霓裳羽衣はいずれ

 ただいま帰りました、と往生堂に声が響く。時刻は正午を二時間ほど回った頃、まだ賑やかな璃月港の空気をそのまま持ち込んできたかのような女性の朗らかさは、静けさが満ちる往生堂にはあまり似つかわしくないものだ。もっとも、往生堂に似つかわしくない人物ならばもっと他にもいるのだが。
 往生堂は葬儀を執り行うことを仕事にしている。璃月港の奥まった場所にひっそりと建っている往生堂は昼間は戸を固く閉じ、夜間も店先に渡し守を置くのみの静かな場所だ。商業の中心地にありながら部外者とほとんど会話を持たないのは古くからの伝統や故人を尊重してのことで、璃月の人間もそれを知っているため外を出歩いている往生堂の人間を見ても彼らに話しかけることがない。例外は人ではなく仙人を送る一切を任されている鍾離くらいのものだろう。
 そのため往生堂には、往生堂に半ば身を置きながら外部との橋渡しを行うための役どころが設けられている。それが今しがた帰宅した女性であった。彼女は身内が死去した遺族の把握、葬儀に必要な物品の仕入れなど往生堂が遺族と直接関わらなければならないこと以外の雑事を担っていた。
 堂主を探す女性に鍾離が「あの子は不在だ」と伝える。彼女はそうだったかと頷いて腕に抱えていた荷物を手近な卓へと置いた。
「鍾離先生は留守を任されているんですか?」
 室内に鍾離以外の姿がなかったのを見て彼女は口にする。いつもであれば二人ほど人が常駐している堂内に一人だけ、それも鍾離だけがいたので何か緊急の外出が入ったのだろうかと疑問を覚えたのだ。
「遺族の要望で葬儀に用いる品を急遽手配し直すことになったようだ。一時間ほど前に慌ただしくして出て行った」
「はあ……それは大変ですねえ」
「自然の変動、生活様式の変遷によって時代と共に伝統は簡略化されていく……それをどこまで守り引き継いでいくかは璃月がずっと抱えていかなければならないものだ。俺としては伝統を優先すべきだと考えるところだが、それは遺族の事情を蔑ろにしていいという意味ではない。同じように、難しい判断をしなければならないこともあるだろうが遺族の心情を汲み取りつつ伝統を守っていくのが往生堂の仕事と言えるだろう」
 鍾離の大局的な見地に女性は「なるほど〜」と間延びした相槌を打つ。わかっているのかそうでないのか、鍾離の言葉を受け流したようにも聞こえる反応に鍾離は気分を害した様子はなく、彼女が置いた荷物に視線を投げた。
「あっこれ堂主に頼まれていたものです。こっちは往生堂の消耗品ですね」
「そうか、伝えておこう」
「それと……何でもいいんですけど、使っても構わない花瓶ってありますか? 花を挿したくて」
 花? 首を傾げる鍾離に女性は一輪の花を取り出して見せた。手折ってしまわないよう大事に握られていたのは一本の霓裳花だった。霓裳花は織物に使用され、一部には仙人を送る際にも使われるような高価な品種まで存在する。購入の際は大抵が株単位で扱われ、品質管理にかける経費にもよるが買うとなればそれなりに値が張る代物だ。
 大事そうにされた霓裳花は遠目にも高い品種だと鍾離には判断できた。それを一輪だけ持っているとなると理由はおのずと絞られてくる。鍾離はわずかばかりに動揺しながら問いを投げた。
「霓裳花か。珍しいものを持ってるな、どうしたんだ?」
「ふふ、いただいたんです」
 顔いっぱいに嬉しさを滲ませて話す様子を見て鍾離の心はざわついた。
 同じく往生堂に身を置き、どちらも主だって葬儀に関わることがないことから共に璃月港で調達のために歩き回ったこともある。業務外でも個人的に食事をしたことも幾度となくあった。彼女は鍾離のどんな側面も受け入れてくれる。話をするのが好きで、ときには小難しい話題を独特の価値観から切り出す鍾離に飽きずに付き合う人間は多いとは言えない。だからこそ鍾離は彼女を好ましく思っていたし、それが友に抱く以上の感情であることも薄々気づいていた。
 ただ鍾離は気が長すぎる。高価な霓裳花が一輪とはいえ贈り物として選ばれたことが指し示すものは限られているだろう。そして彼女がそれを受け入れていることも明らかで、鍾離は言葉を詰まらせるという数少ない状況に見舞われていた。
「そ、そうか……。その、なんだ……お前の幸せを俺も願っている」
「……鍾離先生もしかして何か勘違いされていませんか?」
「勘違い?」
「これは博来さんに報酬としていただいたんです。昨日は風が強かったでしょう? 鉢が倒れて掃除が大変だって言うから、時間もあったしお手伝いしたんですよ。そしたらお礼に好きなものを一つ持って行くといいって言われて……」
 送仙儀式の折には三種類の霓裳花を求めた万有商舗のオーナーの名前が出てきて鍾離は目を瞬かせる。
「せっかくだからどれを選ぼうか悩んでいたら、株が倒れた衝撃で霓裳花が一輪折れてしまったものがあったのでそれをいただいたんです。折れた霓裳花だったから博来さんは申し訳なさそうにしていたんですけど、こんなときでなければ霓裳花を持って帰る機会なんてありませんから……」
 話を聞き終えた鍾離はそっと安堵の溜息を吐く。霓裳花は伝統ある花であるため、それをわざわざ贈ったということは最高級の花嫁衣裳を用意するとの比喩が込められているのではないかとまで考えてしまったが、そこまで深読みするのは知識が豊富すぎる鍾離だけである。
 女性は鍾離の内心など知らない様子で誤解は解けたようで良かったと笑った。
「璃月中に私が実在しないだれかに求婚された噂が回ってしまうところでした」
「……俺は人のことを酒の肴にはしないぞ」
「わかってますよ。でも鍾離先生が言わなくてもこういう話は不思議と外へ出るものですから……壁に耳あり、ですよ」
「ハハッ、そうだな」
 戒めのために伝わったのか、それとも嘘も真も様々な噂が広まりやすい璃月の人々を揶揄しているのか、しばしば口にされることわざを出されて鍾離は苦笑した。岩王帝君が璃月を去ったときもあらゆる憶測が飛び交ったものだ。商業の街、契約を交わすうえで多くの思惑が飛び交う場所だからこそ、発言とその意図には気を配ろうとするのが璃月の人間には顕著だ。
 それでは、と鍾離はある提案を持ちかけることにする。彼女に特定の人物ができたというのは誤解だったが、同時にその可能性がまったくないわけではないのだという事実にも気づかされてしまった。手を打つならば早いに越したことはない、そう考えたのだ。
「お詫びに食事でも奢ろう。今夜時間はあるか?」
 もちろん、と承諾する女性の声は霓裳花をもらったと話していたときよりも弾んでいる気がした。
 葬儀には用いない花瓶を探し出して水を張る。他人の代わりに死を見続ける往生堂で、霓裳花のつややかな生が飾られているのもきっといいものだろう。

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