遠洋

!ハピエンじゃない/夢主死ぬ/暗い
※鍾離というよりモラクス

 魔神戦争……のちにそう呼ばれる大きな戦の時代に私は生きていた。私たちが庇護を受けている魔神は強く、慈悲深い。だがそれは彼という神基準の話である。魔神の怒りを買えば、彼にとっては些細な力も非力な人間にとっては甚大な被害が出る裁きの雨となる。それでも私たちは、成す術もなく死にゆく他の領地の民たちを横目に見ながら私たちの魔神を崇めていた。彼は自らの民に対してはとても慈悲深かったのだ。
 他者の痛みを理解せず、なかったことにして魔神の力の恩恵を受けること──これが私たちの悪業であるならば、私が苦しんでいるのも当然のことなのだろう。

 彼と出会ったのは青々と茂る草原の向こう、小高い崖の下に隠れるようにして存在する空洞だった。川に仕掛けた罠に小魚がかかってはいないかを確認しに行く途中、視界の端で何かが光った気がして見に行ったのだ。魚の鱗に光が反射したかのようなような光だ、そう思わなければきっとそちらの様子を確認などしなかったに違いない。吸い込まれるようにそちらへ向かい、中の様子を窺うと青年がいた。
 彼は見る者すべてを魅了し、圧倒するような容姿をしていた。その美しさと威厳にはっと息をのむ。私に気づいた彼もまたしばらくじっと私を見つめていた。何を考えているのかわからないきらめきが私に話しかけた。
「──の民か」
 予想ではなく確信に満ちた声だった。見知らぬ他人がどうしてわかったのだと問うと、彼は少しだけ考えたあと「顔つきだ」と返してくる。他の領地で暮らす民と目立った差異があると感じたことはないが、広い大地で暮らしているのだからそういう顔つきが違うこともあるのかもしれない。
 彼は長い距離を移動してきたため疲れて休憩していたのだと話した。そうだったのかと納得し水場へ案内しようかと提案する。喉は渇いていないからいらないと言われて会話は終わった。
 沈黙が下りて、私は仕事の途中だったことを思い出す。迷ったり、けがをしたり、手助けが必要な状態でないならそれで構わないか。
 川へ戻ろうとすれば彼が声をかけてきた。もう会話は終わったものだとばかり思っていたので驚きながら振り返る。黄金はやはり何を考えているのかわからない色をして私に話しかけた。
「お前たちと魔神の関係は、公平か?」

 彼とは何度か顔を合わせた。私が川へ向かう途中、彼がいるときは必ず決まった場所できらりと何かが光る。光らないときは彼は空洞にいない。空洞で会っても日々のささやかなことを話すだけだが不思議と楽しかった。別れるとき、次会う日に思いを馳せる程度には彼と別れるのが惜しいと感じるくらいには。
 彼は岩の民らしい。岩の魔神というと遠方の大地にいる魔神だったはずだ。どんな魔神かは知らないが、聞いたことがあるのでそれなりに名を馳せる魔神なのだろう。彼の話を聞くところによると随分と気性の大人しい魔神のようだが。
 私たちは色んな話をしたけれど、やはり内容は魔神についての話に自然と偏った。彼も岩神のことを隠すことなく話したし、私もそうした。私の神の慈悲深さは必ず彼の慈悲のなさと共に語られなければならなかった。
 戦火はよりいっそう激しさを増して、私たちの魔神はここのところ少し荒れている。元々気性の激しい方だったからと言い聞かせてはいるが、庇護下にいる私たちでさえ火の粉を被らないように注意を払う日々だ。だからか少々の羨ましさがあった。彼が岩神の庇護下を抜け出して遠路はるばるこの地へやってきた理由がわからなかった。
「これはどうやって使うんだ?」
「ここをこうするの。そしたら、ほら」
「なるほど……興味深い。お前たちは手先が器用だな」
 竹筒の蓋が開かなくなり、逆さにしても中に入った水が一滴も落ちてこない構造を見て彼はいたく感心する。手先が器用なのは私たち民の誇りだった。私たちの魔神もそれを喜んでくれていた。暮らしをよりよくするのはいいことだと、無駄をなくすのはいいことだと笑ってくださったのはもうずいぶんと前のことだけれど。
「お前たちの神は幸せだな」
 そう口にした彼の表情がどこか暗く翳っていたことに気づいたけれど、私は深く追求することができなかった。
 それから幾日も経たないある日、私たちはとうとう戦渦に巻き込まれることとなった。岩の魔神が侵攻してきたのだ。私たちの神は岩神に押し負けた。力の差は歴然だった。
 彼が暗い顔をしていた理由を理解し、私は顔を青ざめさせる。もし私があのとき彼を問い質して、私たちの神に岩神の侵攻を伝えていればこうはならなかったかもしれないと。
 魔神同士の戦い、敗者に訪れるのは死である。それは魔神だけにとどまらず、その庇護下にある領地と民も例に漏れない。私は今日ここで死ぬのだ、そう感じた。
 はるか上空で繰り広げられる大規模な攻防を私たちは身を寄せ合って仰ぎ見ることしかできない。岩が舞い、閃光が散る。私たちの神が攻撃のたびに激しい光を放つせいで二体の魔神の姿を捉えることは難しい。
 岩が宙を舞っているのを私たちはただ眺めている。岩は破片すら巨大で、ひとつでも落ちてくれば私たちの命は塵のように吹き飛ぶだろう。未だここへ落ちてきていないのが不思議なほどだ。
 私たちの神は私たちが蟻のように逃げ回ることを好まなかった。自らの力に自信のある神だから、力を疑われているようで気に入らないのだ。守ってやるから逃げずに見ていろ、という言葉通り私たちは敗北の瞬間を静かに待っていた。
 神は敗れた。岩神は私たちに傷一つたりともつけはしなかった。非力な人間に被害が出ないよう、降り注ぐ攻撃のすべてを岩で払い落としながら岩の神は戦い、そして勝利を収めたのだ。
 そして岩の神は地に降りて私たちに契約を持ちかけた。庇護下に置く、という話をもちかけられて反意を示す者は一人もいない。人垣で見えない岩神の腕が空へ向かって伸びる。空を支配していた岩と同じ光を放つ腕を辿って視線を下ろしていけば、そこには空洞で会っていた青年の姿があった。

 岩神は慈悲深かった。かつて崇めた魔神などほど遠く、いつでも冷静かつ厳格に物事を見定める魔神だった。多くの魔神を殲滅する武力を誇り、人を理解できなくとも人を理解しようとする稀有な神だった。
 私たち民は岩神を崇めた。素晴らしい神と出会えた喜びを仲間同士で毎夜わかちあった。彼は強かったが、無意味に他の魔神を侵攻したりはしなかった。私たちを攻め込んできたときも、かつての神が彼との契約を違えたからだと言う。
 ただ私は知っていた。彼は私たちを庇護したが、私たちの愚かさを許したわけではないのだと。彼は知っている、私たちが他の領地の民を顧みずに生きてきたことを。
 岩神は仙人までも味方につけている。倒した魔神の庇護下にいた人間に庇護を与えるのも私たちが初めてというわけではないらしい。すでに岩王帝君の名で親しまれつつある彼はいずれ国を治める神となるだろうとも噂されていた。
 私は彼が苦手だった。親しみを込めて帝君と呼んだこともない。魔神は私たちと同じ理の中にはいないのだ、彼らが本当は何を考えているかなんて私たち人間にはわかりはしない。
 私は初めて彼に会ったときから、彼が何を考えていたのか何もわからない。
「帝君は嫌いか」
 仙人の一人がそう話しかけてきた。驚きのあまり腰が抜けて地面に尻餅をついた私を呆れたように見下ろした仙人は、手を貸しはしないが静かにその場に佇んでいる。私の気持ちが整うのを待ってくれるらしい。
 嫌いではないとだけ答えた。彼が何を考えているかわからないから苦手だなんて言えば笑い飛ばされてしまうだろう。そして凡人が神を理解しようとするなと一喝されて終わりだ。
 仙人は私の返事を受け止めた。私がそれ以上何も言えないのだということを悟ると「そうか」とだけ告げて消える。今の問いに一体何の意味があったのだろうかと考えて、考えるのをやめた。おそらくは岩神を理解できないことと同じだ。
 その日の夕暮れに岩神が訪ねてきた。嫌われているわけではないようだったから来た、と告げた彼を閉め出すなんてことが到底できるわけもなく、可能な限りの馳走を振る舞って彼をもてなした。酒を呷る彼は随分と上機嫌だった。

「この辺りも以前より瘴気が増した。魔神の怨嗟で妖魔が生まれている。まだ大地の毒になる域には至っていないがお前たちも気をつけろ」
 帝君がそう言った。私はその言葉の意味をあまり理解できなかった。問えば説明してくれたのだろう、私が理解するまできっと、何度でも。彼は面倒がりなときもあるけれど頼まれたことには真摯に応えてくれる。
 敗北した魔神の残骸に近づいたつもりはなかった。だけどいつもは通らない道を通って少し遠出をした日の夜、ひどい動悸に襲われた。目の前にあるものすべてが信じられなくなるような疑心にかられる。発狂した私は、どこか冷静さを残した思考の隅でああもう終わりだという声を今度こそ聞いた気がした。
 帝君が慌ただしく家を訪れ、何かを煎じて私に飲ませた。だけどそれで私の症状が収まることはなかった。ひどい頭痛に魘されて彼に恨み言を言い続ける私はすっかり己を見失っていた。あのときお前を殺しておけば良かっただとか、認めていない神を崇めなければならない苦痛、そんなことばかりを漏らし続ける。
 ふとした瞬間に冷静さを取り戻して謝罪するときがある。そんな私に彼は「気にするな、お前は魔神の憎悪に充てられているだけだ、本心ではないだろう」と言って背を撫でた。当然のように与えられる優しさに涙を流しながら、果たして本当にそうなのだろうかと考えた。
 彼に出会わなければよかった。彼が岩の魔神だと知っていればよかった。彼を私の神だと認めてはいない。あのとき彼に救われたかったとは思っていない。彼を神と崇めるのはつらい。どれも私の本心から生まれた言葉のように思える。魔神の憎悪に触れて、それが表に出ているだけではないのか。
 恨みつらみを言う口をもう止める気にもならなくなった頃、帝君が何かに対して一瞬だけ動揺した。背に回る腕が強張って、帝君は口を引き結び何かに耐えていた。
 それまでは「俺は気にしないからお前も気にするな」と言われて受け流され続けていた憎悪を、そのときだけは謝罪と共に受け止められる。自分が一体何を彼に言ったのか尋ねようとしたけれど、そのために開いた口はお前に呪いをかけてやると恨み言を吐き出すだけだった。
 体力を奪われてもう話すこともできなくなった日、彼は腕に私を抱いたまま胸中を明かす。慈愛に留まらない言葉を聞いて初めて、私は愛した人が自分と同じ存在ではなかったことがずっと受け入れられなかっただけなのだと悟った。
 かつて私たちは人間が閃光に消えていくのをただ見ていた。あれは私たちと同じ生物ではないからと言い聞かせて、保身のためだけに行動していた。だから帝君は私たちに情を重んじることを求めた──帝君の庇護下に入ってからは戒めを受けているのだと思って生きてきたが、今思えば彼はただ私たちに平穏に暮らして欲しかっただけなのかもしれない。
 嗚咽を聞きながら死ねるだなんて、最期まで優しい神だった。せめて終わり際くらいあの空洞で過ごしたかったものだ。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -