花と岩

※鍾離というよりモラクス

 岩の魔神モラクスが自らの庇護下にいる民から岩神の名で呼ばれ、仙人の助力を得て璃月という国を興してから1700年が過ぎるまで魔神戦争は続いた。戦争を生き残った七神は終結の折に天理より俗世を治める地位と新たなる力を与えられ、それはいずれ「俗世の七執政」と民に称されることとなる。
 岩神モラクスを岩王帝君と呼び慕う璃月の民にとって、モラクスの逸話は自らの誇りと生活において切っても切れないものである。璃月の子どもは寝物語として聞かせられて育ち、とくに魔神戦争での勇ましいモラクスの話を好んだ。書を片手に物思いに耽っている妙齢の女もまたそうして育った。
 岩神は、はじめごく少数の民と共に暮らしていた。女はその最初の民の血の流れを汲んでいる。そのため他の民と比べたときに多少踏み込んだモラクスの話まで家に伝わっていた。たとえば、帝君は海産物が苦手である、などといったものである。
「帝君……やはり貴方様が海のものを好まないことは広く周知した方が良いのではないかと思います」
「やめろ、言うな。俺は別にこれらを食べられないというわけではないんだ」
 だいじょうぶだ、と続ける顔は強張り血の気が引いている。傍から見ると何も大丈夫ではないようにしか見受けられない表情だが、女はそれを指摘はしなかった。
 民が帝君への敬愛を込めて数多の物を捧げることは日常的な光景だった。そのたびに女は供物を調理してモラクスに振る舞うが、海産物が交じっていた場合は必ず意向を尋ねる。モラクスが好んで食さない素材であることはわかりきっているため、女が持ち帰って消費してもいい。だがモラクスは必ず「璃月の民が俺に捧げたものだからな、いただくとしよう」と答えるのだ。
 モラクスの顔は青い。なぜモラクスが海産物を苦手とするのかを女は知っていた。海から押し寄せるおぞましい形をしたモノの討伐に何年もの時間を費やすこととなったモラクスはそれらを見るのも嫌になるほど辟易とさせられたのだ。
「帝君にご助力をいただいた立場として申し訳なくはありますが……困りましたね。次は見た目では海のものが入っているとわからないように調理しましょうか。貴方様を欺くようで心苦しいものはありますが」
「いや、そうしてくれると助かる。入っているとわからなくなるだけでも心持ちが違う」
 食べられないわけではないなら、入っているとわからなければいい。妥協案としてはなかなかいいものだと感心しながら舌の上で踊る弾力のいい海の幸を噛み千切った。蛸という名の生物の手応えのなさ──今の状況で言えば歯応えと言うべきか、それはモラクスの苦々しい記憶を思い起こさせるだけであった。
 人の姿かたちをとり、人のように箸を使い、食べ物の得手不得手を語るモラクスの姿を見ていると、女は時折目の前にいる男が家屋をゆうに超える巨体を持った龍にも成れる仙人であることを忘れてしまう。女がくすくすと笑うとモラクスは居心地が悪そうな顔をした。眉目秀麗な人の姿をとるモラクスのその表情は、他の女子がいれば彼女らをすっかり虜にしてしまったことだろう。
 我が子を見守るような女のぬるい視線から逃れるべくモラクスは咳ばらいをする。「法律の話を」と話を切り出せば女の顔がきりりと締まった。
 はじまりの岩の民だから女は岩王帝君の傍にいることを許されているわけではない。女は非常に聡かった。幼子が読み書きを理解し、知恵の回し方においては一回り以上も年上の子らを凌ぐ様を見て舌を巻いたモラクスは、成長すれば傑物になるに違いないと踏んで神の子と呼ばれる天才のもとを訪れてはよく知恵を与えてやった。四千年ほど生きてきたモラクスの知恵を人でありながらそのまま受け継いだ女は、今ではモラクスと限りなく同じ景色を見る稀有な存在となってしまった。
 大陸から魔神の多くが消え、凡人の感覚で語ればもうずいぶんと時が流れた。民の生活が安定してきた璃月にはモラクスの求める契約を秩序的に守るための法整備が必要だとして、モラクスは女と共に準備を進めている最中だった。
 璃月の法律におけるもっとも重要な記述は「契約を違えた者には罰を」だ。岩王帝君はあらゆる名を持つが、その中の一つに契約の神というものがある。もはやモラクスは璃月の民すべてを把握できないほどの国の神となった。契約の一つひとつを確認するわけにもいかないため、法律という形で岩王帝君の定める璃月の在り方を一律化しようとしているのだ。女の役割はモラクスの意向を最大限法律に反映させ、整えることである。
 作成途中の法律にはまだ改善点が多く含まれている。モラクスは報告と相談を行う女を見ながら、まだ若い身でありながら数人の人間を従えて璃月の在り方を国民すべてに広げようと動いている様をあらためて評価した。大変勤勉なこの民をモラクスは気に入っている。
「法律と並行して帝君の偉業に触れた史書の編纂もつつがなく進んでおります」
 史書の編纂。女の口から出た言葉にモラクスは頭を捻った。
「……それは必要なのか? 今でも民は十分俺を知り、俺の伝統を重んじているが……」
「必要です。人の記憶は褪せるもの、そして人の命は短いものなのです。時の流れを前にして、さらには世代を重ねることで正しく伝承しない事柄も出てくるでしょう。現に私の一族に伝わる話ですらすべてを記憶する貴方様の話と一致しないものがあったのですから。これから何世代と続く璃月の歴史に貴方様の威光が正しく伝わらないことは、璃月の伝統が失われることと同義ですよ。過去を知ることは未来を知ることでもある、貴方様はだれよりも長く生きそれを体現していらっしゃるではありませんか」
 自らの手で璃月という国を作り、岩の民と共に過ごしてきた日々に当然思い入れはある。だが事の始まりが契約だったこともモラクスの中では事実だった。はじまりの民との契約に従い彼らを守り、戦い、七神になるまで残ったという事実に対して、モラクスだけが尊く得難いものに扱われるのは少しばかり奇妙である。称えられるならばモラクスとの契約を守ってきた過去の民たちも同様に扱われなければならないのではないか。そんな疑問がモラクスには拭えない。
 だが女の言う通りでもあった。人の命は短く、モラクスと契約を守ってきた民を個として捉えることは難しい。岩王帝君の歴史の中に彼らが群としてでも存在できるのであれば良い方法と言えた。伝統に対しても同じことが言える。モラクスが璃月と共に生き続ける限り璃月の歴史はモラクスの歴史である。モラクスの話が語り継がれなければ璃月の伝統は失われたと言っても決して過言ではないのだろう。
「それに……貴方様はご存じないでしょうが、人は弱さ故に時として真実を歪めてしまう生き物ですから。法律が人の弱さから目を逸らさないための戒告の役割を果たすのだとすれば、貴方様の偉業を伝える史書は人の強さを奮い立たせるものとなるでしょう」
 モラクスの成したことを人の強さに、これから成そうとしていることを人の弱さに。神のいる喜びを臆面なく告げる女に、モラクスは面映ゆさから口元を手で押さえつつ「そうか」とだけ返した。
「その史書についてですが……塩神のことはいかがなさいますか? 帝君とは直接かかわりはない話ではあるようですが、少々……載せていいものかを悩みましたので」
「彼女のことは……いい、触れないでおいてくれ。塩の民は自分たちの起こした行動を恐れ、隠れるようにして生きている。そっとしておいてやろう。彼らの尊敬と後悔は塩の民が後世に伝えていけばいい」
「……貴方様はどう思っておられるのですか、塩神のことを」
「ヘウリアか……戦いを避けることを選んだのは、民を持つ魔神としては正しい在り方ではなかったな」
「塩神と塩の民のこと、あれほど気にかけていらっしゃったではありませんか。彼女のやさしさは不要だったとお考えですか?」
「……ヘウリアの望んだもの自体は尊いと思っているぞ。ただ魔神として同じ立場にいた俺は彼女のやり方を肯定するわけにはいかないんだ」
 守るために戦うことも必要だと、そう語るモラクスに女は瞳を伏せた。正しさとはしばしば結果の影響を受ける。力こそが至上とされる戦争でなければヘウリアの手段が正しいと言える状況もあったかもしれない。だが力で他を制圧し、頂点に立った者の正義こそが正しさとなる時代だった。
 モラクスは戦うための強い力を持っていた。そしてそれを民を守ることに使った。それが今の世の正しさになったのは璃月にとって幸福なことだ。
 ヘウリアについて尋ねたのはモラクスがヘウリアを璃月の歴史だと判断するのかを知る必要があったからだったが、ヘウリアのやさしさをモラクスがどう受け止めているか、それを知りたかったのは女の私的な理由だった。
 これほど目的のために決断を実行できる強い神も心を痛める。ヘウリアの一件だけでも、どうしてモラクスが契約にこだわるのかがうかがえる。契約という段階を儲けて双方が利益と不利益を正しく認識できれば、公平さは保たれのちの辛苦が減るのだ。
 ヘウリアとは違った形のやさしさを持つモラクスに女は微笑んだ。いじわるを言いましたね、と口にすれば「ああ勘弁してくれ」と返ってくる。モラクスの表情はやわらかい。
「物怖じせず俺に意見するのはお前くらいだ、おそらく仙人たちよりもすごいぞ。俺が傍に置いているから皆気後れしてお前を嫁に引き取ることができないのだと先日民たちに言われたが、まずお前の気が強すぎるせいだろう」
「だれですか帝君にそんな不敬なことを言ったのは」
 性格の難を指摘されたことよりも民の言動に眉を吊り上げて怒り始める女にモラクスは脱力し苦笑する。幼い頃から目をかけてやったせいか女はモラクスに心を寄せすぎているきらいがある。女はモラクスを尊敬する姿勢は揺るぎなく、他の民に対して傲り高ぶることもない。加えて聡く穏やかで岩王帝君の側仕えもこなす一級の女にいまだ男が寄り付かない原因はやはりモラクスだけというわけではないだろう。
 そもそも女がだれかしらと将来を誓いあう気持ちはあるのだろうか。法律の制定に奔走し、充実した日々を過ごしているようにしか見えない女の姿を脳裏に浮かべながらモラクスは疑問を抱いた。
「まあ、お前が嫌ではないのなら俺が娶るのもいいだろう。その気になったら言うといい」
 モラクスが言えば、女は「えっ」と戸惑いを口に出す。モラクスは空にした盃の向こうで顔を赤らめている女を見つけて「悪くないな」と感じた。
 民の言葉もあながち嘘ではなかったのかもしれない。どんな形であれ女がモラクスに生涯を捧げるつもりだったのだとしたら、いっそ娶ってもらえと民が望むのも仕方ないだろう。
 他の男にくれてやるのが急に惜しくなってきたモラクスは、食事を終えたら狼狽える女を呼びつけて腕の中でその赤らんだ顔を愛でてやることに決めた。

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