指先で慟哭

 好きな人がいる。物腰は穏やかだけどはっきりと物を言う人で、甘やかに笑う口元にいつもビターなシガレットを咥えていた。軍人らしく状況判断や物事の本質を捉える能力に優れているから、私の恋心にもきっと彼は気づいていた。
 一緒に飲みに行って、彼の少ない休日を二人きりで過ごせて、任務帰りを訪ねても歓迎のハグを受ける。だけど、二人が恋人関係かを確かめるための一般的なフレーズを口にしたら、スタンリーは俺達にはまだ早いんじゃないかと返してきた。
 やんわりと断られたことによる胸の痛みを抱えて眠りに落ちていく私を緑の閃光が包み込む。攻撃かと思っても身体は石のように重く、助けを求めることすら許されなかった。

 ずっと後悔の最中にいた。濁流のように襲い掛かる感情のせいで眠ることすらできなかった私は、自力復活者として目を覚ました。私には雑事のすべてが割り当てられていた。食事の調理に服の縫製、コーンの栽培などなど。ここにはアメリカでも屈指の科学者、軍人、エンジニアが揃っているのだから民間人ができるレベルの仕事は私が行ってしかるべきだろう。
 多忙なことは私にとって救いだった。たった一人で石化から解けたにもかかわらず、北上していた仲間に拾われたのは運が良かったとしか言いようがない。だけど行軍の中には彼もいて、再会を喜べない以上は極力接触を減らしたかったし、意識するのもつらかったのだ。
 民間人、それも事情を知っていたわけでもないのによく3700年意識を飛ばさなかったものだ、と彼らを率いる科学者のゼノはいたく感心していた。彼が好意的だから周囲も私を比較的好意的に受け入れてくれて、彼をさりげなく避けていることも目立たずに済んでいる。
 グリースが足りなくなったから浜辺で貝を採ってきてほしい。ゼノにそう頼まれて浜辺に赴き、可能な限りの貝を車に詰めて帰った。貝からどうやって油を作り出すのかわからないけど、ゼノは入手可能なものから実に様々なものを作り出す。私が知っておく必要はきっとない。お礼を受け取ったあとは布を織ることにした。
 いつもはルーナ達とおしゃべりしながら手を動かしていたけれど、今日三人は別の仕事をこなしていた。ここはただでさえ人手が足りない、布を織るのは一人でもできるから大丈夫だと言ったせいだけどやはり少し寂しい。
 動力織機を動かしながら生地を裁つ。石化前とは随分旧時代的な機械だからひどい騒音だ。機械の動く音に囲まれてしまえば外の音は一切聞こえなくなる。だから背後から声をかけられていたことに気づけなかった。
「なまえ」
 ぽん、と肩を叩かれて間抜けな声を出す。心臓をバクバクと鳴らしながら後ろを見るとスタンリーが立っていた。思わずびっくりさせないでと抗議の声を漏らせば「何度も声はかけてたんだけどね」と笑われる。ささやかな吐息に乗せられた笑みに一瞬だけほうっと見惚れたあと、我に返って視線を逸らした。
「どうしたの? ゼノのお遣い?」
「いんや、アンタに話があんのは俺。やることそれなりにあって時間も限られてんだし、逃げられないように一人のとき狙ったわけ。避けられてたかんね」
「……話って?」
「なんで俺のこと避けてんのか教えてくれ」
 白々しい態度……ではないのだろう。おそらくスタンリーが言いたいのは、手ひどく断ったわけでもないのにどうして私が事実を重く受け止めているのか理解できない、ということだ。
 私だって、ショックではあったけれど朝になれば早く気持ちを切り替えてまたやり直そうと思えただろう。スタンリーは男女問わず人気があるから、泣いて落ち込んでいるとだれかに横から掠め取られてしまう。彼の交友関係を見ていても私が一番親しくしていたし気を許されていた。だから一番可能性があるのは私だ、彼の言葉は単にもう少しプライベートを共有したいという意味だろう、と思えたかもしれない。
 だけど朝はこなかった。3700回を超える途切れのない夜が私に与えたのは、認知を十分に歪ませるだけの膨大な時間と、闇に煽られる恐怖、それらによって与えられる幻だ。
「悪夢を見てたの、ずっと」
「どんな?」
「スタンリーに嫌いだって言われる夢」
 彼は私を笑わなかった。むしろ私の手を取って、引き寄せて、真剣な表情をして視線を合わせてくる。キスでもされてしまうのではないかと思えるほどの至近距離で、彼は諭すように言葉を紡いだ。
「俺がなまえのこと嫌いとか言うわけないじゃん。好きだぜ、アンタのこと」
 渇望した言葉に体が震える。この震えは、歓喜ではない。
 前からそのつもりだったけど俺が遅すぎたね。そう口にしたスタンリーの唇が涙を流す目元に吸い寄せられていった。抱きしめられて、肺一杯に彼の煙を吸い込んで。私は息苦しさに咳をするしかできなかった。





 コーン畑で息をする虫が鳴いている。羽を擦り合わせるだけのはずが、音は不思議と調和と安らぎを世界にもたらしていた。眼下に広がるコーン畑は、月よりもはるかに深く艶めいた黄金色に輝いている。
「なあゼノ、この3700年何考えてた?」
 コーン畑の向こう、針葉樹の先にある世界の果てを見ながらスタンリーは幼馴染に尋ねた。
「ピナクルズ国立公園で硝酸が生成される可能性と割合そして我々に到達する際の流量、脳波の生み出すエネルギーがどれほどで石化を食い留めかつ硝酸の影響を受けて石化解除にまで至るか、硝酸によって脳周辺の石がイオン化したときどのようにして元の構造配列に戻るか……まあ色々と考えていたよ、時を数えながらね。そういう君は?」
「俺? 武器の扱いとか、実戦の記憶を何度も繰り返してたよ。アンタならすぐ武器を作るってわかってたかんね」
「おおなんと頼もしい、まさにその通りだったな。君にかかれば私の考えはすべてお見通しと言うわけだ」
「いや科学とかそっち系はてんでダメだから、すべてじゃないよ」
 夜が深まってもゼノは作業に没頭している。ここではだれもが必死に働いていた。疲労しないわけではない、それでも現状を嘆いたり怠けたりして時間を浪費するほど愚かな人間は集まっていない。最低限の休息で最大限の仕事をする。皆そういう風に生活している。だから必然的に『夜』は短い。
 スタンリーも暇をしていたわけではない。ゼノに任せた作業が終わるまではどの作業にも着手できなかったため、待っている間に休息を取っていただけだった。ゼノに話しかけたところで作業効率が落ちるわけではないことはわかりきっているため遠慮していないだけだ。
「なまえはずっと俺のこと考えてたらしい」
「ほう、3700年を超えた愛か。素晴らしいじゃないか、私は科学、君は武力、彼女は愛を生きて後世に残した最初の人類ということになる」
 惚気とも取れるスタンリーの言葉をゼノは喜ばしいと受け入れた。科学をこそエレガントだと言う男だが、何もそれ以外の人の営みすべてを嘲笑っているわけではない。ゼノはなまえのことをよく知らない割に気に入っている。だれの号令もなく、たった一人で孤独を凌ぎ切った人間そのものを。
 だがせっかく送った祝電を幼馴染は喜ばなかった。奇妙に感じてゼノはスタンリーを見る。スタンリーは暗い顔をして外を見つめたままだった。
「何か悩む必要があるのかいスタンリー。君の心はもう決まっているように見えるが」
 サンフランシスコへ来て作業するまでの期間、ゼノは二人の仲睦まじい姿を一度も目にしていない。それでも、スタンリーがなまえに向ける焦がれるような視線の意味は理解していたし、理解できていなかった行動の意味も点と点が線で繋がるようにたった今理解した。多忙な日々の中で余裕を作り出しては何かを探していた友の姿、あれはなまえを探していたのだと。
 文明が滅んだこの世界で、初めから形を必要としなかったものだけが残ったのだとゼノは理解していた。科学の知識、戦闘力、アメリカ国民の忠誠心、そして愛。すべてをリセットした後に必要なものはすべて手元にある。そのすべてに得難いほどの価値がある。喜びこそすれ、嘆く理由はわからなかった。スタンリーもつい数時間前まではそうだったはずだ。
 月夜に向かって口を開いたスタンリーの目は、今は遠くを見つめていた。
「俺に振られる悪夢に魘されたんだと。すっかり竦み上がって、目も合わせてくれなくなったもんだよ。なまえの笑った顔が好きだったのにさ」
 ほう、ゼノは相槌を打つ。友は聡く、決断力があり、慈悲深い。愛しい女がもう眠れぬ夜を過ごさずに済むように、幾度となく引いてきた指先を構えるのだろう。刹那は、すぐ先にある。
「俺は目を逸らされるたびにつらくなる、それを3700年だ。どうして神はいつも試練ばかり与えんのかね」
 銃声は夜のコーン畑に溶けて消えた。

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