弾丸
Aquarium

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 誰もが寝ているかのように静まり返った夜。何かに引き寄せられるように眠りの淵から目が覚めて、しばらく微睡みもしないでベッドに横たわっていた僕は何か飲もうかと考えて自分の部屋から出た。
 個室が防音の扉ということもあってか廊下は静まり返っている。その静けさと後ろめたさで、誰も起こしてしまう心配はないとわかっているのになんとなく忍び足になってしまう。
 霧切さんの部屋の前を通り過ぎて階段の前、不自然にうっすらとした灯りが視界の端に映ってそっちを見る。光を辿った先にはランドリー。
 こんな夜に誰だろう?一応、深夜の出歩きはタブーということになっているはずだけど。人のことは言えないけれど、気になってランドリーの扉をゆっくりと開いて中を覗く。

 明るい室内の奥で、洗濯機に力なく寄りかかっている人影がひとつ。トラウマみたいに脳裏に過った可能性に、叫ぶように彼女の名前を呼んでしまう。
「逆井さん!?」
「えっ?」
 授業中に居眠りしていた時みたいに逆井さんはぱっと跳ね起きる。寝起きの無防備な眼差しに見られて、自分が思いがけず動揺していたことに気付いた。それを悟られないように深く呼吸しながら出来るだけ静かに扉を閉める。
「……苗木くん」
「あっ、…えぇ、と…こんなところで寝たら危ないよ」
「あ、そっか…」
 ぼんやりとした眼差しのままで逆井さんは天井を見上げる。その横顔が、ただ呆然としているだけというよりも少しだけ寂しそうに見えた。
「…寝ちゃってたみたい、ありがとう」
「………」
 モノクマが出てきた時にも、あのDVDを見せられた時にも、あの事件のあとでも逆井さんは僕らの中では比較的落ち着いているように見えたのだけど、それでもやっぱり思うところはあるんだろう。
「…逆井さん、大丈夫?」
「うん。……ね、苗木くん」
「何?」
「本当に、ここからは出られないのかな」
 思いがけなかった言葉に怯む僕を穏やかな瞳が見上げてくる。昔どこかで見たようで、誰にも似ていない眼差し。
「……きっと、きっと出る方法はあるはずだよ」
「そうだよね」
 僕の答えなんてわかりきっていたように逆井さんはゆっくり頷く。
「入ることが出来たんだからきっと出られるよね」
「うん、皆で協力すればきっと出る方法は見つかるよ」
 僕が断言すると、逆井さんは笑う。
「苗木くんに言われると本当にそうなる気がするね」
「そ、そうかな」
 僕よりも十神クンや霧切さんの言葉の方がよっぽど説得力がある気はするけれど。でも、そう言って貰えるのは素直に嬉しい。言ってくれたのが冷静で、物事を客観的に見ることが出来る逆井さんだから尚更かもしれない。
「…逆井さんもやっぱり外に出たいんだよね」
「え?」
 思わず零れた本音に不思議そうな声が応えてくる。この場所から出たがっている女の子に対する言葉としてはあまりにも無神経すぎた言葉に、はっとしたけれど、出てしまった声はもう消せない。逆井さんのきょとんとした表情に慌てて謝る。
「ごめん」
「……『やっぱり』って、どうして?」
 不思議そうなその声は、傷付いたというよりもただ単純に疑問を発しているだけのようだった。怒りも悲しみもない声色に僕は素直に逆井さんへ答えた。
「逆井さんはあんまりここにいることを嫌がってるようには見えなかったから」
「あぁ、うーん…そうだね」
 少し大人びた顔で微笑んだ逆井さんはほんの少しだけ首を傾げる。
「いや、出たくないってことはないよ。でもね、本当は慌ててここから出たりする必要はないなって思ってたんだ。ご飯もあるし、水道とか電気とかライフラインに問題はないし……ほらここ、何もなければ命の危険がないところでしょ?」
 『何もなければ』。それはシンプルで、そして今の僕らにはひどく重い言葉だ。
「でも、……」
 微笑みが少し薄くなって、曲げた指を見つめていた瞳が少し空を泳ぐ。ここにないものを見ている目にそっと尋ねる。
「やっぱり外に出たくなった?」
「うん。あのね、水族館に行きたいなぁって思って」
「…水族館?」
「うん、…あの水棲生物がたくさんいる水族館」
 僕が聞き返した言葉に少しだけ照れた逆井さんの、はにかんだ笑顔が思いがけず子どもっぽく見える。何を差し出してもどこか距離が掴めない逆井さんと少し仲良くなれるような気がする。僕は予感を叶えるために続けて尋ねた。
「逆井さんは水族館好きなの?」
「うん、好き」
 どことなく嬉しそうな逆井さんの後ろで一仕事終えた洗濯機が佇んでいる。今そこにいるのは乾ききった布だけだけど、逆井さんがここにいた理由をその中に見つけたような気がする。
「そっか…。僕も水族館は好きだよ」
「本当!…いくらなんでも学校に水族館なんてないよね」
 目を輝かせかけた逆井さんは、すぐに寂し気に睫毛を伏せて呟いた。
「…また行けたらいいな」
 少し俯いた唇から聞こえる小さな声がそれまでのどんな言葉よりも心許なく聞こえて、思わず口走る。
「行こうよ」
「え?」
「ここから出たら、行こうよ。水族館に」
 最後に水族館へ行った時、水族館にどんな生き物がいるのかもいまいち思い出せないまま、それでも僕は言う。
「イルカとかアシカがボールで遊んでるのを見て、ペンギンとかシロクマを見て、大きな水槽でエイやコバンザメを見たりしようよ」
「……苗木くんと…?」
 疑問符が浮かぶ声にハッとする。逆井さんはただ『水族館に行きたい』だけであって別に僕と行きたいなんて話はしていないのに。勢いで転がり出てしまった誘いを取り消すこともできずに頬を掻く。
「いや、その……それは逆井さんが良かったら、というか…その」
「うん、行こう」
 言い訳する僕を遮って、逆井さんは躊躇いのない口調で頷く。そうして、無邪気な笑顔を浮かべて小指を向けてくる。迷いも寂しさもどこかに消えてしまった顔に釣られるように笑顔になりながら、僕も同じように小指を差し出した。
「約束ね」
「うん、約束だよ」

 きっと、でも、多分でもない。
 明日もわからない生活の中で、僕はその時僕らが水族館に行く未来を。そんな未来が訪れることを、確かに信じていた。


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