ああいとおしきひとへ

 みょうじなまえは花が好きだ。
 彼女はごく普通の家庭に生まれた。母親が大の花好きで、一戸建ての住宅を購入すると、その庭で様々な植物を育てた。室内でもプランターで小さな株の植物を育てるほどで、庭にも室内にも、四季によって違う花が彩を添えていたと言う。
 母親が花の移植や水やりをする傍らで手伝いをし、彼女は花に関する様々なことを教わったのだ。そのため、彼女は当然のように花を愛した。花について大層詳しいのは、単に教えられたからではないだろう。その情熱は、道端に咲いた野花の名すら当ててみせるほどだった。
 なまえからは花の香りがする。香水の類ではなく移り香だろう、彼女は親元を離れて生活するようになってからも花を育てていた。人工的でない、ほのかに運ばれてくる自然の香りは心を穏やかにさせた。
 なまえは生け花を習っている。もちろん、花が好きな彼女のことだから花を美しく飾りたいという意思もあったのだろうが、淑やかであるようにと両親が口にするからでもあった。
 着物を身にまとい、背筋を伸ばして座る。目の前に広げられた花器や花束を見回し、白魚のような手で一輪を持ち上げる。茎の寸法を測り、手にした花鋏で余分な茎を落とす。茎を断つときにかしゅん、と響く水々しい音は耳に心地いい。頭を揺らし、さくりと剣山に立てられた花は凛と咲いた。彼女は生け花のことも同様に好いていた。
 なまえはとても静かに学生生活を送っていた。俺は彼女とはそれなりに長い付き合いになるが、彼女ほど穏やかな人間を他に知らない。誰にでもやさしく、やわらかに笑い、あたたかな話し方をする。彼女を厭う人間は存在せず、友人は多かった。彼女と少しでも話したことがある人間なら誰もが慕った。
 だが、なまえは一人で過ごしていることが多かった。読書をしたり、景色を眺めたりしていた。花壇の近くにいることも多かった。やさしい人間の邪魔をしてはならないのだと友人達は考えていた。
 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花――……まさになまえはそんな女性だった。



「ほんとうなの?」
 困ったようにみょうじなまえは笑った。頷けば、さらに困ったように視線を下へ向けた。
「あなたがこの子を好きになるだなんて……」
 彼女は腕に花を抱えていた。たくさんの百合の花だった。
 ここは秘密の花園と呼ばれる場所だ。なまえのためだけに作られたこの場所には、実に様々な種類の植物が植えられていた。
 彼女はいわゆる芸術家として活動していた。箱の中に物を容れ、周囲に花を敷き詰める、そんな芸術だ。作品だけでなく使用する材料を作るところから、作品を形にするまで、全てがなまえの手によって行われる。学生当時の個人製作が話題を呼び、極めて稀なケースではあるが、大学卒業後はすぐに芸術家としての活動に身を投じた。
 ガラス、木、鉄板、粘土――素材を限定せず、あらゆるものを使って枠を組み、面には強化ガラスを張って箱が製作される。箱に容れられる物は蝋で作られる。兎や鳥をモチーフに製作することもあれば、ユニコーンのような幻想生物だったこともあった。周りに詰める花は箱の中で美観を損なわないように、彼女が自ら作った防腐剤などで加工される。
 彼女の作品は、蝋でできているとは信じられないほど精巧に作られている。だが、蝋であるからこそ、この世にあるものとは思えないと言える美しさを備えているのだ。彼女がモチーフに動物を扱うことはごく少数だ。大半を占めるのは女性を象ったもの――これこそがなまえの名を広めた芸術であった。
「俺はなまえの作品はどれも好きだよ。知っているだろう?」
「褒められたことはあるけど、好きと言われたことは一度もないわ」
「そうだったかな」
 なまえが作業しているこの空間には完成間際の作品しかない。彼女が背を向けている壁にはガラスが貼られており、奥に彼女の作品の一部が並んでいた。作品は、どれも無機質な表情をしていた。
 開かれた瞳はどこを見ているか判別が付かず、しっとりと水気を感じさせる唇は固く閉じられている。絹糸のようにつややかな髪は空気を含んだように広がり、周りに咲いた花々の間を縫うように行き渡っていた。
 まるで棺に眠る死体のようだ。
 造花でもない花がいつまでも咲いていて、中央で精巧な女性が眠っているという絵は、どれだけ美しく整えられても死の空気を纏ってしまう。しかし、なかなかどうして目を逸らせない。怖れながらも魅せられているのだろう。眺めている間に、人間が決して抗うことのできない死という定めに、早く出会ってしまいたいとすら願っている。
「その作品はあちらへ持っていくのか? それとも出資者へ?」
 制作費やブランドを考慮した莫大な額に手を出せるのは愛好家の中でも一部だが、なまえの作品が表に出ると必ず競争が起こり、取引がまとまらないことも多かった。
 どれほど評価されても、製作費以上の金額を受け取るほどのものではない、だからあまり売りたいという気持ちにならないのだ、と彼女は言う。そのため、取引がまとまらないなら作品を表には出さないと言ったことがあった。愛好家達はそれを嘆き、作品を愛好家の間で共有するシステムを作ったのだ。それがあちら――展示場だった。
 数人の愛好家が集まって、規模の大きな展示場を建てた。そこは、なまえの作品だけを飾るための美術館のような場所であった。建設費や維持費などは出資者でまかなわれ、いつでも展示場へ入る権利を手に入れる。出資者以外も、入場料を払えば誰でも閲覧が可能になっている。
 展示場はなまえの管理下にはないが、入場料や寄付などの収益は全て彼女に還元された。彼女は収入の大半を次の作品制作に宛て、その中のいくつかの作品を、心ばかりの礼として出資者に作品を譲渡する。そうして、花園に残された幾つかの作品と、出資者の手元へ個人的に渡された作品以外は、展示場に並べられ一般に開放されていた。
 周囲で多額の資金が動く、彼女を取り巻く環境というのは、外から見れば異様でしかない。
 問いかけてもなまえは作業の手を止めない。腕に抱えられた百合は、既に永遠を生きる花であった。
 傍へ寄ると、棺には他にも多くの花が飾られている。空いていた隙間を百合が埋めた。別の机に置かれた人体のパーツを手に取り、あるべき場所で組み上げられてゆく。そして二度とそこから出られぬよう固定され、完成した。
「少し余裕ができたから作っただけで……ここに置いておくつもりでいるの」
 箱にガラスで蓋をして、最後の仕上げを終えたなまえがようやく俺の質問に答える。展示場へ並べるつもりも、出資者へ譲渡する予定もないと言うのならば。
「俺が欲しいと言ったら譲ってくれるかな」
 窺うように訊ねた。彼女は目を丸くさせてこちらを見ている。
「欲しいなら、構わないけれど……」
 まるでそんなことを言われるとは思わなかった、そう言いたげな表情をしていた。
 アトリエでもあるこの場所が秘密の花園と呼ばれるのは、なまえ以外に出入りできる人間がいないからである。存在は知られているが、場所や詳しい情報については開示されておらず、一般の愛好家や出資者ですら立ち入ったことはない。ただ一人、俺を除けば。
 俺も出資者の一人だ。そもそもなまえが芸術の道に進んだのは、他でもない俺が支援して彼女の作品を広めたからだった。彼女がそれを知っているかどうかはわからないが、知らなかったとしても薄々気がついてはいるだろう。偶然は意図して作るものだ。彼女にはそれだけの価値があった。
 花園の所有者は彼女にしているが、敷地は俺が持つ土地の中にある。愛好家は侵入しようとしてもできないのだ。花園に残された数点の作品は彼女と俺以外の目に触れることがないため、彼らは花園に作品が残されているという明確な事実さえ知らない。
 俺はこれまでなまえの作品を欲したことはなかった。彼女が芸術家を辞めない限り、永遠に作品を見ることができるのだから当然だ。花園に残された作品は俺の所有とも言えるかもしれないが、直接俺が望んだことは一度もない。なまえもそう思っているから驚いているのだろう。
「ほんとうに気に入ったのね」
「もちろん」
 箱の中で眠る芸術に視線を落とす。白ばかりの花々の中に赤が沈んでいた。なまえが何を思って製作に取り掛かったかなど想像に容易い。こんなものを作るくせに、いつまでも自らの芸術にとらわれているから愛おしいのだった。
 彼女はそっと目を伏せる。
「なまえの死は美しい、今はそれだけで十分だ」
 やさしく話し、赦すように笑った。

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