弾丸
ほしくずひとつぶ

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 初めての裁判、ほんの数時間前には生きていた人間の命が奪われたという非情な事実は人の心を簡単に崩してしまう。何人かの泣くような声が響く裁きの場で、突然強く無機質な音が響く。ゴン、と何かが落ちるような鈍い音にその場にいた十五人が一斉にそちらへ目を向けた。十五人。そう、音の響く中心にいた一人を除いて。
「こんなに痛いんだよ」
 その除かれた一人、ましろは自分以外の全員からの視線を集めながら伏せた顔をゆっくりと上げた。
「みんな、なんでそんなこと言うの。こんな、ちょっとぶつけて、ほんのちょっと血が出ただけでも痛いんだよ」
 ほんのちょっと、と呼ぶには鮮やかな色が角にぶつかった額から滲み出している。十五対の目は思いがけない事態に大きく見開かれていて、そのことに関するコメントはない。
「痛かったはずだ、悔しかったはずだ、あんな不自然な『自然の死』があるわけない、十神の死がどうでもいいことであっていいはずない、目を逸らしていいわけない、あの十神の痛みをなかったことにするなんて私は嫌だ!」
 血を流したままましろは眦を決して周囲を見回した。
「十神は『誰か』に殺されたんだよ。そんなこと知らないはずがない私たちが目を逸らすだなんて、私は絶対に許せない」
 まだ知らぬ誰かを射殺しそうなその瞳に睨まれ、狛枝は小さく震えた。



 十神の死に関する裁判終了の後、「ダメですぅ!絶対に見逃せませぇん!」と必死に縋る罪気に引き摺られてましろは傷の治療をされた。泣きながら診断する罪木によれば怪我はそこから何か問題が生じるようなものではないとのことではあったが、それでも保健委員としての血がそうさせるのか、ガーゼに保護テープついでに包帯までもがましろの額を彩ることになった。包帯があるとそれだけで重傷感が増す。「流石に包帯まではちょっと」とやや腰のひけたましろの口から出かけた言葉は今にも溢れそうなほど涙に潤んだ瞳の前に出るのを躊躇い、喉の奥へ飲み込まれていった。
 とはいえ、ましろも顔を合わせるたびに厳重に塞がれた傷跡から気まずそうに逸らされる視線の存在は罪木の滲む涙よりも耐え難くなっていった。起きては欲しくなかった二回目の裁判の後、せめて絆創膏だけにしてと罪木へこねた駄々が功を奏して、ついにましろの傷の上には真っ白なガーゼとそれを留めるテープだけが鎮座することになった。

 包帯がないだけでずいぶん楽になったような気がする。抑えるものがなくなり、気持ち軽くなった髪の先を弄りながらましろは束の間の平穏を感じてコテージを歩く。
さて、今日は誰と何をしようか。非日常の中での緩やかな日常への切り替えがこんな風に出来てしまうことに少しの違和感を抱きつつ、ましろは砂浜を見に海岸にでも行こうかと瓶を片手に歩き出す。と、手ぶらで歩く日向と出会した。ましろの顔から一度逸れかけた視線がもう一度ましろに戻り、額に焦点を当てた。
「あ、取れたのか包帯」
「とってもらったんだ。というか最初から本当は包帯までするようなものじゃなかったんだよ、ちょっと罪木が大袈裟だっただけ」
「でも、血結構出てただろ」
「そう?気のせいじゃない?」
「……それ、治るのか?」
 おざなりな返答に瞬いていた日向の声のトーンが変わる。適当にはぐらかすには真面目な声音に、ましろはすこし目を逸らしてテープの縁をなぞる。指の動きを視線でなぞった日向はその向こうにある傷を思って眉を顰めた。
「顔に怪我なんてやっぱり女子は気になるんじゃないか?」
「うーん……まあ、でも、そもそもこれって誰にされたわけでもなく自業自得だし……」
 口を尖らせるようにもごもごと動かしたましろは思いついたように、日向の真面目な顔に目を向ける。
「日向は女の子の顔に怪我あるの、気になる?」
「え、いや俺はべつに」
「ふーん。私は気にしない人に付き合ってもらえるならべつにいいかなぁ」
「えっ」
 ううん、とわざとらしい声を上げながらましろが首を捻った。頭を傾けながら放たれた言葉に日向は目を丸くしてからしばらく瞳を伏せて沈黙した。
「…ごめん、もう少し考えてから応えてもいいか」
「……ええと、かなり真面目に答えてもらってるみたいだからすごい言いにくいんだけど…一応冗談だよ」
「なっ、さ、先に言えよ!」
 みるみるうちに赤くなった頬に高い笑い声が上がる。しばらく腹を抑えて身を屈めたましろは目尻に滲んだ涙を拭って日向の顔を見上げた。
「まあ、なんかあってもどうやら日向にもらってもらえそうな気がするし傷ひとつくらい残っても別にいいかな」
「お前さっき冗談って言ってただろ」
 頬に赤みを残したまま睨み据えてくる日向にましろはもう一度軽く笑ってからひらひら手を振って踵を返す。日向と暇を潰してもいいけれど、このまま一緒にいるとこれ以上機嫌を損ねるくらいには日向のことを揶揄ってしまいそうだった。

 日向と別れ、照り付ける日差しに焼かれながらましろは歩く。滲む汗に握り直した瓶には暇つぶしに有孔虫の殻でも詰めるつもりだった。目的地があるようには見えない足取りでましろは島を一周する道を歩く。余る時間に少し遠回りしながら歩みを進めていれば、道端に白い人影が見えた。服以外のものがほとんど白いその人間は裁判の前から解放されている狛枝だ。何を考えているのか、何かをしている様子もなくただひたすら道の端に立っている。あんまりぼんやりしているとまた誰かに捕まるんじゃないかと思いながらましろはその前を通った。過ぎる瞬間に「やあ」とやけに朗らかな挨拶をされたのでましろもまた「ヤー」と一言で返して歩く。ましろとしては特に狛枝に用事は無く、狛枝から用事を覚えられる理由もない。しかし、しばらく歩いても砂浜まで着いても後ろにいる『誰か』が離れる気配はない。ましろは振り向いた。
「狛枝?」
 「何?」と春空が似合いそうな笑顔が返ってくる。用事を尋ねたいのはこっちの方だと首を傾けてましろは口を開いた。
「どうしたの、私に何か用事ある?」
「用事というほどではないんだけど…、逆井さんをしばらく見ていてもいいかな?」
「?」
 ましろは疑問に重くなった頭を傾げる。なんでそんなこと聞くんだろうか?しかし言われた内容を脳で捏ね回しても狛枝からの要求を拒絶する理由の方は特に弾き出せなかった。
「別にいいよ、私も勝手に好きにしてるから」
「ありがとう」
 柔らかな声音の感謝を耳にましろは砂浜を歩く。青い海、白い砂。いかにも南国らしい海岸の小さな砂つぶを指先で転がし、目当ての形を瓶の底へ落とす。しゃがんで砂浜の表面を撫でる姿は砂浜で見つかりにくい何かを落としたに見えるらしい。通りがかった何人かがましろの姿に首を傾げながら近付き、後ろにいる狛枝にちょっと躊躇ったような顔をしてからましろとだけ話しては去っていく。三人ほどの背を見送ったましろは小さな棘を手のひらに受け止めながら声だけを静かな背後へ向けた。
「なんかきみ、さっきから避けられてない?」
「ボクはきみたち希望の踏み台でしかないからね。逆井さんほどみんなの視界には入らないんだよ」
「ふうん、そう」
 ひどく卑屈な言葉のわりに悲壮感はない。嬉しそうにすら聞こえるそれをましろは軽く流して砂浜を掌に掬った。サラサラと手触りがいい粒の中に小さな尖りを感じる。ましろは指の腹をそっと寄せて星に似た形の粒を拾い上げた。
「逆井さんはボクのことを避けたりはしないんだね」
 鼓膜を叩く柔らかい声に『あれ、一応避けられてるとは思ってたんだ』と内心ましろは瞬く。
「わざわざそんなことはしないよ、『希望のため』なら自他共に傷つけられる選択肢を持てるきみのことぜーんぜん理解はできないし変だと思ってるけど……まあ、ただそれだけだし」
「そっか…」
 砂の選別をしながら視線も向けないまま紡ぐましろを見て頷き、狛枝は「じゃあ」と小首を傾げる。
「ボクのこともう怒ってはいないの?」
「え、怒るって私が?きみの?何を?」
「十神くんの裁判の時のことだよ」
「…あー、狛枝が庇ってた時の話?」
「あれ、逆井さん怒ってたんじゃないの?」
 結果的に自傷に至る程度には怒りを覚えていたとは思えない軽さに狛枝は僅かに眉を寄せた。微かな負の感情を上乗せした疑問符にましろは砂粒を三つ落として応える。
「そりゃまあ、あの時は怒ったけど今はべつに。何も考えないで考えるのやめようって言ってんじゃないかって思ったから許せないと思ってたけど、きみなりに理由があればそういうものだと思うよ。それはそれで納得できたし」
「そっか」
 「じゃあもう怒ってないんだ」と聞かせるつもりのない声量で呟く狛枝はその時のことを思い出したようにガーゼの縁をなぞる指を目で追った。あの時狛枝の目に鮮やかに色付いたものがその下にある。白い布地に残照が見えるような気がして自然と喉が動いた。
「ねえ、逆井さん。そのおでこの傷、見せてくれないかな…」
「え、傷?一応まだ治ってないんだけど」
「うん、知っているよ」
 凶器の不所持を示すように手のひらを向けた笑顔を浮かべた狛枝にましろはあからさまに嫌な顔をする。
「え、じゃあ何?治ってない傷が見たいの?きみ、そういう趣味なの?いくらなんでもさすがにそういうのはどうかと思うよ」
「忘れられないんだ」
 ましろの語尾に被さるように溢れた狛枝の声には陶然とした響きがあった。己の体を抱き、蕩けそうな瞳が濡れた眼差しでましろの額を見据える。
「きみの、あの瞬間の輝き…!まるで逆井さん自身が希望を形にしたような…今思い出しても体が震えるよ…、絶望に一切引く気がないあの眩しいほどに強い意思…本当に素晴らしかった…!」
「へえ…、そお…」
 強い熱意を感じる声音に反してましろは瓶の底に溜まった砂粒のように小さな言葉を零して指先で額を抑える。その仕草に先程見せた表情のような不快感はないものの、傷を覆う布を剥がす気配もない。自分の要求への応えがないことに狛枝は瞳を伏せて自虐的な笑みを浮かべた。
「そう、やっぱり嫌だよね…逆井さんみたいに希望溢れる人がボクみたいな虫ケラに自分の顔を見せるだなんて…」
「いや、単に生傷見たがる人に傷は見せたくはないだけなんだけど…。もしかして夢にまで見ちゃったりするの?」
「焦がれて焦がれてたまらないよ」
 冗談混じりに投げた問いに食いつくような勢いで返されてましろは思わず沈黙した。そこまで?と困惑する気持ちが少し親切心へと傾いていく。
傷なんて見られたいものではないものの、見られたからと言って何か損害が生じるものではない。そこまで望まれるのなら少しだけなら、とましろの心に張っていた警戒心が少し緩んだ。
「……じゃあ、少しだけなら」
 こんなの見たがるほど良いものじゃないけどと予防線を敷きつつましろはテープに指をかけた。柔らかい瘡蓋に変わってきた傷が新鮮な空気に触れる感覚がある。見えやすいように少し顎を引いていれば、美しいものを見た時のような溜息がましろの耳に届く。小さく砂を踏む音が聞こえて白い手が伏せたましろの視線に入ってくる。
「ああ、逆井さん…」
 病的ですらある白い手が顔の角度を固定する。吐息が微かに髪をくすぐるのを感じてましろは微かに体を固めた。キスでもされそうな距離だった。しかし、そのうっとりした瞳が見ているのは唇よりも遥かに上だった。何がそんなに楽しいのかと上目遣いに見上げていた狛枝の手に微かな力が入ったことを感じ、ましろは慌てて顔を逸らすと摘んでいたガーゼを当て直す。手を解くような勢いで外方を向かれた狛枝は眉を微かに顰めた。
「あれ?逆井さんもう隠しちゃうんだ…」
「もう見せてるの嫌になった…」
 なんかこのままだと舐められそうで、と口の中でそっと呟く。ましろはしっかりとガーゼを止め直してから狛枝の顔を伺った。白い頬はよく見れば平時よりも血色が良い。
「ねえ狛枝、さっき傷見て興奮してなかった?」
「そりゃあボクのようなゴミでも生物的には思春期の男だからね、素晴らしい女の子を見ていたら興奮くらいしてしまうよ」
 特に悪びれもせず返ってきた肯定にましろは少し引き攣ってから首を振った。
「あのね狛枝くん、普通思春期の男子はね女の子の傷じゃなくて女の子のおっぱいとか二の腕とかで興奮するものなんだよ」
「二の腕はどうかな…」
「…え、もしかして狛枝でもおっぱいでは興奮するの?」
 ちゃんと?目を大きく丸く見開いて尋ねてくるましろに狛枝もすこし驚いたように瞬く。それから、考えるように斜め下を見遣って応えた。
「そうだな、逆井さんに見せてもらったらわかるかもね」
「……」
 悪びれないにも限度がある。嫌とも言わずにましろはウンザリしたような顔で狛枝を見上げる。半分ほど瞼を伏せた瞳には太陽の光すら反射していない。自分の影だけが薄く映る目を見て狛枝は朗らかに笑った。


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