神のつまさき

 全身裂傷を負った降谷さんが集中治療室に運ばれて行く。直前まで意識を保っていた彼は、私を不安にさせないよう「大丈夫だ」と掠れた声で繰り返した。
 何も浮かばぬ思考で彼の言葉に返事すらできず、とうとう扉の前で握った手を離す。胸の内にいもしない神に「どうか彼を連れて行かないで」と懇願した。



 私たちは祖父母の住む島へ来ていた。最近では世界遺産にも登録されたが、歴史的な建造物が建ち並ぶ以外は目立った観光名所がない島へ、観光したいと降谷さんが望んだときは目を点にした。
「お祖父さんとお祖母さんへのご挨拶も兼ねて。……ふふ、というのは建前で君が育った景色を少しでも多く知りたいんだ」
 何も、せっかくの休みにあの島へ行かなくても。普段忙殺されているぶん、ゆっくり好きなことをすればいいのに。そんな可愛げのないことを言った私に対する彼の答えだ。
 気恥ずかしいことを言われたはずなのに、嬉しさから自然と笑みが漏れる。早速連絡すると、浮いた話がなかった私の恋人に興味津々な祖父母は来訪を快諾してくれた。
 いつも人混みのなかで過ごす降谷さんには、この島がまるで違う国のように思えたかもしれない。昭和の古い時代を連想させる森の中、昔ながらの家屋……世帯数が百にも満たないばかりか年々減る一方なため、子どもよりも蝉の方がけたたましい。
 電子レンジや冷蔵庫などの電化製品もあるものの、どれも製造年数が経った古いモデルばかりだ。時が止まったかのような島だった。
 海に沈んでいく夕日を見ながら「静かなところだね」と彼はつぶやく。海水が踝をくすぐる浅瀬を二人で歩いていた。こんなに美しい海岸だというのに、私たち以外に人はいない。
 降谷さんはここを気に入ったのだろう、握った手のひらがじんわりと熱を増す。見上げた彼の横顔は夕日に照らされて、金糸のような髪がまばゆい光を放っていた。どうしようもなくしあわせだった。

「おつかい?」
「きぬちゃんのところにね。場所はわかるだろう?」
「わかるけど……ちょっと遠いね」
 滞在三日目のことだった。
「車を出そうか?」
 彼の愛車は留守番中だ。代わりのレンタカーを意味しながら提案する降谷さんに首を振る。歩いていくから構わないと口にすれば、ついていくことにしたらしい彼は「デートだね」と楽しそうに準備を始めた。昨日の海の方がよほどそれらしいのに。
 山道を通った方が近いから、こっちを行こう。土地勘のある私が提案したので彼は反対しなかった。途中獣道もありはするが基本的には一本道だから迷うことはない、と山道へ入った。
 山道の状態を見た彼は、大岩が飛び出している山中を見て苦笑しながら、自分が先に進んで足場の確認をするよと口にした。
 だけどとりとめもないことを話して歩いているうちにすっかり道に迷ってしまった。十数年来ていないのだから、記憶にある道とは雰囲気が異なっている可能性は十分あったのに、脇道と本道の区別がつかなくなっているなんて考えもしなかった。
 木々の生い茂る夏、どの道も似たように見えるのがなおさら事態を悪化させていた。
 多少遠回りになっても舗装された道路を行くべきだった。困り果て、後悔を顔いっぱいに滲ませる私を慰めながら、とりあえず元の道を引き返そうと降谷さんが言う。
 こんな些細なやりとりすら楽しんでいる様子の彼に、申し訳なさと同時に疑問を覚えた。降谷さんなら、私が道順に不安を覚えた時点で気づいたのではないか、と。
「実は、寄り道をしてみたかったんだ」
 迷ったときに君がどんな顔をするかも気になって、などと付け加えて悪戯する子どものように彼は瞳を輝かせた。
 ひどいよと彼の胸を叩けば彼は楽し気に笑った。ここまでの道は覚えているから来た道を引き返そうと提案して、彼が私の手を握って身を翻すものだから、それ以上は何も言わずに大人しく彼へついて行く。
 まったく、彼の遊び心にも困ったものだ。だけど私も今のやりとりは少しだけ楽しかったから許してあげることにした。
 降谷さんの後ろ姿が山を探検する少年のように映り、思わず声を立てて笑うと、彼は恥ずかしそうに口を尖らせた。
「あれ、ひさしぶりだね」
 葉を揺らす音が響き、獣の類かと降谷さんが私を背に庇う。木々の奥から出てきたのは、随分と長い間会ってなかった幼馴染だった。毒のない顔は相変わらずだ。ひさしぶり、と返せばこんな場所で何をしているのかと問われた。
「おばさまのところに行こうと思ってたんだけど、迷っちゃったの」
「なんだ、じゃあおくってあげる」
 どうせ帰る場所は一緒だから、と続けた彼女の申し出をありがたく受け取って、引き返そうとした山道をまた進むことになる。彼女は降谷さんの素性を聞かなかった。
 きぬちゃん……絹枝おばさまの家に着くと頼まれていたものを渡す。せっかくだから上がってお茶でも飲んでいってと言われたのでお宅に上がることにした。ひさしぶりの家屋の中は、小さい頃の思い出しかないためかさほど懐かしさを感じなかった。
 お茶でもとは言ったが、乾物に土産物のお菓子に畑で採れた果物類に作り置きの漬物に、と出てくるのが田舎である。私は慣れたものだったが、降谷さんはそうではないらしい。続々とテーブルを埋め尽くしていく食べ物に目を丸くしている。
 彼の貴重な表情にくつくつと笑い声を立てると、参ったように「こんなに食べられるかな」と囁かれた。少しずつ摘めばいいのだと言えば目尻を下げる。
 早い時期から自立し、学生時代は勉学に打ちこんで、ストイックにも過密なスケジュールで仕事をこなす彼は、人付き合いが浅くなりがちなのだと話していた。親戚の名を挙げればキリがない田舎の大所帯に生まれた私とは真逆だ。だからこそ彼は私の親戚と関わるのを楽しんでいる節がある。家族が増えたような気になるらしい。
 おしゃべりが好きで人好きのする顔立ちや性格のため会話も弾み、今では下手すると私よりも親戚に馴染んでいるのではないかと思えるほどだった。降谷さんが私といることで少しでも人肌寂しい思いをしなくなるのはいいことだ。
 他愛ない話をした。親戚のだれが結婚しただとか、世界遺産に登録されたから島を訪れる人が増えただとか、新しい宿泊施設を作る計画があるだとか。話し込むうちに数時間が経過していたようで、そろそろ帰らなければならないのではないかとおばさまに声をかけられる。
「もう少しなら大丈夫よ、あと数日はこっちにいる予定なの。日が沈む前に帰ればいいから……」
「いいや、もう帰らなきゃいかない時間だよ。遅くなっちゃあ、まーちゃんに申し訳が立たないからね」
 まーちゃんとは私の祖母のことである。
 穏やかながらも否定することを許さない声音が自然と私を頷かせた。降谷さんが「僕がついていますから」と付け加えてくれたが、やさしさの中に強かな意思を湛えたおばさまは彼の言葉を許さなかった。
 玄関を出て庭先へ出ると、何故だかとてつもない不安に駆られた。このまま帰ってはいけない気がした。見送りに出たおばさまに視線を投げれば祖母によろしくと頼まれる。挨拶をして山道へ足を向けようとすれば、降谷さんが私を止めた。
「表から帰ろう。また迷うといけないから」
「だめよ、山道を行きなさい」
 降谷さんの提案を取り下げて、おばさまが私をきつく叱りつける。言いようのない不安でいっぱいになった私は二人の顔を交互に見て、たくさん悩んだ末に声を絞り出した。
「わたし……私、表から帰るね」
 どうしても表から帰らなければならない気がした。使命感にも似た感覚が私の体を突き動かし、山道とは逆の、公道に出る方向へ足を踏み出す。慌てた様子で私の手を取った降谷さんはどこか嬉しげな表情をしていた。戻りなさいと声を張り上げるおばさまにごめんねと謝罪して手を振った。
 降谷さんがいれば、きっとまた山道を通っても迷うことはなかったはずだった。一度通った道だし、実際彼は途中で道を覚えているから引き返そうと言ったほどだ。それでも山道以外の道から帰った方が安全だと、言い訳にも似た色の言葉を必死に繰り返して、間違っていないと自分を落ち着かせる。
 自分でもよくわからない衝動に駆られていた。隣を歩く降谷さんは先程から一言も発しない。そのことにひどく安堵しながら黙って歩みを続ける。あっちだっただろうか、こっちだっただろうかと、山道を進んでいるとき以上に思考を巡らせる。狭い島なのだ、道は必ずどこかに繋がっている。公道は祖母の家に来る際に車でも通ったし、知らない道ではない。だというにも関わらず、私は道を探っていた。
 長い長い坂を登って行くと手入れされた草木の壁が現れる。突然現れた雰囲気の違う植木に疑問を抱くこともなく進む。角を曲がると、視線の先に異邦人がいた。振り返って私を捉えた男は、酷く険しい顔をしていた。
 もしかすると、ここはすでに公道を外れた個人の敷地だったのだろうか。勝手に侵入してしまったことを謝罪すべきかと考え「あの、」と言葉を紡ごうとした瞬間、降谷さんに口を塞がれて身を引き寄せられた。
 一瞬何をされたのか理解できず、抗議の言葉を投げようとすれば繋いでいた手を強く引かれた。身を翻して走り出した彼に引き摺られるようにして私も走らざるを得なかった。
 彼のスピードに余裕を持ってついて行けるわけもなく、ひたすら足を縺れさせないことだけを意識して、彼の行動に理由を問うことも許されない私を、異邦人が恐ろしい顔で追いかけてくる。
 異様な光景だった。突然の展開に疑問が尽きない私は半ば叫ぶように「誤解を解けば許してくれるよ!」と息を切らして話す。降谷さんはただ「アレに捕まればもう戻れない!」ときつい声音を返しただけだった。
 彼の必死の形相にそれ以上は何も言えず、異邦人が追いかけてくる理由も、捕まれば終わると言う降谷さんの真意もわからないまま走り続けた。

 何とか逃げ切って、私たちは再びおばさまの家の前に戻って来た。走っても走っても縮まらなかった異邦人との差は、どこか見覚えのある道を辿って行くことで開いていった。結果的に、来た道を戻ることになったのだ。
 まだ安心はできないからおばさまの家に身を潜ませてもらった方がいいかもしれない。私は降谷さんに提案したが、彼は即座に否定した。彼の顔は曇っている。険しい顔をして「戻ってしまった、また振り出しだ。別の方法を考えないと」とつぶやいては、私を見て悲しみに満ちた、切ない顔をする。「僕もつらい、だがこれは君が願ったことだ」彼は涙を浮かべていた。
 降谷さんが何を言っているのか私には一切わからなかった。だけど、本当はもうわかっている気もしていた。何もかもが曖昧で、私の思考はぐちゃぐちゃに掻き乱されたまま、ただ一つ目の前の彼だけが浮き彫りにされているように映る。
「君が望んで始めたことなら、僕はそれを手伝う義務がある。君に願わせてしまった責任を負わなくてはならない。たとえ君が忘れてしまっていても、道を、探さなければいけないんだ」
 道を探す。ああ、そうか、道を探していたのだ。帰るべき道ではない、道を。
 いずれ何もかもを悟る、その未来を予感して私はそっと彼の手を取った。ああ、彼はいつどこでも体温が高い。なつかしい温もりに心がほぐれていくのを感じながら、震える彼の手をぎゅっと握りしめて精一杯の笑顔を浮かべる。聡い彼はただそれだけで、たったそれだけの行為で、浮かべた涙を一筋、流した。
「いいのか。この機会を逃せば、次はもう、ないんだぞ」
「いいの、もし目を覚ましたとき、あなたが一人になってしまうから。ねえ……ばかなことをした私のことを許してくれる?」
「……許すに決まってる。どれだけ長くなっても、僕を待っていてくれるなら」
 互いにもう言葉を紡ぐことはなく山道を進む。もう、私は帰るべき道を見失うことはなかった。
 一歩先へ進むたびに、横を歩く降谷さんが時を経た姿へ戻っていく。彼は童顔だから、いつになっても若いとよく羨んだものだ。だけど出会った頃はもっと幼い顔立ちをしていたのだなと、今はあの頃よりも大人っぽさを増した男性になっていたのだなと、私たちが共に過ごした月日が愛おしく感じた。終わりはすぐそこに迫っていた。



 カーテンがはためいている。電子音が一定間隔で静かに続く室内は季節の割には涼しい。窓が開いていれば暑いはずなのに、と窓辺に視線を投げれば、窓はしっかりと閉じきっていた。ああいやだ、まだ寝ぼけているのだろうか。夢から覚めた私の瞳には、痛々しい姿で眠る彼の姿が映った。
「降谷さん、…………降谷さん」
 返事はない。それもそうだろう、一命は取り留めたが彼の容体は意識不明の重体≠セ。
 回復するのか、意識が戻るかもわからないと医者は告げた。瞼を伏せて眠る彼はまるで絵画のように美しかった。生きていると言われてもあまり実感がない。どうしようもなく涙が溢れてくる。私は彼を救いたかった。
 手術中は気が気ではなくて、ずっと神経を張り詰めていたせいで気疲れしていた。やっと手術が終わり、医師に話を聞いて、彼の同僚や知人らに連絡を終えた頃にはすっかり夜も更けていた。
 許可が下りたのをいいことに、彼の眠る病室で眠りについた。ただの恋人にすぎない私が傍を離れたくないという希望を汲んでもらえたのは、彼に私以外の近しい血縁者が存在しないからだ。決して喜べることではなかった。
 夢を見た。あそこで道≠見つければ彼は目を覚ましたのだろう。だけどもし、あそこで道≠見失ってしまえば彼をここに一人遺すことになった。それだけは避けなければならなかった。
「いつまでも、待っていますから」
 眠る前、降谷さんの服から出てきたと言って渡された小箱が膝の上でバランスを崩す。彼の手を握ると、下がりきった体温が彼の不在を如実に感じさせた。同じように左手の薬指にはめられた銀色の約束をそっと胸に抱える。
 そうして季節は巡った。花の舞う春も、青く澄む夏も、彼と同じくすっかり苦手になった秋も、星が瞬く冬も、きっと彼が見ている夢の美しさにはかなうまい。

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