YU-GI-OH
アイアンアイロン

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 聞こえたのは微かな物音だった。雨音に紛れて殆ど掻き消されたそれはなまえに路地裏で息を潜める野良犬を連想させた。友達にはそんなことは言えないが、実はなまえは猫よりどちらかと言えば犬が好きだ。思わず足が狭い道の方へと向いた。そのまま早足で前へ前へと進んだその視界が捕まえたのは人工的な青。そして、ビニール素材の青い布地から覗いたのは鮮やかな橙色だった。何かを見下ろす見慣れた横顔になまえは足を速めた。水溜りを踏み抜いた水音に少年は振り向く。
「真月くん!」
 その名を呼び、近付きながらなまえは内心首を捻る。いつもは人懐っこい子犬のように反応し、笑顔を見せる相手が今は無表情でじっと黙りこくっていた。自然と遅くなった歩みのまま真月に近寄り、なまえはそっと真月が見下ろしていた方へ視線を流して息を飲む。そこで雨に濡れていたのは犬でも猫でもない。熟した果実のように地面に落ちている立派な図体の男二人と真月を仔リスのように見比べたなまえはおずおずと口を開いた。
「しん、げつくん?」
「……」
 応えはない。感情の読み取れない顔でなまえの爪先から困り顔までを見回した真月は、ぴくりとも動かない肉塊を一瞥してなまえの手をとった。降り注ぐ雨にも反応しない二つの体を横目で見流してなまえは引かれる手の速度で歩く。
「真月くん、濡れちゃってるよ」
 しばらくそのまま歩みを進め、三度目の角を曲がったところでなまえはそっと口を開いた。傘の外で繋がれた手は雨に濡れ、雫を滴らせている。
「…実は、私はただの真月零ではない」
「ほう」
「こことは違う世界…バリアン世界の平和を守るバリアン警察だ」
「へえ?」
「今はバリアン世界の悪い奴らが人間界に潜伏していると知り、それを追うという任務を負っている」
「すごい!」
 無邪気な感嘆の声に真月はようやく足を止めて振り向いた。見つめた先にある目は雲の向こうから滲む陽光よりもずっと眩しく輝いている。
「…きみは本気で私の言うことを信じているのか」
「え! 嘘なの!?」
「そうではないが」
 いくら中学生の子どもとはいえ、すぐに信じるには多少突飛ではないだろうか。注がれた胡乱な眼差しに気付いている様子はなく、なまえは真面目な表情で真月を見上げている。まだそれほど付き合いが長いわけではないが、真月にもわかった。これは冗談で言っているわけではない、本気の表情だ。
「…そうか。ふむ、なかなかに感心だ。きみを私の部下にしてやろう」
「ええっ!」
「なんだ、嫌だとでも言うつもりか?」
「まさか! 光栄の至りです真月上司!」
「警部と呼べ」
「真月警部!」
「…わかってはいるだろうが」
 傘を肩にかけ、ポケットから取り出したハンカチをなまえに向けて真月は涼しげな笑みを浮かべる。
「皆には秘密だ」


 なまえが部下として真月に課せられる任務というのはそうそう深いものではなかった。というよりたとえそうしたくとも深いものは任せられなかったのだろう。なまえはバリアンという別の世界があること、それとデュエル…というよりなんだかのカードが深い意味を持っていることはわかったが、デュエルをよく知らない。カードやらデュエルやらを詳しく説明されてもちんぷんかんぷんであったからだ。デュエルを知らないというなまえに最初半信半疑であった真月は「バリアンの悪いヤツ」の中でとりわけ強い男の戦略やらテーマというらしいなにやらを詳しく教えてくれたが、「なんか強いの出してずどーんって勝つ最強なんですね」というなまえの感想に額を押さえてから「ベクターはとりわけ強いバリアンだ、それだけ覚えておけ」と呟いた。
なまえが出来るのは日常で見かけた変なことの定期連絡だけだった。それも、大抵が大した異変ではなかったが。

 むしろ、なまえに大きなイベントが起こったのはその真月への定期連絡をしている時だった。
幾度目の夕方だろう。そろそろ部下としての愛想を尽かされるのではないかというほどくだらない「異変」を報告するなまえを特別な感慨もなさそうに見つめていた真月が鋭く扉を見つめた。獲物を見つけた猛禽類のような眼差しに驚き、瞬きを繰り返したなまえの腕を掴んでロッカーへ押しいる。そうして、掃除道具もそのままに半ば無理やりに狭い空間へ追いやられたことに疑問を発そうとしたなまえの口を抑え込んだ。
「しっ」
 緊張感溢れる鋭い声に、思わずなまえは自分の口を塞ぐ真月の手の上に自分の手を置いた。ロッカー上部に空いているスリットからロッカー外の様子は伺える。息を潜める二人に気づく気配もなく教室内に入ってきたのは二つの人影だった。
「…クラスメイトだな」
「はい、男の子の方の名前は」
「それはいい」
 唇を動かすことがない程静かな囁きがなまえの言葉を遮る。
「しばらくはここで待機だ。きみと私が二人きりで話していたことは知られるとよくない。わかるな」
「は、はい」
 嘘だ。なまえには何がよくないのかはよくわかっていなかった。それでもこうしているとテレビドラマの警察のようでなんだかどきどきするのだということはわかっている。体を動かすことすら控えてひたすらに真月の指示を待つことにした。
「あの二人、何かあったんでしょうか?」
「さあな」
 どちらかといえば物好きな探偵のような心持ちで教室を見つめようとするなまえを真月は冷静に流す。少しの間、机と机を挟んだ距離で何かを話していた二人は不意に手を取り合い深呼吸を三つするほどの時間見つめ合った後そっとを身を乗り出した。動かない真月と対象的に、慌てて手を目に押し当て、声とは呼べないような声でなまえがキャッと呟く。
「えっちだ」
「いや、キスだろう」
「え…そうじゃなくて…」
 言葉の僅かな齟齬に口ごもるなまえを横目で見下ろし、真月は視線を外に戻す。いくらなんでもそれはマズイんじゃないかなぁ、となまえは思ったがその具体的な理由を用意出来ず、自分は二人の逢瀬を覗かないよう俯くだけに終わった。
「なまえ」
「は」
 ロッカーの外で今は何が行われているのか。具体的なことは考えず、ぼんやりと思いながら自分の足の間に入り込んでいる真月の太ももを見下ろしていると、ふと自分の名が呼ばれる。ついに外に出る許可が下りるのかと顔を上げたなまえは、自分の顎を持ち上げる真月の動きについていけなかった。
「っ!?」
 先ほどうっかり見てしまったキス、というよりも真月の唇はなまえの唇を食べようとしているようだった。舌で嬲り、口を歯で優しく挟む。慄く唇の隙間から舌を差し入れる。
「は…、っく…ぁふ」
 引っ掛かりのない布地になまえの爪が掠る細やかな音がする。上顎を舌先でくすぐってやるとなまえの体は小さく震えた。それを抑え込むように抱き寄せ、真月はつるつるとした奥歯の裏をなぞる。なまえは、真月と狭い空間で少ない酸素を分け合っているという理由からだけでなく息苦しくなってきた。溜まった唾液が口の端しから頬を伝う。押しても引く気配がない真月に目を閉じてから飲み込むと、触れる吐息がかすかに揺れた気がした。良い子を褒める時のように背を下る手のひらになぜか体の奥が震える。戸惑いが湧き上がってくるなまえの瞳を見つめた真月はゆっくりと顔を上げた。
 細やかな息切れの呼吸。二人の間に繋がった冷たい糸を舌で断ち切り、目元を染めたまま見上げてくるなまえに笑う。
「みんなには、秘密だ」
 なまえが頬を撫でる指に誘われて頷くと、真月は唇を釣り上げて扉に着いた腕を伸ばす。軽やかな金属音を立てて広がった教室には人の気配は疾うになかった。


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