02




「……現場にバーボンが撒かれていた?」
 新一が赤井の言葉を繰り返す。神妙な顔をする二人の空気が張り詰めた。
 ウイスキーのなかでもバーボンはとくに芳醇な香りをもつ。それが現場に撒かれていた事実を、普通の人間であれば「犯人は酒好きである」と結論付けたことだろう。だが降谷の過去を知る新一や赤井は違う。バーボンの名称は、降谷に関わるときだけ重要な意味をもつからだ。
 かつて強大な犯罪組織が存在した。今はもう解体された組織は、全員が黒ずくめの衣服を身に纏い、目的のためには手段を選ばない巨悪であった。警察による長年の操作と多くの犠牲の上に成り立った掃討作戦が行われたのが数年前のことである。幹部から末端構成員、取引相手に至る全てを取り締まるのにさらに数年を要した規模の組織だ。強大なあまり、裏社会で知らない者はいなかった。
 降谷は、その組織を探るべく第一線で捜査していた。日本警察から命じられて潜入捜査を行っていたのだ。警察側の人間でありながら巧みに行動し、功績を挙げた降谷は、幹部にまで上り詰めた末にバーボンというコードネームを与えられていた。
 迷宮入りしてもおかしくないほど難解な事件、それを扱う降谷の前に突如としてバーボンという要素が転がり込むことが偶然であるとは考えられなかった。組織絡みの事件かと、事情を推察しただれもが考えたわけである。
 新一は恵に視線を投げる。恵は民間人だ。たとえ恵が本件の被害者に該当し、降谷にもっとも近しい間柄であろうと、機密扱いされている組織の話を恵がいる場でするのは避けなければならない。
 新一も立場は恵となんら変わりはないが、当該組織の掃討作戦を決行した折には協力者としてひと役買った過去がある。だからというわけではないが、優秀な探偵であることを除いても越権行為である事件への関与に対し、警察から目溢しされている点も多い。
 恵の隣に座る赤井もまた、アメリカ合衆国から組織へ潜入捜査を言い渡された過去があり、素性が知れて一時期は死を偽装したことまである捜査官だ。他国の警察組織に籍を置く身ではあるが、事情により当該組織に関わる話では協力を要請されることの方が多い。
 兎にも角にも、二人には恵も交えて組織の話をする選択肢が存在しなかった。降谷から聞き及んでいた事件への関与を恐れる傾向があるという話や恵の人物像、実際に工藤邸での様子を鑑みたうえでの判断だ。
 恵が犯罪への理解が深かろうと、恵はただの民間人である。恵自身も危険に首を突っ込むことを良しとしていない。
 新一は恵に退席を促すことにした。
「恵さん、少し席を外してもらってもいいですか?」
 新一の言葉に恵が頷く。
「かまわないけど、何となく察したかもしれない……なんて」
「え……?」
「私が狙われているのは零さんの関係者だからでしょ? 零さん……バーボンの」
「何だと? 君、まさか知っているのか……?」
 冷静にバーボンの名を口にした恵へ赤井が驚きの声を上げた。何を、とは明確に示さない赤井に、恵も曖昧に微笑む。
「知っているって言っても……昔、彼がバーボンと名乗っていて……もちろん捜査の一環で、後ろ暗いことにも関わりがあった……くらいのものですが」
 どうして恵がバーボンの存在を知っているのか。新一も赤井も驚きを隠せない。
 降谷が恋人相手にすら機密を漏らすとは思えなかった。潜入捜査などという違法行為は、警察が外部に公開できない最たる行為だ。バーボンを知ってしまうことはあれども、降谷が潜入捜査官だと知ってしまうことはあれども、それらの全てを線で繋げてしまえることを他者に許すわけがない。他でもない、降谷零が。
 降谷はまれに見る献身的な人間であり、同時にエゴイスト的側面を持ち合わせている。国を守ることなら手段を選ばない、しかし自らの行動に始末はつける。これは言い換えれば、降谷の認める正義を人知れず行使するという絶対的な意思でもある。
 だれに知られずともかまわない、認められずともかまわない、降谷は国のために命を賭すことをも厭わない。捨て身同然の潜入捜査はだからこそ降谷に負わされた任務であり、降谷もなるべくして秘密主義になったものだった。
 最期まで潜入捜査官として掃討作戦に参加した実力を持つ降谷が、よりにもよって民間人に情報を漏らしている事実はにわかに信じがたかった。
 連続猟奇殺人事件も、恵を狙った事件ではなく被害者になる可能性が浮上しただけであれば、恵には明かさないまま秘密裏に処理したはずだ。事実、降谷は最後まで情報の開示を渋っていた。
 そんな降谷が自身の最も暗い部分にある秘密を明かしていたとは。弱者を守る強者としての傲慢さ、警察組織の機密へのしがらみを理解するからこそ、赤井は驚かずにはいられない。
 二人の険しい表情を見て、恵は危うい発言をしていることに気づき慌てた。降谷の職務のほとんどが機密事項であることは理解している。民間人が知り得ないことを恵が知っていることで、降谷の信頼が損なわれ、立場が危ぶまれるのは避けたかった。
「違うんです、このことは止むを得ない事情があったというか、私が知ってしまっただけというか……零さんが口を滑らせたわけではないので、問題にしないでください!」
「……あ、ごめん、別に責めるつもりはなかったんだ。俺だって部外者なのに色々知ってるし……驚いただけだよ」
 必死に弁解する恵を落ち着かせるように新一が訂正した。赤井も同様に頷くため恵はほっと胸を撫で下ろす。
 バーボンを詳しく知るわけではないかもしれないが、恵がバーボンの名を知るのであればなおのこと、連続殺人事件の犯人に目を付けられている事実は看過してはならないように感じられた。赤井は、組織の話にも恵を同席させるべきかと判断する。
「では恵君もこのまま話をしようか。だがわからないことはわからないままにしておくように……君が理解できないことは、君が知る必要のない物事だということだからな……」
 恵は頷く。赤井は手を組み、腕を膝に乗せる。前屈みの姿勢で重々しく口を開いた。
「おそらく、犯人はバーボンに因縁のある裏社会の人間だ。所属する組織は知れないが、あの組織≠フ構成員である可能性は低い。関係者はほとんど逮捕してあるし、組織が重用していた外部組織も粗方逮捕を終えている」
「作戦前に身を隠した構成員は?」
「組織から手を引こうとした時点で生存は疑われるが……俺のような例もある、有り得ないとは言えないな。あと可能性があるとすれば、組織が一時的に利用したフリーランスの犯罪者だが……」
「そうなると特定は難しいか。降谷さん……バーボンのことを一方的に見知っている人間は数えても足りない」
「そうだな、降谷君も作戦時の記録を全て洗うところから取り掛かると話していた。調べるだけでも大変な作業だ、裏社会は広く深い。数日は確実に顔を見せないだろう」
 恵には大抵理解が追いつかない内容だった。恵は不穏さだけを感じ取りながら沈黙を貫く。推察することは可能だが、理解できないことは知らなくていいことだという赤井の言葉はもっともに思えたため考えることはしない。
「降谷君は強い、警察庁に戻っていることも起因して迂闊に手が出せないんだろう……。恵君を標的にしているのは彼を焚き付けるためかもしれん」
「そうなると遠からず恵さんに危害を加えようとするかも……」
「ああ。より一層警戒しなければならない」
 新一の落ち着いた分析に恵は身を震わせた。自身を抱きこむように腕を回せば、新一が恵に笑みを投げる。心配要らないと元気付ける新一は、恵より一回りも年下であるのに頼もしい。
 新たな不安要素が出現し、恵の警護を強化しなければならないと現状を見つめ直しただけにすぎない。だが三人で会話をしたことは無駄にはならないだろう。恵は、午後は蘭と出かけることになっていたからだ。
 ポアロに通っている恵は、コナンを介してわずかに交流のあった蘭とも面識がある。恵の事情を知ると、蘭は短期間でひととおりの躱し技を教えると息巻いた。今日は蘭の知人の厚意で練習施設が開放され、そこへ行くことになっている。もちろん赤井も同伴する。
 赤井が運転する車へ乗り込み、蘭を迎えに行くために毛利探偵事務所へと走った。

 蘭の指導を終えた恵は、日常生活を送るうえでどれほど身体を使っていないかを嫌というほど実感した。
「簡単にできる技を練習しながら体力づくりも進めましょうか、いざというときに体が動くようにしておかなきゃ。今日どれくらい恵さんの体が動くかを確認しましたから、帰ったら練習メニューを作って連絡しますね」
「……蘭ちゃんありがとう、何だかごめんね……」
 意気込む蘭を見て遠い目をした恵だったが、蘭は覇気のない恵に気づかず今後の予定を考える。生き生きとしている蘭に、恵が気の利いた言葉を返すことはできなかった。
「そんな、私にできることなら任せてください! 代わりに今度お料理教えてくださいね」
「お料理?」
「とってもお上手だって新一に聞きました」
 蘭は恵の料理が上手いことを聞きつけていた。それを交換条件のように提示する。指導を受ける間も指導を終えてからも、申し訳なさを前面に出している恵を気遣ったのだ。
 ここ数年、プロ並みの腕を持つ降谷の食事を食べ続けたためか、恵は引き上げられるように料理の腕を上げていた。
「やっぱりご自分で考案してるんですか? レシピの幅が広いですよね……写真見せてもらったんですけど、どれも美味しそうで彩りも素敵です」
「ううん、零さんが色々作ってくれるからそれを参考にして作ってみただけで……。まったく同じ出来にはならないけど、色んなお料理を食べると幅が広がるよ」
「へえー…! ……え? 零さんって、たしか安室さんの……。まさか……安室さんと恵さんって……!」
「あれ、新一くんに聞いてない? ……お付き合いしてるの、もう数年になるかな」
「うそ、そうだったんですか? ああでも、ポアロでも特別そうな雰囲気でしたよね」
 赤信号で車が一時停止する。話に花が咲く二人を赤井はルームミラー越しに眺めた。
 降谷は気遣いの利く男だが、赤井や新一はどちらかと言えばそういった物事には疎い傾向がある。安全のためではあっても、危険に晒されているなか男二人に囲まれて生活するのは気が詰まるものだ。蘭のような人物との関わりが恵の安息となるだろう。ふ、と赤井は笑みを零した。



 都内某所、待ち合わせをするように花壇の脇に立つ風見は、通信業界ではそれなりに名のある企業のオフィスが入ったビルを眺めていた。時折腕時計を見ながら風見は視線だけで周囲を見渡す。
 しばらく待っていると、フレアスカートをたなびかせながら歩いてきた女が、風見とわずかに位置をずらして背中合わせになるように立った。風見は少々虚を突かれて女に視線を投げる。風見が立つ側、女の手には記録媒体が握られている。
「これ、頼まれていた資料です」
「助かる」
 風見はそれを女から受け取り、人目に注意しながら胸ポケットへ入れた。
 女の正体は、監視、通信システムを開発する企業のエンジニアである。連続猟奇殺人事件は情報規制が敷かれている。女が勤める企業は、事件現場付近にある店舗で設置された防犯カメラや遠隔監視サービスの提供元だった。企業に協力要請を求めた警察は、元々協力者として関わりのあった社員を、この事件の資料を秘密裏に引き渡すためのパイプとして新たに取り立てたのだ。
 真面目で、大人しい気質の女だった。派手すぎず地味すぎない恰好を好む女に風見は好印象を抱いていたが、最近は化粧が変わり、身に着ける衣服も明るい色が増えて、風見が気づいたときには資料として手元に残している写真とはまるで別人になっていた。
 元々素材は良かったのだろう、みるみるうちに美しくなった女に、風見は接し方を図りかねている。
「引き続き、映像に不審なものが映っていれば提出を頼む」
「はい」
 用を済ませた風見は、単なる協力者のプライベートに踏み込むのは失礼だと考えてその日も女の自己改革については追求しないことにした。指示を出して場を離れようとする。
「……今日も」
 ところが、足を踏み出した風見を引き留めるように女が言葉を紡いだ。
「お一人、なんですね」
「……? 何のことだ」
 寡黙な風見が、明らかに業務連絡以外の話題だとわかっていても反応したことに、女は気を良くする。躊躇うような口調が、自信をつけたように弾んだものに変わった。
「前は一緒にいらっしゃったでしょう? 同僚の方……私、またお会いしたくて……一緒にいらっしゃるんじゃないかって実はずっと期待していたんです……」
 早口で捲し立てる女に風見は頭を捻る。女と会う時にだれかを同伴したことがあっただろうか。記憶を手繰っても皆目見当もつかない風見は、眉間の皺を深くしただけだった。
 目を細め、頬を染める様は、だれが見ても恋をしているとわかる表情だった。
 初めて見る女の一面に驚きつつ、風見はまた考え込む。女が風見の協力者である以上は警察に深入りさせるのは避けた方がいい。協力者は公安刑事にとって便利な駒ではない。公安刑事にとって協力者とは自身の手足≠ナあり闇に落ち切らないための楔≠ナあり保護すべき民間人≠ナある。警察側の人間、とくに風見が籍を置く公安部と必要以上に関われば、協力者であることも相俟って必然的に危険に見舞われる機会が増すことは容易に想像できるのだ。
 だが他者を想う気持ちがそんなものを理由に虐げられていいわけでもない。風見は短く息を吐いて呟く。
「状況が許せば要望を聞こう」
「嬉しい……! ありがとうございます」
「……悪いが、だれのことか思い当たらなくてな。その男の特徴を言えるか」
「はい。ブロンドで、青い瞳で、肌が浅黒くて……彫りの深い顔立ちで、背が高くて……」
 だれにせよ、公安刑事は皆多忙を極める。願いを叶えてやれるのは先になるだろうが、と暢気に考えていた風見は目を剥いた。女が恋煩う相手が降谷であることは明白だ。
 降谷は、公安として行動している間はとくに話が終わった途端に姿をくらます。風見は待ち合わせにすら労力を強いられていた。気づけば現れ、気づけば消えて、巧みな印象操作によりすぐ傍を通られてもわからないときさえあった。
 だからこそ、ただの民間人より多少勘の優れた協力者であろうと、降谷が自身の存在を認識されることはないと思い込んでいた。よって風見は非常に驚いた。
 同時に頭を抱える。女の口振りから風見と接触している際に降谷を見かけたことは予測できるが、そんなことは問題ではない。降谷には恵という恋人がいる。
 風見が碌に確認を取らないまま了承したせいで、女はすっかり降谷と会う気になっていた。もちろん会うだけであれば問題はないが、思慕の念を抱く相手に会うことがどういう意味をもつかわからないほど風見も疎くない。
 あわよくば降谷の隣に立つのを許される存在になりたい、女はそう考えている。そして女の願いを叶えることは、女の願いが永遠に叶わない現実を突きつけることになる。
 それだけでなく、風見の協力者が会いたいと言っていることを降谷に伝えたところで、降谷が首を縦に振るはずがなかった。降谷は警察庁警備局警備企画課、通称ゼロ≠ニ呼ばれる、存在しないとされる機関に身を置いている。降谷の存在は公に肯定されてはならないものだ。
 加えて、今の降谷は恋人が自分のせいで危険に晒されていると思い、我が身を削りながら捜査にあたっている。会ったこともない他人に時間を割くことは考えられなかった。
 どう説明すべきか頭を悩ませた風見は、正直に恵の存在のみを明かすことにした。降谷の所属とそれによる事情に関しては話す権限を持たない。そうと決まれば、と風見は決意と共に口を開く。
「彼には恋人がいる」
「え……」
 期待を込められた眼差しが、打ち明けられた事実によって静まり返った。呆然としているのが背中越しでもわかり、風見は居た堪れなさに瞳を伏せる。硬く口を引き結んで女の反応を待っていると、女が搾り出すように話した。
「それでも……それでも構いません。会ってお話したいことがあるんです……」
「……そうか。忙しい人だからどうなるかわからないが、打診はしてみよう」
「お願いします」
 女の声は強張っていた。今にも崩れ落ちそうなのを必死に耐えているかのような震えた声だった。
 風見も恵とは何度か話したことがある。降谷に想いを寄せる女を、降谷が了承しないとわかっていても引き合わせるよう取り計らうことには気まずさを感じた。仮に降谷が女の好意を断るべく会う必要性を感じたとしてもだ。
 提案するだけでも降谷に冷たい視線を投げられることは容易に想像できた。風見は来る未来に身を震わせるが、話しもせずに女の願いを下げることをしなかったのは、これまでの公安警察に貢献してきたことを考慮したからだった。叶わない恋だとしても、思いの丈を打ち明けることで女が満足し、前へ進めるのであれば、降谷も理解を示すことだろう。女もそれを望んでいるのだから。
 女がそれ以上言葉を口にすることはなかった。

◆ ◆ ◆

 尋常でない速度で繰り返されていた殺人は、八人目以降ぴたりと止んでいた。七人目から八人目にかけては三日も空いていなかったため、八人目が発見された直後はすぐさま都内全域に警戒網を敷き、警察は総力を挙げて不審人物がいないか監視したが、窃盗事件などが早期発見されるだけで終わった。最高潮に達していた警察組織の神経は、反動で著しい疲労を見せていた。
 娘が帰らない──通報が届いたのは八人目の犠牲者発見から二週間後のことだった。
 該当の人物は十代後半、背は高く黒髪長髪であった。届出に記載された少女の容姿から、猟奇殺人事件の被害者像とはかけ離れていた。九件目には該当しないと判断した警察は、厳重な捜査活動の対象には設定せず、少女の生活圏を中心に聞き込みを始めた。
 少女は友人の家に泊まることも多く、共働きで不規則な生活をする両親は娘が数日帰宅していないことに気づかなかったらしい。調査の結果、少女は深夜徘徊で何度か補導された経歴があることも判明したのだ。
 交番勤務の制服警官も少女の顔を把握していたこともあり、地元を見知った警察官を中心に捜索した方が良いとの判断で小規模な捜索網が敷かれたのが二日前である。
 そして昨夜、少女は遺体で発見された。
「被害者の体に刺し傷などは見られなかったようだ」
「では九件目ではない……ということでしょうか」
「犯人が手口を変えていないならな」
 黒田の呼び出しを受けて降谷は黒田の執務室へ来ていた。管理官であり、公安部にとってはまた違った役どころに就く黒田を前にして降谷は姿勢を正している。
「これまでの八件の捜査、お前に関わるとして公安が捜査権をもぎ取ったが、新たに見つかった被害者は別件として現状刑事部が担当している。だから降谷、刑事部の目を盗んでお前が直接遺体を見て判断してこい。もし九件目であればまた手を回す」
「了解」
「検視は二時間後だ、医療側の関係者として席を設けてある。必要なものは全て用意させてあるから受け取ってここへ向かえ」
 鋭い眼光を放つ黒田がメモを渡した。端的に施設の名前が示されただけのそれを一瞥しただけで降谷は場所を把握する。メモを返却すれば黒田はすぐそれを破棄した。
 数々の事件に携わり、潜入捜査にすら関与していた黒田もこの事件には手を焼いていた。迫力のある顔は、事件が難航するせいでさらに険しさを増している。降谷にも伝わるほどの圧があった。
 降谷は一礼して退室すると、速足で車を停めている場所へ向かった。
 愛車を飛ばし、検視が行われる建物に到着した降谷は、裏手にある職員用の駐車場に車を停める。検視官補助者として同席するための制服を片手に車を降りた。入口で受け取った通行許可証を掲げると、降谷は流れるように建物へ入る。
 水色の検視活動服を身に纏い、毛髪を落とさないよう同色のキャップに髪を仕舞い込む。マスクを着けてしまえば、たとえ捜査一課の刑事が立ち会ったとしても一見降谷とはわからない外見になる。
 降谷は検視を専従している警察官、つまり検視官として検視に立ち会うわけではなかった。解剖を行う法医学者の補助を行う臨床医として参加し、直接遺体を割くわけではない。話す必要もなく注意を引く立ち位置でもないため降谷に気づく者はいないだろう。
 検視と黒田は言ったが、事実上の司法解剖である。ただの検視であれば、警察関係者以外が立ち入りできない施設に遺体が安置されることはないのだ。
 司法解剖は静まり返った空気のなか開始された。
 降谷は解剖されていく女性の遺体を観察した。胸部から腹部まで真っ直ぐに切開され、肋骨を開かれた遺体の中には模型を思わせるように臓器が整然と並べられている。映像ですらそうそう公開されない異質な光景を見ても降谷は冷静さを欠かない。
 取り出された臓器を渡され、降谷は受け取ったそれらを秤に載せた。
 執刀している法医学者は公安の息がかかった人間だ、検視がどういう手順で何をする職務であるか細かく指導を受けていた降谷は、一度聞いただけの手順を一つも間違えずにこなしてみせる。潜入捜査に練習は存在しない。降谷にとっては初めての解剖もこなして当然のことだ。
 内臓についての記録を残すのは他者に任せ、降谷は法医学者と遺体から目を離さないまま立ち続ける。途中、同席していた刑事が気分を悪くして退席する場面もあったが、降谷が顔色を変えることはない。内臓など見慣れた熟練の医師のように先を見守る。
 法医学者が端的に述べた。
「暴行の痕はなし。死因は失血死で間違いないね」
「大量出血……ですか」
「内臓が白いでしょう、体から血が失われた証拠だよ。でも遺体の発見場所に血は流れていなかったと報告がきているし、内出血を伴っていれば切開したときに内部が血で満たされていたはず。外へ血が漏れるような傷痕もないから……抜かれていると考えるのが妥当なところかな」
「……なるほど。臓器には目もくれず血液とは、何かありますね」
 臓器売買、降谷も裏社会で幾度となく耳にしたものだった。特殊な血液型を持つ人間や非常に緊急性のある状態にある患者など、挙げればきりはないがとにかく何かしらの理由があって正規の手続きで臓器提供を受けられない人間達には、違法な手段で入手した臓器が高値で売れるのだ。
 だが、臓器ではなく血液だけが狙われたという事実は奇怪だった。利益を得ることが目的であれば、血液だけでなく臓器も売るだろう。だが記録していた人間が内臓に欠けはないと報告した。法医学者も知っていたように頷く。
 血液だけが必要だったのであれば、目の前の被害者が選ばれた理由が必ず存在するはずだ。降谷は眉間に皺を寄せて考え込んだ。
 身体の至る所を見て、刺し傷が存在しないことを確認している法医学者が、遺体を裏返して真っ白な背中を見る。首元に針の痕を認めてはまた頷いた。頸動脈から血を抜かれていると述べた。
 後頭部にメスを入れ、検視官は頭皮を外して露出した頭蓋骨をカッターで切断した。脳を丁寧に取り出して渡す。降谷は手のひらに乗った脳を見下ろした。
「……あれっ、下垂体がない」
 小さく声が上がった。降谷は法医学者の言葉を反芻して言葉の真意を問う。
「下垂体? ……ホルモンの分泌を司る器官ですよね」
「そう。成長ホルモンや、甲状腺刺激ホルモンとかを分泌して血中に送り出す器官で……この器官で人間の余命が左右されることもありますよ。君が若々しくいられるのも下垂体のおかげですね」
「若さを保つ役割を担っている、と?」
「まあ。ざっくり言えば」
 降谷の背中に粟立つような感覚が走った。降谷は、かつて人智を越えようとした存在を知っている。
 蓋をするように頭蓋骨を取り付け、頭皮を元に戻して縫合を始めた法医学者は、ごろりと表に向け直した遺体にかつらを着用させ、軽く髪を撫でつけ整えた。被害者は黒く美しい長髪を大切にしていたらしい。検視のために剃り落とさなければならなかったことをかわいそうに思っての行動だろう。
 かつらにするために短くせざるを得なかった髪はちょうど恵ほどの長さに整えられていた。似ても似つかない被害者が、眺めているうちにどこか恵に似ているような錯覚をおこし始める。降谷は次第と血の気を失っていった。法医学者が前髪を横に流したせいでなお恵に似て見えた。
 連続猟奇殺人事件の九件目には該当しないが、降谷が解決しなければならない事件に違いない。ゴム手袋越しに降谷の体温が伝わって、両手に包まれた脳が生ぬるくなっていた。

◆ ◆ ◆

 スマートフォンが鳴った。新一も恵も寝入った深夜、赤井がリビングで資料を整理していたときだった。画面に見慣れた名が表示されているのを見ると赤井は窓際へ近づく。
「どうした降谷君、もう夜中の三時だが」
『……少し恵さんの顔を見たくて。門を開けてもらってもいいですか』
 カーテンの隙間から外を確認する。白い国産車に手を置き、片手でスマートフォンに話しかけるスーツ姿の男がいる。降谷の金髪は、月の光を受けて輝いている。
「かまわないが、もう彼女は寝ているぞ。話したいなら今日は泊まっていくといい。事後報告になるがボウヤも君なら許すさ」
『いえ、帰ります。顔を見るだけでいいので……今は話したくない』
「……そうか。下へ行くから待っていてくれ」
 極力物音を立てないように鍵を開け、玄関のドアを開けた赤井は門まで歩いた。操作盤の蓋を上げる。
「大分疲れているようだな。今日また新たな事件が起こったと聞いたが……どうだった、九件目だったのか」
「……資料なら明日上がってきます。明日は蘭さんが来るんでしょう、体力づくりのために、あの広い書斎を本の虫干しをしながら掃除すると聞きました。出かける予定がないならリスクも減る、新一くんに任せて貴方も庁舎へ来てください」
「体力づくりというか、散らかった書斎を見て憤った蘭君が絶対片付けると言って聞かなかっただけだが……まあ、一日中作業しても終わらないだろうな。わかった、俺も朝から向かおう」
 新一に詰め寄る蘭を想像したのか、くすりと降谷は笑った。ただ降谷の顔には誤魔化しきれない疲労が滲んでいる。ただの肉体的な疲労でここまでやつれるような男ではない。精神的に追い込まれているように見受けられ、赤井は険しい顔をした。
「あまり思い詰めない方が良い。君を心配する人はたくさんいるぞ」
「……わかっています」
 覇気のない返答をした降谷に赤井は溜息を吐いた。
 そもそも、恵の顔を見たくないなどと口にした時点でまともな精神状態でない自覚は降谷にもあった。わかっているのなら結構だと赤井はそれ以上の追及をやめる。
 真っ直ぐ恵の寝室へ向かう降谷の背中を赤井は見送る。降谷は恵を大切にしている。新たな事件が、また何か恵を脅かす可能性を孕んでいたのかもしれない。珍しく情動的な行動を取った降谷を見て赤井は考えた。
 明日の会議に参加すべく、赤井もそろそろ睡眠をとることにする。手元の資料を手早く片付け、廊下の明かりだけは点けたままにしてリビングを後にした。

 静かに寝息を立てて眠る恵を見て降谷は心から安堵した。解剖された遺体を見ただけでは、どういう状況で死に至ったのかと眼前の謎に意識を向けていただけだったのに、遺体が恵と重なって見えた途端にとてつもない恐怖が襲ったのだ。こうしている間にも恵が降谷の知れないところで殺されているのではないかと思えば、降谷は気が気ではなかった。
 赤井や新一から連絡がないということは、恵が変わらず健やかに過ごしていることは言われずともわかる。わかってはいても、しばらく顔を見ることができなかったせいで不安が募っていった。そして深夜に工藤邸を訪ねてしまった。
 ベッドサイドに腰かけて降谷は恵の髪を掬い取る。さらりと流れ落ちた髪は、あの剃り落とされかつらになった髪とは違い艶やかさを保っていた。
 降谷は衝動のまま恋人が生きている実感を手繰る。頬に触れて、肌の上に指をすべらせて、しっとりと濡れた唇にキスをする。尊いぬくもりが、まだ降谷の手の中に残っている。
 くすぐったさに恵は身じろぎしたが、目を覚ますことはなかった。寝息を立て続ける恵を穏やかな瞳で見つめる降谷は、長居はするまいと考える。神経質な恵は、たとえ降谷が気配を消すことに長けていても、時間の経過とともに人の気配に気づいて目を覚ますのだ。
 恵が目を覚ませば、動揺を露わにする降谷を見逃すことはしないだろう。心配させてしまうのと同時に、降谷が事件に手を焼いている事実への不安を抱くだろうことを思えば、起きない方が恵にとっても幸せに思えた。
 降谷は恵の手を握った。しばらくの間そうしていただろうか、満足した降谷は恵に布団をかけ直して立ち上がる。ドアまで歩く降谷の足音はない。
「……おやすみ、恵さん」
 降谷は逆光の中に溶けていった。


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