希みの拠り所

 七海学園──ここは海洋系のプログラムを学ぶことができる学校だ。海洋生物や資源についての分野から、船の動力など海上における工学分野まで幅広いカリキュラムを構成している日本の海洋学では屈指の名門校だ。
 創設した七海一門は海洋国家である日本で覇権を掴んでいた一族である。今もなおその絶大な力を奮い続ける彼らの教えは、たしかに一般庶子が一朝一夕では得難い価値があるとされていた。歴々と受け継がれてきた知識はそう簡単に他の追随を許さない。加えて、七海学園から排出された優秀な人材が最先端の技術を生み出し、それを七海学園に循環させていくのだからその立場は揺るぎようもなかった。
 私は人間が捨てたゴミによる海洋汚染を防ぎたくて七海学園に入学した。卒業後はいずれかの研究機関に身を置き、自然由来の力で分解するというアプローチで解決したいと考えている。プラスチックを分解するのは不可能だと言われているけれど地球には多種多様な生態系があって、まだまだ人間が発見していない生物が多く存在しているのだ。人間が科学によって生み出したものを、体内の化学反応で打ち消す生物がいたっておかしくはない。
 ただ、ここは理想だけでやっていける場所ではなかった。七海財閥から能力を見込まれた人物がさらに能力を磨くために入学している、なんてこともザラにある。専門性が高いから入試の倍率はそう高くはなかったものの、入学後の高度な授業内容についていくのが大変だった。学科ごとに方向性は定められているが、それでも多岐にわたる学習を修めなければならない。ここまでとは思わず、私は毎日出される課題に追われて校内併設の図書館へ駆け込んでいた。
 もはや涙目でも参考書を探すのはお手の物だった。何度も図書館の棚を行き来していればどこでどんな背表紙を見たか何となく覚えている。今日はここらへんの資料が必要かな、と棚を見分けて、良さそうなタイトルを見かけては手にとって本を開いた。
 そうして10分ほどが経過した頃、私がいる棚に人の気配が近づいてきた。静かな足音は着実に私の近くへやってくる。数歩離れた場所で立ち止まった人物は、そこに目当ての本があるようで私と同じく本を選んで捲り始めた。
 紙の擦れる音が響いている。一定のリズムで続くその音から察するに、隣の人物は本を立ち読みしているらしかった。私も早く本を見つけて席に戻ろう、と次の本を手に取るが欲しかった答えは載っていない。思わず唸ると隣からも声が上がる。
「自力で解決できないならば他者に助けを求めるべきだぜ。ここではその勉強もするはずだ」
 え、私に言ってる? と顔を上げれば隣の人物と目が合った。やはり私に対する言葉だったらしい。
 立っていたのは私服姿の男性だった。七海学園は私有地に立っていることもあってそれなりにセキュリティは厳しいのだが、学外の人間も入れたのかと少しだけ驚く。
 だがそれ以上に驚くべくは彼の放つ輝きだった。透けるような金髪、手足の長さといった恵まれた体格はもちろんだが、それ以上に常人は持ち得ない圧倒的なオーラがある。こんな人が傍にいてよく気にせずにいられたものだと今では信じられない気持ちにさせられるくらい人目を奪う人だ。
 呆けていると彼は「貴様は課題に行き詰っている……違うか?」と変わった物言いで尋ねてきた。まったくその通りだったので頷くと再び「海という究極の環境では人は一人で生きられない。社会も同じだ、他者を頼ることを今のうちに覚えておけ」と説かれた。
 まったくその通りなのだけど、見知らぬ人間に突然アドバイスをされて大人しく従えるほど素直ではない。一人で課題を仕上げようと奮闘していたこともあってか、そんな言い方をしなくてもいいじゃないかと胸の内に不満がわく。手元の本に視線を落として、私はぶっきらぼうに返事をした。
「わかってます。だけど理解しなきゃだめじゃないですか、課題は提出できても試験に落ちたら一緒です」
「フゥン、たしかに方法を教わるだけでは応用は利かない。あくまで自分の力で到達する……か。嫌いじゃないぜ」
「……どうも」
「ならば俺が見ていてやろう。間違っているときは教えてやる、その場で正しい解を学んだ方が定着するからな。本を調べながら正解の手応えを得るまで考え続けるのと俺が正誤だけを見極める違いはかかる時間くらいしかないだろう」
 どうしてそうなるんだ? 彼の怪訝な申し出に半身引いたが、あっという間もなく彼は私をエスコートして席に移動していた。

 彼の教え方は大変分かりやすかった。ずけずけとした物言いに近すぎる距離感は「こいつに関わっちゃだめだ」と警報を鳴らしていたのに、抵抗空しいまま話していると頭はいいしこちらの言いたいことが言葉になっていなくても汲み取ってくれるしいい人なのだろうと薄々感じ始めた。むしろ気は遣ってくれるし紳士だし、間違っても決して馬鹿にしないし、嫌そうな顔ひとつせずに正してくれる。第一印象で誤解されやすい人、そう印象を改めることにする。
「これでひと通りは理解できただろう。あとは貴様も言っていたとおり、自力で解けるように復習するといい」
「あ……ありがとうございます……!」
 自力で答えにたどり着いたときのような達成感から思わず声を張ってしまった。図書館の中では静かに、と言われた気がして慌てて口を噤む。周囲に人はいなかったが、ルールを破ったような後ろめたさを感じて、取り繕うように話題を変える。
「そういえば、調べ物はもういいんですか?」
「調べ物? 自分の論文を確認に来ただけだ、もう済んでいる」
「なるほどそれで……ここの卒業生だったんですね」
 私の立っていた棚は卒業生の論文が保管された棚ではなかったから、用事が終わって時間を潰してでもいたのだろうか。一人でそう結論を導き出していれば「いたいた龍水くん」という声とともに人が近づいてくる。声の主は校長先生だった。
「さっき言っていた件、アポイントメントが取れたから伝えておこうと思ってね。ここにいると言っていたから」
「そうか、助かる。わざわざ足を運ばせてしまってすまないな」
「構わないよ」
 校長先生にタメ口きいてる……。私は真顔になって口元を引き結ぶ。校長先生は校長先生で気にした様子もなさそうだし、一体この人は在学中どんな生徒だったんだと目を細めた。校長先生は机の上に広がる勉強道具と私とを見比べて笑みを深める。勉強を教わっていたことに気づいたのだろう。
 頑張れと激励の言葉をかけて彼は席を立った。校長先生に龍水と呼ばれていたのを思い出してそこでやっと彼の名前を聞かなかったことに気づく。まあもう会うことはないかもしれないしきにすることでもないかと勉強に戻ろうとすれば、校長先生が話しかけてきた。
「才能を見込まれたようだね」
「え?」
「彼にだよ。暇ではないんだろうけどよくここへ来ては気になった後輩に声をかけていくんだ、優秀な雛が育つ場所だとわかっているのだから活用しない手はないと言ってね。七海グループのポストに就けばそんなことを気にする必要もないだろうに」
「……七海?」
「名前は聞かなかったのかい? たしか理事長の甥だったかな。あの若さですでに財産を築き上げるくらい才能があって、船まで作って自力で乗り回すくらい知識を持っているのに、わざわざここでみっちり勉強していった努力家だよ。親族とは折り合いが良くないようだけど腐らずに前を向くいい子でね、まあ態度があれだからだろうね」
 良くも悪くもしっかり自分を持っているんだ、とほけほけ笑う校長先生は彼のことを気に入っているらしい。私は勉強を教わっただけなので才能を見込まれたとは言い難いのではないかと思ったけれど、会ったばかりの人物の真意を図ることはできなかったので否定はしないでおく。
 用事も済んだことだし教員室に戻ろうかな。そう口にした校長先生の顔がほんのりと緑色に染まった。おや、と窓の外を見れば遠くの空が緑色の光に包まれている。
 あれは何だ? 疑問を口にする前に「全員建物の中へ入れ!」と窓越しでも良く通る声が響いてきた。外で彼が空を見上げて呆然としている生徒を誘導しているのだ。だれよりも早く異変を察知し、だれよりも早く対処する様は、彼の有能さを知らしめているようだった。
「あれを浴びるな! 当たるぜ船乗りの勘は……!」
 あまりに険しい表情に、次第と生徒達も危機感を募らせていった。一人また一人と屋内へ駆け込んで行き、駆け込んできた生徒や緑色の閃光に気づいた人らで図書館も騒がしさを増す。
 幸い閃光の速度は速いとは言えず、しかし確実にこちらへ手を伸ばしてくる様子を全員が物の影から窺っていた。窓から離れなさい、と校長先生が私の背を叩く。窓際を離れながら、閃光を睨み続けている彼を盗み見る。攻撃にしては鈍く、祝福にしては異様なものの正体を限界まで粘って見極めるつもりなのだ。漠然と、そういう確信があった。
 視界のほとんどが緑色に占拠されていく。どうしてか手足が動かなくなって、悲鳴すら上げられない暗闇の中、いつかどこかで指を鳴らす音が聞こえた気がした。もし、もしも一人だけだれかを助けられるのなら、七海龍水というあの判断力に優れた男を起こして欲しい。

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