいいのではないかと考えもしたが、鍾離はそれを「危険だ」の一言で却下した。自分の報酬で二人分の生活費くらいは何とでもなる、と言い切られては従うほかにない。
 一度触れたせいか鍾離はすっかり恋人のような距離感で女に接してくる。許してもいないのに肩を抱こうとする手を容赦なく払い落としながら過ごすうちに数日が経過する。鍾離と会ってから女を悩ませていた声はすっかり止んでいた。
 ある日、女はあらためて往生堂に紹介されることとなった。鍾離と共に暮らしていくことは変わりないが頼れる宛は作っておくに越したことはないと話す鍾離に女は頷く。
「仙人に紹介することも考えたが、往生堂の方がいいだろう」
 仙人という聞き慣れない言葉に女は首を傾げたが、鍾離はとくに説明もせず外出の仕度を始めた。

 女が初めて璃月に来たときは道もわからないような状況だったため気づかなかったが、往生堂は賑やかな璃月港の奥まった場所にひっそりと存在している。往生堂がどんな仕事をしているかは聞かされていたため、葬儀屋とはどこも似たようなものだなと女は母国を思い出した。
「ふむふむ、あなたが『彼岸の恋人さん』だね?」
 二人が往生堂に入ると、堂主は女を見るなりおどけた調子で言った。先日やって来たときは往生堂は厳かな雰囲気で満ちていた。だが堂主はそれが綺麗さっぱり消し飛ぶような明るい話し方をする。葬儀屋の人間らしからぬ気配に女の調子が狂った。往生堂の者たちもわずかに苦笑いを浮かべている。
「私は胡桃、往生堂の七七代目堂主だよ。あなたの名前は?」
「あ、私は……ええと、タオファと言います」
「……ん? んん〜?」
 稲妻人の風貌に璃月人の名前、さらには慣れない名前を口にした女の不審さを逃さなかった胡桃は思いきり首を傾げて疑念を態度に出した。胡桃の反応を見て偽名を名乗ったことへの罪悪感からしどろもどろになる女に鍾離が助け舟を出す。
「俺がそう名乗るよう言ったんだ。彼女には名を隠さなければならない事情があって……」
「別にそれはいいよ。それよりも……」
 なるほどね、と深い感慨と共にもう一度つぶやいた胡桃の意図を女は理解できない。だがにんまりと笑みを広げる胡桃から逃れるように鍾離は往生堂の端に置かれた花瓶へと視線を投げた。
 早速だが用事があるから彼女を頼めるか、と言う鍾離に胡桃は快諾した。鍾離が出て行けば待っていたと言わんばかりに往生堂の者たちが女へ質問を飛ばす。
「鍾離先生の恋人だったんですか?」
「いやここへ来た時の反応を考えると許嫁じゃないかな。しかも親の決めた……」
「一緒に暮らしているんですよね? 鍾離先生は普段はいったい何を?」
「ハイハイみんな、彼女は私がもてなすから仕事に戻ってー」
 胡桃が手を打ち鳴らせば渋々といった様子で各々は仕事に戻る。往生堂内に静けさが戻ってくると仕切り直すように「じゃあ奥へどうぞ」と胡桃が女を案内した。
 丸い卓を囲んで胡桃と女は向かい合う。鍾離は往生堂で仕事をするわけでもなく、堂主の胡桃に指示を受けたわけでもなく外へ出て行った。従業員ではないのかと女は疑問に包まれる。鍾離が帰って来たら聞いてみてもいいだろうかと考えていると、胡桃が参ったような言葉をまったく参っていない口調で口にした。
「いやあ、さっきはうちの従業員がごめんね。鍾離さんはさ、人の興味は引くけどだれも深入りさせないんだよね。本人はちっともそういうつもりはないんだろうけれど。彼は博識でだれからも尊敬されるけど、物知りの彼こそが何よりも謎に包まれてる……だからみんな彼のことを知ることができるきっかけが現れて飛びついちゃったみたい。鍾離さんと親密なあなたはこれからしばらく質問攻めにされると思うけど……頑張ってね?」
「はあ……」
「あれ、もしかして彼との間に認識の相違がある? 彼はあなたのことを好きみたいだけど、あなたはそうでもないのかな?」
「皆さんが思うほど親密な仲ではないです」
「まあそれもそっか、あなたは強い死者の魂を持っているけど肉体に魂の記憶は刻まれていないんだし。強い執着や力で生者に干渉できる魂は限られているからね」
 胡桃が当然のように肩を竦めて言ったため流しそうになったが、一拍おいて発言に違和感を覚えた女は「えっ?」と疑問を口にした。
「あれ、気づいてないんだ。あなたの魂は少し変わってるよ、常人とは違う。あなたの体はたしかにあなたの魂のものなのに、魂と肉体がちっとも馴染んでない……その魂、何か良くないものに囚われてる。だから魂がいつまで経っても境界を超えて生者の元へ来られない」
 胡桃の言葉に女は動揺した。岩王帝君である鍾離でさえ憶測は立てても断言しなかった物事を、年端もいかないただの人の子が断言するのだから仕方ない。驚きと同時に疑惑も抱いた女は黙り込んで胡桃の表情を探る。
 女の懐疑的な視線に気づいた胡桃は「あっ、その顔……私の言ったこと信じてないでしょ」と心外と言いたげに嘆いた。
「人の死について私は鍾離さんよりも詳しいよ。鍾離さんが往生堂にあなたを頼んだのもそれが理由じゃない? 往生堂の仕事は生と死の境界を維持すること──人から死を遠ざけることだから」
 胡桃の言葉が真実かはさておき、往生堂の仕事が人から死を遠ざけるというものであるならば、死が襲い掛かろうとしている女を守るには適している。もっとも胡桃の言葉を借りるのであれば、魂はすでに死んでいるため肉体にまで襲い掛かろうとしている死から守ると言うのが正しいだろうが。
 往生堂へ連れてこられた理由に納得していると胡桃も満足げに笑って不穏な言葉を口にした。
「だからあなたが生者を死に近づけないようにあなたを往生堂が保護する。鍾離さんが迎えに来るまでは往生堂の外に出ないでね?」

 失礼なことを言われても女は胡桃に怒りはしなかった。怒りよりもショックの方が大きかったのだ。
 女は脳を揺らすような声に悩まされていただけである。霊的現象かとは思っていたがその程度の認識だった。ところが命が脅かされていると言われ、さらには存在するだけでも周囲に害だと言われた。だれにも望まれず、消えることを願われているかのような苦痛が女の気分を重くしていた。
 落ち込んだ女の様子を見かねた往生堂の者たちが業務の合間に色んな話題を投げかける。璃月で行われる催しや名物料理といった観光に適した話題は、女が外へ出かけることができない現状では元気づけるどころか逆効果でしかなかった。
 静かな往生堂の一画に重々しい空間を築き上げた女を鍾離が迎えに来るのは二時間ほど後のことだった。
「どうした、元気がないな」
 隣を歩く鍾離が女の顔を覗き込んで尋ねる。女は視線を上げないまま頷くだけで理由を言わない。鍾離は見るからに慌てた様子で美味しいものでも食べようと提案する。美食で心が晴れるのは鍾離が食道楽だからだだが、腹は空腹を訴えていないものの女は気分転換することに同意した。
 チ虎魚焼きを食べ進めるうちに女は少しだけ元気を取り戻す。存外単純だなと自嘲していれば、女の表情がやわらいだことに気づいた鍾離が再度落ち込んでいた理由を尋ねた。往生堂でのあらましを聞いた鍾離は悩ましい声を出す。
「あの子は昔からああなんだ。嘘をついてはいないが、言葉選びや立ち回りに少し難がある。お前を傷つけるつもりはなかっただろう」
「……そうですよね。私も大人げなかったです」
 胡桃は世の理を見通しているかのような不思議な気配を纏っている。自信に満ちた発言や、七七代続く往生堂の堂主に相応しい堂々とした行動から大人びて見えるが、純粋で率直すぎるのはまだ年を重ねていない証拠でもあった。少女の言葉に心を乱されたのは冷静ではなかったと女は恥ずかしくなった。
 気にするなと言って鍾離は女の背を擦った。そもそも胡桃は無邪気で幼い子どもという枠に収めることすらできるかどうか、それくらい変わった少女だ。もちろんそれは璃月へ来たばかりの女は知りようもない。鍾離ですら胡桃のことは苦手なのだからなおのこと励ましに力がこもる。
 しかし鍾離は内心で苦い思いをしていた。鍾離は自分が治めていた璃月を愛している。ときに岩王帝君の意向に背く者もいたが璃月が刻んだ三千年の伝統を鍾離は誇っていた。女にも同じように璃月を愛してほしいと願っているが、このままではこの国で孤独感を抱えたまま過ごすことになってしまいそうだ。
 人に生まれたのなら人の中で暮らす方がいい。そう考えて往生堂へ女を連れて行ったが他の道も示してみるべきかもしれない。鍾離はそう考えてもう一つ女に提案をしてみる。
「明日は仙人にも会ってみるか?」
「……往生堂の方がいいんじゃなかったんですか?」
「そう思ったがこだわる必要もない」
 仙人、とたどたどしい口調で繰り返す女に鍾離はほほ笑みを向けた。稲妻にも雷電将軍と呼ばれる神は存在するが、日々の生活で人ならざるものに触れる機会は璃月ほど多くない。たとえば璃月人のように、見たことはないが仙人の存在を信じ仙府に踏み入らないようにする、などといった概念が希薄なのだ。
 七国でもっとも古い神が目の前にいることすら女にとっては非現実的な心地がしていたが、仙人という言葉を聞いてさらに現実逃避に近い感覚を覚えていた。



 鍾離に連れられて女は茶屋へ来ていた。望舒旅館という巨大な建物が近くにあり、璃月と隣国のモンドをつなぐ道沿いにあるからか人の出入りも多いようである。待ち合わせをした仙人は旅館の最上階に居を構えているという話だった。
 望舒旅館にまつわる話に耳を傾けていると「鍾離様、」と透き通る声が鍾離を呼ぶ。視線を向けた先には深い翠色の髪と古風な衣装を纏った少年が緊張した面持ちで立っていた。
「三眼五顕仙人・、召喚に応じ馳せ参じました。如何様なご用命でしょうか──」
「急に呼び立ててすまない、紹介したい人がいてな」
 鍾離の言葉に恐縮しながらは女を見た。驚きに顔を染めたは慌てて頭を垂れ、祝いの言葉を述べる。表情は変わらないがその声音はやわらかい。
「戻っていたとは知りませんでした、おめでとうございます」
「いや彼女に昔の記憶はない、人間になったんだ。だがあのときの縁がまだ切れていない。今はその時に備えている状態だ。、お前の目に彼女の魂を呪う怨嗟は見えるだろうか?」
 鍾離の問いには目を細めて女を見る。
「……細い縁ですが一筋」
 そうかと答える鍾離の顔は硬かった。
 は鍾離の会話に相槌を打ち続け、女もまた謙虚で口数の少ないとの接し方がわからずにいたため聞き役に徹していた。と女を会わせるための場だったはずだがずっと鍾離が話し続けている。これではいけないと考えた鍾離は、が話していた望舒旅館の杏仁豆腐が気になるから人数分買ってくると言って席を外そうとした。
「鍾離様、斯様なことは我、が……」
 鍾離の行動は早かった。優雅に見える歩調にもかかわらずあっという間に遠くなった背中を見ての手が宙を彷徨う。鍾離の手を煩わせてしまったと言わんばかりに顔を青くさせるを見て女は耐え切れずにくすりと笑った。ばつが悪さを顔に残したままジト目で見てくるに女は小さく謝る。
 がこれまで見せていた緊張は鍾離の離席で解かれた。が鍾離を──仙人が岩王帝君を尊敬しているのは見て取れるようにわかる。一見少年の容姿をしているからか鍾離に応対している姿は愛らしく映った。鍾離はがここまで畏まることを望んではいないように女には思えたが、初対面で不躾なことを口にするつもりはない。女は無難な話題を振ってみることにする。
「昔の私のこと、ご存じなんですか?」
「我があの方にお会いしたとき──貴女はすでにあの方と共にいた。我も色々と世話になった」
「正直まだ疑ってたんですけど……私、本当に璃月にいたんですね」
 はやむを得ないだろうと返す。
「魂が蝕まれているなら記憶を封じることは呪いに抗うための有効策だ。おそらく今後も思い出さないだろうな」
「ああいえ、別に思い出さなくてもいいんですけど……」
「思い出さなくてもいい? ……あの方のことも、思い出さなくていいと?」
 の言葉は非難ではない。だが信じられないと言いたげな色は含んでいた。鍾離が女へ向けるやさしい眼差しはが数千年前に見ていたものと変わらない。だから今世でも二人は想い合っているものとばかり思っていたのだ。
 鍾離やのように、長い時を生きるものたちの望みや信念はどれだけ長い時が過ぎようとも容易く変わりはしない。短い時のなかで変化することが人間の強みであり、長い時を生きるからこそ不変であることが仙人たちの強みなのだ。
 女も昔は自分と同じ側であったはずだが、人になって変わってしまった。それは鍾離にとって喜ばしいことではないだろう。鍾離の望みが果たされないのはにとっても歓迎できない事柄だ。
 ただ女に同じように在れと強要することもできなかった。意に添わぬ行いがどれだけの苦しみを生むのか、は身をもってしてそれを知っている。
 の発言が女の気を害したかもしれない。はそのことに気づいて目を伏せた。が言葉に迷っている間も場の空気は重くなっていった。
「鍾離様は貴方を大事になさっている」
 ようやく絞り出した言葉に女はただ頷く。心を砕かれているのはとうに理解している。鍾離の人となりもわかってきた状況で好意を向けられていることを不快には思わない。
 ただ、女にとって鍾離の気遣いはあくまで過去の自分に向けるものであった。仮に女がいずれは鍾離に対して特別な感情を抱くことになったとしても、互いのそれは同じではないかもしれないという懸念がある。だからこそまだ女は鍾離に向けられる眼差しを正面から受け取ることができないでいた。
 複雑な心情で黙り込む女をは見つめる。
「往生堂へ向かったと聞いた」
「はい昨日……堂主の胡桃さんのお世話になることもあるだろうって」
「鍾離様がいれば心配はいらないが縁を作りに行ったんだろう。あそこの堂主には生と死の理を保つ力がある。おそらく桃花(タオファ)という名は真名を隠すためだけではなく、胡桃の名を借りることでより力の影響を受けやすくするために与えられたのだ。胡桃は蝶にも縁が深い……おそらく花が蝶と共存関係にあることからも……鍾離様の深意を読み解くのは我にも容易ではないが」
「胡桃の桃……。でも、ただ使う名前を変えただけでしょう?」
「名とは真の姿を示すものであり、ときに望みの在り方を定めるもの。欺くためのものではない」
 そうなのかと理解できないなりに女は納得した。はまさに仙人らしさに満ちている。非人間的な空気や気迫のある話し方には説得力があった。鍾離がいればの発言はすんなり受け入れるのかと嘆いたことだろう。
 名はときに望みの在り方を定めるもの、そして欺くためのものでないならば鍾離が願ったのは女の幸福だけだった。人は死ぬときまでは死を知ることなく過ごすべきだとは胡桃の言だが、鍾離はこの考え方に同意している。名を与えたのは呪いの目を掻い潜るためではなく、女に襲い掛かる死の気配を女が悟らぬまま守り通し、女がただ日々を楽しんで生きていければという願いを込めたからなのだ。
 女が面映ゆい思いをしていると鍾離が盆に杏仁豆腐を載せて戻って来た。勢いよく立ち上がったが鍾離から盆を受け取る。岩王帝君に食事を運ばせるという不敬極まりないことをさせてしまった申し訳なさと己への不甲斐なさで、がこの日食べた杏仁豆腐はいつも感じる以上に霞のような口当たりになった。
 と別れ、先を歩く鍾離の背中を女は見つめた。女の視線に気づいた鍾離が振り返ってどうしたのかと尋ねる。首を横に振る女の妙な反応にも鍾離はただ破顔するだけだった。
 鍾離に手を差し出されて女は一瞬だけ躊躇った。おずおずと伸ばした手がそっと包まれ、降ろされる。手を引かれたわけではないが自然と横に並んで歩くような位置取りとなり、女は気恥ずかしさから下を向いた。
 鍾離が触れようとするたび、他人としての距離を保ち続けるように払いのけられていた。と女がどんな話をしたのかを鍾離は知らないが想定していた以上の収穫があったようだ。失ったものを取り戻したかのような充足感が鍾離を笑顔にする。女の歩調に会わせて鍾離はゆっくりと歩き始めた。
 岩王帝君と数千年の話をしたかと思えば、鳥や演劇について凡人のように語ったりと仙人らしくない姿を見せる。人の話を聞かずに物事を勝手に進めてしまうかと思えば気遣って縁を持ちよすがを増やす。そんな鍾離の優しさに縋ってしまった時点でこの手を二度と振り払えないのかもしれないと女は考えた。

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