捧/頂

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 さあ、今日は私の仕返し記念日だ。ヨハンの部屋は確認済み、絶対に間違えることはない。一つ深呼吸して私はサックを叩いた。一回、二回、三回…十回叩いたところで驚いたヨハンの顔が表れる。まだ寝癖が残る髪を軽く撫でつけたヨハンがその口を開く前に私は胸を張った。
「ヨハン、お散歩しよう!」
 一週間前に聞いたのとおんなじ言葉を言い放つ私にヨハンは目をまんまるくした。


「なまえ、散歩しようぜ!」
 扉を開けたばかりの私がそれを聞いたのはまさに豆腐屋さんが起き始めるような早朝だった。私はとてもびっくりした。こんな時間に女の子の部屋にやってきて、その上散歩しよう!だなんて普通に考えてとっても非常識だ。それでもあんまり怒る気持ちになれないのはヨハンの人柄のよさっていうのかもしれない。仕方なく私はそそくさと着替えて、ヨハンと二人で寮を抜け出した。抜けるようなって言われる青空だった。
「ヨハンってなんだか私の犬みたい」
「えっ」
「あ、ごめん変な意味じゃないからね、違うから! ええと、私が家で飼ってる犬に似てるってこと」
「なまえが飼ってるいぬぅ?」
「そうそう、ジョアンっていうんだよ」
 目を丸くしたヨハンが思い切り噴き出した。
「へえ、ジョアンか! それじゃあ俺に似てるかもな!」
「なあに、それ」
「あは、なまえさぁ語学ダメだろ」
「とっても失礼!」
 けど、当たってる。びっくりしながらヨハンを見上げているとヨハンは笑いながら私の頭を揺さぶる。
「だろうと思った!なまえ、カード名の英語でも覚束ないもんな」
「そ、そうかなぁ」
 そうとはっきり言われたことはないけれど、そういえば一度カードを読んでいてエドくんに笑われたことはある。もしかしてなんか変だったりぎこちなかったりするのかな。今更になって不安になってくる。
「語学、やった方がいいのかなぁ?」
「大丈夫だよ、俺がいるから」
「ヨハン教えてくれるの?」
「別にいいと思うけど…なまえがそうしたいなら」
「うーん」
 ヨハンがそうしてくれるならやってみようかな、って思ったけど私は結局思っただけで一週間をすごした。


 そして、今。驚いた顔をしたヨハンはようやく私の言葉を理解したらしく小さく吹き出すと「ちょっと待ってろ」と引っ込んだ。ちょっとって、ねぇどれくらい?って閉鎖された部屋に呼びかけると「中で待つか?」と笑われた。セクハラだ。仕方ないので脳内デュエルでヨハンに圧勝する流れを無理矢理懸命に作っているといきなり手のひらで目を塞がれる。
「ヨハンだ!」
「こういうのって聞かれて答えるもんじゃないのか?」
「だってヨハン以外のはずないもん」
「うーん、そういうんじゃないんだよなぁ」
「そうなの?」
「そう。今度から気をつけてくれよ」
「うん、わかった」
 よろしい、と笑顔で手を引かれて外に飛び出す。ラジオ体操にも少し早いくらいの空は前回みたいに雲一つない快晴だった。笑うヨハンには青空が似合う。つられて笑いながら離れない手を振るとなんとなくジョアンの散歩を思い出す。あれはもう少し早い時間だったかもしれない。あぁ、私はもう一年以上お散歩連れてってないけど元気かなジョアン。私のこと忘れてないかな。
ぼんやりしているとジョアンが走り出した時のように手が引かれる。
「…ハッ!え、ええっ何、ちょっと早…!」
「ぼんやりしてるなまえが悪い!」
 かけっこみたいに走りだして、草むらを超えてヨハンはぐんぐん進んでいく。これがあの子だったらそっちはお散歩ルートじゃないよって出来たのに、私とヨハンの散歩ルートは決まっていない。まるで目的地でも見つけたみたいに連れられるまま私も進む。知らない道、森の中。木と木の間をどれくらいか抜けてからヨハンは早足を緩めて歩き始めた。
「…ここ、どこだかわからない」
「俺は知ってるから大丈夫大丈夫」
「ならいいけど」
 会話を切って、珍しい光景を見回していると何処かで水が流れる音がする。間違いなく海じゃない水音に辺りをよく見ると、シンプルな橋を見つけた。
「わ、わ!ヨハン、川だよ!こんなとこに!」
「まあ、広いもんなぁここ」
「見ていい?」
「うん、俺はいいよ」
 今度は私がヨハンのリードを引く。橋に足を乗っける時にはほんのちょっぴり緊張したけれど、思ったよりしっかりしてそうな橋の真ん中まで走る。絶対に落ちないように欄干をしっかり握って下を覗くと、流れていく川の水は太陽を浴びてぴかぴか光っていた。綺麗だなぁ…。大自然の雄大さってやつにうっとりしていると、隣にぼんやり立っていたヨハンがいきなり爆弾を投下してくる。
「そういえば俺さ、先生介してなまえのことアークティック校に誘っておいた」
「えっ」
 何言ってるの?冗談でしょ?という思いをいっぱいに込めて乗り出しつつあった体を勢い良く引いて、ヨハンを仰ぎ見た。
「先生わりと乗り気だったからなぁ。なまえ、アークティックに来ることになるぜ」
「…冗談だよね?」
「なんでこんなこと冗談で言うんだよ」
「…え?何…え、きいてない!私、そんな…きいてないよ?!」
「そりゃまだ聞いてないからだろうなぁ」
 当然なこと言ってうんうんと頷くヨハンはとても呑気なのだけれど、私にはそれだけじゃ済まない大問題がある。鏡を見たら漫画みたいに青ざめてそうな顔を挟んでグルグルしてきた頭を落ち着かせようとする。
「わ、私英語出来ない」
「うんうん、聞いてる」
「な、なのになぜ私なんかを外国…はっ!だから英語教えてくれるって」
「なまえは話聞いてないなぁ」
 私がこんなに混乱してるのに、ヨハンは相変わらずのんびりだ。私はそれどころじゃないというのに!
「でも、やっぱりそんなの間に合わないってば…私ホントに英語ダメなんだよ?」
「別に俺は勉強しろなんて言ってないだろ?」
「じゃあどうしろっていうの」
 む、と膨らんでいく私の頬を見て笑ったヨハンは急に真顔になった。
「なまえが、俺の彼女になる」
「…えっ?」
「そしたら俺がなんでも通訳してやるよ、なまえは俺以外と話さなくてもいい」
 とんでもないことを言い終わったヨハンはそれでもまだ真顔だ。いつ「なんちて」とか笑い出すかと待ってもヨハンはそのまま私を見続ける。私は慌てて手を上げた。
「も、問題があります」
「問題? 俺はなまえのこと、好きだよ」
 いや、それだけじゃ、と続けようとする私にヨハンは「んで」とようやくにっこりする。
「なまえ、俺のこと好きだろ」
 思わず跳ね上がった私の顔を、じりりと足を前に出したヨハンが覗き込んでくる。ほんのちょっぴり意地悪っぽい顔に怯んで、私は欄干に背中をぴったりとくっつけた。でも橋の上じゃ逃げ場はない。実は私はカナヅチなんだ。どうすべきか。
「な、なぜそれを」
「さぁなあ? …さて、なまえは一人じゃ英語は話せない。きっちり一週間後に仕返ししてくるくらい変に生真面目だから留学を断るなんて考えもしてなくて、今は俺のことが好きだ。オマケに走るのは遅いし泳ぐことも出来ない。どうする?」
「な…、ずるい!ずるい、なにそれ!みんな計算尽くだったんだ!犬のくせに!」
「知らねーの? 犬って元々オオカミなんだぜ?」
 わかんない、そんなの知らないよ!
背中をズリながら、わぁんってしゃがみ込んだ私に「わんわん?」って笑うヨハンがじゃれついてきた。違うよ、そうじゃないから!


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