5

 帰国後すぐに降谷はなまえに身辺整理をさせて空港へ向かった。
 離陸する機体から外の景色を眺めているなまえが両親に話もできなかったと呟く。死の気配から逃げるような慌ただしさに、もう二度と日本へ帰ってくることが叶わないのではと感傷に浸るなまえを降谷が抱き寄せた。また帰って来られるよと降谷が言えば、なまえは降谷の肩に顔を埋めた。
 初めて降り立つアメリカの空気は乾燥していた。空咳をするなまえを見て降谷が心配そうな顔をしていると、短いクラクションが鳴らされる。ベルモットが離れた場所に停まる高級車から手を振っていた。
 目鼻立ちのくっきりとした美女を前にしてなまえは頬を染める。二人が対面するのは初めてだが、ブルック邸襲撃前、ベルモットは変装し一方的になまえを見知っていた。
 ベルモットは以前見たときよりも幾分かまた変化があったかという印象をなまえに対して抱く。降谷が焦燥に駆られるのも納得がいく進行速度と言えるだろう。
 なまえが英語を話せないため、車内ではずっと日本語が飛び交っていた。せっかく長期滞在するのだから英語を覚えればいいと提案するベルモットになまえは頷く。
 郷に入っては郷に従えということわざがある。それに、薬を開発するスタッフは概ねアメリカ人だ。診察などにおいてスタッフと関わる機会も多くなることを思えば意思疎通を潤滑に行うためには英語を話せる方がいい。
 今後の打ち合わせに雑談を交えていれば車は巨大な高層ビルに入った。二人が連れて来られたのはビルの地下駐車場だ。車を降りる三人の他に人は見当たらない。
 エレベーターへ乗り込むとベルモットがエレベーター内の非常ボタンを押し、監視カメラへ向かってサインを送った。エレベーターが音もなく動き始める。
 上昇を始めたエレベーターは数階程度上ったところで止まった。だがすぐさま右に移動を始めて、予想だにしない動きに対応できなかったなまえがバランスを崩した。
 よろけたなまえを支えながら降谷は苦笑した。真っ当な人間の協力を得るとは微塵も考えていなかったが、明らかに政府や警察組織の目を眩ますための構造をしたビルに海外の犯罪者は大胆なものだと感じたのだ。こうして隠れ蓑に金を厭わない犯罪者には降谷もよく手を焼いたものだ。だが計画を滞りなく進めなければならない今回ばかりは頼もしい。
 到着した先には白衣のスタッフが十数名とスーツの上に白衣を着た人間が一人いた。奥から荒い足取りでマザー・テリブルが出てくる。
「彼がここのオーナーよ。医療器具とスタッフを提供してくれるわ。アンナの研究室に大勢匿うのは無理だし、バイタルのチェックは人手が必要でしょう?」
「ケヴィン・レナードです」
「よろしくお願いします、ケヴィン」
 降谷はケヴィンと固い握手を交わす。飛び交う英語に理解が追い付かないなまえは困惑を隠せずに笑みを貼り付けていた。緊張した様子のなまえにケヴィンは気さくに微笑みかける。
「ベルモットさん、我々もタダでは動かない。薬が完成したら我が社に権利のすべてを譲渡してもらう……約束に偽りはありませんね?」
「ええ、もちろんそう約束したはずだけど……。なあに、アンナが撤回したの?」
「いえミセス・テリブルとは会話もままならなかったので」
「アタシは忙しいって何度言ってもこの男聞きやしなくて鬱陶しいったらないよ! 契約書だの誓約書だの、そういったのは全部会社辞めたときに捨てたんだ、ピートが治ればそれで構わないんだからあとは好きにしな」
「オーケー、契約についてはあとで私たちと話しましょう。それで……どれくらい準備は進んだの?」
 折り合いが悪い二人を諌めてベルモットが尋ねる。ケヴィンがスタッフに業務に戻るよう指示を出して三人を案内した。
 不機嫌そうではあるがマザー・テリブルも同行するつもりなのかなまえの横を歩いている。
 なまえはマザー・テリブルから視線を向けられていることに気づき、恐るおそる顔を上げた。自分よりも大柄な女性、加えて先ほどの剣幕を見ていたがためになまえはすっかり竦み上がっている、だがポケットからキャンディを取り出して渡してきたため驚きから目を瞬き、ゆるゆると笑みを広げた。
 案内された部屋には短命者がずらりと並んでいた。ビルのワンフロアを大胆に使用してあり、各自の医療ベッドはカーテンで仕切られただけの簡素な空間だ。ベッドの横には精密機器が置かれている。ベッドに腰かける短命者たちは不安と警戒の表情を崩さない。
「彼らに説明は?」
「まだです。寿命を延ばす薬を開発しているとだけ」
 ケヴィンの言葉に降谷は考え込んだ。始めたのは降谷だ、降谷が彼ら全員の命に責任を持たなければならない。これから彼らに突きつける現実を考慮すれば、生まれる憎悪の矛先もまた降谷でなければならなかった。
 先導していたケヴィンより一歩前に踏み出し、降谷は言葉を発する。
「──お聞き及びとは思いますが、我々は貴方がたの運命を捻じ曲げる薬を持っています。それをぜひ皆さんに使ってもらいたい……」
 降谷の凛とした声がフロア全体に響き渡る。短命者は皆息を飲んだ。
「ただ、その薬は未完成です。試験的な運用から開始するため、投薬すれば命を落とす可能性もあります……。もちろん厳密な検査の下に投与しますが、死ぬか生きるかの帰路に立つか、いずれ死ぬかを今選べと言われて到底選べるものでもないでしょう……ですから薬を打つかどうかの判断は皆さんに委ねます。心が決まった人は教えてください」
 降谷の難しい言い回しを理解できない幼子もいた。物々しい雰囲気に怯え、年長者に縋る子らは多い。ブルック邸にいた短命者は、多くが互いに身を寄せ合い支え合って生きてきたのだということがわかる。
 降谷の言葉を理解できる年長者は難しい顔をした。救い出された短命者にとって、現状はイライアス・ブルックの支配権が降谷へと移動しただけに過ぎないからだ。降谷はまだ救世主ではなく、大規模な誘拐をやって見せた犯罪者という枠組みの中にいる。
 決断を待つ余裕はないとケヴィンは降谷に苦言を呈す。だが降谷が意見を覆す気はなかった。
 降谷が短命者に向ける言葉は、なまえに向ける言葉同然だ。彼らとなまえの命の重さは違うが、出来得る限りで尊重したいと思っている。降谷はとうに道を踏み外しているが、それでも叶えられる道理は通したかった。
「……どういう薬なの」
 緊迫した空気を破ったのはとある女だった。ブルックの妻とされていた、降谷と近しい年の女である。年齢を考慮すれば女に残された道は限られている。希望があるのであれば縋るのも必然だ。
「不死者の心臓細胞から作る薬は、各国が進める最もポピュラーな研究の一つです……。あそこにいるマザー・テリブルはそれを基に独自の薬を十年以上研究してきました。薬はほぼ完成していると言って過言はありませんが……死体数体にしか試したことがない」
「不死者はとても数が少ないわ。もし私たち全員を救えるとして、それだけの薬を準備できるの?」
「僕は不死者です」
 険しい切り口で繰り出される質問に降谷はこともなげに返した。信じられないと言いながら動揺を露わにする一同へ降谷は言葉を続ける。彼らは降谷を見て同士と思いこそすれ、不死者だとは予想できなかったからだ。
「僕の心臓一つで全員を助けることはできない。だから、薬にするんです」
 降谷が本来の持ち主ではないことを告げる必要はない。
 真実にたった一つだけ嘘を織り交ぜて話す降谷に気づく者はいなかった。年長者の女が協力に同意したのを皮切りに、余命が残されていない者から次々と名乗りを上げていった。

 マザー・テリブルが幼い子どもたちにキャンディを与えている。数日前からこのビルに滞在しているらしいが、すっかり子どもたちの信用を得ている様子を見て降谷は目を丸くした。
 ベルモットに説明を求めれば、我が強く常に癇癪を起こすため患者¢且閧ノは雷を落としてばかりだが幼い頃の息子を思い出すらしく子どもにはやさしい、それがマザー・テリブルと呼ばれる所以だとベルモットは口にする。
「あ……さっき私も飴をもらったんです」
 日本語で会話していたベルモットと降谷の話を聞いてなまえがキャンディを掲げる。なまえは大人だが、と降谷が首を傾げていればベルモットが面白そうに笑った。
「日本人って幼く見えるもの、貴方のこともティーンだと思ったに違いないわ」
 なまえの美しさが洗練された今、若々しい見た目には磨きがかかっている。自身も美しく長命なため人を見た目で判断しないベルモットとは違い、一般人であるマザー・テリブルはなまえを息子よりも年下だと判断していた。欧米の子どもたちは、総じてアジア人と比べて成熟するのが早い。体格だけを見れば日本人の成人女性と大差なく映るのも大きい。
 ベルモットがマザー・テリブルを呼ぶ。険しい顔つきに戻って近寄るマザー・テリブルに降谷は薬の話を持ち掛けた。
「すでに死体でテストを行ったとのことですが、細胞にはどれくらい変化がありましたか?」
「短命者と言ってもすでにエンバーミングされた体だからね、参考になった情報はごくわずかさ。死んで日が経ってない体ならまだしも……やっぱり生きた体に投与してみないことにはどうとも言えないね。それでもまあ、アタシには過去成功した例もある。ピートが生まれてから会社を辞めて、外科手術の訓練を受けるのに六年……その合間に研究を続けて、独り立ちしてから十年ずっとこの薬を改良してきたんだ……自信はあるよ」
「では予定していたとおり、まずは現時点での薬を使って試験しましょう。ロイからお願いします。リミットが近いのはあと二か月で三十になるアリスですが──限界まで生きている割に彼女は健康で、コンディションとしてはなまえに最も近い。彼女にはできるだけ完成品に近い薬を投与したい……。数人に投与して試験が順調に進めば、僕の心臓を一部摘出して薬を改良、そののち再度試験にかかるといったかたちでお願いします」
「わかったよ。アンタたち、ロイを研究室で準備させな」
 スタッフはマザー・テリブルの横柄な態度もたいして気にならない様子で行動に移った。連れて行かれるロイを見つめてなまえが複雑そうな顔をする。会話の内容はわからずとも、降谷はなまえのために動いている。だれよりもなまえを優先して救いたいはずの降谷が、なまえより先に他者へ薬を投与することの意味がわからないほど愚かではなかった。


 薬の投与を開始して数週間が経過している。この間、死者は一人も出ていなかった。その事実が、引き取られた短命者たちの中でもとくに協力を躊躇っていた者への後押しになった。
 降谷はケヴィン手ずから心臓細胞を摘出する手術を施され、数日の療養に入っている。降谷の細胞を用いて改良された新薬では、薬を打たれた瞬間から効果を実感し、精密検査で明らかに一般人と同等のバイタルに変化した者もいた。
 だが、効果が明確には現れない者が多くを占め、薬の完成には至っていなかった。マザー・テリブルは一昨日から研究室にこもりきりで、研究室の前を通れば怒鳴り声がドア越しにも聞こえてくる有様だ。
 たったいまマザー・テリブルに昼食を運び終えたなまえがベッドで横になっている降谷にその話をする。降谷は楽し気に耳を傾けている。
「食事を持って行ったのに気づいてもらえなかった?」
「はじめは。でも私を見た瞬間デスクから離れて、にこにこ笑って休憩するの」
「彼女は相変わらずだね……。そういえば、英語には少し慣れた?」
「聞き取りはできるようになってきたかも……英語、あんなに苦手だったのに」
 いつかマザー・テリブルには英語できちんと話がしてみたいと話すなまえは、マザー・テリブルに未だ十代の子どもだと勘違いされているのをどうしても自ら訂正したいと意気込んでいた。おかしそうに降谷が笑えばなまえが心外そうにする。
「アメリカはどう? 環境が違うから無理をしてない?」
「私の具合が悪くなったらみんな大慌て」
「それならよかった」
 ベルモットの仲介を挟んでいるが、スタッフからすれば降谷は一時的な雇用主に留まらない存在だ。ベルモットの同僚、という言葉だけでその権威を知らしめるには十分なのである。バーボンと呼ばれることがこんなにも都合がいいと感じたことはない。壁にかけられた黒衣を見て降谷は自嘲する。
 降谷となまえが会話を弾ませていれば重い足音が部屋に近づいてきた。噂をすれば、と降谷が口にした次の瞬間、マザー・テリブルが慌しくドアを開ける。動揺と興奮を隠さない様子になまえは目を丸くした。
「改良した薬を今サイードに打ったんだけどね、目がキラキラするって言うもんだから視力を図ったら回復してたよ! もう手元すら見えない子だったのに!」
「サイードはたしか……七歳のアラブ系の子でしたか。幼くて効果を実感できるのはいい、完成間近ということですね……」
「それが聞いとくれよ! 他の子にも打ってみたら全員に効果が出たのさ……! しかも、みんなが揃って生まれ変わったみたいだって言うんだ」
「! それは……」
 降谷の顔が期待に染まる。「そうさ、アンタたちが言ってたのと同じ言葉!」と口にするマザー・テリブルも高揚して降谷の肩を叩いた。
 かつて降谷が心臓移植を受けたとき、不死者の心臓を得たことで全身が入れ替わったかのような瑞々しい生の実感を得た。あのときの感覚は実に形容し難いものであり、何年経っても鮮烈に記憶が蘇るものだった。ベルモットも、自身が不死者の心臓を食したとき目が覚めるような感覚を得たと話していた。
 これまで薬を投与され効果を実感した短命者たちは、身体に変化が生じていることは実感すれども、それほど大きな感覚に飲まれたことはない。だが新しい薬を投与された者たちは違う。とうとう薬が完成した気配に二人は歓喜に震えた。
 しばらく経過を見なければならないがおそらくこの薬で次の段階へ進めるだろうとマザー・テリブルは手応えを実感する。興奮冷めやらぬといった様子でまたバタバタと部屋の外へ出て行くと、室内は静寂に満たされた。
「よかった……あの子たち、だれも死なずに済むんだ……」
 心から喜ぶなまえを降谷は抱き寄せる。降谷の内心は、当事者ではないかのような言葉を諫めたい気持ちよりも、たおやかに微笑むなまえとの未来が拓けた嬉しさが勝っている。
「ようやく君を幸せにできる……」
 ほうっと口にする降谷の体になまえは腕を回した。薬が完成しても、なまえに投与するまではまだいくつかの段階を踏まなければならない。なまえの細胞を採取して培養し、薬を試す──なまえ個人のために調整を加えるのだ。そして体の一部に注射し、拒否反応がなければそこで初めて全身に足るだけの薬を投与する。
 本当の意味で幸せを噛みしめることができるのは先だ。それをわかっていても降谷は喜ばすにはいられない。過ちを犯してでも進むと決意した過去が報われるからだ。手元に残ったわずかな光をようやく大切に仕舞いこんで良くなったのだ。降谷の瞳に涙が滲む。
 三十の誕生日を数日残した状態で弱り始めていたアリスに薬が投与された。アリスがみるみるうちに回復したことを確認すると、研究は完全に次の段階へと移行した。



 降谷となまえがアメリカを発つ日、見送りにはほぼすべての関係者が揃っていた。短命者が多く揃う見送りは空港で一際人目を引いた。スターの集団だろうかと噂する声がどこかから聞こえてくる。
 ケヴィン・レナードはこれから薬を自身の研究成果として世に出す準備で忙しなくしている。残念ながら日が合わないと言って前日に降谷と熱い抱擁を交わしていたが、その暑苦しさと言ったらなかった。そう口にした一人に場の全員が大笑いした。
 薬の完成をきっかけに顔を合わせたピートが、なまえの手を強く握って「君がいてくれたおかげで助かった」と感謝を口にする。大仰な言葉になまえは撤回を求めた。
 薬を開発したのは他でもないピートの母親であり、それを支えた周囲の尽力の成果に他ならない。金と計画を動かした降谷に感謝するならまだしも、なまえが感謝される理由はどこにもなかった。
 そうやって何もわかっていないなまえにピートは親愛を込めて告げる。君がいたからすべては始まったのだ、と。
「何かあったらすぐ呼ぶんだよ、この恩は一生忘れない、アンタの頼みならいつでも飛んで行くからね!」
 マザー・テリブルがふくよかな胸に降谷となまえを力いっぱい抱き寄せた。なまえの頭を撫でる顔には慈愛が満ちている。降谷となまえの姿が消えるまで騒がしく見送りを続けた短命者たちもまた、二人のように明るい未来への一歩を踏み出すことができる。
 美しさはそのままに、元の健康を取り戻したなまえはあちこちを歩き回った。両親へ贈る海外旅行の土産を物色するなまえを降谷は微笑ましく眺める。
 帰国後は共になまえの実家へ向かうことにしている。飛行機の着陸は日本時間で深夜になるため、翌日に出向く予定だ。そこで恋人として降谷は挨拶をして、次に婚約を報告する。幸せに満ちていた。
 すっかりアメリカに馴染み、このままアメリカ旅行へと切り替わりたい気持ちがなまえにはあったのだが、降谷の仕事をこれ以上留めてはおけない。
 思い出を残す意味も込めてなまえはたくさん買い物をした。荷物をすべて預けて搭乗ゲートへと向かう。降谷もなまえも、苦悩はすべてアメリカへ置いていく。


 降谷の愛車は自宅にある。行きは公共交通機関を利用して空港へと向かい、アメリカへ飛んだ。当初は帰りもそうする予定だった。
 だが、降谷は帰路へつく前に寄りたい場所があった。深夜に近い時間帯で足が必要になるため降谷は空港で車をレンタルする。購入した土産は荷室に積み、助手席に乗ったなまえと共に夜の東京を走った。
 窓を開けて走っていると車内に夜風が舞い込んでくる。降谷は横目でなまえを見る。髪を風に巻き取られる姿さえ美しい。降谷の心にはたしかな幸福が広がっている。
 目的の場所に到着するとなまえは目の前に現れた建造物を仰ぎ見ながら不思議そうな顔をした。なまえの手を引いて降谷は美術館へ入る。
 館内はひっそりとしていた。閉館時間をとうに過ぎているのだから入場者が見当たらないのも当然だ。貸し切りの館内に二人分の足音が響く。ガラス張りの美術館は上階から夜景を一望することができ、なまえは外の景色に目を向けて感嘆の息を漏らした。またあとで、と降谷が焦れたように手を引く。行き先のドアを館内のスタッフがゆっくりと引いた。
 室内には数々の宝石が煌めいていた。数日後に有名ジュエリーブランドの展示会が開催される予定なのだ。
 多少の無理を押し通して、まだ一般公開されていない展示会の先行公開を、今日この時間帯を指定して降谷は独占させた。国外で行った数々の無理に比べれば他愛もないことだ。
 スタッフが入口のドアを閉めれば、一際暗くなった室内で宝石たちが照明を受けて一層輝きを増す。美術館の外だけでなく、中にも夜景が広がっている。瞳を輝かせて展示物を見て回るなまえの後ろを降谷はついていく。
 恋人がステップを踏む足取りは軽い。死を乗り越え、降谷と同じときを生きることができるようになった恋人の横顔は、星々の美しさに劣らない美を湛えていた。
 この美しさのなか、すぐにでも溶け合ってしまいたい感覚を抱いて降谷は手で顔を覆った。周囲から見た自分もこれほどまでに心を惑わす存在なのだろうかと考えずにはいられない。せめて家まで堪えなければと咳ばらいをする。
「どうかな、気に入ってくれた?」
「とても素敵……! 透さん、ありがとうございます」
 うっとりと感謝を口にしたなまえがはっと何かに気づいたように立ち止まった。両手を握りしめて降谷を見る。その張り詰めた表情にどうしたのかと降谷が声をかけると、なまえは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「私のために薬を作ってくれたの、きちんとお礼を言っていなかったなあって……」
 自分を責めるなまえに向かって降谷はふっと息を吐く。硬く握られた指を解いて、自身の指を絡ませた。顔を近づけてなまえを見つめる。促されるようになまえは間近で礼を言った。
「私が変わってしまってもずっと傍にいてくれて、心臓を分けてくれて……愛してくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして。僕こそ……変わってしまっても受け入れてくれて、愛してくれてありがとう」
「……どうしたしまして」
 互いの距離をゼロにして呼吸を奪い合う。天まで覆う数多の光の中、美しい人で作られる一つのシルエットは実に幻想的な光景となった。
 きっと二人が互いに想い会う気持ちはこれからも変わらない。ただ、全く同じではない。変わってしまったなまえの姿に、変わらざるを得なかった降谷の信念に、いずれ綻びが生じてくることもあるだろう。
 それでも降谷がなまえを生かし、またなまえに生かされている限り、二人が離れる道など存在しない。多くの死を積み重ねて、互いの心は一つの場所にある。
「生まれ変わったみたい」
 なまえは降谷の言葉をなぞらえて口にした。
 降谷は過去の記憶を呼び起こす。まだ成人しない頃、事故で死にかけていた降谷に与えられた不死者の心臓は降谷に新しい未来を与えた。
 それは降谷の全身を喜びに奮わせるものであり、受け入れがたい苦痛を与えるものでもあった。己の中に他者が息づいているかのような違和感。時が経つにつれてその違和感は小さくなっていったものの、降谷にとっては自身を見失いそうになるような時間に違いなかった。
 だがなまえは降谷の一部となった心臓を幸せそうに感受している。それが何とも降谷にとっては喜ばしかった。降谷の進入がなまえにとって心地よいものであると言われてまで生の喜びを実感されては、たとえ何があろうと、この恋人を手放す気になれそうもない。
 なまえを正面から抱き締める。顎を掴み、上を向かせて見つめ合う。背後の宝石と、降谷の整った顔を捉えて「綺麗……」と零した口を塞いだ。震える口内が、舌に絡む蜜が甘い。
 降谷は隙間を埋めるようになまえの身体を包み込む。重なった部分から溶け合うような感覚にさせられて体温はどこまでも上がっていった。
 どこに触れても魅惑的で離れがたい気持ちにさせる存在にどうにも最後まで抑えが効きそうにない。いつか余さずその肌を食べつくして己の腹を満たす、降谷はそんな気がした。
 なまえの瞳がとろりと揺れる。降谷の腕を引っかく爪先をたしなめて、口元へと誘った。左手の指を付け根から開かせ、やさしく薬指の骨を食む。カリリ、と音がすれば痕が残った。数分も経てば消える痕に口付けを落としてぺろりと舌なめずりをしていれば、蕩けている瞳と視線がかち合った。
 ゆっくりと深呼吸をして、降谷はずっとあたためてきた言葉を口にする。
「明日──君のご両親と会う前。ここに、指輪を贈らせて?」
 そして、嬉しげに寄せられた唇にもう一度キスをした。
 幸せな時間を過ごしている。それは、おそろしく永いひとときだ。君には僕の秘密を教えないといけないね、と悪戯めいた口調で話す降谷になまえは首を傾げた。微笑む降谷に呼応するようになまえも口元に笑みを広げる。
 降谷が生涯の呪いをかけ直そうとしていることになまえは気づかない。きらり、と黒曜の瞳があざやかな色を放って、降谷はその輝きで存在のすべてを満たした。
「僕の名前は降谷零って言うんだ」



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