六花のピアニスト

 寒い冬の日だった。
 雪がまばらに落ちていく。学期末最後の登校日ということもあり、部活生の多くが授業終了と共に帰路についた。降谷も生徒会の仕事を終えれば帰宅する予定だった。
 親友の景光は正月は兄と共に過ごすことになっているため地元へ帰るらしい。荷造りをしなければならないから、と謝罪もほどほどに降谷を置いて帰ってしまった。年内最後の登校日くらい降谷と遊びに繰り出したっていいのではないか、と多少思いはしたが、久しぶりに兄に会える嬉しさを語る幼馴染を責める気にはならなかった。
 生徒と違ってあと幾日かの登校が残っている教師も今日は仕事を切り上げて帰るようだ。そういえば、忘年会をしようと話しているのを職員室前で耳にしたな、と降谷は考える。今日ばかりは、教師もただの社会人という枠組みへ戻ることができるのだろう。学生の降谷が考える必要もないことだ。
 校内は静かなものだった。しんしんとした寒さが音になって聞こえてくるようである。切られてしまった暖房を切なく思いながら、奪われてゆく熱を補うように、指先へ息を吹きかける。
 寒かろうと降谷の作業能率は変わらない。生徒会日誌の空白の一行までしっかりと埋め、さあ終わったとばかりに立ち上がった。日誌を所定の場所に戻し、防寒着を着込んでかばんを背負う。
 生徒会室の施錠を確認して用務員室へ向かった。
「生徒会室の鍵です。よろしくお願いします」
「はいたしかに。降谷くんで最後みたいだねえ」
「ですね」
 慣れ親しんだ用務員と今年最後の挨拶をする。入学時から何かと委員会や行事に参加し、折り目正しい態度の降谷のことを初老の用務員は気に入っていた。可愛がられている自覚がある降谷は、少しばかり立ち話に花を咲かせる。
 ふと、耳に音色が届いてくることに降谷は気がづいた。耳を澄ませばピアノの演奏だとわかる。音楽室からだろうか、生徒会室にいたときは聞こえなかったはずだが。
 降谷が不思議そうに音色のする方を見ていることで用務員もそちらを見やった。
「あれかい、卒業生が来ているんだよ。外国で人気のピアニストだって聞いたけど名前は何だったかな」
「うちの卒業生でピアニストですか……珍しいですね」
 音楽に特化した学校ではないが、まあそういうこともあるだろう。降谷と用務員の間に沈黙が下りる。音楽は未だ鳴り続いていた。
「それじゃあそろそろ帰ります……お風邪を召さないでください、良いお年を」
「ありがとなあ。良いお年を」
 話を切り上げた降谷は下足箱へ向かった。そのまま靴を取り出したが、音楽室へ近づいたせいかピアノの演奏がさらに降谷の意識を奪ってしまう。音楽にさほど深い興味はないが、ピアニストの演奏をタダで聴ける機会も少ない。せっかくならばもう少し聴いてから帰ろうかと方向転換した。
 しかし、いざ音楽室の前に来ると入室するのは躊躇われた。見も知りもしない人間に演奏を聴かせてほしいと言えるほど神経が図太いわけではない。もっとも、相手が人気のピアニストであれば過度なファンサービスを要求されることも少なくないだろうし、気にする必要もないのかもしれないが。
 迷っていると降谷の目の前にあった音楽室の扉が消えていた。防音のために厚く作られた扉は、目を丸くしている女性によって開かれている。あ、えっと、と言葉を探す降谷を見て女性はまろやかに微笑んだ。
「プライベートコンサートへようこそ」
 楽しそうに微笑む女性に目を奪われなかったと言えば嘘になる。ピアノのすぐ傍に椅子を用意され、甲斐甲斐しく案内された降谷は、間近でピアニストの演奏を聴いた。降谷の明晰な頭脳をもってしても、このときの感情を上手く言葉にすることはできなかった。
 小柄で愛らしいピアニストから紡がれる重厚な音楽を聴きながら、ファンサービスを受けているのか、後輩として可愛がられているのか、先達に人生指導をされているのかわからない時間を過ごしている。女性の奏でる音楽は、芸術に明るくない降谷からしても実に様々な感情を含んでいた。音楽が、降谷に語り掛けてくるようであった。ただ、どうしてか、どの曲も淋しさを纏わせているような気がした。
 深く一礼する女性に拍手を送る。そこでようやく降谷ははっとした。女性と二人きりになるのは初めてだな、と。際立った容姿を持って生まれた降谷は得てして女性に好意を持たれることが多い。それによる弊害もあったため女性と二人きりになるのは無意識に避けていた。すっかり抜け落ちていた思考に、降谷は思わず苦笑いする。
「久しぶりに帰国したから一度ここへ来たかったの。だけど生徒がいると邪魔になるでしょう? 明日部活をしている子たちが来ることを考えれば、今日の放課後使った方が良い、って先生が言うものだから」
 だが彼女に対しては心配する必要もなさそうだ。頭の隅で考えながら降谷は相槌を打つ。どうして最終登校日の、閑散とした放課後に演奏しているのかという問いに対しての回答だった。
「生徒の前で演奏しても良かったんじゃないですか。素敵でしたよ」
「あら、正月休みを前にした高校生が年の離れた卒業生のピアノを楽しんでくれるかしら?」
「……黙秘で」
 鋭い切り込みに降谷は目を逸らす。ずい、と迫りくる女性に手を上げて降参の意を示した。
 満足そうにする女性は、ぽろりぽろりと、先ほどまでとは違った気配の音楽を奏で始める。まるで指の運動とでも言いたげに、やさしく流れるような音楽ができていく。
「何という曲ですか?」
「さあ。題名はないの、さっきも大半は自作の曲よ。しかも未発表」
「ピアニスト……なんですよね?」
「作曲家としても売れてるの。最高の舞台でしょう、お客様?」
「光栄です」
 降谷は放課後の演奏会を殊の外楽しんでいた。音楽室は最低限の空調で温められているだけで底冷えしていたが、女性の音楽と合間に交わす会話は降谷の胸の奥をあたためる何かがある。
 心地いい空間がもう少しでも長く続けばいい、そんな淡い願望から、会話の切れ目にすかさず次の話題を出すほどだった。
「そう、降谷くんは三年生なのね。じゃあ年が明けたら卒業も間近ね」
「はい」
「進学するの? それとも就職?」
「進学します。将来、警察官になりたくて」
「お巡りさん、似合いそうね」
 降谷が希望する職務は制服警官ではなかったが、ピアニストとして活動する女性が警察官の違いについて把握しているわけもなく、聞いたところでおそらく記憶にも残らない。訂正するのも面倒だった。
 将来日本を守る勇敢な男の子へ、と口にして始まった次の演奏はどこか国歌を思い起こさせる音色をしていた。目を瞑って聴き入っていれば、長いとも短いとも言えない音がしっかりと記憶に刻まれていく。とても嬉しい贈り物だ、と止まった演奏に瞼を持ち上げれば、誇りに満ちた音を奏でていたピアニストの表情は抜け落ちていた。
「辞めるのよ、ピアノ」
 ピアニストの告白は突然だった。
「弾けなくなるの、フォーカル・ジストニアっていう病気でね」
 ピアノを弾こうとすると途端に指の動きが悪くなるのだというその病気は、ピアニストが患う病としては有名なものだ。捌け口を探していたように次々と出てくる女性の話を降谷はただ黙って聞いていた。
 数年先まで詰まっていた過酷なスケジュールをこなす中で十分な治療もできず、未だ完治へ向けた効果的な治療法も見つかっていないこの病ではピアニストとしての生命を絶たれたも同然だと言って無理に仕事をしてきた。篩にかけて残った仕事を済ませて帰国したのだと言う。
 あれだけ弾けていれば問題ないように降谷には思えた。しかし音楽家からすれば、正しい音は抜け落ち、不要な音は入り、聞くに堪えないのだと言う。今弾いていたのは自作の曲だから適当で構わないのだと笑う女性の横顔は痛々しい。
 そして降谷は思い至る。ピアニストとして名を馳せる卒業生が帰郷した、学校側が飛びつきそうな機会にもかかわらずイベントが開かれなかったのは、女性を慮ってのことだったのだ。
 最後の観客が君でよかったと呟かれた言葉に、音楽がわからない、という一言が入っているような気がした。否定も肯定もさせてもらえないことに空しさを感じる。降谷は女性の話にまた耳を傾けた。
 だけど今日は調子が良かったのだと女性は話した。ピアノを弾く気もなかった、散歩くらいの軽い気持ちで学校へ来た、ここはだれも私の顔に見覚えがないからありがたい、なのに。女性はそこで言葉を切る。
「生徒会室の窓際にいたでしょう?」
 まさかそう繋がるとは思わず、降谷は「え?」と聞き返すことしかできなかった。
「降谷くんがここへ来るほんの少し前に音楽室へ来たの。君を見ていたら、なんだかピアノを弾きたくなった。あれほど弾いてたのに、もう弾かないと、弾かなくても十分だと言えるくらい満足できる演奏をあっちでしてきたのに」
 降谷を見ているとすべてが吹き飛んだと言って、ついに女性は涙を零した。
「私の音楽人生、まだまだこれからだったはずなのになあ」
 それからしばらくさめざめと泣く女性の背中を擦っていた。寒いさむい、冬の日の出会いだった。


 雪がビルを冷やしていく街中で降谷は静かに息を吐く。志半ばで折れた夢たちは、あれから少しずつ重みを増していく。頬に落ちた雪が音もなく溶けていった。

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