哀しみは未だ褪せない

「来た来た、なまえっち!おーい」
「赤司くんは……っ、」
「大したことないって、一日は検査入院するらしいけど」
 一通り説明はしてくれたんだけど難しい言葉ばっかりで覚えられなくて、と黄瀬くんは自嘲を含めた笑みを浮かべた。駆け寄った私の顔は見るからに心を乱されていたのだろう、努めて明るく振舞う黄瀬くんに気遣いを感じた。化粧室寄ってく?と聞かれたことで自分がとんでもない有様になっているのだと気づく。その場で呼吸を落ち着けて、走ったことで乱れた髪を軽く整えると首を横に振った。自分の目で無事を確認するまでは完全に不安を拭い去ることはできない。私の心境を察して黄瀬くんは「そっか」と返しただけだった。

 病室へ入ると、入口近くの壁に背を預けて立っていた青峰くんが私を見て通路を譲る。室内には彼の中学時代の友人であるバスケ部の面々が並んでいる。彼らは全員、私を見るなり朗らかに再会の挨拶をした。
 輪の中心で、病衣を纏った赤司くんがいつものように微笑んだ。
「心配させたね。来てくれてありがとう」
 倒れたのが嘘のようだ。いつもと変わらない笑顔を浮かべている赤司くんに安堵する。びっくりした、と素直に伝えれば周囲が次々と肯定の意を示した。
「俺は驚きを通り越して肝が冷えたのだよ」
「俺も〜赤ちんが自己管理怠るわけないし、何か大病におかされてるんじゃないかってさ〜」
「ただでさえ落ちつかねえなか黄瀬は葬式に来てんのかってくらい泣き始めるしよ」
「ああっ、秘密にしてって言ったのに!」
 室内はいっそう騒がしさを増していく。もう成人などとっくに過ぎたというのに、大人として生きていくためのいくつかの細事を身につけたくらいで、みんないつまでも変わらない。ここにいる彼らとは赤司くんを通して知り合ったが、中学3年だけの部活仲間でも彼にとって一生ものの友人なのだということは、この瞬間を切り取っただけでもわかる。
「とにかく大事なくて良かったです。疲労が祟ったとのことですから、どうか退院後も無理はしないようにしてください」
 黒子くんが綺麗に締めたころにはすっかり日も落ちかけていた。

「なまえ」
 見送りを終えて病室へ戻ると、赤司くんがやわらかく微笑んでいた。ベッドの端を手でぽふりと叩き、傍らへ来るよう示す。椅子を引き寄せて腰掛けると、赤司くんはそっと私の手を取った。彼の両手が私の手を真綿で包むように触れるからくすぐったい気持ちになる。小さく笑いながらどうしたのかと訊ねれば、彼はふたたび私の名を呼んだ。なまえ、と穏やかな口調で。宥めるかたわらで何かを確かめるような、そんな不思議な色味を帯びた声にどうしてか不安にさせられる。覗き込んだ彼の瞳には赤い恒星が瞬いていた。
「もって半年らしい」
 紡がれた言葉は、私たちの間でやさしい叫び声を上げた。
「……君と一緒に生きることができない」
 茫然とするほかになかった。ただ、思っていた以上に驚くことはなかった。心のどこかで「やはり」とさえ考えた。病院に着くまでの間に最悪の事態も考えたし、何より、病室へ入ったとき彼は「心配させたね」「来てくれてありがとう」しか言わなかった。私が心配しているとわかっていたのなら、その場で病状の説明をして安心を与えてくれるのが赤司征十郎というひとだった。彼にしては珍しく言葉が足りないことには心の奥底で気がついていたのだ。
 現実を直視できない……というよりは、見据えてなお受け止めきれないものがある、そんな感覚に近い。むしろ、自分の気持ちの整理がつかないことよりも、彼を案じる気持ちが強かった。良かったと、大事なかったと、安心して帰った友人らがいた間もずっと彼の身体は不調を訴えていたのだろうか、そんなことばかり浮かんでは消えた。
「苦しかった……?」
 まとまらない思考のなかから、まるで子どものような未熟な問いが零れる。「このまま死ぬだろうと、思ったよ」偽ることなく答える彼は、だから余命を聞かされても驚かなかったと続けた。
 じんわりと瞳が熱を持って視界がゆらめいた。私は呼吸の仕方を忘れたように口を開いてはまた閉じていた。
「やり残したことを消化していこうと思ってるんだ」
 重ねた手を強く握って、彼は明るく口にした。彼の体温が私の肌に溶けていく。彼は死と痛みを恐れているのではないのだと、その熱でようやく気がついた。彼に残された時間はあと半年、もっと短い可能性だってあり得る。彼が私に心を砕いてくれたように、私も彼に心を砕きたい。
「全部やろう、ひとつでも多く、素敵な日にしよう」
「ありがとう。じゃあ……ストラディヴァリウスの生演奏が聴きたいな」
「スト……、今はなんでもできる気がしちゃうなあ」
 規模の大きな願望に一瞬軽口かと考えたが、きっと本気で言っているのだろうと思い直す。普段なら私にできることじゃないと返すものだが、この究極的な問題を前にしては、どんなことだって些細なことに分類できてしまう気がした。世界に数本しかないヴァイオリンの名器だって、それを演奏する一流のヴァイオリニストだって、準備しようじゃないか。それが大切な人の余生を彩るものになるのなら。
 意気込む私を見て彼は笑う。今になって気づいたが、顔色こそ変えないものの彼は会話を交わすたび呼吸が浅くなっていく。それを悟らせないように努めていることもわかってしまったから、私は何も言えなかった。
「その前に海へ行こう、早ければ明日か、明後日にでも。症状が進行してしまえば外出許可が下りなくなるからね」
 そうだ、赤司くんは本当に死んでしまうのだ。



「演奏会クリア……っと。みんな喜んでたね」
「いい演奏だったよ」
「ほんと、貴重な経験でした」
「はは」
 リストを斜線でひとつ塗り潰して、彼が列挙した「やり残したこと」はもう半数以上消えていた。私は会社を休み、ほとんどを彼と共に過ごしている。赤司くんは私の行動を諫めることをしなかった。
「海は行ったでしょ、映画も行った、イルミネーションも見たし、」
 次は何にしようかという私の問いに頭を悩ませる彼が、血の煮立つような嫌な咳をした。慌てて傍へ寄ると、彼は力なく胸の中に倒れこんでくる。
 もうあれから三ヶ月が経過していた。せっかくだから他の患者さんも楽しめるように病院内で演奏会を開こう、と提案した彼の言葉に偽りがあったとは思わないが、彼が出歩くのも困難になってきているのは事実だ。外出が必要なものから済ませておいて正解だった、たった数日前に彼はそう口にしたばかりだった。
 薬で進行を遅らせるしか方法はないのだと主治医は話していた。私にできることは、苦しそうにする彼の背を撫でながら、ときおり吐き出される謝罪に許しを与えるのみだった。何故打ちのめされているはずのあなたが、何の希望にもなれない私に謝るのかと幾度も考えた。
「みんなには話さないの?」
 落ち着いた彼に、ずっと燻っていた問いを投げかけた。「みんな?」とだけ聞き返して質問の先を促す彼に言葉を続ける。
「帝光のみんな。赤司くんが入院したときは……もう退院できないこととか、言わなかったんでしょう?」
「ああ」
「緑間くんはよく電話をくれてるし、紫原くんも時間見つけたらお見舞いに来てくれるけど……具体的なことまでは話してないんだよね?」
「……ああ」
 予想に過ぎないが、二人とも薄々彼の不調に勘付いている気がするのだ。そうでなければこれほど頻繁に連絡を取り合ったり、顔を見に来たりはしないだろう。中学時代は特に仲の良かった二人ではあるらしいが、どちらもマイペースな気質だというのはもう知っている。勘付いているにもかかわらず核心に触れてこないのは彼から切り出すのを待っているからなのではないか。近しい人の死を暴くのは耐え難いほど恐ろしいことだと、私はよく知っている。
 赤司くんは真摯な人だった。たとえそれが相手を傷つけることになったとしても嘘は吐かない。やさしさの尺度は人それぞれだ、彼は嘘を吐かないことより相手に選択を委ねるやさしさを良しとする。そんな彼が、友人らに事実を偽って伝えている現状は理解しがたいものだった。
「あのとき……どう伝えればいいのか、考えあぐねている内にみんな来てしまったんだ」
 私は倒れた日を思い出した。
「言葉を探しても見つからなくてね。俺自身、目を背けたい気持ちがあったのかもしれない。君に言えるかもわからないくらいだった。覚悟が決まったのは、なまえ、見送りを終えて戻ってきた君の顔を見たときなんだ。……結局嘘をついてしまったままだな」
 それでも彼の覚悟が決まるのは早かっただろう。私と死に向かって歩む傍らで、死ぬことはないと伝えた友人らと接した彼は、どれほどの苦痛に身を捩ったのだろうか。私には計り知れない。
 だがもう潮時か、伝えなければ。言い切って彼は一度呼吸を置く。湛えられた赤は冬に凍えるように精細を欠いていた。
「そういえば、進行が遅れているらしい」
 彼は思い出したようにぱっと顔を上げた。薬の効能もあるが、バスケで身体を鍛えていたのが幸いしているそうだ。喜ばしい事実に顔が綻ぶ。
「本当?じゃあ……」
「残り三ヶ月も確約されたよ」
「良かった……!」
 興奮が収まらずぱたぱたと布団を叩けば彼も嬉しそうに笑った。病状が好転しているのなら、友人に余命の話をする決意は不要だっただろう。それでも、今この瞬間だけは幸せの余韻に浸っているべきなのだ。



 花瓶に入った花を取り出して広げた新聞紙に乗せる。花瓶を軽く洗って綺麗な水を注いだ。花は枯れている部分を切り落して再び花瓶へ挿す。この作業もすっかり手馴れてしまった。彩り鮮やかな花々は、週末実渕さんが持ってきたものだ。
 実渕さんは週に一度花を抱えてお見舞いに来る、高校時代の先輩だそうだ。実渕さんは赤司くんが元の生活に戻れないことを明確に知った唯一の人だった。なんでも、なかなか快復しないのを不審に思って看護師を問い詰めたらしい。それからは毎週花を持ってお見舞いに来ている。
「君がみょうじなまえさんか」
 花鋏を置くと、そう声をかけられた。振り向いた先には壮年の男性が立っていた。
「そうですが……どちら様でしょうか」
「ああ、すまない。私は赤司征臣という。少し話をしたいんだが構わないかな」
 赤司家の当主に相応しい威厳を纏った彼の父は、一切の感情を読み取らせずに望んだ。

 花瓶を置きに戻って、また病室を出た。赤司くんは検査のため不在にしていた。中庭を見渡せば散歩する患者がまばらに窺える。雨にさらされて劣化が進んだイスへ座る征臣さんにならい、隣に座った。空は嫌味なほどに快晴だった。
「入院してからしばらく、征十郎を連れまわしていたようだね」
 ヒエ、と漏れ出そうになった悲鳴は何とか喉の奥へ押し込めた。赤司家は日本有数の名家だと聞いている。厳格な父の厳しい指導の下、赤司を継ぐために必要なすべてを叩き込まれた……と赤司くん本人に。そんな人が、余命幾ばくかの息子を連れまわしている私の存在を知って許すだろうか。
 体中の水分が奪われていく感覚を覚えながら、私はぐっと膝を抑え付ける。いいや、どれだけ責められようと彼の最期は彼のためにあるべきだ。彼が望むのなら私は死の間際までだって彼を連れて外へ出る。彼の身体が石のように固くなり、背負って歩かなければならなくなったとしてもだ。
「お礼を言いたかったんだ、あの子の傍にいてくれてありがとう」
「……えっ」
 責められても堪えてみせる、と意気込んだ私は予想外の言葉を向けられて戸惑いを隠せなかった。
「倒れたと聞いても、忙しさのあまり見舞いにも来てやれなかった。一人では死の恐怖を乗り越えることなどとてもできなかっただろう。君の存在は、征十郎にとって心強いものだったはずだ」
 征臣さんはそうしてまた礼を述べた。品のある腕時計を見て「まだ終わらないか」と呟くと居住まいを正す。
「私はあの子を赤司の重責にも耐えられるよう育てなければならなかった。よくできた子でね、どんなことでもこなせる素質があったんだ。だからというわけではないが、つい気を入れすぎてしまった」
 ぽつりぽつりと征臣さんは懐かしむように話し出す。その顔に広がっているのは間違いなく父の情愛だった。
 私と赤司くんの付き合いは、緑間くんら友人と比べれば短いほうだ。だから恋人として、出会えなかった分を補うように互いの時間を共有していた。父の教育が幼かった彼にとってどれほどつらいものであったか、その心情も十分すぎるほどに聞き及んでいた。
 彼は自らの父を厳格で情に訴えることなどしない人だとは言ったが、非情とまでは言わなかった。賢い人だからこそ、彼を想って厳しく当たっているのだと知っていたのかもしれない。目の前で、彼の幼少期を懐古する征臣さんの姿を見れば、なおそう思えてくる。
 結婚を見据えたうえで、恋人としてのお付き合いを申し出てくれた彼に応えたくて、私はこれまで自分なりに一生懸命努力してきた。古くから続く名家に、易々と一般人女性を迎えてくれるとは思えなくて不安に苛まれていたのだ。彼の父に認められるには死ぬほど努力するしかないと思い込んでいた。それが他でもない彼の喪失の気配を前にして無用の長物と成り果てている。あれほど恐れた人と、初対面にして心を通わせているだなんて。
「あの子は、幼い頃に母親を亡くしていてね」
「聞きました。……ご病気だった、って」
「そうか……話していたんだな……」
 写真を見せてもらったことがある。美しい赤髪を携えた繊細そうな印象の女性が、愛らしい少年と共に花開くように微笑む写真だ。私と彼の関係に目を細めて喜色を表すその人は、妻だけでなく息子まで失おうとしていた。
「もっと違う道を示してあげれば良かった」
 震える声には後悔の色が混じっていた。

 検査を終えた彼は、私が父と共に待っていたことに少々驚いたようだったが、穏やかな顔で親子の挨拶を交わした。征臣さんは、病の進行具合について直接詳細を聞きたいと言って主治医のもとへ行く。外を歩きたいと彼が言うので私たちはそのまま出口へ向かった。
「父さんと話してたのか」
「少しだけ。赤司くんが小さかった頃のことを聞いたよ」
「俺の?」
 彼の父が語った後悔だけは伏せておいた。父の厳しい指導をつらく感じたことはあっても、その人生を後悔したことはない彼に伝える必要はないからだ。征臣さんも望まないだろう。
「なんだ、じゃあ違ったんだな」
「何が?」
「涙の跡があったから、てっきりなまえが父さんを泣かせたのかと」
「私ってそんなに気が強いように見える……?」
 彼が発した予想外の言葉を聞いて眉間に皺を寄せる。彼は可笑しそうに笑った。

 顔に翳を差して病室のドアを開けた征臣さんは、いくつか彼と言葉を交わすと「明日も来る」と口にした。病室の外まで征臣さんを見送ると、今にも泣き出しそうな瞳を私に向ける。
「征十郎を頼みます。きっと、あの子には君が必要だ」
「……そんな、」
 実の父であるあなたのほうが、そう反射で謙遜を返そうとしてはっとする。彼も征臣さんを憎みまではしていないだろうが、仮にこれが和解の足がかりになったとしても、あまり接してこなかった父と密に交流したいとまでは今更考えないだろう。彼と、彼の父の間には、それだけ長い年月に比例した溝がある。
 それでも死を目前にしては愛する息子と共に居たいのが父親の心境であるはずだ。なのに征臣さんは、彼の意思を汲んで私が傍にいることを望んでくれる。ほんのすこしの嬉しさがどうしようもない悲しさに交じっていくせいで、言葉にならない感情が心に満ちていた。家族の定義すら、彼の死を前にしては淡く輪郭を失っていくのだ。



 売店で軽食を購入している間に赤司くんの容態が急変した。病室へ戻っても彼の姿が見えず、ナースセンターへ向かうと慌ただしく集中治療室の前まで案内された。ちょうどお見舞いに来ていた黒子くんが泣きそうな顔で立っていた。まだそのときではないらしく、しばらくすると彼は落ち着いた顔色で出て来た。
 こうしてたびたび体調を崩すようになった彼を見ると、彼の寿命に終わりが近づいているのだということを実感する。ただでさえ彼は感情を表に出さない人で、容体が落ち着くと平静を装うため、普段はあまり意識できないのだ。心の準備がいつまでも整わない、という意味では相当に性質が悪かった。苦しんでいるのを隠さないで欲しい、そう求めても彼はいつも上手く私を言いくるめる。
「もっと生きていたい、あと一年、いや、また半年でもいい」
 私にすらそうそう弱さを見せてくれない彼が初めて零した願いに息が詰まりそうになった。
 彼が死んでも生きる私は、彼の気持ちに本当の意味で寄り添うことはできないのだと、彼の声音にただ漠然と感じた。彼は残される私を気遣って、痛みから自らをも欺き、私に笑いかける。対して私は、彼の優しさを享受するばかりだ。無力感に晒されながらも、涙だけは必死に堪えた。
「ごめん、ごめんね……」
 絞り出した謝罪はみっともなく掠れた。
「どうしてなまえが謝るんだ。今のは、君と一緒に生きていたいって意味だよ」
 私を責めるつもりはないと彼は言う。
「俺の人生は想像のほか短かった。でも、そうだな、君に出会えたことは幸せだったと間違いなく誇れるし、君を生涯幸せにできないことだけが悔やまれる」



「母さんは結婚指輪をしたまま棺に入ったんですか」
「棺に金属を入れてはいけないことは知っているだろう」
「そうでしたね。指輪……着けてませんよね」
「……堪えられなかったんだ。だがいつもあの輝きを眺めるよ」

「いつか、贈るつもりで用意していたんです」

「でも、幸せにできないなら、せめてつらい気持ちのまま囚われて欲しくない」
「お前が扱いかねているのなら、渡しなさい。思い出は、形を与えることで長く残る。たとえ、つらい思い出だとしても。遺された者には心を整理するためのものになるから」
「……机の、一番上の引き出しに」
「明日の朝に持ってこよう。彼女のことは任せなさい、私がお前にしてやれることは、もう、それくらいしか残っていないから」
「ありがとうございます、父さん」

「征十郎、大切に思っていたよ、お前のこと」



 彼がバスケットボールで鍛えたしなやかな筋肉はすでに失われていた。病室の外へすらろくに出て行くことができないほど彼の病状は進行している。最終的には上体を起こすことすら困難になると彼の主治医は語った。
 体調が優れないのかいつも以上に彼の口数は少なく、表情には翳りが差していた。何を言うにも言葉を選ぶような仕草を見せて、ふと何か言おうとすれば、また躊躇いがちに口を一文字に結ぶ。
 主治医を呼ぼうかと訊ねれば彼はゆるく頭を振る。そして気持ちを固めた顔をすると手招きした。私はそっと彼との距離を詰めた。
「手を出して」
 言われるままに両手を差し出すと、左手が選ばれた。割れ物でも扱うような仕草で持ち上げた手の、薬指にどこに隠していたのかわからない指輪をはめる。
「なまえ、僕と結婚してほしい」
 態度を改めた彼に言葉を失った。何を言えばいいのか、何を言いたいのかもわからず、ただ視界の中で揺れる彼を見つめる。瞳に浮かぶ知性のきらめきも、鼓膜から届くやさしい言の葉も、変わってしまった彼の、私が愛した部分だけは今も鮮明に赤司くんの中に輝いている。
「リストには載せてない、やり残したことなんだ」
 困ったように笑われて私はとうとう泣き出してしまった。最後の一秒まで、私たちはきっと幸せでいられるはずだ。



「なまえさん、ここに座りなさい」
 征臣さんが自分の隣席を指した。逡巡した末にゆるく首を振ると征臣さんは困ったように笑う。彼は自分のことを母似だと言っていたが、困ったときに浮かべる笑顔は父そっくりだ。
「君はもう私たちの家族だ。赤司の人間は堂々としていなければ」
「……はい、ありがとうございます」
 彼が幼い頃から言い含められてきたのだろう言葉を、今は私が激励として受け取る。
 征臣さんは今や当然のように私を身内として扱った。征臣さんだけでなく、彼の家に仕える人たちや遠縁までもが、私を赤司本家の人と意識して接してくる。古い家だからもっと風当たりが強いと身構えていたのに、彼の人柄、そして当主である彼の父に認められている事実は、私の出自など軽く消し飛ばすようだ。
 とはいえ私にできることなど限られていた。訪れるのは大半が赤司家に縁ある人ばかりだ、対応はすべて征臣さんが行っている。私が対応するのは彼の学生時代の知人が中心で、ほかは事前に教えられた赤司家のしきたりを守るばかりだった。彼の友人として訪れる人の中には、彼に名を聞いたことすらない人もいた。学生時代の彼の話を、彼とバスケ仲間以外の視点から語られるのは新鮮だった。
 赤司家の繋がりで訪れた人の中には、もちろん私に話しかける人もいた。赤司征十郎の妻、その存在がこれまで一切表に出ていなかったせいか、驚きや物珍しさに話しかける人もままいるようだった。話の内容は主に私たちの馴れ初めだ。改めて当時のことを話すとなると、どこか面映ゆさがある。
 赤司家の使用人が支度の一切を進めてくれるおかげで、私の親戚のときほどの慌ただしさは感じない。式はつつがなく進んだ。棺に次々と花が納められ、どこからともなく涙声が浸透していく。次第と棺から溢れていく花を見て、私は花束をプレゼントされたときのことを思い出した。
 征臣さんは泣かない。赤司家当主に足る威厳をもってそこに立っている。その隣に私も立っている。私は、あなたの妻として、きちんとここに立てているのかな。花の波をかき分けて、眠っている彼に問いかけてみたくなった。
 運ばれていく棺を眺める。どうにも気持ちが追い付いていないのかもしれないと気づいたのは、霊柩車に載せられた彼がごとりと小さな音を立てたときだった。話しかければ、かたく閉じられた瞼が持ち上がるのではないか、彼が息を引き取って何時間も経過した今でもそう期待してしまう自分がいてそう思い至ったのだ。
「顔が青い、外の空気を吸おうか」
 火葬炉に入っていく際の際まで傍にいれないのは無念だと考えながら歩いていると征臣さんが声をかけてきた。指摘されるほど調子が悪いような自覚はない。有無を言わせずに外の空気を吸うよう肩を支えられた。征臣さんに体を預けることで、ようやく自分がおぼつかない足取りをしていたことに気づく。
「征臣、さん」
「……父親と呼んでくれて構わない、そう言っただろう」
 飽きずに何度もかけられた言葉を再度言われる。喉の奥から急に熱が込み上げてくるようだった。
「燃やさないでください」
 吐き出したのはつまらない言葉だった。
「とめてください、火を、彼を、焼かないで」
 彼を連れて行かないで。情けないことにそれすら言えなかった。彼がいなくなった喪失感を受け入れてしまう気がして、ただ火を止めるようにとしか願いを口にできない。だけど涙までは別のものに置き換えることができなくて、ぼろぼろと、まるで子どもが食事を口に運びきれなかったときのように、なす術なく落としていく。
 目を瞠る征臣さんが私の背をそっと撫で、頭を抱いた。顔を覆い、申し訳なさを感じながら、やっと現実から目を逸らすことにする。生きてほしかった、もっと。あの優しい人を、死の間際まで一人残していく私を案じる人を、生かしてほしかった。彼のためなら、私は何だってできたのに。
 すべてが灰になるまでの時間私は泣いた。彼の父も、ようやく頬を濡らしたようだった。いつだったか、聞き取れなかった彼のつぶやきが鼓膜を震わす。──寄る辺ができてよかった、とあのときも彼は私たちを案じていたのだ。
 その夜は彼の遺骨を抱いたまま眠りに落ちた。七年が経っても、哀しみは未だ褪せない。

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