最後の晩餐

!カニバリズムをにおわせる描写あり

 広い部屋にいた。踏み出した足の裏で絨毯のやわらかさを感じる。壁には洗練された装飾の格調高い額がずらりと掛けられていた。絵は見えない、真っ黒な状態だった。床は大理石でできていて、天井は驚くほどに高い。目の前にあるテーブルはセットかと思うほど長い。
 空席に腰掛けると、燭台の明るさが増した。眼前には上品なデザインのシルバーと、空の皿が一枚、並べられている。まだ食事前なのだろう、白さを保って綺麗なままだ。
 窓から覗く空には雲一つなく、清廉された濃藍に染まっていた。豪華な晩餐の席だった。
「月が輝く素敵な夜に、ご列席どうもありがとう」
 突如として声が響く。いつ現れたのか、それとも最初からそこにいたのか。耳に心地良い男性の声は、私の座っている場所の対極、テーブルの一番端から聞こえてくるようだった。
 室内は決して暗いわけでもないのに、明かりで相手の顔を確認することができない。
 晩餐へ参加するために相応しい格好であらねばならないからか、私は着飾っていた。ドレスなんて着たことがなければ、間近で見たこともないのに、細やかな刺繍まで再現されているからおかしなものだ。だが、ドレスを身に纏っている自分の姿に違和感を抱くことはなく、むしろ今の姿が自然にすら思えた。
 私はこの晩餐を楽しみにしている。いつもならば経験することのない優雅な席や豪勢な食事を、と言うわけではなく――何が楽しみなのかわからないが――とにかく楽しみなのだ。絵の見えない額も、エスコートするように動くイスも、ひとりでに灯る燭台も、全てがエンターテインメントに溢れている。
「では、食事を始めよう」
 その言葉で、テーブルの上のシルバーがきらりと輝いた。まるで彼ら自体がこの晩餐を待ち遠しくしているかのように。メニューが説明されると、まばたきの間に磁器を料理が彩る。
「今夜は髄膜を用意させたんだ。特に調理はしていないんだが……ああ、マリネにした方が良かったかな」
 そういえば、そう、私、この夢が大嫌い。

「いつからでしたっけ」
 訊ねる黒子くんの顔には血の気が感じられなかった。
「去年の冬。黒子くん達の応援に行った……ウィンターカップから、ずっと」
 溜息をつく気力もないほどに疲れていた。黒子くんは心配そうに眉を下げて私を見ていた。元気がないときはいつも話を聞いてくれる。
「夢は深層心理を表すとも言いますよね。あの日嫌な体験をしたとか……」
「何も。試合を観て、みんなの打ち上げに呼んでもらって、その後帰っただけだよ」
「監督と一緒でしたよね?」
「うん。だから帰りに変な薬を嗅がされてトリップした、なんてことはない」
 起きれば部屋着が汗でぐっしょりと濡れていた、と言う朝をもう何度も繰り返していた。
 冬から始まって春になり、夏になりと季節が移り変わっても変わらない悪夢。吐き気を催すような内容に耐え切れず、三日に一度はこのように気分の悪い朝を過ごす。
 黒子くんに不安を零して、いつも解決策が出ないまま終わる。夢の内容が凄惨すぎてストレス発散にまでは至らない。
 昼食の調達に向かっていた火神くんが、腕いっぱいにパンを抱えて帰ってきた。その光景にすら胸が重くなり、せり上がって来るものがある。
 今日は昼になっても夢の映像が鮮明に残っていたからか、口に運ぶものというだけで体が拒否反応を起こしていた。重い音を立てて落とされる大量のパンから隠れるように、腕で視界を覆って机に顔を伏せた。
「あ……わり、今日だめだったか」
「気にしないで……」
 教室の中は食べ物の匂いで溢れかえっている。逃げたい気持ちは十分にあったが、身体を起こす気にならない、どうやら動くことも困難になっているようだった。
「日に日に悪化していくな、大丈夫なのかよ」
「ううーん」
「病人扱いされるのは嫌かもしれませんが、ボク達では心因的なストレス以外に原因が思い当たりません。……やはり一度、カウンセリングを受けてはどうでしょうか」
 今、気分が優れないのは、優しい言葉をかけながらも火神くんがパンを貪っていることが胸焼けを助長させているからなのだが、火神くんにとっては理不尽な意見でしかないため、口にするのはやめた。私の勝手な都合で振り回してはわるい。
 彼らはこれ以上ないくらい心配して、親身になってくれている。なのに、カウンセリングや心療内科という響きを嫌がって、なかなか診察に行けずにいた。苦しいと言いながら、解決できるかもしれないことを先延ばしにして、行動せずにいる私が全面的に悪い。
「せめて監督に相談すべきです。従姉妹なんでしょう」
 黒子くんの言葉が頭に響いた。
「従姉妹だから、言いにくいの。普通にしてても何かと気にかけてくれて、ただでさえ忙しいのに私に時間割いてくれたり、迷惑だってかけてるのに……」
「迷惑とか、そういうもんじゃねーだろ。カントクは、何も言わないで具合悪そうにしてるほうが心配すると思うぜ」
 火神くんが痛いところを突いてきた。考えてわからないほど馬鹿なつもりはないが、気づかないようにしていたのだ。
 できる限り隠しても、鋭いリコちゃんには隠しきれないことの方が多い。だけど「大丈夫」を貫き通せば強くは聞かずに引き下がってくれる。私の気持ちを、尊重してくれる。それを知っていて、甘えていた。
「やっぱり、ちゃんと、行かなきゃなあ……」
 涙目で二人を見れば、不安を汲み取ってくれたのか、勇気づけるように微笑んでくれた。
「付き添いますよ」
「俺も。恐いだろうけど、傍にいてやっから」
「……ありがとう……」
 話している内に、火神くんのパンの量も減っていた。窓を開けて換気もしていたからか匂いも緩和されていて、体調も快復に向かっている。気分が晴れはじめ、思わず口を次いで出た。
 今日は何だったか、聞きたい?
 二人は揃って首を横に振った。予想はしていたことだが、そう真っ向から拒否しなくてもいいのではないだろうか。
 何の話かとは言わずもがな、夢で見た晩餐のメニューのことである。



「やっと話してくれる気になったのね」
 リコちゃんが眉を下げる。
「心配したのよ」
「ごめんね、リコちゃん」
 放課後、バスケ部の練習はすでに始まっている時間帯だったが、監督としてそこにいなければならないリコちゃんが私の隣にいた。黒子くんや火神くんに言われた通り、リコちゃんに相談することにしたからだった。
 これあげるわ、と冷たいジュースを渡される。途中にある自販機で買ってきてくれたのだろう。有り難い気遣いだが、今日はいつにも増して喉を通らなかった。朝も昼も、何も食べていない。不思議なことだが、お腹は空腹を訴えなかった。
 ……まるで食事後のように、お腹が満たされた感覚を覚えていた。リコちゃんは缶のフタが開けられないことに何も言わない。
「冬にさ、嫌な夢を見た、って言ったよね」
「……ウィンターカップが終わってから見た夢の話?」
 丸められた瞳は、それがどうしたのか、と語っていた。
「あれが続いてるの」
「続いてるって……まさか、あの日から……」
「ずっと。毎日」
「毎日!?」
 リコちゃんが勢いよく顔を覗き込んできた。表情が驚きに染まっている。
 相談、とは言ったが、もはや報告のようなものだった。病院で正式に検査を受けるよう勧められ、もう予約も済ませてある。この日を迎える前に、黒子くんと火神くんに付き添ってもらって行ったカウンセリングでの結果だった。
 具体的な原因がわからなかったのだ。自分や友人の力で乗り越えられそうにないならば、医学的な治療での回復に当たったほうが、学生生活に及ぶ影響も少ないだろう、とのことだった。疲れてしまったと言うのか、ここまで来てしまったのなら、と話す決心がついた。
「人の臓器を食べさせられる夢だなんて言ってなかった?」
「指や腕……のときもあるかな」
「あんた、なんでもっと早く私に相談しなかったのよ!」
 そんな夢、異常だわ。顔いっぱいに不安と心配を広げてリコちゃんは口にした。
 悪気はないのだろう。分かってはいても、荒んだ私の心に「異常」という言葉がぐさりと刺さる。私は異常なのか。それもそうだろう、食人なんて、いくら夢の中であり、望んで食べているわけではないと言えども、常軌を逸した内容だ。
 黒子くんの言っていた深層心理を考えれば、本当に嫌がっているかもわからない。
「いつ病院へ行くのか教えて、私も一緒に行くわ。一日くらい、練習メニューを渡せばみんなだけでもこなせるもの」
 リコちゃんが胸元から小さな手帳を取り出した。四角で囲まれた数字の中から、予約を入れた日を指して、時間を告げる。予定を書き込みながら「来月、遠いわね」とつぶやいた。有名な医者だと聞いている。その人を頼りにして訪れる人が多いのだろう、仕方ないことだ。
 メニュー。今日は、右腿のオッソブーコだった。どろどろに溶けた骨髄が、美味しかった。



 夏のインターハイ。みんなが努力して再び訪れた舞台に、私も足を運んだ。会場へ来るまでの道のりでも、強い日差しにさらされて体力が尽きてしまいそうなほどだった。なけなしの防衛策でしかなかったが、日傘を差してきたのは間違いではなかっただろう。
「体調はどうですか?」
「あんまり」
 肩を竦めると黒子くんの表情に影が差した。着替えやらユニフォームやらが詰められたバッグのショルダー部分を、強く握りしめている。
 医者にかかって、与えられた薬を飲んでも、症状は一向によくならなかった。何もできることがないとわかっていても、心やさしい黒子くんは、自分の無力さを責めるのだ。
「診断結果、過度のストレスでしたよね」
「忘れてしまったのは、負荷があまりにも大きすぎたからかもしれないって。衝撃的な内容だった可能性が高いから、無理に思い出そうとしない方がいいって言われたよ」
「原因がわかれば対処もできるんでしょうが……もどかしいですね」
 まるで自分のことのように項垂れる黒子くんの姿に、申し訳なさが溢れてきた。大切な試合前の選手に気を遣わせるわけにはいけないのに。慌てて元気な素振りを見せると、頬に冷たいものが当てられた。
「今日も食ってないんだろ、暑いからこれくらいは飲んでおかねーと危ないぜ」
 火神くんが押し当てていたスポーツドリンクを私の手のひらの中に落とす。次いで、抱えていたビニール袋を漁ってサンドイッチを出した。同じように私に手渡す。
「一応持っとけよ」
 食べられなくても渡されるのが習慣となっていた。食べられなければ火神くんの胃に収まるだけだから気にしなくていいのだと言われるのだ。
「無理して来ない方がよかったんじゃねーか?」
「だめだよ、せっかくインターハイ出場できるのに。応援しないと!」
 悪夢は欠かさず見ているが睡眠時間は十分と呼べるほどだった。そのためか、寝覚めは悪くとも隈ができたことはない。化粧をすれば血色も隠せるのだから、症状を知らなければ一見健康に見えるものだった。だからこそ、二人から強く帰宅を勧められることはない。
 そろそろ時間が差し迫っているのではないかと訊ねれば、二人は渋々とみんなが待っている場所へ向かった。私は試合開始まで辺りを散策していることにする。
「あれ、お腹空いた……」
 久しぶりの感覚に戸惑い、疑ったが、空腹感を覚えていることに気がついた。何故だろうかと思う間にも空腹感は加速していく。
 火神くんからもらったサンドイッチを、初めて食べることにした。

 視力が良い方ではない、どちらかと言えば悪い方だと言える。外を歩くときは気分で眼鏡をかけなかったりもするが、授業中は必ず眼鏡をかけているし、物が見えないときも眼鏡をかけることにしている。前方の席を確保できず、客席の真中辺りで観戦するよう断念せざるを得なかったため、バッグから眼鏡を取り出した。
「すいませーん、そこって空いて……」
 上から声が降り、顔を上げると見覚えのある人が立っていた。オレンジを基調としたジャージを着ている。ジャージに書かれた文字は、やはりどこか覚えがあるものだ。たしか、黒子くんの旧友がいる……と言っていた学校だったではないだろうか。
「あ、誠凛の……監督の従姉妹さんだったよな?」
「はい。ええっと、」
「高尾和成でっす、久しぶり」
 にこり、と人好きのする笑顔で高尾さんが手をひらりと振った。続けて「そこいい?」と私を越えた席を指差して訊ねる。私は通路側に座っていて、奥の席は空いていた。そこへ座りたいのだ。
 頷くと、高尾さんは前を通って空いていた席に座った。さらに後からやってきた高身長の男子が高尾さんを挟んだ向こう側へ座る。「ほら、真ちゃんも自己紹介しろって!」と高尾さんに力強く腕を叩かれた男子は、不機嫌そうに緑間真太郎だ、と口にした。
「観戦ですか?」
「まあそんな感じ。俺達の試合は午後からで時間が中途半端に空いてんだ。だから黒子達の試合観ようかって話になってさ。真ちゃんもそわそわしてるし」
「いい加減なことを言うな」
「いって! 冗談だろ、マジで叩くのやめてくんねーかな」
 寡黙な緑間さんと、ぽんぽんと快活に話す高尾さんは、実に対照的だった。だがそりが合わないというわけではないのか、険悪な空気にはならなかった。
「初心者? 良ければ試合の解説とかしよっか」
 場を仕切り直すように高尾さんが会話を切り替える。
「いえ、観戦しづらいでしょうから……」
「気にしないでいーって、どうせ観戦中も試合してるみてーにブツブツ言うんだぜ?」
 高尾さんのおどけた話し方に、くすりと笑ってしまう。テレビの生中継では解説を交えて試合を放送していることもあるが、そんなものなのだろうか。
「それなら、お言葉に甘えて」
 面倒見が良いのだろう。せっかくこう言ってくれているのだから、これ以上断るのは失礼だ。一人で観戦するのも味気ないのだから、と頼むことにした。

 吐き気がしている。胃が痛い。
 いや、これは胃が痛い、のだろうか。吐き気のせいで意識がぼんやりとして、胃が痛いのか正常に判断できない。原因は先ほど食べたサンドイッチだろう。食事のリズムが不規則な中、いきなり固形物を摂取したのがいけなかった。
 高尾さんの解説を聞きながら不調に耐える。疑問に答えてくれる解説者が隣にいる状態で観戦できるのだ。これほど良い体験はないだろう思うと途中退席する気にはならなかった。
「顔青いけど、もしかして体調悪い?」
「……少しだけ……」
「会場の熱気にやられてんのかな、熱中症って可能性も……」
 顔色をうかがいながら、高尾さんが心配そうな声で訊ねた。さすが、運動部だけあって熱中症などについての知識は豊富なのだろう。
 このまま無理をすれば倒れてしまうだろう、その自覚があるほど体調は芳しくないのだが、どうしてかこの場を離れたくないという気持ちが強かった。最後まで誠凛の試合を、みんなが頑張っている姿を観ていたかった。
「いったん外に出て風に当たった方が良い気がすっけどなあ。動ける?」
「試合、終わってないので」
 動けないわけではなかったが首を振った。顔をまじまじと見られれば逃げられないかもしれないと思ったが、高尾さんは覗き込んでくるようなことはしなかった。
「……そっか」
「いずれにせよ水分補給はしておくべきなのだよ。飲み物がなければ言え、高尾が買いに行く」
「俺かよ! 行くけどね!? そうだ、たしか濡れタオル入れて――あった、使って」
 どうして濡れタオルを持っているのか、熱中症ではないだろうから使っても意味はないのではないか、思うことは色々あったが好意を無下にするのもはばかられ、黙って受け取った。
 バッグの中に入れたままだったスポーツドリンクを取り出す。ただの液体でも、胃の中に何かを入れる気分ではなかった。だが、事情を二人に説明するわけにもいかず、説明する余力ももちろんない。行動を見守られているせいで飲まないという選択肢が取れないことに弱りながら、恐るおそるペットボトルの口を傾ける。
 塩辛い、それが最近まともに食事をしていない舌の感想だ。だが私はこの感覚を知っていた。今朝起きたときに、口内に残っていた、塩分の感覚だ。
 メニューを口にする、とろけるような声が脳を何度も震わせる。
 二人は心配して、試合観戦をしながらも気分はどうかと何度も訊ねてくれた。塩辛いと感じたが水分を摂ったことで多少気分が和らぐ。瞼の裏に浮かび上がって来る映像は極力考えないようにした。
 無事誠凛が勝ち進んだ。高尾さんと緑間さんも「勝ち進んでもらわなければ困る」と言いながら、ほっとしたような顔をしていた。二人が属する高校とすぐに当たることはないが、順当に進めば戦うことになるらしい。
 誠凛のみんながベンチに戻っていくのを確認すると席を立った。空気の通りが良い場所へ連れて行くと申し出てくれるが丁重に断る。それでも、今度こそは引かないと言うように笑顔を向けられた。
 高尾さんにバッグを預けて後をついて行った。私の周りには優しい人が多すぎる。そう思いながら、時折ふらつくのを緑間さんに支えられつつ、歩いた。

 休憩ができるスペースに座っていると遠くから名前を呼ばれた気がした。顔を上げれば、試合が終わってみんなに指示を出しているはずのリコちゃんが、慌てた様子で駆けて来るのが見える。連絡していないのにどうして、と目を丸くさせていれば、緑間さんが黒子くんにメールしたのだと教えてくれた。黒子くんの旧友は、緑間くんで合っていたのか。
 傍まで来たリコちゃんと少し話すと、二人はお大事にと言って会場へ戻って行った。お礼を言うタイミングを逃してしまったから、後で黒子くんを介して伝えてもらえなければならないだろう。
 片手に持っていた飲み物を私の膝の上に置き、両手を添えさせる。垂れていた髪を掻き上げて顔色を見ていた。
「真っ青じゃない、タクシー呼ぶから帰りなさい」
「いい、いいよ。横になってれば楽になるから」
 頭を左右に振る。その振動すら眩暈を引き起こさせた。
「正直に言って。具合はどうなの」
「ちょっとだけ、意識飛びそうかなって……でも本当に平気だから」
「もう! 色々なことが重なって、体調が崩れたのかしら。下手に動かせないわね、水飲んで横になって。昨日は何か食べた?」
 どっちの話だろう、と考えて相当参っていることに気がついた。現実の話に決まっている。頭を再度振った。
 味のついたものは口にできない。お米の自然な甘さはまだ大丈夫だったが、バターが使われているような味の濃い、胃にくる料理は論外だった。肉類は、視界に入れるのすらだめになっている。水は飲める、と言ってからというものの、リコちゃんは過剰な量の水とサプリメントを携帯するようになった。栄養不足をできるだけ補えるようにと、私にも持たせるのだ。それくらい、私の不摂生は酷かった。
 湧かなくなっていた食欲が突然湧いたのは、いつにも増して体調が良くなかったことを表していたのかもしれない。気づけなかった数時間前の自分を呪う、と溜息を吐いた。
「そこまでして観る試合でもないでしょうに」
「やだ……だって、みんながバスケしてるの、見てると楽しいんだもん……」
「なまえってそこまでバスケが好きだったかしら?」
 そうだ、そういえば、私はこんなにバスケが好きだっただろうか。リコちゃんの言葉に、自分自身でも驚きと疑問に染まった。
 去年のウィンターカップは「応援に来てね」と言われて、時間に余裕もあったし何となく寄ってみた、くらいの感覚で会場に来た。誠凛が試合をする時間帯すら把握していない状態で、景虎おじさんには「来るなら俺が迎えに行ったのに」なんて言われた。
 今は、もはや執着していると言える域だ。どうして、だろう。あの日、白熱した戦いを目にしたし、柄になく感動してスポーツも良いものだなんて考えた。だが、それだけでこんなにも執着できるとは思えない。
「しばらくここにいるから、少し寝なさい。起きたら帰ること、いいわね」
「リコちゃん、」
「おばさまにも申し訳が立たないわ。譲らないわよ」
 電話でタクシーを呼んでいるリコちゃんを脇目に口をつぐんだ。リコちゃんを心配させたくないからと不調を隠し続けて、結果こうしてインターハイ中にリコちゃんの貴重な時間を奪ってしまっている。リコちゃんは選手の傍にいるはずだった。これ以上迷惑はかけられない。
 意思に反して、瞼がゆらゆらと降りて来る。眠気が来てしまえば、吐き気や胃痛と言った不調も麻酔を打たれたように気にならなくなってくる。どうして自分がバスケに執着しているかなど、薄れていく意識の中ではどうでも良くなってしまった。
 まだ太陽が照る明るい時間だ、眠ってもあの夢は見ないだろう。
「リコちゃん」
「なあに?」
「ビデオ、撮ってね」
「はいはい。おやすみ」
 河原くんに頼むわ、という声を遠くに聞いた。





「おかしいな、まだ夜ではなかったはずだが」
「まあ……構わないか。僕と君の晩餐に外界など、時の流れなど関係ない。僕は君のために存在し、君のためにいつでも料理を振る舞うのだから」
「とは言ったが、実はもう出せるものがない。僕が振舞える全てを、君はすでに食した。だから、これで最後」
「だが、最後に相応しい、至高のものを用意させてもらった」
「きっと、君にとってこの世に存在するどんな食材よりも美味なことだろう。……そうであることを願うよ」
「どうぞ。ごゆっくり召し上がれ、なまえ」
 波打つ心臓に、シルバーを優しく刺し入れた。




「あっ……、はあ、っリコちゃん?」
 勢いよく起き上がった。嫌な汗をかいていた。
 リコちゃんがいない。
「リコちゃ、」
 リコちゃんがいない。
「さいご……さいごって、いって」
 夢の中の晩餐。いつも私と席を共にしている彼は、これで最後だと言った。そういう演出に過ぎないのか、はたまた真実か。
 どちらでもいい、とにかく今はこの不快感をどうにかしたい。心臓を、食べてしまった。食べるものは日に日に違った。人間を一人、解体して食べているようだとは思っていたが、まさか完成する日が来るとは。最後が、心臓だとは。
 いや、本当に最後ではないはずだ。先ほど食べた心臓では人体を構成するのに足りない。ある部分が足りない。眼球が、足りない。
 思い出したくはなかったが思い出した方が良い気がした。いつも通りの晩餐、いつも通りの夢の中でだけ感じる高揚、いつも通りでない口上。
 思い出せ、何か違うものがあった、何か、いつもは見なかったものを、見たはずだ。思い出せ、思い出せ。確信だった。
 思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ、
「あ、」
 男性の顔を見た。色が異なる双眸。赤い瞳に、赤が少し抜けたような瞳。赤い髪を携えていた、人。どれも私が食べていたはずのもの。
「リコちゃん……!」
 助けて、そこにいるの。
「なまえさん? 大丈夫ですか、落ち着いてください。相田さんはタクシーが来たか確認に向かいましたから、もうしばらく待てば来ますよ。――やはり具合が悪いようですね、まだ横になっていた方が……ああ、すみません、相田さんが走って行ったので名前しか聞けなくて」
 叫んだ。



「タクシーが来たか見に行こうと思ったんだけど、なまえを一人にするのは不安で……赤司くんが近くを通ったから、彼になまえを頼んでその場を離れたの。途中で目を覚ましたみたいで、赤司くんが事情を説明してくれていたらしいんだけどね、突然……。私が戻ったときには、すごい形相で泣いてて、私を見るなり走って抱き着いてきたのよ。震えもすごくて、怯え方が尋常じゃなかったわ」
「まあ、赤司がこえーのは分かるけど……寝ぼけてたんじゃないのか?」
「……そのことなんだけど、おかしなことを言うのよ。もう食べたくない、あの人に止めさせて……って」
「どういうことだ? 例のなまえが見てた夢の話か?」
「ええ。なまえが言うには、赤司くんが夢に出てきた晩餐の相手だって」
「そりゃ、なんつーか……おかしな話だな」
「でしょ?」
「赤司がなまえの夢に現れて自分の臓器食べさせる、なんてできるわけねーんだしよ」
「そうよね、そう。あまりにもなまえが必死に言うものだから、本当にそうなのかと思えてきてたけど」
「お前それはさすがに赤司に失礼じゃないか」
「だって彼の、特にウィンターカップでの話を聞いたらあり得そうじゃない?」
「おいおい……」
「でもなまえが勝手に赤司くんの夢を見たと仮定しても、あんなに怯えられるはずがないのよ。会ったこともないって言ってたのよ、知らない人間の夢なんて見れないでしょ」
「それは……そう、だな。つってもすれ違ったことすらないとは言い切れねーわけだし、本人や周囲が思ってる以上に、その、病んでるのかも」
「、そうね……、少なくとも記憶は混濁してるわ。日を改めて病院に、」
「……あの」
「おわっ! 黒子、いたのかよ」
「盗み聞きは良くないわよ黒子くん」
「すみません、ですが聞こえてきた会話の中で気になることがあって」
「気になること?」
「みょうじさん、赤司くんと会ったことありますよ」
「……そうなの?」
「去年のウィンターカップ、僕が赤司くんに呼び出されてキセキの世代が集合したときです。偶然火神くんは僕達がいた集合場所へ来たんですが、みょうじさんも一緒に来ていて。会場へ入ろうとしていたところで火神くんを見かけたから声をかけたんだと言っていました」
「それは、つまり」
「みょうじさんもあの場にいました。すれ違ったどころの話ではなく、しっかりとあの面子を見ていたと思います。もちろん赤司くんのことも」
「赤司くんを知らなかったわけではない……ってこと?」
「でもなまえは赤司を見たこともないように話してたって……」
「僕も、まさか夢に出ていたのが赤司くんだとは思いもなかったんですが、これは……」



「……もしそうなら、あの子、赤司くんのこと受け入れられないわ」

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