茫洋たる海原に弾む

 約3700年後の世界で目を覚ました七海龍水が己の置かれた状況を把握するのに時間はかからなかった。
 七海財閥には金、人、娯楽、その他のあらゆるものが集まる。龍水はそれを惜しむことなく与えられ、取り上げられてなお手にした男だった。人間の能力を磨くのは経験である。龍水は高い見当識で自分の置かれた状況を判断した。龍水という男の活動に欠かせない人材であるフランソワが必ず近くに眠っていたことを知りながら、執事を起こすことがままならない状況であることも理解し、それでも世界を手に入れることにした底なしの欲望に満ちた男……それが七海龍水だった。
 新たな世界は龍水をどこまでも楽しませた。かつて旧世界で望んだものはすべて淘汰され何一つとして残っていない。それでも龍水の欲しいものが新しい世界には溢れかえっていた。人も、再構築される歴史も、それらが人に与える感動も。原始的な生活しか知らぬ人々は特に、旧世界では絶対に手に入れることができなかったものの一つだ。
 欲しい。その欲望が龍水から尽きることはない。

 船の完成には時間を要する。科学王国の人間はみな何かしらの作業にかかっていたが、龍水は造船に携わることなく他に時間を充てた。船の操舵が自分以外にありえないことはわかりきっていたが、そのための作業に加わる必要性が感じられなかったのだ。
 決して無責任なわけでも堕落を極めているわけでもない。役割が違うのだ、龍水が求められているのは船長としてのスキルであり、エンジニアまがいの作業ではない。この科学王国で完璧な船を作るのに龍水の力は不要だった。
 龍水は木々を掻き分けて森の中を歩いていた。村までの道程を覚えることも困難なほどに木々が生い茂っている。それでも龍水の歩みには迷いがない。
 眼前に広がる森を歩いたことなど一度もなく、3700年前の地形とも大きく変わっていたが、海の景色を見慣れていた龍水には瑣末なことだった。海に道などない。予測と勘で歩き、龍水はとうとう目的地へと到着した。
「やはりここにいたか」
 家屋という家屋はもちろん残っていない。蔦が這う岩が壁のように連なっているだけの、それさえも不格好に成り果てた敷地のようなものがそこにあった。その名残の内側、何かを見上げるような祈るようにも見える姿勢で龍水の恋人は眠っていた。
 岩の壁と同じようにしてその顔は蔦で覆われて目視不可能だ。だが左手の薬指で光る指輪、経年劣化で塗装や細かな意匠は削れているものの華やかなデザインのそれは、たしかに龍水が旧世界で贈った婚約指輪だった。
 恋人に近寄り、倒れた体を起こして手にしていた上着をむき出しの体にかける。冷たい石の感触はかつてよく触れた恋人の熱とは程遠い。だが龍水が悲嘆に暮れることはなかった。
「俺が先に貴様を助ける権利を得たようだな」
 ニィ、とむしろ喜ばしいことかのように龍水は口元に笑みを広げた。
「はっはー! 恋人を救い出すために海に出るという貴様好みの粋な展開! ……今も科学王国の優秀なスタッフたちが総出で船を造っているところだ。それも大型機帆船、この新世界で初の美しい船ができ上がる! 今はまだ環境が整っていないが、いずれ復活液とやらの量産体制に入れば貴様を再びこの腕に抱ける、そのときまた航海に連れ出してやろう。俺は必ずここへ戻ってくるぞ……!」
 そう言って力強く手を握る。そうすると、幾層も重なる石の下にいる恋人を感じたような気がした。最も『欲しい』と願った女に婚約指輪を贈った日が昨日のことのように思い出せる。そう遠くない間に結婚指輪をここへ重ねようと考えていた。もう叶わなくなった願望だが、龍水は少しも気にしない。
 3700年という年月を超えても腐食しない頑丈な構成をしている石だ、龍水が力の限り抱き締めても壊れることはない石像だったが、それでも壊れ物を扱うようにやさしい抱擁を交わす。俯けた顔は慈愛に満ちていた。
「起きる頃には世界が俺のものになっている、共にそれを見る日が楽しみだ」

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