珠璧、幾千の輝き

 彼女は不思議な存在だった。テイワット大陸の外、違う世界からやってきた旅人と同じ存在でありながら異なる存在でもあるその人間は、元素を扱えもしなければテイワットの理に慣れることすらできない非力な人間だった。
 ただ、彼女の住んでいた世界は元素の力がない代わりにテイワット大陸よりも資源が豊富で技術力が進んでいたらしい。その世界の芸能とやらを璃月で広め、それなりにいい商売をしていた。
 彼女は非力だが、良い人間だ。明るく溌溂として商売を続ける彼女には璃月がよく似合っている。話す機会が増すほどに親しみがもっと別のものへと育っていくことに気が付いたのは一体いつだっただろうか。

 めずらしく暗い顔をしているな。
 疲労が表情に滲んでいることに気づいて「どうした、具合でも悪いのか」と声をかける。彼女は今にも倒れそうなほど力なく頭を振った。
「いいえ。ここ数日すこし夢見が悪い日が続いていてあんまり眠れていないの、だからかも」
「だが……顔色が悪いぞ」
 たいしたことではない、と笑ってみせるが、その笑い方もらしくないものにしか映らなかった。このまま放っておけば良くないことが起こりそうだという直感が働き、空気を変えようとしているのをわかっていて話を続ける。
「どんな夢を見るんだ?」
「さあ、内容はあんまり……だけど『どちらも苦しい』ことだけは覚えてる」
 奇妙な返答だった。夢はときに記憶の反芻や、願望から深層心理の反映から見ることもある。記憶に残らないほどの夢となれば喜怒哀楽の余韻が残る程度で、不調が顔に出るほどそう何日も続くことはないはずだ。どちらも苦しい、という複雑な思考を残す夢が記憶に残らないのは不思議なものだった。
 彼女が自覚できないのであれば俺がどんな夢を見ているかたしかめて、それが悪夢ならば除いてやれば状況も改善するだろう。そうなれば話は早いと「眠りに効く茶を知っているんだが試してみるか? よければ振る舞おう」と提案した。茶はあくまで夢を見せるために確実に眠らせるためのものにすぎない。彼女は少しばかり考えて了承した。
 夜になり、彼女の夢へと侵入した。霧がかかったような雑念をかき分けて彼女の意識を手繰ると水平線が見えた。広大な海原に小舟が浮かび、彼女は水平線を背にして端の方に座っていた。
 遠くに陸がある。小舟はゆっくりと陸に向かって進んでいる。
 陸を見つめる彼女の顔は暗かった。対面する形で小舟に降り立つが彼女は俺を気にも留めない。何かを決めたように櫂を手に取ると彼女は船を漕いだ。漕げば小舟は少しだけ速く進む。すると彼女の顔がさらに暗くなる。
「……、……も……」
「聞こえなかった、今何と言ったんだ?」
「陸に着けば溺れた記憶もいつかは忘れられる」
 会話は成立するようだった。俺を見ないまま俺の問いに答えた彼女はそう言って櫂を投げ出す。
 彼女は溺れて意識を失ったまま璃月港沖を漂っていたところを七星の船に発見された。どうやってあの場所まで流れ着き、かつ死なずにいられたのかと船員たちは気味悪がっていたが、沖にいたこと自体は大陸に飛ばされてきた先がそこだったという説明で十分だ。だが生き延びてしまったがゆえに、広い海の真ん中で感じた恐怖と孤独はすさまじいものだっただろう。
 溺れた恐怖がよみがえって魘されている、そう考えるのは容易い。だが安易に結論を出してしまうには彼女の「どちらも苦しい」という言葉が気にかかった。陸へ上がれば溺れた苦しみから解放される、それは夢の中の彼女も口にした言葉だ。
 漕がずとも進む小舟を見ながら「この舟なら無事陸へつける」と返すほかになかった。すると彼女は初めて俺を見て、静かなほほ笑みを向けた。

 他者の夢を覗き見するのは趣味ではない。先日夢枕に立ったときも用件のみを一方的に伝えてすぐに夢を出た。夢を見ている本人と会話できるとは言えども、できるだけで相手と実りのある会話を望んだことはない。だからだろうか、夢の中で彼女と話している間じゅう奇妙な感覚を覚えていた。
 何も解決はしていないが、去り際に声をかけたことで多少彼女の眠りが安らぐことを願った。だが次の日も、その次の日も彼女の顔色は悪くなる一方だった。
「やっぱりだめみたい。朝起きると汗がすごくて」
 軽い調子で笑って返されたが、疲労困憊の状態では誤魔化せるほど綺麗に笑えてはいなかった。
 彼女が心配で毎日夢の様子を見に行くことにした。ともに夢を見るうちに、次第とこの夢が呪いの類であることを感じ取る。彼女の夢は同じ時と場所を繰り返さない、少しずつあるいは日によってそれなりの速さで陸が近づいていく。
 小舟が陸に着けば何かが起こる。彼女の体調が優れないのはそれが彼女が望まぬことだからだ。
 だが陸が一体何を指しているのかわからず、俺は下手に動くことができなかった。彼女の体調は悪化していく一方だが、同時に夢の中では陸へ向かうことを彼女自身が望んでいるのも事実だ。何かに耐えてまで得られるものがあるのだとすれば、代価を払っていない俺がそれを止めることは許されない。
 櫂を持ち、休みなく小舟を漕ぎ続ける彼女を見ているのはつらかった。疲れはしないかと何度も尋ねる。そのたびにどちらも苦しいと返ってくる。
「陸へ上がらない方がいいんじゃないか」
 とうとうそんな言葉を漏らしてしまった。はっとして口を押えて視線を逸らす。目の前にいる彼女は夢で交わした言葉を覚えてはいないが、俺に課した公平さを裏切る言動は俺が覚えている。
 気まずさで視線を合わせきれずにいれば彼女は「陸に向かわないなら溺れるしかない」と答えた。俺は何も言えずにただ黙っていた。こちらから切り出した話題が終えてしまったのだから彼女はまた漕ぐのを再開するはずだ。だが櫂を持つ手は下ろされたまま、小舟は水面にわずかな波を作るばかりだ。
「まだここにいてもいいと思う?」
 ずいぶんと弱弱しい声だった。たしかめるような、探るような、母に怒られて怯える子のような声だった。苦し紛れに頷けば「それなら」と彼女は海面を手でなぞる。すると小舟の進みが止まった。

 彼女の顔色が悪くなるのは一時的に止まった。全快とは呼べない状態が続いていたが、ここしばらくの様子を見ていれば大きな前進だと言えるだろう。罪悪感はあったがひと安心できた。
 あれから夢の小舟は完全に止まっている。彼女は小舟から海底を見下ろし、手を水面で遊ばせていた。危ないぞと声をかければ少しばかり楽しそうに笑う。
 今の状況を「呪いを止めた」と見るのであれば、あとは睡眠の質を上げてやれば徐々に体力も回復していくだろう。今度こそ安眠できる茶を振る舞おうと提案すれば、前は効果が薄かったと言いたげに彼女は悩む。軽口を叩けるようになったのは喜ばしい。
「ううん、もう大丈夫」
 晴れ晴れとした顔ではっきりと彼女は答えた。
 昼間交わした言葉が引っ掛かっていた。心配しすぎだと考えながらもどうしてか胸騒ぎが収まらず、今夜もこっそりと夢を覗きに行った。夢に入ると、止まっていたはずの小舟がかなり陸へ近づいていた。
 話しかけても彼女から応答はない。まるで俺の姿が見えず、声が聞こえていないかのようだった。最近は同じ夢の中にいたはずだ、と焦りに駆られて違和感を覚える。
 彼女の夢に入り込むのは、これが初めてではなかったのではないか。
 思えば昔からたまに妙な夢を見ることがあった。人間ほど多くはないが仙人も眠り、夢を見る。記憶力のいい俺もさすがに夢の中のことまでは曖昧にしか覚えていない、だからすっかり忘れていたがこうして一方的に彼女を眺めるのは初めてではなかった。
 いつも彼女の瞳に映らないことを残念に思っていた。数少ない夢、その中でだけ出会う相手との語らいを望むのは何もおかしなことではない。だが二千年、三千年と同じ夢に焦がれ、四千年、五千年と願いが続けば何かしらの力を得たのだろう。
 海底で見覚えのある青い水が揺れる。十の瞳がじっと俺を見ていた。そもそも孤雲閣は俺の仙力によって開けられたようなものである。降り注いだ岩の杭はいつか岩の魔神が消えたとしても盤石だ。
 ようやく夢の意図を理解して俺は彼女の手首を掴んだ。掴んでもなお彼女が俺を気に欠けることはなかったが構わず二人で海に飛び込む。水面からかろうじて顔を出す彼女の顔は驚きと恐怖に染まっている。必死に海面へ留まっていようともがく彼女にあっちで伝えたいことがあるから今は我慢しろとだけ告げて海底へと引き込んだ。
 がぼ、と肺から空気を押し出して苦しむ彼女に息を吹き込んでやれば彼女はようやく俺に気が付いた。海底でオセルが俺を見つめている。与え、奪う──夢は彼女を呪ってなどいない。
 寝台の上で彼女が水を吐き出した。上手く息ができないでいる彼女が呼吸の仕方を思い出せるように手伝う。何度か浅く息を吸った彼女は、冷静さを取り戻しつつも驚きで目を瞠った。
 二人して大雨にでも降られたような濡れ方をしていた。最後だけは本当に海の中にいたのだから当然だろう。なんでここに、なんで濡れて、と混乱する彼女を抱きしめる。服も髪も張り付いて不快だったが、冷えた彼女の肌の向こうにたしかな命のぬくもりがあるのを感じて安堵した。
「しょ、鍾離さん!」
「なんだ……」
 脱力しきった声で返事をするが彼女はまず何から聞けばいいのかわからないのか言葉に詰まった。すべてを説明するには時間がかかる。これ以上体を冷やさないようにまずは着替える必要があるだろう。彼女の質問に答えるのはそのあとがいい。
「俺と共に生きてほしい」
 ああ、だがこれだけは言っておかなければ。必死すぎる自分自身に笑えてくるが、素直に口にすると彼女の体が一瞬で硬直した。

 孤雲閣に連なる岩の山、いまや民すらこの山々こそが伝承にある岩王帝君の放った槍だと知らない封印の地へ向かう。放った感覚は今でも記憶に刻んでいるものの、随分と遠い記憶になってしまった。そんなことを考えながら槍の先に立つ。
 日の光を受けてきらめく水面がおだやかな潮騒と共に存在した。海の下にいる魔神たちは皆、強大な力を持つがゆえに消滅させきれず封印するしかないものばかりだった。
 長い年月を経て力を摩耗し封印の中で消滅した魔神もいるかもしれない。だがオセルは封印されてもなお強大な力と共に俺を見ている。今も海の下で俺が来たのを悟っているのだろう。
「今回ばかりは肝が冷えた」
 海に向かって零す。思わず笑みまで漏れてしまった。それほど気が滅入ってしまいそうな出来事だった。神の心を手放してしまった今では詳細はわからない。だが大方、槍を通して俺の力に干渉し、数千年溜め込んだ力を使って彼女をこの世界へと引きずりこんだのだろうと見立てている。
 凡人となっても人間と同じように生きられるわけではない。感謝するつもりはないが、その事実を受け止めながら彼女を愛していなければならないのだと実感させられる。
 これがヘウリアの遺物を沈めた返答なのだとすれば愉快なものだ。笑えば風がひときわ強まった気がした。
「暇ならいくらでも付き合おう。また勝たせてもらうがな」

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